Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

初秋の佐渡を飛ぶ (終)

2011-11-03 | 関東


道中、熱が高く、狭い駕籠の中でゆられながら、ひらひらと自分が蝶に化ったような錯覚をしきりに感じた。平塚の外れの野をゆくとき、菜の花に蝶が舞い、『荘子』にあるように
栩栩然として宙空に点を撃つことを楽しんでいる。荘周(荘子)は夢に胡蝶となり、覚めれば荘周であった。荘周が夢を見て胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて荘周になったのか、大きな流転のなかではどちらが現実であるのかわからない。佐渡の新町の生家の物置の二階で『荘子』を読んだときの驚きが、菜の花畑の中をゆく駕籠の中でよみがえった。

「おれは蝶だぞ」

伊之助は、駕籠から首を出して叫んだ。早くゆけ、もっと揺れろ、ともいった。駕籠かきはおびえながら、すねを高く揚げた。伊之助の体はおもしろいほど揺れ、やがて熱が伊之助の意識をいよいよ宙空に遊ばせた。

戸塚の宿の松原が夕もやにけむるころ、旅籠に着いた。

明治十二年三月十一日であった。 夜、大喀血をし、窒息したのかどうか、旅籠の一隅で誰にも看取られることなく逝った。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)





伊之助、41歳。
胡蝶のように舞い、世を去っていった。








初秋の佐渡を飛ぶ (10)

2011-11-01 | 関東


伊之助は当時すでに「大教授」という職であったが、ドイツ人教師ミュルレルらの帰国とともに免職となった。
その後、愛知県に招聘され、名古屋に移った。

明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称、 現・名古屋大学医学部)教授となる。
そのあとしばらく名古屋の市中で開業したが、得た金はすべて花街で蕩尽し、月ごとに借金がかさんだ。

「借金とりがやってくる月末になると、翻訳をやらされた」
と、当時、書生として住みこんでいた後藤新平が、語っている。

後藤は仙台の士族で、明治九年須賀川医学校を卒え、名古屋にきて愛知県立病院の下級医員をつとめつつ伊之助の書生になってドイツ語を学んでいた。

伊之助はすでに肺結核になっていた。江戸期漢方の一書に「多クハ男子四十歳前後ニ至リ淫慾ニ耽ルニヨリテ生」ずるとされた消耗こそ原因だったにちがいない。伊之助は、自分の病気が肺結核であることがわかっていた。安静が大切ということも知っていたはずであるのに、明治十二年の寒いころ、名古屋を発ち、駕籠で熱海にむかった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)