1991年6月3日午後4時8分。
大火砕流に呑まれ、43人もの命が失われた。
そのほとんどが報道関係者。そして、彼らを見張るために配置された地元の警察官、消防団員、タクシー運転手などであった。
43人がいた場所は「定点」と呼ばれていた。普賢岳の噴火の様子をニュース番組や紙面で大きく取り上げ、激しい取材合戦を繰り広げていたのだ。「定点」は、そのためのいわば前線基地であった。避難勧告地域内であるにも関わらず、警察や消防団の立合いの下で、彼らは取材を続けていた。某テレビ局が民家に無断で侵入し、コンセントの電気を無断で使用する等したため、これを警戒するため一旦後方に下がりながらも再度進出せざるを得なくなった消防団員、警察官が、それぞれ巻き込まれる形で殉職した。
住民の中には、「報道陣さえいなければ、地元の人間は巻き込まれずに済んだ」と話す人もいたという。
画面は島原市深江町。被害をもたらした主たる要因は火砕流と堆積した火山灰が豪雨により流出する土石流であり、これらが流れ下るコースに当たる水無川および島原市の千本木地区が大きな被害を受けた。また、火山活動中に「島原大変肥後迷惑」の原因となった眉山(画面右側)の山体崩壊が懸念されたが、今回の噴火活動では眉山が火砕流から島原市中心部を守る形となった。