Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

都市を眺める (10) - 東京港

2010-04-27 | 関東

1930(昭和5)年には、鉄道省の依頼で外国向けの観光キャンペーン「Beautiful Japan」の初三郎のポスターは、鉄道省が観光による外貨獲得という当時の国策に沿って、世界に向けて日本を紹介したもので、この後「フジヤマ・ゲイシャガール」として日本の対外イメージの一つとなる。このポスターの強い印象が、欧米での日本のイメージを形作ったと言われる。

初三郎は、日本全国各地を歩き回り、満州・朝鮮・台湾などの外地まで描いている。
しかし、1937(昭和12)年の日中戦争勃発以後、地図が軍事機密であるということで、活動が制限されるようになった。

戦後は広島の原爆の被災者から話を聞き、悲惨さを伝える絵を描いた。その際の二次被曝が晩年の体に影響したという説もある。

初三郎の生涯をたどると、近代日本の商業芸術のパイオニア、そんな人間像が浮かび上がる。当時は美術家から一段低く見られがちだった商業美術の世界で、因習にとらわれず観光振興の波に乗り、次々と新しい試みを打ち出した。

1955(昭和30)年
71歳で死去。

今、初三郎は、京都市山科のJR東海道本線を臨む墓地に眠っている。




都市を眺める (9) - 大阪港

2010-04-24 | 近畿


初三郎の鳥瞰図の特徴は、画風と構図にある。

友禅図案絵師からスタートし、西洋の画法も学んだ彼の鳥瞰図は、浮世絵と西洋画が融合したような、それまでにない独特の近代的な画風であった。

その構図は、横長の画面に中央を細密に描き、左右の端をU字型に曲げ、実際の視界には入らない遠くの景色をパノラマ風に描く独特のものだった。
たとえば、地平線や水平線の彼方に、見えるはずのない遥か遠方の地が描かれていたり、関西の都市図に九州が、あるいは富士の観光図にハワイが描かれたりしているのである。

この極端にデフォルメをほどこされた地図は、「初三郎式鳥瞰図」と呼ばれた。
そしてその作風は、一つの独創芸術ともみなされるようになる。

初三郎は、1600種以上もの数多くの鳥瞰案内図を残したといわれているが、大量の作品を制作するために、京都に「大正名所図絵社」を設立。共同作業による工房制をしき、出版部門を備え大量印刷を図った。
依頼主から依頼を受けると現地を取材し、複数のスケッチを作成、既存の地図などを参考にして、原画を作成、その原画をもとに印刷された鳥瞰図が広く流布した。

つまり初三郎個人はプロデューサー兼デザイナーという存在であったのだ。




都市を眺める (8) - 神戸港

2010-04-20 | 近畿

吉田初三郎は、1884(明治17)年、京都市中京区に生まれた。

幼い頃から絵が好きで、教科書に記された円山応挙が一匹の野猿を描くまでの苦心談に感動し、10歳で友禅図案絵師へ奉公。

日露戦争従軍後、関西美術院で洋画を学び、鹿子木孟郎(かのこぎ・たけしろう)に入門、洋画家を志すが、その後「洋画界のためにポスターや壁画や広告図案を描く大衆画家となれ」との師の勧めにより商業美術家に転じる。
日本中の名所図絵を描くことを決意する。

1913(大正2)年、京阪電車の太田社長の依頼で沿線案内図『京阪電車御案内』を描く。
大阪商船(現三井商船)、別府町などが相次いで鳥瞰図の製作を依頼。別府で亀の井ホテルを創業、“民衆外務大臣”の異名を取る油屋熊八と親交を深める。

1914(大正3)年、『京阪電車御案内』が、学習院普通科の修学旅行で男山八幡宮を訪れた皇太子(のちの昭和天皇)から、「これはきれいでわかりやすい。東京に持ちかえって学友にわかちたい」と賞賛を受けたことから、全国各地の電車沿線図・名所案内・絵葉書・切符・ポスターなど精力的に製作をおこなうようになり、初三郎人気は高まる。

