Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

晩秋の北海道を飛ぶ (27) - 弟子屈

2009-11-30 | 北海道

釧路市の北約80km、“霧の摩周湖”、その山麓に広がる“弟子屈”の町。

JR釧網本線、国道241号、243号、391号が通じ、摩周湖、屈斜路湖などの景勝地や、摩周温泉、川湯温泉、鐺別温泉、和琴温泉などの温泉も多く、観光基地となっている。

町名“弟子屈”の「テシカ」とはアイヌ語で岩磐、「ガ」は上という意味だという。
この地は、弟子屈市街にある現在の共同浴場付近の岩磐のところにあたり、かつては釧路川がその岸を洗っており、非常に磐の多い急流であった。ところが又、ここは魚のたまり場のようなところでもあったので、アイヌは何とかこの魚を獲りたいと網をかけようとしたが磐が多く、遂に杭を打ちこむことが出来なかったという。そこでアイヌは、せっかくたくさんいる魚をとる仕掛けもできない「岩磐の上」だと嘆き、弟子屈の語源はこれから生まれたといわれる。


北海道を旅すると、読み方の難しい地名を眼にすることが多い。
上述の“弟子屈”などその典型といえる。
ご存じのとおり、それは北海道のほとんどの地名が先住民アイヌの言葉に由来しているからである。
明治時代以降、本州から開拓民が入るようになって、文字をもたないアイヌがもともと彼らの言葉でその場所を言い表していたのに、その音に漢字をあててしまった結果である。当然本来の意味は消えてしまう。
アイヌの多くは川や湖などの水辺に住んでいたことから、アイヌ語の地名は、その地形の特徴などを語源としているものが多い。その土地に長く生きた人々の知恵と経験が地名には刻印されているのだ。
このように外来者が地名を単なる記号のように扱うことで、地名はその自然の息吹を失ってゆく。

些細なことと思われがちだが、こんなところにもアイヌ文化を軽んじる意識が潜んでいるようにも思えるのだが…

晩秋の北海道を飛ぶ (26) - オンネトー

2009-11-29 | 北海道
雌阿寒岳の西山麓にある周囲2.5kmの湖が、オンネトーである。
季節や天候、見る角度によって、澄んだ青、エメラルドグリーン、ダークブルーに色が変わることから、“五色沼”とも呼ばれている。オコタンペ湖、東雲湖とともに北海道三大秘湖の一つとされている。

オンネトーは阿寒富士の爆発によって螺湾(らわん)川が堰き止められた湖。湖へは酸性の水が流入し、湖底からも天然ガスや酸性の温泉などが湧き出しているため魚などは棲めない。
また、オンネトーから3kmのところにある、“オンネトー湯の滝”は、国の天然記念物。湯の滝は温泉の滝であるばかりか、マンガン酸化物生成現象が地上で見られる世界でただ一箇所の貴重な場所なのだ。

オンネトーとは、アイヌ語のオンネ・トー(onne-to=年をとった・湖)に由来する地名。太古から続く自然の息吹が響いてくるような美しい名前だ。湖の周辺は、アカエゾマツ、トドマツに広葉樹を混ぜた原始性の高い針広混淆林である。

特筆すべきは、雌阿寒岳の登山口となっている雌阿寒温泉(野中温泉)周辺に広がるアカエゾマツの純林である。「北海道の森の王者」と呼ばれるアカエゾマツは、本州では早池峰山の一部にあるだけで、北海道、南千島、サハリン南部にのみ生育する固有種である。仲間のエゾマツが広く大陸まで分布するのに比べれば、不思議なほどに狭い土地にしか生えない木。この地にアカエゾマツの純林が発達したのは、火山岩礫地で土壌は強い酸性を呈し、他の植物の生育を拒んでいるからだという。他の樹より生存競争に弱いアカエゾマツはあえて悪い環境の土地を選んでいるのだ。
実は、野中温泉周辺のこのアカエゾマツの森、世界でもっとも貴重な純林となっている。




晩秋の北海道を飛ぶ (25) - 雌阿寒岳

2009-11-28 | 北海道


昔、石狩地方の山続きにニツネヌプリ(魔神の山)という山があり、そこには魔神達が隠れていて、人間の世界の邪魔ばかりしていた。

そこで、アイヌの英雄オタシトンクルがそれを退治しようと6日6晩のあいだ、この山を激しく攻め、多くの魔神を退治した。
しかし魔神の頭領は黒雲を吐いたり、雨を降らせたりして、逃げ回り、雄阿寒岳に助けを求めた。ところが、雄阿寒岳に、ものもいわず岩の拳でなぐりつけられてしまった。

