Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

雲上を飛ぶ (37)

2009-12-31 | その他


think of me
think of me fondly
when we've said goodbye
remember me
once in a while
please promise me you'll try

when you find
that once again you long
to take your heart back and can be free
if you ever find a moment
spare a thought for me

we never said
our love was evergreen
or as unchanging as the sea
but if you can still remember
stop and think of me

think of all the things
we shared and seen
dont think about the things
that might have been

think of me
think of me waking silent and resigned
imagine me trying too hard
to put you from my mind

recall those days
think back on all those times
think of the things we'll never do
there will never be a day when I won't think of you


RAOUL
can it be, can it be Christine
long ago it seems so long ago
how young and innocent you were
she may not remember me
but I remember her

CHRISTINE
we never said our love was evergreen
or as unchanging as the sea
but please promise me that sometimes
you will think...
ah ah ah ha ha ha ha ah ahah ha ha ha ha



『オペラ座の怪人』は、2004年、アンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカルをベースに映画化。監督:ジョエル・シュマッカー 出演:ジェラルド・バトラー、エミー・ロッサム。

この映画で特筆すべきは、クリスティーヌ役のエミー・ロッサム、当時17歳。クリスティーヌがはじめて舞台に立ってアリア曲『 Think of Me 』を歌うシーンで見せる彼女の初々しい歌声と清楚な姿は感動的である。

エミー・ロッサムは、幼少よりオペラを学び、7歳の時にはメトロポリタン歌劇場の児童コーラスの一員に選ばれ、オペラの舞台に立ち、プラシド・ドミンゴやルチアーノ・パバロッティら世界的に有名なオペラ歌手と共演したこともあるという。2004年「オペラ座の怪人」のクリスティーヌ役でゴールデングローブ賞ミュージカル部門主演女優賞にノミネートされた。






さて、『坂の上の雲』とサラ・ブライトマンを取り上げたのがきっかけで、脱線に脱線を続け、気がつくと今日は今年最後の日。相も変わらず支離滅裂な内容に終始してしまった。
本年も、稚拙なブログにお付き合いくださりほんとうにありがとうございました。
それでは、みなさま、よいお正月をお過ごしください。失礼いたしました。 sogo


雲上を飛ぶ (36)

2009-12-30 | その他

[CHRISTINE:]
In sleep he sang to me - In dreams he came
That voice which calls to me - And speaks my name
And do I dream again - For now I find
The Phantom of the opera is there - Inside my mind
[PHANTOM:
Sing once again with me
Our strange duet
My power over you - Grows stronger yet
And though you turn from me - To glance behind
The Phantom of the opera is there - Inside your mind
[CHRISTINE:]
Those who have seen your face Draw back in fear - I am the mask you wear
[PHANTOM
It's me they hear
[TOGETHER:]
Your spirit and my voice
In one combined
The phantom of the opera is there - Inside your mind
[CHRISTINE:]
Opera- Beware - Phantom of the opera
[PHANTOM:]
In all your fantasies
You always knew - That man and mystery
[CHRISTINE:]
Were both in you
[TOGETHER:]
And in this labyrinth - Where night is blind
The phantom of the opera is there - Inside your mind
[PHANTOM:] Sing my angel of music



『オペラ座の怪人』は、フランスの作家ガストン・ルルーによって1909年に発表された小説。原題は、『Le Fantôme de l'Opéra』。

ルルーは執筆にあたり、実際のオペラ座(ガルニエ宮)の構造や地下の広大な奈落、建築経過などを詳しく取材しており、かつオペラ座が建設された当時の実際の幽霊話や陰惨な事件などを用いて、虚構と現実が入り交じったミステリアスな怪奇ロマンとして執筆した。

19世紀末のパリ、オペラ座の地下に住み、劇場関係者から恐れられている怪人と、怪人に歌手としての素質を見いだされレッスンを受けるコーラスガールのクリスティ-ヌ・ダーエと、その幼なじみで新たにオペラ座の後援者となったラウル子爵の3人を巡る三角関係のストーリーが描かれる。