描いた鳥瞰図は1600点以上とされている。





神戸が開港したのは1867年末。

初三郎は、『神戸市交通名所鳥瞰図絵』(1930神戸市電気局)で、六甲山脈を背に東西に延びる神戸市街を瀬戸内海側より描く。
旧外国人居留地付近の建物群、税関、ホテル、倉庫、検査所、メリケン波止場、行き交う船等の情報を克明に記した。



都市を眺める (7) - 金沢八景

2010-04-17 | 関東


浮世絵は、奥行きの乏しい平面的な画法で描かれたものが主流であったが、西洋画の遠近法を取り入れることで、日本独自の風景画が生まれた。
人物画の背景だった風景が、主体性を持ち風景画として独立し、江戸文化の重要な一形式になったのは、葛飾北斎の功績が大きく、そして歌川広重で完成した。

また、鍬形斎や幕末から明治の前半に活躍した五雲亭貞秀らは、主に景勝地を、鳥瞰図法を用いて緻密に描いた。

そして、大正から昭和にかけて、この江戸風景画から学び、乗り越えようとした絵師がいた。

「大正の広重」こと吉田初三郎である。

北斎、広重は、風景画を描く視線を庶民の眼の高さに置いて、庶民生活や旅情をテーマにし、豊かな自然や「名所」を描いた。いわば日常の一こまが対象であり、それを表す視点は“人の眼”の高さだった。

これに対し初三郎は、工業化が進展する大正から昭和にかけて、拡大する鉄道や船舶等の商業資本から依頼を受け、対象になる「観光地」を描いた。
このため、庶民の新たな眼の高さを模索した。この結果、江戸風景画のテーマとは大きく異なり、自然と、鉄道や船舶等の人工物の調和から生みだされる観光地の新たな魅力をテーマにした。

このテーマに基づき“鳥の眼”の高さから眺めながら、広大な地域全体を把握できる独自の図法をあみだした。

吉田初三郎は、北斎から広重で完成した江戸風景画の型を破ったのである。






画面、金沢八景(横浜市金沢区)は、江戸時代、水戸藩主徳川光圀が招いた明の僧・心越禅師が、能見堂(現在の能見台)から見た景色を故郷の瀟湘八景になぞらえて漢詩にして詠み、八景(瀬戸、釜利谷、寺前、州崎、屏風ヶ浦、野島、称名寺等)として「金沢八景」と命名したことが由来となっている。

浮世絵師・歌川広重の『金沢八景』は、彼の代表作の一つであり、その他多くの浮世絵師が名所絵として描いたことで広く知られるようになった。

一帯は風光明媚な入り江が続く景勝地であったが、近年都市開発の余波を受け、湾岸は、ことごとく埋め立てられたため、往事の面影を偲ぶことは難しい。




都市を眺める (6) - 富士山

2010-04-15 | Fuji

“空飛ぶ絵師”こと五雲亭貞秀の『富士山真景全図』は、富士山をほぼ火口の真上から描いた一枚の絵である。
一辺が、約1m。視点を富士山の真上におくという大胆なアングルで描かれており、計算によると600〜700m上空から見た通りらしい。

火口には、もう一枚の紙が折り畳まれていて、引っ張ると立体的に立ち上がる、“起こし絵”、今でいう“飛び出す絵本”になっている。立体に組み立てることを考えて描かれたものなのだ。

また山麓辺りには、もう一枚紙が張ってあり、それをめくると洞窟が表れ、胎内巡りをする人々が描かれている。

この『富士山真景全図』は、富士山信仰の信者のために制作したものといわれる。版画なので数多く刷って、信者に配ったのであろう。

貞秀は、富士登山も実際にしており、嘉永年間に5〜6回登ったことがわかっている。

富士山の頂上から見た眺めが、それ以降の彼の作品に大きく影響することになる。



都市を眺める (5) - 横浜

2010-04-13 | 関東


五雲亭貞秀が、鳥瞰図らしきものを描き始めたのは20歳代のこと、本格的に製作を始めたのは30歳代に入ってからだといわれる。

そして、嘉永6年(1853)には「御江戸図説集覧」という江戸古地図の集成本を出したのが地図の最初という。
その後、日本図、世界図、国絵図などを、さらには、前述のような横浜開港当時の鳥瞰図を多く製作する。
いずれも、絵の美しさとともに優れた景観描写を兼ね備えたもので、当時の地理的情報が満ち溢れているのが特徴である。