そこで、魔神の頭領は情けにもろい雌阿寒岳に泣き付いて、その内懐に隠してもらった。これを知ったオタシトンクルは、非常に腹を立て、雌阿寒岳の懐から魔神を引き出して殺し、雌阿寒岳を呪ってこういった。「魔神を隠したお前の懐からは、いつまでも臭い息が出て膿が流れるだろう」と。

そのとおり今でも雌阿寒岳からは臭い噴煙がのぼり、硫黄の膿が流れ出るのだという。
(屈斜路・弟子カムイマ老伝)



ポンマチネシリ頂上部には大きな噴火口がある。その周辺数カ所や山麓のいくつかの場所には噴気口があり、現在も活発に噴気を上げている。また噴火口の底には雨水のたまった小さな沼がある。



1949(昭和24)年、尾瀬ヶ原の水力発電計画が実現されそうになったとき、民間有志で尾瀬保存期成同盟が結成され、計画阻止に成果をあげた。
そして1951(昭和24)年、阿寒国立公園の雌阿寒岳頂上の硫黄採掘問題が、全国的な自然保護運動の必要が痛感され、現在の財団法人組織、「日本自然保護協会」誕生のきっかけとなる。



晩秋の北海道を飛ぶ (24) - 雌阿寒岳

2009-11-27 | 北海道
釧路市の丘の上にある公民館の前庭に、あまり人の気づかない小さな(松浦)武四郎の銅像が立っている。彼は和服にたっつけという姿で、片手に筆、片手に帳面を持って、阿寒岳の方をにらんでいる。その傍らに1人のアイヌ人がかしずいて、同じ方向を指さしている。アイヌの教えるところを、武四郎が書き取っている形である。人と所と2つながら得たいい銅像である。この丘から北にあたって阿寒の連山が実によく見える。雄阿寒、雌阿寒、その雌阿寒に重なるように阿寒富士。私は秋の末のある晴れた朝、その眺めに心を奪われた。
(深田久弥著『日本百名山』より)



阿寒湖の西縁に聳える雌阿寒岳の山塊は、中マチネシリ、ポンマチネシリ、阿寒富士、西山、北山、南岳、 東岳、1042m峰の八つの火山体から構成される。

アイヌの人々は、雄阿寒岳をピンネシリ(男の山)、雌阿寒岳をマチネシリ(女の山)と呼んでいたという。

雌阿寒岳は活火山で1998年11月に噴火し、しばらく立入禁止になっていたが2000年から再び登ることが出来るようになった。
ナカマチネシリとポンマチネシリでは現在でも噴気活動が活発である。
最近では1988年1-2月にポンマチネシリ火口で小噴火があった。

晩秋の北海道を飛ぶ (23) - ぺンケトー・パンケトー

2009-11-26 | 北海道
雄阿寒岳の東麓に広がる湖、ぺンケトーとパンケトー。

かつて、現在の阿寒湖、そしてぺンケトーとパンケトーは、一体で「古阿寒湖」を形成していたが、土砂の堰き止めにより3つの湖に別れたと考えられている。
湖の名前の由来はアイヌ語のペンケ・トー(上の・湖)に由来。ペンケトーに対し下流のパンケトーはアイヌ語のパンケ・トー(下の・湖)に由来する。
ペンケトーの湖水はパンケトー、阿寒湖を経て、最終的には阿寒川に流出する。
湖岸に近づくのは非常に困難な湖であるが国道241号の双湖台から遠望可能である。双湖台から見られるペンケトーの形は北海道の形に似ていると言われる。

以前、タンチョウを撮影するため、厳冬の阿寒を訪れた。国道241号の双湖台付近の路上に車を止め車外に出た。深い森の中にたたずむぺンケトーの結氷した湖面には雪が積もり、くっきりとその独特の輪郭を浮かび上がらせていた。突然カメラを持つ手に、違和感を感じる。気がつくと、手の甲が紫色に変化していたのだ。急いで車に戻り、車外気温を確認するとマイナス20℃を指していた。

ペンケトーに近づくには、阿寒湖の西側から阿寒湖岸を大きく迂回する林道を経由し、パンケトー岸を通過し、林道の最後からは徒歩で湖岸に近づく方法のみしかない。しかし、阿寒湖の西岸の林道は「前田一歩園財団」が管理しており、漁協や学術調査等の乗り入れを除き、一般車が立ち入るのは厳しく制限されているため、事実上一般の観光客が近づくのは困難である。また、周辺はヒグマの出没の危険性もある。


