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春の九州を飛ぶ (9) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-27 | 九州



雲仙岳は、島原半島中央部にある火山で、普賢岳(1,359m)、国見岳(1,347m)、妙見岳(1,333m)の三峰、野岳、九千部岳、矢岳、高岩山、絹笠山の五岳からなる山体の総称で「三峰五岳の雲仙岳」と呼ばれた。

古くは『肥前国風土記』で「高来峰」と呼ばれていた。
雲仙はもとは「温泉」と書き、「うんぜん」と読んでいたが、国立公園指定の際に現在の「雲仙」に改められた。
大乗院満明寺は行基が大宝元年(701年)に開いたと伝えられている。この満明寺の号が「温泉(うんぜん)山」である。以後、雲仙では霊山として山岳信仰(修験道)が栄えた。


雲仙岳の噴火活動は、657年、1791年、1792年などがある。1792年(寛政4)の噴火では、東端の眉山(画面右下)が崩壊し、土石流の海中流入で大津波が発生、有明海沿岸全域に被害が及び、死者一万五千人に達した。


1990年11月、普賢岳は198年ぶりに噴火し、粘性の高い溶岩が火口に盛り上がって「溶岩ドーム」が出現、崩落して火砕流を引き起こした。

91年6月には消防団員や報道関係者ら43人の犠牲者を出し、その後に「平成新山」と名付けられた。









春の九州を飛ぶ (8) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-20 | 九州


7人の信徒たちは、12月2日の夕方、長崎から小浜の港に着くと、終日、山に登らされた。
山にはいくつかの小屋があった。その夜,足かせと手錠をかけられたまま入れられた。
そして夜の明けるのを待った。12月5日、拷問が始まった。一人づつ煮え返る池の岸に連れて行かれ沸き立つ湯の飛沫を見せられ、信仰を捨てるように命じられた。
大気は冷たく池からは濛濛と熱湯が湧き立ち、神の助けがなければ、見ただけで気を失うほどであった。全員は、拷問にかけよ、自分たちは信仰を捨てぬ、と叫んだ。
警吏はこの答えをきくと、囚人の着物をぬがせ、両手、両足を縛って、4人で押さえた。
それから四分の一リットルくらい入る柄杓で沸き立つ湯をすくい、それをゆっくりと3杯ほど各人の上に注いだ。7人の信徒のうち、マリアとよぶ娘が苦痛のため気を失って倒れた。
33日の間、彼等はこの山で各々、6回このような拷問を受けたのである。
(遠藤周作著『切支丹の里』より)





九州征伐を終えた秀吉は、にわかに「伴天連追放令」を発布し、宣教師たちの布教を禁じて国外に退去することを命じが、ポルトガルとの貿易を妨げるものではなかった。
しかし秀吉の死後、関ヶ原の戦いに勝利した家康へと政治の主導権が移ると、当初、キリスト教の布教に寛大だった徳川幕府は、布教を条件とするポルトガルとの貿易に不信感を持ち、増え続ける日本のキリシタンに脅威を抱くようになった。特に、西日本に増えるキリシタンが豊臣方の残党勢力と結束するのを恐れ、ついに幕府は1614(慶長17)年、「禁教令」を発布。全国で厳しいキリシタン摘発が始まった。


1627(寛永4)年、島原の内堀作右衛門以下16名が捕らえられ、雲仙地獄におくられた。そして「地獄責め」といわれる硫黄が煮えたぎる温泉の熱湯をかけられ殉教。翌年、中島修道士ら3人が殉教した。長崎奉行竹中采女正重義(たけなかうねめのしょうしげよし)は雲仙で長崎のキリシタンを引き連れて背中に熱湯をそそぎ棄教を迫るが、64名のキリシタンはひとりも棄教しなかったと伝えられる。

この残酷な刑を考えたのが島原藩主・松倉重政だった。家康は松倉重政を自己の利益ためには獰猛なほど勇猛心を発揮する人物だと見抜いており、禁教令を島原で進めるためには松倉重政ほど恰好な人物はいないと見ていたのだ。