このことから、五雲亭貞秀の作品は地理学者からも高い評価を得た。


低空から高空から、真上から、そして果てしない広がりなど、視点の豊富さなどから「空飛ぶ絵師」と称される。

1.8メートルの大作「御開港横浜之全図」、東海道を鳥の目で眺望した全長31メートルにもなる「東海道五十三駅勝景」、視点を富士山の真上におくという大胆なアングルの「富士山真景全図」などが有名。



自らを「大正の広重」と称した鳥瞰図師吉田初三郎は、彼の影響を強く受けて、さまざまな鳥の眼を駆使した絵師となった。



都市を眺める (4) - 横浜

2010-04-12 | 関東


今から150年前の1859(安政6)年7月1日、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスとの修好通商条約により、横浜は開港した。

開港後の横浜には、第一線で活躍する浮世絵師たちが多数訪れ、多くの作品を残した。

なかでも、五雲亭貞秀(ごうんてい・さだひで)は、横浜浮世絵の代表的な作者といわれている。

貞秀は、下総国布佐(現千葉県我孫子市)の生まれで、本名を橋本兼次郎という。
若くして浮世絵師歌川国貞に入門した。玉蘭、玉蘭斎、五雲亭、貞秀などと号した浮世絵師であった。浮世絵師としての五雲亭貞秀は、美人画、武者絵などを数多く残している。

貞秀は、「橋本玉蘭斎」という名の“地図作家”というもう一つの顔を持ち、地理学と地図の知識を駆使した風景画的な鳥撤図を最も得意とした。

それは江戸時代における地図発達と絵画美術とが融合したものであった。
特に幕末、開港した横浜の鳥瞰図と居留する外国人、外国風俗・文物を題材とした浮世絵を多く残している。


都市を眺める (3) - 東京・新宿

2010-04-10 | 関東


斎は、肉筆画、錦絵、版本の挿絵など、さまざまなジャンルにおいて、膨大な作品量を手がけた。

その代表作として、様々な身分の人たちが生き生きと働く様を軽妙に描いた『近世職人尽絵詞』や、人物や動物、草花などを簡略な筆致で描いた絵手本である『略画式』などを挙げることができる。

斎と同時代に活躍した著名な浮世絵師に、葛飾北斎(1760~1849)がいるが、世界的に知られる北斎の代表作『北斎漫画』は、実は斎の『略画式』の影響を受けていると言われている。

斎と北斎。二人はほぼ同時代に活躍した絵師であるが、その作風は対象的だ。
北斎の絵が『富嶽三十六景』に代表されるように、想像性豊かで力強く躍動的であるのに対し、斎の作風の特徴は、軽妙洒脱であるといわれている。

「形によらず精神を写す。形たくまず、略せるを以て略画式と題す」

とその序文の中にもあるように、これこそが斎の略画の本質を言い表していると言ってもいいだろう。

強烈な印象を与える力強い北斎に対し、洗練された軽妙な印象を与える都会的な斎。
北斎が地方の大衆の人気を博したのに対し、斎はおもに都会人に評価された。

「北斎嫌いの斎好き」という言葉があるが、これは斎に対する“江戸っ子”の親近感を
あらわしたものといえる。



都市を眺める (2) - 東京・皇居

2010-04-08 | 関東
“空から江戸を眺めた”絵師は、鍬形斎(くわがたけいさい・1764~1824)という。

最初、北尾政美(きたお まさよし)という画号をもつ浮世絵師として絵筆をとり、黄表紙の挿絵や、武者絵や浮絵などの錦絵を描いた。1794(寛政6)年、31歳の頃に、津山藩松平家のお抱え絵師として召し抱えられ、鍬形斎と名を改める。
狩野惟信に師事し、また円山応挙や菱川師宣などといった伝統画法を広く習得し、独自の画風を開拓していった。

