Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (8)

2011-08-28 | 海外


急速に発展するペナン島。

しかしインフラが追い付かず海や河川の汚れは甚だしい。

山林を伐採し、海を埋め立て、いたるところに高層ビルやコンドミニアムが建設され、宅地化が進む。 緑豊かな島は、今や赤茶けた地面があちこちに顔を出す。

開発が進み便利になる一方で、ペナンは文化遺産や自然環境の破壊が確実に進んでいる。

この急速に進展する開発や都市化に伴う環境問題にどう対処していくのか。
「東洋の真珠」と言われて来たペナンの今後が問われている。



The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (7)

2011-08-27 | 海外


日本では観光地として知られているペナン島は、一方で、東南アジアの‘シリコンバレー’とも言われている。優遇税制で呼び寄せた海外資本の工場が並ぶ大工業地帯でもあるのだ。日本をはじめ、アメリカなどからの企業もアジアの拠点をペナン島におく会社も多数ある。

南部の工業団地に進出した企業には、インテル、モトローラ、日立と三菱の合同出資会社ルネサステクノロジなど日米の情報通信関連企業が多い。
デル・コンピュータの製造拠点「APCC(アジア・パシフィック・カスタマー・センター)」もここにある。日本向けのデル製パソコンは、すべてここから出荷されているのだ。


第二ペナンブリッジや高速道路、モノレールなどの計画も進み、マレーシア国内の重要経済拠点として積極的に開発が行われている。


The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (6)

2011-08-25 | 海外


ペナン島は、「東洋の真珠」と呼ばれ、1900年代初めには、サマセット・モームやヘルマン・ヘッセなどの作家や、著名な人々がこの地を自然豊かな慰留地として利用した。
現在もマレーシア随一の観光地である。


近年、世界遺産に登録された市街地ジョージタウンと、島の北部のパトゥ・フェリンギ(Batu Feringhi )、テロック・バハン(Teluk Bahang)、 タンジュン・ブンガ(Tanjung Bungah)などの高級リゾートホテルが立ち並ぶビーチという二つの観光地の側面を持つ。

マレーシア政府によって長期滞在者の優遇措置(MMSHP(マレーシア・マイ・セカンド・ホーム・プロジェクト)という長期ビザ支給の規制緩和など)がとられており、欧米諸国や日本などからの定年退職者が「第二の人生」あるいは「楽園での余生」を楽しむために長期滞在している。

The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (5)

2011-08-18 | 海外


1960年代、ペナンは自由港としての地位を失い、経済は低迷し、町には失業者があふれた。
しかし、1980年代以降、ペナンは東西交易の舞台から工業地帯へと大きな変貌を遂げる。


現在、ペナン島の中心部の地区であるジョージタウンは、マレーシアでは首都クアラ・ルンプールに次ぐ第二の都市となっている。
人口は約40万人。住民は華人(中国系)が多くを占め、マレー系、インド系が加わり共存してきた多民族都市である。

東西貿易の中継地として発展し西洋、中国、イスラム、ヒンドゥー文化が融合した独特の雰囲気をもつ。
街には、建設から200年以上を経た歴史的建造物も多く、入植当時のコロニアル調建物も点在する。


その歴史的街並みは、マラッカとともに、2008年、ユネスコの世界遺産に登録された。




画面の中央に聳える円筒形のビルは「コムター(Komtar)」という地上65階建、複合ビルで、この町のランドマークタワーとなっており、トウモロコシを思わせる形状から「コーンビル(Corn building)」の俗称もある。街を散策する際、位置関係を知る良い目印となった。









The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (4)

2011-08-15 | 海外


1941年12月8日、アジア太平洋戦争の口火を切ったパールハーバーの奇襲と同時に、日本陸軍第25軍先遣兵団がマレー半島コタバルに上陸。12月10日、マレー沖海戦により英国東洋艦隊を撃破、ペナンは、12月11日、日本陸軍航空隊によって攻撃、占領された。

ペナンは、1941年12月から45年8月までの3年8ヶ月、日本の占領下におかれたが、日本の敗戦後、再び12年間に及ぶイギリスによる植民地支配が始まった。



その後1957年、マラヤ連邦の独立とともに、ペナンは、その1州となり、1963年に現在のマレーシアが成立した時、その13州の1州となった。

イギリスの統治が終わった。



The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (3)

2011-08-13 | 海外


しかしながら、 ケダのスルタンが要求した軍事援助等の約束は反故にされたため、ペナン島からの撤退を要求したが、東インド会社、フランシス・ライトはこれを拒否。逆にライトはスルタン側を軍事攻撃し、1791年、ペナン島を割譲させた。



ペナンはインドと中国の貴重な特産品を運ぶ船の乗組員たちの休息地であり、燃料や食料の補給地、船舶の補修地として機能していた。また、マラッカ海峡は、インド、アラブ、ヨーロッパや中国などの商人にとって不可欠な航路であり、海峡の北の出入り口に位置するペナンは商業や文化の中心地となった。

ペナンはイギリスの統治下にあったおよそ1世紀半にわたって、自由港として繁栄した。コショウ、檳榔樹、樟脳、籐の集散地となるとともに、アヘン、スズ取引の中心地ともなった。





The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (2)

2011-08-11 | 海外



ペナン島は、対岸のケダ王国のスルタン(王)が治める領地であった。
北に位置するシャム、ビルマの攻撃を恐れたケダ王国は、イギリスのフランシス・ライトによる提案にこたえ、イギリスがケダ王国に軍事援助することと引き換えにイギリス東インド会社にペナン島を賃貸した。

1786年イギリス皇太子の誕生日前日の8月11日にユニオン・ジャックを掲げ、イギリスの領有を宣言する。それにちなみ、フランシス・ライトはペナン島の名称を「プリンス・オブ・ウェールズ島」と改め、東の岬に形成した最初の町の名前をジョージ3世にちなんでジョージタウンと名づけた。


The Pearl of The Orient - 東洋の真珠 (1)

2011-08-07 | 海外


1786年のこと。


イギリス人船長フランシス・ライトが東南アジアを航海中、名も知らぬ美しい島を発見した。
マレー半島北西部の沖合い、マラッカ海峡に浮かぶ、東西12km、南北24kmほどの小さな島であった。

その島は、緑鮮やかなビンロウ樹(=PINANG)の木々が生い茂っていたので、ペナン(ビンロウジュの島)と呼ばれるようになった。

フランシス・ライトはペナン島にすっかり魅せられ、大英帝国最初の極東貿易拠点とした。






Penang Island, “Pearl of the Orient”, is the modern name of Pulau Pinang in Malay tongue.
It means the “Areca Nut Palm” island. Penang is a part of Malaysia, a state which lies at the northwestern coast and running through the straight of Malacca.

It was first discovered in 1786 by Captain Francis Light.