キリシタン信徒への雲仙地獄責めは「山入り」と呼ばれ、「温泉(雲仙)岳での拷問」を意味していた。この「山入り」は5年間続いたといわれる。


現在、源泉地の一角には、地獄を見下ろすように十字架の形をしたキリシタン殉教碑が建っており、今も献花が絶えない

毎年5月の第3日曜日(本日)、長崎大司教区主催による雲仙殉教祭が開催され、雲仙教会からお糸地獄までの巡礼が行われている。










春の九州を飛ぶ (7) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-15 | 九州


眉山(819m)は、島原市街の背後に街全体を覆うように聳え立つ。雲仙岳の側火山として七面山,天狗山とともに連山をなす。

今からちょうど220年前の1792(寛政4)年5月21日、雲仙普賢岳噴火の最末期に頻発した大地震によって東斜面が崩壊した。

崩壊した土砂は岩屑なだれとなって、当時の島原の町の南側を埋め尽くしただけでなく、一気に有明海に突っ込んで大きな津波を発生させた。
この津波は対岸の肥後の国(熊本)にも押し寄せ、島原半島、熊本側の双方で甚大な被害を引き起こした。これを「島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)」という。

この災害による犠牲者は一万五千人に達し有史以来、国内最大の火山災害となっている。



この島原大変時に有明海に流れ込んだ岩塊は、島原市街前面の浅海に岩礁群として残っており、九十九島(つくもじま)と呼ばれている。(佐世保市から平戸市にかけて九十九島(くじゅうくしま)と別のもの)
これは地形学的に言うと「流れ山」と呼ばれる地形である。










春の九州を飛ぶ (6) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-12 | 九州


車を降りてから、この城が眉山(まゆやま)とちかぢかとむかいあっていること知った。
海ぎわの島原市街に対し、市街を追いおとすような勢いでそびえているこの休火山の山容は大きすぎて気味わるいほどであった。
雲仙温泉で有名な雲仙岳は、いくつもの連峰が盛りあがってできている。普賢(ふげん)岳、妙見岳、高岩山、矢岳、吾妻山などがそうだが、そのうちの眉山(眉岳)が、島原市街の背後に立ちはだかっているのである。
二十年ばかり前、陸路この町にきて、海路、熊本県の三角(みすみ)港へ去るとき、船上からこの眉山を見ておそろしさを感じたことがある。
(司馬遼太郎『街道をゆく』より)

 
 



島原半島は、有明海に向かってコブのように突き出た半島で、半島の中央に国見岳や普賢岳などの峰々を総称した「雲仙岳」が聳え立っている。

雲仙岳は、活火山として今も活動を続けているが、もともと島であった島原は、この雲仙火山の爆発物により九州本土とつながり半島になったといわれる。

そんな島原半島の東端、有明海に面した場所に位置する島原市は、雲仙岳の噴火による火山性扇状地と眉山東面の崩壊により形成された土地に立地している。



島原市街の風景を印象付けているのは、雲仙岳の前山として街の背後にそびえる眉山の存在である。












春の九州を飛ぶ (5) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-10 | 九州

領主は領民の世話人という姿勢がすでに織豊時代にあり、その代表的存在として丹波における明智光秀、北近江における石田三成、肥後における。加藤清正などをあげることができる。
これに対し、農民を農奴と考え、権力の本質を兇器に変え、つねに切尖を領民の心臓に擬しつつかれらを言いなりにしてしまおうという姿勢をとるのが、ごろつきの政権といっていい。
ごろつきにも、子がある。
「親の代は、まだましだった」
という言い方が、松倉重政とその子勝家の比較によく用いられた。しかし基本的には変わらないであろう。
重政は、保身のために切支丹を苛め殺した。しまいには苛める作業が面倒になってくると、雲仙地獄へ連れて行った。
雲仙には熱温泉が音をたてて煮えたぎっている。その熱湯を受刑者の体にかけ、気絶すると蘇生させてまたくりかえし、死ぬと地獄に中へほうりこんでしまう。
それでも「親」の代は切支丹弾圧という目的があった。「子」の代になると親がやった「人間をいたぶる」ということが文化(継承された型)になり、型を繰り返すことが権力行為になった。
(司馬遼太郎著『街道をゆく』より)






松倉重政は、この城をつくるために、有馬氏の旧城である「原城」や「日之枝城」を壊し、その石垣を領民に運ばせて島原城を建設した。

火山灰や溶岩流でなる地盤での普請工事は困難を極め、動員された人夫は延べ百万人といわれる。完成までに7年3ヶ月の歳月を要した。

出来上がったこの城は総石垣で天守と櫓49棟を建て並べた大きなもので、四万三千石の大名が普請すべき規模のものではなく10万石の大名に匹敵するものであった。

分不相応なこの城の費用は、領民からの血税で捻出せざるを得ない。領民を搾り殺すほどの勢いで搾った。

さらに重政はキリシタンの多い島原で非人間的で過酷なキリシタン弾圧を行った。重政死後、跡を継いだ2代目の松倉勝家も父と変らぬ圧政をおこなった。


そしてこの松倉氏の「島原城」築城が、領民一揆「島原の乱」を引き起こす一因となった。









春の九州を飛ぶ (4) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-06 | 九州


有馬氏は島原に二つの城を残した。一つが「原城」であり、もう一つが「日野枝城」である。有馬氏はキリシタンを保護し、城下には、コレジオや教会が立ち並び大いに栄えた。


南蛮貿易による利益により、秀吉や家康によるキリシタン弾圧政策下にあったが、多数のキリシタンを抱えていた有馬晴信の所領島原は、有馬晴信の死後(岡本大八事件の責任を問われて切腹)、後を継いだ有馬直純がキリスト教を棄教し、幕命に従うようにキリシタン弾圧を始めた。