一介の浮世絵師から大名のお抱え絵師へと転身したことは、当時にしてみればまったく異例の出来事であった。


都市を眺める (1) - 東京

2010-04-06 | 関東

上空から見下ろした風景なぞ、航空写真や“グーグルアース”などで、いつでも見たい場所が眺められる現代であるが、江戸時代、あたかも飛行機に乗って撮影したかのように、はるか上空から江戸の都市を俯瞰した絵がある。

『江戸一目図屏風』である。

深川上空辺りから、隅田川、江戸城を西の方角に眺め、遠くには富士山の姿を望んでいる。この作品は、1809(文化6)年、江戸で制作され、津山城内の座敷の襖絵として仕立てられたとされている。
従来の「洛中洛外図」や「江戸名所図屏風」などのような、伝統的な大和絵の俯瞰図法に基づく都市景観図とは異なり、西洋から伝わった一点透視図法を巧みに取り入れ、リアルな視点で江戸の都市を描いているのが特徴である。

合理的な思想に目覚めていった江戸時代後期の人々の精神を反映した、新たなる都市図として位置付けることができる重要な作品である。



“日本一の山” - 富士山

2010-04-04 | 中部


「藤兵衛、この景色を見ろ」
「へい」
藤兵衛はつまらなそうにまわりをみた。
「気のない顔だなあ」
「藤兵衛、一向に驚かぬな」
「見なれておりますんで」
「若いころ、はじめてみたときはおどろいたろう。それともあまり驚かなんだか」
「へい」
藤兵衛は、にが笑いしている。
「だからお前は盗賊になったんだ。血の気の熱いころにこの風景をみて感じぬ人間は、どれほど才があっても、ろくなやつにはなるまい。そこが真人間と泥棒の違いだなあ」
「おっしゃいますねぇ。それなら旦那は、この眺望をみて、なにをお思いになりました」
「日本一の男になりたいと思った」

(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



NHK『龍馬伝』第3話「偽手形の旅」では、江戸での剣術修行を許された龍馬(福山雅治)は、溝渕広之丞(ピエール瀧)と共に土佐を出発する。
龍馬に同行した溝渕広之丞とは、土佐藩御持筒役という西洋流砲術専門家であり、龍馬よりも一年早く佐久間象山に入門していた人物。


一方、司馬遼太郎は、『竜馬がゆく』で、溝渕広之丞の替わりに、元盗人?“寝待ちの藤兵衛”という架空の人物を登場させ、竜馬に同行させるのだ(竜馬の一生涯を陰で支えた一人でもある)。

江戸へ向かう道中、静岡県の日本平から富士山の絶景を眺めながらの二人の会話が冒頭の一節。
竜馬が、生まれて初めて富士山を見て感動する場面である。


伊豆半島、春の雪化粧 - 大室山・伊豆高原

2010-04-03 | 中部

真っ白な雪が、くっきりとその美しい円錐形の姿を際立たせる。

大室山は、「天城富士」の異名をもつ。標高580m。頂上には直径約300mのすり鉢状噴火口もある。

伊豆東部火山群を代表する火山の一つであり、スコリア(軽石を黒くしたような穴だらけの噴石で粘り気が少なく流れやすい溶岩が噴水のように吹き上がって砕けたもの)が降り積もってできたことからスコリア丘と呼ばれている。

大室山は約4千年前に噴火し多量のマグマを噴出した。そのマグマは溶岩流として流れ出し、伊東市南部の広い範囲を台地状に覆った。この台地が現在の「伊豆高原」である。

また、南方に向かった溶岩流は海に達し、現在の「城ヶ崎海岸」をつくった。

そして大室山と伊東市街の間にある美しい円形の湖「一碧湖」も10万年前の激しい噴火で出来た堰止湖である。


1961(昭和36)年の伊豆急行線開通後は、伊豆高原の別荘地や、観光施設の開発が行われた。