Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

The Strait of Malacca - マラッカ海峡 (5)

2011-09-27 | 海外



日本の敗戦後、シンガポールは再びイギリスの植民地となるが、1948年から植民地からの解放を訴える民族独立運動が活発になった。

1963年にマラヤ、サバ、サラワクと共にマレーシア連邦を結成し、イギリスより完全独立する。
しかしマハテール首相による「マレー人優遇政策」を採ろうとするマレーシア中央政府と、イギリス植民地時代に流入した華人が人口の大半を占め、マレー人と華人の平等政策を進めようとするシンガポール人民行動党の間で衝突が起きるようになり、両者の関係は悪化。1965年8月9日にマレーシア連邦から追放される形で都市国家として分離独立した。


独立後に首相に就任したリー・クアンユー(李光耀)は、一党独裁体制下での通商都市国家の道を選択する。
職住近接型のジュロン工業団地の整備、教育水準の向上や関税廃止を背景にした外資系企業の積極的な誘致、ハブ空港整備(チャンギ空港)、マナー管理(チューインガム禁止、落書きにはムチ打ち刑、公道上での泥酔禁止、麻薬所持や拳銃の発射は死刑)などの徹底的な管理開発政策を進めた。

その後、シンガポールは、狭い国土や乏しい資源そして多民族といった厳しい条件を抱えつつ、わずか数十年で奇跡的とも言える経済成長を遂げた。









The Strait of Malacca - マラッカ海峡 (4)

2011-09-25 | 海外


ラッフルズが、1819年にシンガポールをジョホール.リアウ王国(現マレーシア)から譲り受けたとき、シンガポールは「ライオンの町」(マレー語の発音スィンガプラは、この地原産のネコの種類名シンガプーラの由来となっている)と呼ばれる、漁民200人ほどが住む島であった。

ラッフルズが上陸してからのこの島の開発発展はめざましく、港や都市が整備され貿易中継地点として急速に発展していく。 労働を求めて中国の広東、福建かから、また当時インドの植民地下におかれていたインド人たちが移民し、多民族国家としてますます繁栄していった。





1941年、太平洋戦争が勃発。日本が参戦を決めると、イギリスのアジアにおける拠点であるシンガポールは日本軍によって攻められ、1942年2月15日、日本軍によって占領されたシンガポールは、「昭南島」と名付けられた。
 
日本軍による軍国主義政策のもと、日本語教育などされ、マレー人、インド人を優遇したため、中国人たちの間で反発が広がっていった。
そのため日本軍は中国人を反日分子として拘束、拷問などを行い中国系住民を殺害し、その犠牲者は、現地では4万人から5万人ともいわれている。







The Strait of Malacca - マラッカ海峡 (3)

2011-09-23 | 海外



東インド会社は、ジャワの経営が赤字であることが明らかになると、再びオランダに返還した。1818年、ラッフルズはスマトラにあったイギリス東インド会社の植民地ベンクレーンに準知事として赴任。

彼の次なる使命は、ジャワの代わりとなる新たな拠点を作ることであった。
ペナン~マラッカにつながる貿易港として、マラッカ海峡の東の入口付近、マレー半島先端にある一群の島を探索していたラッフルズは、当時無名に近い漁村、シンガポール島に目をつけ、すぐにシンガポールへ向かった。

1819年1月29日、シンガポール川の河口付近にある‘カンポン’という小さな集落に上陸した(画像左上の川がシンガポール川。現在この上陸地点にはラッフルズの銅像が立っている)。
彼は、当時この地を支配するジョホール・リアウ王国の後継者争いを巧みに利用し、1819年2月6日、なかば強引に条約を結び、シンガポール島の一部をイギリス領とすることに成功、1824年には英蘭協約を結び、シンガポール全島がイギリスの植民地となった。

ラッフルズは、シンガポールを自由貿易港にすることを宣言し、奴隷貿易の廃止、賭博、阿片の一掃など、理想の港町を目指した。
シンガポールの初代駐在官に、ラッフルズと共に上陸した、ウィリアム・ファークアールを任命し、彼はシンガポールを離れた。


シンガポールを支配下に置いたイギリスは、1826年にペナン、ムラカ、シンガポールの3都市を合わせて海峡植民地とし、1832年にシンガポールは首都となる。




ラッフルズの名は現代のシンガポールでも、道路の名前やラッフルズ・プレイスなどの地名、ホテルの名前などあちこちで見ることができる。









The Strait of Malacca - マラッカ海峡 (2)

2011-09-21 | 海外


ペナン島へ向かう航海中、ラッフルズはマレー語を修得する。また彼は、語学だけではなく、東洋の文化、歴史、美術、宗教、植物、動物などにも関心を示し、仕事のかたわら、東洋研究に没頭した。

マレー語を駆使し、翻訳までこなす彼の書記官補としての仕事ぶりは賞賛され、1807年にはペナン島の書記官となる。


その後、ラッフルズは、1811年、東インド会社のインド総督ミントー卿とともに、東インド会社の窮状を救うため、当時フランスの勢力下にあったジャワ島を占領すべく遠征軍に参加する。その目的はインド~マラッカ海峡~ジャワ海域~中国と、東西交易ルートの覇権を握ることであった。

ジャワ準知事に任命されたラッフルズのジャワ統治は1811~1816年まで、4年半続いた。

このとき、ジャワ島の密林に眠る大乗仏教の石造遺跡「ボロブドゥール」遺跡を発見した。
また東南アジア島嶼部とマレー半島に分布する世界最大の花「ラフレシア・アーノルディ」は、1818年、ラッフルズとアーノルド博士がこの花を発見。二人の名前にちなんで命名された。





The Strait of Malacca - マラッカ海峡 (1)

2011-09-19 | 海外


マラッカ海峡。
そこには植民地時代以来、多くの歴史が刻み込まれている。



1781年7月6日、西インド諸島、ジャマイカ沖を航行中の船上で、男児が生まれた。

名はトーマス・スタンフォード・ラッフルズ(Thomas Stamford Raffles)。


父は船長であったが、家は貧しく、彼が14歳の時、東インド会社ロンドン本社で臨時社員として働くこととなった。彼は、学問への思いが強く、昼は働き、夜はすべての時間を勉強に費やし、独学を続けた。その努力が実り、1805年、ラッフルズ24歳、ペナン島の書記補に抜擢され、東洋へ赴くこととなる。


インドのカルカッタにあったイギリスの東インド会社は、東南アジアの海上交易上重要なマレー半島のマラッカ海峡の北部にあるペナンと、中部にあるマラッカを支配下に置いていた。