1614(慶長19)年、領民に対する弾圧に嫌気がさした有馬直純は、転封を幕府に願い出て日向・延岡に移封される。



1616(元和2)年、大和国(奈良・五條)一万石の大名だった松倉重政が関ヶ原の戦いの功により、島原四万三千石を家康から賜り、有馬氏に代わって「日野枝城」に入城した。

しかし重政は、日野江城は手狭だとし、元和4年(1618年)、有馬の属城があった「森岳」の地に新たに築城を開始する。これが「島原城」である。



画面は、有明海上空より島原市街を眺める。中央左寄りに現在の「島原城」が小さく見える。




春の九州を飛ぶ (3) - 切支丹の里・島原半島

2012-05-01 | 九州


 今、私が眺めている海はその時もこのように碧く光り、砂浜は眼にしみるほど白く拡がり遠くに原城があり、入江はもう少し間近であったから、そこを渡る舟もはっきりと見えただろう。砂浜は生徒の運動場だったからかれらはそこで楽しく遊んだのである。この城のすぐ下に当時の有馬の町があったから、藁ぶきの家臣たちの家は濠でかこまれて、手前にあり、細工師や職人の漁師の家はそれをはさんで左右の地域に拡がっていたにちがいない。加津佐や口之津から来た宣教師がその道を歩いてこの城にのぼってくる。子供たちがそのあとからついてくる。
 
 それらのものはすべて今は存在しない。彼らの子孫さえ、今の北有馬にはいないのである。なぜなら、ここの住民のほとんどはやがて原城での烈しい島原の乱にまきこまれて死んでしまい、後にここに移住させられたのは主として小豆島の農民だったからである。
(遠藤周作著『切支丹の里』より)




ヴァリニャーノは、この地での教育と布教活動の成果を広く知らせるため、有馬、大友、大村の三領主に対して有馬セミナリヨに学んだ少年ら4人のヨーロッパ派遣を進言する。世に言う「天正遣欧少年使節」である。

正使には大友宗麟の親戚である伊藤マンショ、千々石氏の親族で大村氏とも血縁のある千々石ミゲルが選ばれ、副使には波佐見出身の原マルチノと小佐々氏に縁のある中浦ジュリアンが選ばれた。

1582(天正10)年の正月、ヴァリニャーノ率いる少年使節団は、長崎をたった。そして1584(天正12)年7月、ようやくポルトガルのリスボンに上陸した。

この旅において彼らは、キリシタン大名有馬晴信・大友宗麟・大村純忠の名代として、スペイン国王フェリペ2世、さらにローマ教皇グレゴリオ13世への謁見を果たしている。また高い教養と礼節をそなえた彼らは、遙か遠く離れた極東アジアにおける布教活動の成果として訪れたヨーロッパの各地で熱烈な歓迎を受けた。またこの使節団によってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になった。




使節団が再び日本へ帰って来たのは1590(天正18)年である。

皮肉なことに、彼らが出発した5年後の天正15年、九州を平定した豊臣秀吉がキリシタン禁止を打ち出していたのだ。いわゆる「伴天連追放令」である。


彼らが帰国を果たしたとき、キリスト教徒を取り巻く情勢は大きく変化していた。彼らを名代として遣わせた大名のうち、大友宗麟と大村純忠は既に逝去しており、1597(慶長元)年には、長崎の西坂において26人の宣教師が殉教するなど情勢は厳しさを増していった。

彼らは故郷に戻って来てもその能力を生かすことなく、長崎の地に幽閉されてしまう。
伊東マンショは、1612年長崎で死去。 千々石ミゲルは、棄教。 中浦ジュリアンは、1633年、長崎で穴づりによって殉教。 原マルチノは、1629年、追放先のマカオで死去する。



一方、ヴァリニャーノは、当時まだ日本になかったグーテンベルクの活版印刷機を持ち帰り、天草、長崎、加津佐のコレジョではローマ字とポルトガル語の印刷物が刊行されるようになり、布教の促進に役立てられた。