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太平洋沿岸を飛ぶ (52) - 愛媛県愛南町

2010-03-21 | 四国


明治元年、万次郎は高知藩に新地百石の禄高で登用された。この年、彼は開成学校中博士六等出仕に任ぜられ英語教授を担当していたが、翌年、病気で辞任して本所砂町の土州藩下屋敷で静養した。その翌年九月、彼は普仏戦争実地視察を命ぜられ大山巌等に従って欧州に出張し、病気のため戦地には行かないでロンドンに滞在した。帰途、アメリカに立ち寄ってハヘイブン町のホイットフィールド家を訪れた。ホイットフィールド氏は万次郎の大恩人である。互いに懐旧の涙を禁じ得ないのであった。なお彼はハワイにも立ち寄って旧知を訪問した。
明治五年、再び病を発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。
明治三十一年十一月十二日死亡、享年七十二。その墓は谷中仏心寺の境内にある。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)



咸臨丸の太平洋横断は、鎖国の終わりを告げる出来事であり、そして万次郎も大きな役割を果たした。

帰国後も万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続けた。

1870(明治3)年、普仏戦争実地視察団としてヨーロッパへ派遣されるが、帰路、ニューヨークに立ち寄り、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たした。

しかし帰国後、万次郎は病に倒れる。
そして1898(明治31)年、72歳で万次郎はその生涯を終えた。




万次郎の功績は、日本に新しい知識や技術をもたらしただけではなく、アメリカ人を通して学んだ人道主義や民主主義を、坂本龍馬をはじめ新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに影響を与えたことであった。
そしてそれが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていく。


万次郎自身が歴史の表舞台に出ることはほとんどなかったという。
万次郎に野心や野望はなく、常に名誉栄達から離れたところにいたからだ。
国家や体制とは関係なく、一人の人間として万次郎は懸命に生きた。

足摺岬を洗う黒潮は、日本の太平洋沿岸を北東に流れ、ついには北アメリカ北西海岸に達する。土佐の中浜村に生まれたジョン万次郎の一生は、まさにこの雄大な黒潮そのものといえるだろう。


足摺岬の入り口に、ジョン万次郎の銅像がある。
この銅像は、彼を息子のようにかわいがってくれた船長の故郷、マサチューセッツ州フェアーへブンを向いて立っている。