晩秋の北海道を飛ぶ (22) - 雄阿寒岳

2009-11-25 | 北海道

マリモが生息する湖と、その湖面を囲む広大な森林を有する阿寒国立公園。

阿寒湖周辺の開拓は、明治時代の政治家が深く関わっている。
その名は、前田正名(まえだまさな)。

1850(嘉永3)年、に薩摩藩、指宿(いぶすき)の貧しい漢方医の六男として生まれた。19歳の若さでフランスに留学し、その後、内務、大蔵、農商務の各省に勤め、農商務省の官僚となってからは、産業運動を展開する。

官僚として産業界に貢献する正名だったが、山県有朋内閣のとき、陸奥宗光らと対立し、ついに官を辞し、野に下ることになる。明治32年、正名は北海道釧路村に前田製紙会社(十條製紙の前身)を設置し、これが北海道木材パルプの製紙事業の先駆となっていく。

1903(明治36)年、模範林、模範牧場の経営と人々の移住奨励を目的として、阿寒湖畔に5,000ヘクタールもの山林の払い下げを受ける。
彼が新天地として可能性を見つけた阿寒湖周辺は、ヒメマスの採卵場の番人や、硫黄の採掘のための移住がある程度で、まったくといっていいほど開かれていなかった。
正名は、阿寒湖畔の優れた景観に感銘し「この景観はスイスのそれにも比肩する。阿寒の山林は切る山ではなく、見る山だ」と嘆じたという。そして、彼は湖畔にバラックの家を建て、山林業を営むかたわら、自らの土地や家を「一歩園」と称して、開拓に着手した。『一歩園』の名は、正名が武者小路実篤の「如何なる府にも自分は思う もう一歩、今が大事な時だ もう一歩」という言葉に共鳴して名づけたものだという。

多額の私費を投じ、阿寒本町舌辛から湖畔にかけて道路を開削したり、教育施設をはじめとする各施設の建設などに尽力を注ぎ、正名の死去後、前田家は意志を継ぎ、湖畔の美林の保全と自然保護や福祉の振興に奔走した。

1930(昭和5)年、阿寒横断道路が完成し、1934(昭和9)年に国立公園の指定を受けたことなどにより、旅館やホテルが増え、観光客の受け入れ体制が進められていきた。
前田家三代目光子氏が土地を無償提供し、生活や進学の道を開いたことにより湖畔にアイヌ民族の集結が図られ、アイヌが形成。民芸品の製作や民族舞踊、まりも祭りなどにより、観光の発展に拍車がかかった。

前田一歩園の初代園主・前田正名の自然保護思想は子息の正次、光子夫妻へと受け継がれ現在も、その遺志を継いだ財団は、阿寒の森を守り、自然保護思想の普及に貢献する事業を進めている。

画面は、阿寒湖畔に聳える雄阿寒岳山頂(1370メートル)。円錐形の火山で、山名はアイヌ語「ピンネシリ」(雄山)に由来する。阿寒カルデラの陥没後その内部に生まれた中央火口丘である。後ろは、パンケトウ。



晩秋の北海道を飛ぶ (21) - 阿寒湖

2009-11-24 | 北海道
  水面風収夕照間 小舟棹支沿崖還 
  怱落銀峯千仞影 是吾昨日新攀山

 水面の風収まり夕陽照る間
 小舟に棹差し岸に沿いて還る
 白銀の高峰湖面に影を落とす
 これ吾が昨日攀じ登りし山
  (武四郎詩碑・阿寒湖畔)


幕末から明治時代に活動した探検家、松浦武四郎は、今から150年前の1858(安政5)年、和人未踏の未開地だったこの阿寒湖周辺に、アイヌの案内人とともに初めて足を踏み入れた。

武四郎が道東探検によって著した『久摺(くすり)日誌』には、
アイヌの人々から聞くところによると、久摺(阿寒周辺)の自然美は相当なものらしい。しかし未だこの地を探検した者はないという。これは自らを奮い立たせて挑もうと、案内役のアイヌなど9名と釧路を出発し山へと入った。
という内容の、旅立ち当時の心情が書かれている。

武四郎の日誌には、必ずアイヌの戸数や住民の名が記されているが、阿寒湖畔についてはその記述がなかった。150年前の阿寒湖畔はまだアイヌの人々も住まない、無人の地だったのかもしれない。