ロイド=ウェバーが、当時ミュージカル俳優としては無名だった妻サラ・ブライトマンを、ニューヨークブロードウェイの俳優協会の反発を押し切って主役に抜擢。彼女はこの年のトニー賞主演女優賞を逃しているが、これは俳優協会からの反感の表れとも言える。彼女を世界のトップスターに押し上げた作品でもある。

主題歌『The Phantom of the opera』は、クリスティーヌの手を握り、松明で先を照らしながらオペラ座の地下へと導く回廊を突き進む「怪人」の迫力をフルに感じさせる。


雲上を飛ぶ (35)

2009-12-29 | その他

Memory, turn your face to the moonlight
Let your memory lead you
Open up, enter in
If you find there the meaning of what happiness is
Then a new life will begin

Memory, all alone in the moonlight
I can smile at the old days
I was beautiful then
I remember the time I knew what happiness was
Let the memory live again

Burnt out ends of smokey days
The stale cold smell of morning
The street lamp dies, another night is over
Another day is dawning

Daylight I must wait for the sunrise
I must think of a new life
And I mustn't give in

When the dawn comes
Tonight will be a memory,too
And the new day will begin

(Sunlight through the trees it's summer
Endless masquerading)
Like a flower as the dawn is breaking
The memory is fading

Touch me
It's so easy to leave me
All alone with the memory
Of my days in the sun
If you touch me
You'll understand what happiness is
Look, a new day has begun

『CATS]』第二幕「Memory」より
(歌詞括弧内ジェミマ)


1939年、T.S.エリオット著『Old Possum's Book of Practical Cats(ポッサムおじさんの猫とつき合う法)』が出版される。
この“詩集”は、エリオットが勤めていた文芸出版社・社員の子供たち向けに書かれた作品で、48年にはノーベル賞にも輝いた彼が遺した数々の詩集の中でも、殆ど注目される事のない作品であった。

1972年、ブロードウェイで開幕したばかりの『ジーザス・クライスト・スーパースター』のためにアメリカへと向かったアンドリュー・ロイド=ウェバーが、子供の頃から親しんでいたこの“詩集”と空港の売店で運命的な再会を果たす。

「T・S・エリオットの詩集に音楽をつけてみようと思ったのは1977年の頃だった。子供の時から親しんできた詩集だったし、詩がとても音楽的で、独特のリズムを持っていると思った」と語る。

その後、ロイド=ウェバーは“詩集”の中のいくつかに曲をつけて友人たちの前で演奏。そしてこの企画を知ったヴァレリー・エリオット未亡人から未発表の詩や未完の稿がいくつか提供され、その中からグラマー猫「グリザベラ」が誕生する。
エリオットの初期の詩『風の夜の狂詩曲』から多くの詩句を引用した名曲『 Memory (メモリー)』が生み出され、彼女の「救済」と「再生」というストーリー展開が誕生する事となった。

1981年5月11日、ミュージカル『CATS』ロンドン公演開幕。初演から大成功となり、現在も世界中で最も愛され続けている。サラ・ブライトマンは、『CATS』のオリジナルキャストとして「ジェミマ」役で出演したところからキャリアが始まる。




雲上を飛ぶ (34)

2009-12-28 | その他
It won't be easy, you'll think it strange
When I try to explain how I feel
That I still need your love after all that I've done

You won't believe me
All you will see is a girl you once knew
Although she's dressed up to the nines
At sixes and sevens with you

I had to let it happen, I had to change
Couldn't stay all my life down at heel
Looking out of the window, staying out of the sun

So I chose freedom
Running around, trying everything new
But nothing impressed me at all
I never expected it to

Don't cry for me Argentina
The truth is I never left you
All through my wild days
My mad existence
I kept my promise
Don't keep your distance

And as for fortune, and as for fame
I never invited them in
Though it seemed to the world they were all I desired

They are illusions
They are not the solutions they promised to be
The answer was here all the time
I love you and hope you love me

