Tenkuu Cafe - a view from above

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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

春の九州を飛ぶ (11) - 切支丹の里・島原半島

2012-06-24 | 九州


1991年6月3日午後4時8分。
大火砕流に呑まれ、43人もの命が失われた。

そのほとんどが報道関係者。そして、彼らを見張るために配置された地元の警察官、消防団員、タクシー運転手などであった。

43人がいた場所は「定点」と呼ばれていた。普賢岳の噴火の様子をニュース番組や紙面で大きく取り上げ、激しい取材合戦を繰り広げていたのだ。「定点」は、そのためのいわば前線基地であった。避難勧告地域内であるにも関わらず、警察や消防団の立合いの下で、彼らは取材を続けていた。某テレビ局が民家に無断で侵入し、コンセントの電気を無断で使用する等したため、これを警戒するため一旦後方に下がりながらも再度進出せざるを得なくなった消防団員、警察官が、それぞれ巻き込まれる形で殉職した。

住民の中には、「報道陣さえいなければ、地元の人間は巻き込まれずに済んだ」と話す人もいたという。




画面は島原市深江町。被害をもたらした主たる要因は火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中に「島原大変肥後迷惑」の原因となった眉山(画面右側)の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。








春の九州を飛ぶ (10) - 切支丹の里・島原半島

2012-06-03 | 九州


本日、6月3日は『雲仙普賢岳・祈りの日』である。

あの忘れもしない雲仙普賢岳噴火災害の火砕流惨事から今年で21年目を迎える。



1991(平成3)年の6月3日、雲仙普賢岳の大火砕流災害により、消防団員・警察官・取材中の報道関係者・タクシー運転手・フランス人火山学者が巻き込まれ、死者・行方不明者合わせて43人が犠牲になった。


被災地の島原市では火砕流発生時刻の午後4時8分に市内にサイレンが鳴り響いた。
市の被災者用の住宅地「仁田団地」には献花台が設置され、犠牲となったカメラマンの遺族や行政関係者らが慰霊碑に花をささげ、冥福を祈った。
また雲仙岳災害記念館前では、「噴火災害を知らない子どもたちへ」と災害の伝承と鎮魂のために、6月3日午後6時から「いのりの灯」が開催され、小学生らが手作りのキャンドル約1000本に灯をともした。