「阿寒」という名は、アイヌ語の「アカン」(不動の意)から出たものとされている。


晩秋の北海道を飛ぶ (20) - 阿寒

2009-11-23 | 北海道
一九五二年四月十三日。
二十年前のこの日、純子は雪のなかから現れた。
場所は針葉樹林の切れた釧北峠の一角で、その位置からは裸の樹間を通して阿寒湖を見下せた。
だが、冬の阿寒湖は雪におおわれ、白一色の平坦な雪原としか見えない…
この湖を見下す釧北峠は阿寒湖畔から北見相生へ抜ける道にある峠で、十一月から五月まで半年の間、道は雪で閉ざされる。この間峠へ向かうのは、営林署の巡視人かアイヌの杣だけで、それも馬橇で雪の少ない日にかぎられていた。
(渡辺淳一著『阿寒に果つ』より)


「阿寒」と聞いて、まず思い浮かぶイメージは、“白と赤”の世界である。

それは、純白の雪原に舞う、“サルルンカムイ(湿原の神)”、“丹頂”の美しい姿であり、
また、白一色の静寂の峠で、雪から浮かび出た、赤いコートの点景である。

真っ白な雪に覆われた冬の「阿寒」ほど、ロマンティックでリリシズムに満ちた気分にさせてくれる地はないが、今回は、雪と氷に閉ざされる前の、晩秋の阿寒を上空よりご覧いただく。

霧の中に浮かびあがる、雄阿寒岳、阿寒湖、雌阿寒岳、そして遥か彼方に大雪山系の山々を望む。

晩秋の北海道を飛ぶ (19) - 根釧台地

2009-11-22 | 北海道
晩秋、黄葉したカラマツは、陽光を浴びて黄金色に輝く。牧草の緑と鮮やかなコントラストをなし、美しい風景を見せてくれる。

落葉針葉樹「カラマツ」は、成長が速く寒冷な気候に強い樹木で、北海道の植林事業には欠かせない存在。中標津町のカラマツは、当初長野県から苗が運ばれて来たという。

防風林の整備が進められた昭和30年代、カラマツ材は、炭鉱の坑木や線路の枕木として、道内に多くの需要があった。しかし輸入材が全盛となってしまった今、敢えてその節目を生かし、内装材などに利用する新しい取り組みが始まっている。

防風林には耕作地を守る以外にもさまざまな役割がある。
エゾシカやエゾリス、アカゲラなど多様な野生生物や植物を育む森として、また防風林は、ホーストレッキングや野鳥観察などの観光資源として、山菜やキノコの栽培地として活用するなど、多くの可能性が考えられている。

北海道開発の中で人々がつくりだし、守り育ててきた防風林は、産業遺産であると同時に、自然遺産でもあるのだ。

2001年には根釧台地の格子状防風林が、北海道遺産に登録された。

晩秋の北海道を飛ぶ (18) - 根釧台地

2009-11-21 | 北海道
1871(明治4)年、ホーレス・ケプロン(Horace Capron)は当時アメリカの農務局総裁で70歳近い高齢だったが、開拓使次官の黒田清隆に乞われ、政府の大臣以上という高給で迎えられた。3年10ヶ月在日し、北海道の開拓政策に大きな影響を与えた。平野部の広大な森林地帯の開拓にあたっては、大規模な防風林を残すという方針を示したのは、ケプロンである。

ケプロンの防風林設置の方針に基づき、明治29年には「殖民地選定及び区画施設規程」が公布され、農地の区画は1戸分は5ha(180m×270m)であること、この区画に合わせて180m幅の防風林を3240mごとに設置することが定められた。これによって根室・釧路・十勝・北見地方では、大規模な防風林が網目状に配置されることになる。

根釧地方では、1914(大正3)年に帯広営林局が標津事業区でトドマツを植栽したのに始まり、大正末期から昭和初期にかけて格子状防風林の造林が本格的に着手された。

1933(昭和8)年1月、現中標津町の養老牛尋常小学校と開陽尋常小学校の児童六人が猛吹雪に襲われて凍死するという痛ましい事故が起こった。下校途中、危険を感じて学校へ引き返したが、学校の玄関前で力尽きて息絶えた児童や自宅にたどり着きながら積雪のため家には入れずに死亡した児童、吹雪の中で妹を自分のマントにくるんで温めて救い、自分は凍死した小学4年生の女児などのエピソードが町史に書き残されている。