Don't cry for me Argentina
The truth is I never left you
All through my wild days
My mad existence
I kept my promise

So I chose freedom
Running around, trying everything new
But nothing impressed me at all
I never expected it to

Don't cry for me Argentina
The truth is I never left you
All through my wild days
My mad existence
I kept my promise
Don't keep your distance

Don't cry for me Argentina
The truth is I never left you
All through my wild days
My mad existence
I kept my promise
Don't keep your distance

Have I said too much?
There's nothing more I can think of to say to you
But all you have to do is look at me to know
That every word is true




1919年、アルゼンチンの小さな町に一人の女の子が生まれた。
彼女の名はマリア・エバ・ドゥアルテ(Maria Eva Ibarguren)。

後に軍事政権下のペロン大統領夫人(Maria Eva Duarte de Perón)となり、
"エビータ(Evita)"の愛称で親しまれた女性である。

不遇な少女時代を過ごしたエバは、女優を目指し15歳で首都ブエノスアイレスへ家出する。
ブエノスアイレスでは、自らの美貌と性を売り物にし、さまざまな職業遍歴と男性遍歴を繰り返し、そこで出会った男たちを踏み台として出世していく。
1945年、26歳のエバはフアン・ペロン陸軍大佐と知り合い、そして結婚。
ペロンが大統領選に出馬し、妻の人気に便乗して当選を果たしたのはその翌年だった。
ファーストレディーとなったエバは積極的に国政に参加し、貧困にあえぐ人々の優遇政策、女性参政権の確立に努めた。やがて民衆からは彼女を副大統領候補に望む声が上がり、軍部はその影響力を危惧するようになる。
だが、その直後にエバは末期子宮癌と診断され、出馬を断念するのだった。病に倒れた彼女は、33歳という若さで孤高の生涯を終えた。

貧しい生い立ちから美貌と野心を武器に、わずか数年の内に権力の頂点に立ったエビータ。
民衆から聖母のように慕われ、生き急いだ、という表現をまさに体現したような彼女の生涯が、チェという一人の青年の目を通して描かれる。

ミュージカル『エビータ』は、アンドリュー・ロイド・ウェバー作曲、ティム・ライス作詞で、このコンビが全編にわたり共同作業した最後の作品である。前作の『ジーザス・クライスト・スーパースター』と同様の手法で、最初に1976年にレコード化し、劇中曲『 Don’t Cry For Me Argentina アルゼンチンよ泣かないで』が大ヒットした。1996年には、マドンナとアントニオ・バンデラスの主演で映画化され、マドンナが歌う『 You Must Love Me 』はアカデミー賞主題歌賞を受賞した。



雲上を飛ぶ (33)

2009-12-27 | その他


I don't know how to love him
What to do How to move him
I've been changed Yes really changed
In these past few days when I've seen myself
I seem like someone else

I don't know how to take this
I don't see why he moves me
He's a man he's just a man
And I've had so many men before In very many ways
He's just one more

Should I bring him down Should I scream and shout
Should I speak of love let my feelings out?
I never thought I'd come to this
What's it all about?

Don't you think it's rather funny
I should be in this positon?
I'm the one who's always been
So calm so cool no lover's fool
Running every show
He scares me so

I never thought I'd come to this
What's it all about?

Yet if he said he loved me
I'd be lost I'd be frightend
I couldn't cope just couldn't cope
I'd turn my head I'd back away
I wouldn't want to know
He scares me so
I want him so
I love him so




私が初めて、アンドリュー・ロイド=ウェバーの曲に出逢ったのが、1973年にリリースされた映画『ジーザス・クライスト・スーパースター』のサウンドトラック盤。その中で、マグダラのマリアがイエスへの恋心を歌うナンバー、

I Don’t Know How To Love Him(私はイエスがわからない)』だった。

当時、イヴォンヌ・エリマンが、イエス・キリストへの恋心を美しくも、切々と歌うこの曲がラジオから流れてくると、うっとりと聞き惚れたものだ。



雲上を飛ぶ (32)

2009-12-26 | その他
アンドリュー・ロイド=ウェバー(Andrew Lloyd Webber)

ビートルズに続いて“音楽で世界を征服した英国人”といわれている。

1948年、ロンドンに生まれる。父が音楽学校の校長、母がピアノ教師という音楽一家に育った。弟ジュリアンも第一線で活躍するチェリストである。子供のころからヴァイオリン、ピアノ、フレンチホルンなどをこなしたという。
彼の音楽の背景にはロックがある。
「もちろんプッチーニ、モーツァルト、ベートーヴェンにも親しんだが、ロックンロールに浸った少年時代と、ビートルズ、プレスリーの影響が大きい」と話している。
また、アメリカのミュージカル、特にロジャースとハマースタインの作品『南太平洋』に魅せられ、その映画を繰り返し見たという。
オックスフォード大学に学んだが、ミュージカルの道に進む。オペラと同じように絵画、演劇、建築などあらゆる要素が入った総合芸術だからである。

17歳のとき作詞家ティム・ライスと出会ったことが転機となった。
70年、ライスとコンビで『ジーザス・クライスト・スーパースター』を書いた。ロンドン・ミュージカルの夜明けを告げたと言われるこの作品は、8年間という当時の記録破りのロングランとなり、ブロードウェーでも大ヒット、映画化もされた。

続く『エヴィータ』(1978)でも成功を収めた。その後、ライスと別れたが、81年には『キャッツ』でトニー賞7部門を独占。
84年には『スターライト・エクスプレス』を発表、86年の『オペラ座の怪人』と、93年の『サンセット大通り』でもトニー賞7部門を受賞、いずれも大ヒットを続けている。

クラシック音楽の分野の作品もある。1985年の作品『レクイエム』がその例で、戦争における子供への虐待をテーマにしており、カンボジアで起った悲惨な事件に触発されてつくったという。こうした作品には、宗教音楽作曲家でもあった父からの影響がうかがえる。

ミュージカルのヒット記録だけでは語り尽せない幅広さをもつ作曲家なのだ。

1992年「サー」に叙されたのに続いて、1997年には女王から「ロード」の位を受けている。



雲上を飛ぶ (31)

2009-12-25 | その他
サラ・ブライトマン(Sarah Brightman, 1960年8月14日~)は、イギリス出身のソプラノ歌手。
3歳からバレエを習い始め、11歳の時に寄宿制の学校に入学しジャズと演技を学んだ。1973年、13歳の時にピカデリー・シアターのミュージカル「I and Albert」で劇場デビューを果たした。

1981年に新作ミュージカルの『キャッツ』のオーディションを受け、ジェミマ役を射止めた。
サラはその後もアンドリュー・ロイド=ウェバーのミュージカルに数多く出演し、1984年にはウェバーと結婚。ウェバー作「レクイエム」の初演でもソプラノ・パートを務めた(世界3大テノールの1人「プラシド・ドミンゴ」とも共演)。
特に1986年に『オペラ座の怪人』にオリジナルキャストとして出演したクリスティーヌ・ダーエ役での成功は彼女の名を一躍世界に知らしめることとなった。

しかし1990年にはウェバーと離婚し、その後はソロ歌手としての活動に専念するようになった。
ドイツを拠点とする音楽グループ、エニグマの創設メンバー、フランク・ピーターソンとの運命の出会いを機に、1997年の「Time to Say Goodbye」の世界的な大ヒットによって名実共にロイド・ウェバーからの独立を果たした。

クラシックとポップスとの垣根を取り除いた新ジャンル「クラシカル・クロスオーヴァー」を生みだし、その女王の座についた。




そして、先月、始まったNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』の主題歌を、サラ・ブライトマンが日本語で歌うこととなった。
作曲は、宮崎アニメで有名な音楽家、久石譲氏。