一方、戦後復興期に農地を拡大するために、防風林の伐採が北海道で相次いだ。
根釧台地の防風林は、厳しい気候から農作物を守る効果や、吹雪のときに進行の目印になるといった価値が見出されていたために、農地拡大の対象にならずに形状が残った。
他の開拓地域では、農地の拡大や「日陰の発生による作物への影響や土壌凍結層の融解の遅れ」「耕地内への根の進入」等の農業にとってのマイナス要因が取り沙汰されて伐採が進み、縮小や消滅する防風林が相次いだ。

中標津の防風林は、農業や生活に必要不可欠な存在であったことが、現在の形状を留めている要因となっている。



晩秋の北海道を飛ぶ (17) - 根釧台地

2009-11-20 | 北海道
道東の根釧台地には、広大な牧草地とそれを囲むカラマツ林という風景が延々と広がる。
地上にいると分からないが、上空から眺めると、そこには、まるで方眼紙のように正方形の格子が描かれている。

これが北海道開拓の歴史を今に残す「根釧台地の格子状防風林」である。

カラマツは、寒冷な気候に強く、成長の早い木で、春先の種まき時期の風害や成長時の低温災害から農作物を守ってきた。

幅180mの林帯で描かれた1辺約3kmの巨大な緑の格子は、中標津町・別海町・標津町・標茶町の4町にまたがり、総面積は15,000haに及ぶ。
平成12年に宇宙飛行士毛利衛さんがスペースシャトル・エンデバーから撮影した映像に鮮明に映し出されたことからもその規模の大きさがわかる。

晩秋の北海道を飛ぶ (16) - 帯広市

2009-11-18 | 北海道
小弟ハエゾに渡らんとせし頃より、新国を開き候ハ積年の思ひ一世の思ひ出ニ候間、何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候(坂本竜馬、慶応3年3月6日 長府藩士・印藤聿津宛書簡より)


「蝦夷開拓」は、坂本龍馬が“生涯の仕事”だと最後まであきらめなかった夢である。

幕末の混乱の中で無為に命を落としていく青年たちを龍馬は憂えた。資源豊富な未開の地・蝦夷に彼らとともに移住し、原野開拓にあたりながら北方警備、そして世界貿易をめざす人材育成をしようとしていた。

どれほどその思いが強かったのか?
「…何卒一人でなりともやり付申べくと存居申候」。
つまり、一人になっても必ずやり遂げるというのである。

暗殺されたために果たせなかったこの龍馬の夢を、後に子孫が北海道に渡ってかなえることになる。

前述、山岳画家・坂本直行。

龍馬の子孫である。直行の祖父・坂本直寛は龍馬の甥にあたる。龍馬の遺志を継いで北見に入り、その後、浦臼に入植し、一族共々北海道の礎となった。

ただ、直行は生涯、一度も龍馬のことを語らなかったという。
あえて語らず、ひたすら農民として、画家として生きた生き様こそ「志」に生きた龍馬の人生に重なる。

何でも思い切ってやってみることですよ。どっちに転んだって人間、野辺の石ころ同様、骨となって一生を終えるのだから...龍馬の声が聞こえる。

晩秋の北海道を飛ぶ (15) - 帯広市

2009-11-17 | 北海道

10代だった自分は、まだ見ぬ北の原野に想いをはせ、
いつの日かそこで暮らしてゆくのだとも思っていた。
しかし、北海道ではなく、ぼくはアラスカへ来てしまった。
そして、ふと思うのである。
かつて直行さんが生き、ある哀しみをもって見送った時代を、
ぼくは今アラスカで生きているのかもしれないと。
(星野道夫著『旅をする木』より)


北海道土産と言えば、帯広銘菓として全国的にも有名な、あの六花亭の『マルセイバターサンド』を選ぶ。

このネーミングと包装紙のデザイン、“マルセイ”とは◯の中に成の字を入れたもので、依田勉三の興した晩成社が1905年(明治38年)に北海道で初めて商品化したバターのことである(当時の表記はマルセイバタ)。
マルセイバターサンドの包装は発売当時のマルセイバタのラベルを復刻したものなのだ。
また、六花亭には鍋をかたどった“もなか”で『ひとつ鍋』という和菓子があるが、これは、勉三の「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」という句をイメージしたもの。
その他にも北海道の開拓に因んだ名称やデザインのお菓子も数多く見られる。
勉三の開拓魂と苦労が、今、六花亭のお菓子の中で甘く結実し、現代に生き続けているといえるかもしれない。