本作は、司馬遼太郎の長編小説『坂の上の雲』を初めて映像化し、これまでにないスケールを目指しNHKが総力を挙げて取り組んでいる作品。

久石氏は「大型ドラマというと通常はオーケストラ作品。でも今回ちょっと違うものをやりたかった。そこでヴォーカルを入れようと。大きなドラマに対して誰が一番合うのか。国際的世界的スケール、そして日本が明治と変わっていく、それをアピールできる歌手を探していてサラ・ブライトマンさんになりました。」とオファーに至るまでの経緯を語った。

さらに氏は、「『凛として立つ』をテーマに、今の日本人が失った純朴さ、いちずさを表現した」と話し、諸外国に追いつき追い越せとばかりにピュアな気持ちで世の中に向かった明治人の気構えを思い描きながら曲作りに挑んだという。

曲のタイトルは「 Stand Alone 」(「独りで立つ」)。

作詞は、米アカデミー賞外国語映画賞の受賞作「おくりびと」の脚本を手がけた放送作家、小山薫堂氏が担当した。演奏はNHK交響楽団。

この曲は、山の坂道を上がった先に太陽の光が降り注いでくる様子を描いたタイトルバックの映像に合わせて流れる。ドラマで使われるのは同曲のスキャット版だが、日本語版は関連番組などで使われるという。

雲上を飛ぶ (30)

2009-12-24 | その他
一人きりでいるとき 私は水平線を夢見る
そして何も言えなくなってしまう
部屋の中は暗い 太陽の光がないから
あなたがそばにいないと太陽も消えたまま
窓から私の心が広がっていく
あなたのものになった心が
あなたはそんな私に光を降り注いでくれる
あなたが道端で見つけた光を
タイム・トゥ・セイ・グッバイ

今までに見たことも 訪れたこともない場所を
私はこれからあなたとともに航海していく
船に乗って海を越えて
もうどこにもなくなってしまった海を越えて
イッツ・タイム・トゥ・セイ・グッバイ

あなたと離れているとき 僕は水平線を夢見る
そして何も言えなくなってしまう
でももちろんわかっている あなたは僕と共にいるんだ
あなたは僕の月僕のそばを離れない
僕の太陽あなたは僕と共にいてくれる
僕と共に僕と共に僕と共に
タイム・トゥ・セイ・グッバイ

いままでに見たことも訪れたこともない場所を
僕はこれからあなたと共に航海していく
船に乗って海を越えて
もうどこにもなくなってしまった海を
あなたと二人でよみがえらせよう

あなたと共に旅立とう 船に乗って海を越えて
もうどこにもなくなってしまった海を
あなたと二人でよみがえらせよう
あなたと行こう あなたと旅立とう

(『Time To Say Goodbye』日本語訳)



この曲、元々は、イタリアの盲目のテノール歌手アンドレア・ボチェッリの『コン・テ・パルティロ(Con Te Partiro)』が原曲であった(英語では「I'll Go With You」 邦題は『君と旅立とう』)。
『Time To Say Goodbye』は英語詞になおしてカバーしたものだ。

食事中のこと、サラ・ブライトマンの耳に入ってきたこの曲に、サラ本人がたいへん感動し、インスピレーションを得て、すぐにボチェッリにアプローチしてできたという。

二人が、サビの部分を英語詞に変え 、“Time to Say Goodbye”としてお披露目したのが、ドイツの国民的英雄ボクサーのヘンリー・マスケの引退試合であった。

「訪れたこともない場所へこれからあなたと共に航海して行く、あなたは僕とともにいる、どこにもなくなった海をあなたと蘇らせよう、あなたと旅立とう」という、いわば「第二の人生の門出」という意味で、新しいことをする意志表示の歌でもある。


雲上を飛ぶ (29)

2009-12-23 | その他
Quando sono solo
sogno all’orizzonte
e mancan le parole,
Si lo so che non c’è luce
in una stanza quando manca il sole,
se non ci sei tu con me, con me.
Su le finestre
mostra a tutti il mio cuore
che hai acceso,
chiudi dentro me
la luce che
hai incontrato per strada.

Con te partirò.
Paesi che non ho mai
veduto e vissuto con te,
adesso si li vivrò,
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,
con te io li vivrò.

Quando sei lontana
sogno all’orizzonte
e mancan le parole,
e io sì lo so
che sei con me,
tu mia luna tu sei qui con me,
mio sole tu sei qui con me,
con me, con me, con me.

Con te partirò.
Paesi che non ho mai
veduto e vissuto con te,
adesso si li vivrò.
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,
con te io li rivivrò.
Con te partirò
su navi per mari
che, io lo so,
no, no, non esistono più,
con te io li rivivrò.
Con te partirò.


Time To Say Goodbye (タイム・トゥ・セイ・グッバイ)』。
壮大なスケールを感じさせる、感動的な名曲として人々の心に刻まれた。
歌っているのは、ミュージカル「キャッツ」で一躍トップ・スターになったサラ・ブライトマン。

サラは、13歳でステージ・デビューを飾り、その才能を大いに知らしめ、1981年にアンドリュー・ロイド・ウェバーのミュージカル「キャッツ」「オペラ座の怪人」などでその地位を不動のものにした。その素晴らしい歌唱力は、クラシックからポピュラーまで、幅広く歌いこなせる実力を持っている。
この「タイム・トゥ・セイ・グッバイ」は、あのテノール・シンガーとして有名なアンドレア・ボチェッリとのデュエットで、大ヒットを記録した。

日本では1999年に「スバル・ランカスター」のTV-CM曲として使用され、より多くの人に聴かれることになった。
また、2009年7月公開された日本映画『アマルフィ 女神の報酬』の主題歌にもなった。

雲上を飛ぶ (28)

2009-12-22 | その他
白い坂道が 空まで続いていた
ゆらゆら陽炎が あの子を包む
誰も気づかず ただ一人あの子は昇ってゆく
何も恐れない そして舞い上がる
空にあこがれて 空を駆けてゆく
あの子の命は ひこうき雲

高いあの窓で あの子は死ぬ前も
空を見ていたの 今はわからない
他の人にはわからない あまりにも若すぎたと
ただ思うだけ けれど幸せ
空にあこがれて 空を駆けてゆく
あの子の命は ひこうき雲
空にあこがれて 空を駆けてゆく
あの子の命は ひこうき雲


『HIKO-KI GUMO( ひこうき雲)』は、荒井由実が、1973年11月20日に東芝EMIよりリリースした、彼女のファースト・アルバム。

当時、社会現象になっていた少女の自殺問題と、ユーミンが高校一年生の時に不治の病で夭逝した小学校の同級生を思い作られた曲だという。
誰もが早すぎる死にただただ悲観するなか主人公は「けれど幸せ」と言う。空に憧れ、それそのままに空へ消えていった者への理解と羨望が歌われている。



さて、飛行機雲(contrail)ができる条件とは、
①十分に水蒸気があること
②気温が露点(水蒸気が飽和し、一部が水滴になる温度)よりも低くなっていること
③凝結核(水蒸気が水滴になるときに核になる微粒子)があること

飛行機が飛ぶような高度(上空およそ10,000mくらい)で、水蒸気もあり、気温も露点以下となっているときに、凝結核がないために雲ができていない状態(過冷却)になっているとき、飛行機の排気ガスに含まれる微粒子が凝結核となって、飛行機雲ができる。

しかし、上空の大気が乾燥していれば飛行機雲はできにくく、湿潤状態であればでき易くなる。

逆にいえば、飛行機雲が長時間消えなければ、湿った空気が上空にある証拠なので天気は下り坂であり、その反対に飛行機雲ができなければ、空気が乾燥している為に好天が続くことになる。そして短時間に飛行機雲が消えれば、翌日の天気は晴れる。







雲上を飛ぶ (27)