もうひとつ、私が六花亭のお菓子を選ぶ理由は、あの可憐な花柄の水彩画で彩られた包装紙が好きだからだ(十勝六花…はまなし・えぞりんどう・えぞりゅうきんか・かたくり・しらねあおい・おおばなのえんれいそう)。

素朴なそれらの草花を描いたのは、坂本直行(さかもとなおゆき)という山岳画家であることを、写真家の故・星野道夫氏の『旅をする木』を読んで知った。

坂本直行は、明治39年釧路に生まれ、北大農学部を卒業後、十勝の原野で開拓生活に入った。
それから30数年にも及ぶ不毛の大地との闘いに敗れ、鍬を絵筆に持ちかえて山岳画家になった。
四季折々の原野の風景や、日高の山なみを描き続けた。

写真家・星野道夫氏は、「北方の自然への想いは、直行さんの絵や文章を通して、いっそう培われたような気がするのである。… 直行さんの世界は、北海道の自然への憧憬と重なり、どこかでアラスカへとつながっていったような気もするのである」と書いている。




晩秋の北海道を飛ぶ (14) - 十勝・大樹町晩成

2009-11-16 | 北海道
今から130年前、未開の原野、十勝野を開拓しようと立ち上がったひとりの青年がいた。
その名は、依田勉三(よだべんぞう)。

19歳の時に、ケプロンの考えに感銘を受け、「北海道の開拓事業で国家に役立てば、自分のごとき天下の無用者も有用の者に生まれ変わることができる」と語ったという。
彼は、現在の北海道帯広市周辺に新しい故郷を求め、静岡の伊豆松崎町で仲間たちと共に「晩成社」を旗揚げした。
晩成社は、27名。一団は明治16(1883)年5月、十勝野に志高く入植した。

しかし、開拓の先駆者たちを待ち受けていたものは、
野火、厳寒、旱ばつ、洪水、バッタ襲来などの自然の脅威。
さらに、ふる里、静岡で培った農法が通用しない大地。
また、先住民のアイヌとのトラブルも続出した。
想像を絶するの壮絶な戦いに、家族を失い、いつしか友は去っていった。

「晩成社」は、屯田兵とは異なり、移住、開墾に必要な経費を社から借り、社の仕事の賃金と収穫品の販売代金で借金の返済と蓄えにまわすというシステムだったため、移民たちの暮らしは、楽になるどころか借金が膨らむ一方だった。

再起をかけて、勉三は1886年(明治19年)、当緑村生花苗(現大樹町生花晩成地区)で弟文三郎と晩成社当緑牧場を開設。牧畜、バター、練乳などの酪農製品工場を開設、北海道での水稲栽培など新しいことにチャレンジする。

それでも開拓魂を燃やし続けた勉三に残されたものは、やることなすこと失敗だらけの日々。

だが、勉三は最後まで決してあきらめなかった。
 
1925年(大正14年)、勉三は「晩成社には、もうほとんど何も残っておらん。・・・しかし、・・・十勝野は」という最期の言葉を残し、波乱に満ちた72歳の生涯を閉じた。

まさに壮絶ともいえる一生を北海道十勝野の開拓に捧げた依田勉三が、十勝野の地を拓いて現在の帯広市につなげたことを知る人は少ない。 

十勝農業が今あるのは、ひとり依田勉三のみではない、後に続いた人々の偉大な開拓魂の戦いがあった。

明治以来130年の苦難の道が現在の十勝農業の力につながってきたのだ。



晩秋の北海道を飛ぶ (13) - 十勝平野

2009-11-15 | 北海道
蝦夷地には既に先住民のアイヌが、独自の文化を築いていた。

南部の渡島半島から始まった和人の進出は、江戸時代に入ると漁場確保やアイヌのとの交易のために沿岸全域に広がった。

そうした中、寛政12(1800)年、幕府の命を受けた皆川周太夫は、9月13日十勝川河口のヲホツナイ(現在の豊頃町大津)から川筋をさかのぼって十勝内陸部の踏査を行い、和人として初めてこの地付近に上陸した。
周太夫は「十勝川流域の原野は、地味すこぶる良く農耕に適している」と報告書で紹介した。

続いて安政5(1858)年には、松浦武四郎が、アイヌの道案内で詳しく調査し、将来有望な地であることを『十勝日誌』で紹介した。

明治2年(1869)、蝦夷地は北海道と改称され、十勝国(現在のほぼ十勝支庁域)を創設。帯広の前身の河西郡下帯広村が誕生した。