2009-12-21 | その他


本格的な冬の到来で、北日本を中心に冬型に気圧配置(西高東低)が続いている。

さて、ご存知のように、日本の上空には、「偏西風」とよばれる西風が吹いる。
その偏西風のなかでも、特に強い風の流れを「ジェット気流」と呼んでいる。

一般に、ジェット気流の風速は夏に弱く、冬には強まって、最大風速は300km/h以上の強風になることもある。

これは高い上空を飛行する航空機にとっても運航上大きな影響を及ぼすことになる。
仮に時速800kmで飛行中の航空機が時速300km/hのジェット気流にまともに向かって飛行すれば、300kmの減速となり、逆の場合は、300kmの加速効果で、計算上は時速1000km以上で飛行することになるのだ。

このため、飛行機が上空を飛行する時は西~東のコースの時は、追い風、東~西のコースの時は向かい風になり、同じ距離でも所要時間が異なってくる。

例えば、東京(羽田)発の福岡行きは、所要時間が1時間55分であるのに対し、
福岡発東京行きは、所要時間が1時間30分となっていて、その差は25分あることになる。

国際線の成田~ホノルルでは、行きは5時間台で、帰りが10時間台になることもある。

ジェット気流は日によって強さや流れる場所は変わり、飛行高度を低くとることで、ある程度避けることができる。

航空会社は、コンピューターを駆使して風の強さやルートを分析し、最短かつ極力飛行機が揺れない最良のコースを探して飛行する。

それでも、ジェット気流の影響は大きく、東に向かう飛行機のほうが早く着いてしまうことになるのだ。



晩秋の北海道を飛ぶ (終) 

2009-12-20 | 北海道


水平線上に落日が消えると、海に浮かぶ利尻岳は、橙から朱へ、そして薄紫から濃紺へと七色に変化してゆく。

11月から始めた「晩秋の北海道シリーズ」だが、気がつくと12月も終わろうとしている。少々長くなりすぎた。

「北の大地」は、強い冬型の気圧配置が続いており、すでに雪の季節を迎えている。


北海道へは旅するごとに深い情緒と、様々な刺激が与えられる。いつ訪れても尽きせぬ魅力に溢れた土地であるといえよう。

晩秋の北海道を飛ぶ (45) - ノシャップ岬

2009-12-19 | 北海道
 


「皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら・・・」


宗谷海峡を臨む稚内公園内の「氷雪の門」の傍らに、小さな石碑がある。

1945年8月15日、太平洋戦争は終戦を迎えた。しかし、樺太(現サハリン)では、その後もソ連軍の不法な侵攻に伴い戦火は続いていた。

同年8月20日、樺太西南部に位置する真岡町(現ホルムスク)沖に、ソ連軍の艦船が現れた。ソ連軍は艦砲射撃を行いながら、真岡の町に上陸・侵攻。多くの住民が虐殺された。
そして、最後まで郵便局にとどまり、電話交換業務を行なっていた女性交換手9名は、服毒自殺して果てたのだった。

小さな石碑とは、“九人の乙女の碑”と呼ばれ、真岡郵便局で自決した9人の電話交換手の慰霊碑である。
碑に刻まれている一文が冒頭の「皆さん、これが最後です。 さようなら、さようなら、」。
さらに、
「戦いは終わった。それから5日、昭和200年8月20日ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如、日本軍との間に戦いが始まった。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向かった九人の乙女等は、死を以って己の職場を守った。窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、いまはこれまでと死の交換台に向かい『みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら…』の言葉を残して静かに青酸カリをのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた。戦争は再びくりかえすまじ。平和の祈りをこめて尊き九人の霊を慰む」とある。

しかし、かつての碑には以下のように刻まれていたという。
「昭和二十年八月二十日日本軍の厳命を受けた真岡電話局に勤務する九人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向かった。ソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるままに青酸苛里をのみ 最後の力をふりしぼってキイをたたき“皆さん さようなら さようなら これが最後です”の言葉を残し 夢多き若い命を絶った。戦争は二度と繰り返すまじ 平和の祈りをこめて ここに九人の乙女の霊を慰む。」

つまり、かつての碑文では、自決の理由を日本軍の命令としていた。いつのまにか修正されてしまったようである。

沖縄戦での集団の自決になぞらえ“北のひめゆり”ともいわれる「樺太・真岡郵便局事件」である。



ノシャップ岬はアイヌ語でノッ・シャムといい、岬がアゴのように突き出た所(集落)と言う意味と、岬周辺が厳しい自然環境であることから、波の砕ける場所が語源となっている。読み方が似ているが、納沙布岬(のさっぷみさき)は根室市にある北海道本島最東端の岬であり、ノシャップ(野寒布)岬とは違う。

晩秋の北海道を飛ぶ (44) - 稚内市

2009-12-18 | 北海道

「成功の形たゝぬうちは死を誓って帰るまじ。若し難行の節は、我一人たりとも蝦夷地にに残り、夷地の土となるか、夷人となるであろう。再会期しがたし。」(『山崎半蔵日記』より)

今から200年前のある日、男は友人にこう言い残し、小さな帆船で樺太を目指した。

決死の覚悟で海に出た男の名は、間宮林蔵。

目に涙を浮かべた友人は、津軽藩士宗谷詰所に勤務していた山崎半蔵。

文化5年(1808年)、幕府は間宮林蔵と松田伝十郎の2人に樺太探検を命じた。
文化5年4月13日、林蔵は伊能忠敬から譲られた測量用の羅針盤を手に、伝十郎とともに宗谷から出発した。

このときは北緯52度近くのラッカまで行き、樺太は島であると判断したが、過酷な自然を前にそれ以上北上して確認してくることはできなかった。

やむなく宗谷に戻った林蔵は、幕府より"樺太東岸の奥を見極めよ"と申し渡され、同年の7月13日、単独でアイヌ船に乗り込み、宗谷の地を再び後にした。この時、彼は郷里(筑波郡上平柳村・現つくばみらい市)から持ってきた墓石を海岸に建てて探検への覚悟の程を示したという。

林蔵は厳しい寒さに耐え、文化6年5月、ヨーロッパ人がいまだ調査をしたことのない水域を突破し、樺太北端に近いナニオー(現在のプロワ)に到達し、樺太が島であること、つまり「間宮海峡」を発見した。
林蔵29歳であった。

後に、シーボルトによって「Str. Mamia seto 1808(間宮之瀬戸)」と紹介され、世界地図に唯一日本人名が刻まれることになる。



稚内および宗谷は、北海道がまだ蝦夷と呼ばれていた時代から、海峡・国境のまちとしての特異な歴史を有していた。北方警備の要衝地であり、同時に蝦夷以北を探る出発の地でもあった。

後、稚内は樺太(サハリン)との貿易拠点として栄えてきた。ノシャップと宗谷という2つの岬に囲まれて、稚内湾が北に向かって口を開けている。

稚内とはアイヌ語のヤムワッカナイ(yamwakkanay)からきており、「冷たい水の流れる沢」という意味。

晩秋の北海道を飛ぶ (43) - 宗谷丘陵

2009-12-17 | 北海道

宗谷岬の背後に広がる、ゆるやかな丘陵性の地形は、今から約1万年前に終わっ た地球最後の氷河期(ウルム氷河期末期)、土が凍っては溶け、溶けてはまた凍るという現象を繰り返しているうちに、岩石がボロボロに砕け、斜面をずり落ち、なだらかな丘と丸い谷ができあがったという。いわば氷河時代のなごりなのである。

国内では最大規模の「周氷河地形」とされている。

明治の中ごろまでは、丘陵全域にわたり、鬱蒼とした森林に覆われていたが、相次ぐ山火事で、今では一面ササに覆われ、現在は放牧地として使われている。

周氷河地形は道内の至る所で形成されたというが、開発などで破壊されたケースが多い。現存する最も典型的な地形が「宗谷丘陵」(稚内市)といわれている。

2004年に北海道遺産として指定された。