Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

琉球弧の島々を飛ぶ (6) - 喜界島

2009-07-31 | 九州
喜界島は,奄美大島の東25kmの洋上に位置する周囲48kmの隆起珊瑚礁の島。
島一面にサトウキビ畑が広がっており、大型精糖工場による分蜜糖や黒糖焼酎が主な産物である。
喜界島にはハブが生息していないため、ハブの棲みかとなりやすいサンゴの石垣が未だに多く残っているといわれている。

喜界島を北限とする大型の蝶で、オオゴマダラ(金色のサナギになる「南の島の貴婦人」と呼ばれる)や、冬期に越冬集団をする習性のあるリュウキュウアサギマダラ、そして日本唯一の渡り蝶であるアサギマダラが、秋に本州から台湾方面へ向け南下するときの最大の中継地となり、数千匹というアサギマダラが羽根を休めて飛び交う姿を見ることができる。島は、まさに“蝶の聖地”なのだ。

小さな島の大半が隆起サンゴからなる平らな地形のため大きな河川がなく、 2,000mm以上の年間降水量がありながら、降った雨は貯水されることなく海へ流出してしまう。
そのため、サンゴ石灰岩の表層部と不透水層の間にコンクリートの止水壁を築造して海に流出する地下水をせき止め、サンゴ石灰岩の空洞等に貯留する「地下ダム」が建設された。

琉球弧の島々を飛ぶ (5) - 奄美大島・大島海峡

2009-07-30 | 九州
  
   何故に陽炎はゆらめいて
   黄泉へと誘う澪標(みおつくし)か   
   遥か紺碧の空と海

   すべてをのみ込むあの蒼さよ
   還らぬ日の想いを胸に抱く季節(とき)
   儚き泡沫(あわ)のような運命(さだめ)のものたちも
   果てしない輪廻(みち)を彷徨えるのなら
   いつもずっとずっと傍にいてあげる

   赤い花弁(はなびら)が落ちる瞬間(とき)
   数多(あまた)の生命(いのち)が誕生(うま)れ逝くの

   幾千の歳月を波が弄ぶ
   麗らかな陽の中で私も風になる
   大空を花が埋め尽くすように
   海をもっともっと抱きしめてあげる
   やがてきっときっと永遠(とわ)は刹那に去って
   だけどずっとずっと此処にいてあげる
   ただ風が吹いている

『ワダツミの木』で衝撃的なデビューを果たし、「100年に一人の歌声」とすら評された、奄美出身の歌姫、
 元ちとせ(はじめちとせ)。

彼女のセカンドアルバム、「ノマド・ソウル」(“遊牧民の魂”、“永遠の旅人”の意)の中に、『いつか風になる日』という歌がある。
この曲を聴く度に、私は、穏やかな「大島海峡」を、船に乗ってゆったりと浪間を進む光景が頭に浮かんでくる。

実は、この曲で唄っている世界観は、奄美に古代から残る”風葬”だという。
“風葬”は、主に太平洋の島々で古くから行われていた葬儀方法の一つで、風葬をした後、骨を洗って追葬をし、死者を弔っていた。
死後も、風になって、自分の大切な人たちや島の自然とともに、ずっとそこにいる。(『千の風になって(Do not stand at my grave and weep)』を思い起こすが...)
沖縄・奄美圏の人々の心の中には、そういう思いが今もあるのかもしれない。


大島海峡は、奄美大島南岸と加計呂麻島に挟まれた穏やかな海峡。海岸線は複雑に入り組んだリアス式海岸で、波静かな入り江は、明治時代から真珠や魚の養殖場として利用されてきた。海水の透明度も高く、色とりどりの魚やサンゴ礁を眺めることもできる。

琉球弧の島々を飛ぶ (4) - 奄美大島・名瀬

2009-07-29 | 九州
1977年9月12日、奄美大島・名瀬市(現奄美市)有屋の借家で事切れているところを発見された。
前日、ひとり暮らしの夕飯の準備をしている時に、心不全で倒れたらしい。床には刻んだ野菜の入ったボールがころがっていた。生涯独身。「一村」の誰にも看取られない最期であった。享年六十九歳。

日本画家「田中一村(いっそん)」。

南の島々の自然に魅せられ、奄美大島に移り住み、大島紬の工場などで働きながら、衣食住を切り詰め、不遇とも言える生活の中で奄美を描き続けた。

84年12月NHK日曜美術館で「黒潮の画譜 異端の画家・田中一村」が全国放送され、大きな反響を呼んだ。 
翌1月、異例の再放送が行なわれた。

2004年1月、横浜・そごう美術館で、初めて彼の作品を、直接、目にする。
生命感あふれる植物や鳥、虫たち…。
迫力ある筆致に心を動かされる。



佐渡島に次いで、日本で2番目に大きな離島・奄美大島に、名瀬市、笠利町、住用村の1市2町が合併して、2006年3月「奄美市」が誕生した。旧名瀬市に市役所を置く県7番目の人口約5万人のまち。
市街地の密集度、本土並みの商業・公共施設が揃い、実質、鹿児島第二の都市とも言える。

琉球弧の島々を飛ぶ (3) - 奄美大島・奄美クレーター

2009-07-28 | 九州
真っ青な海に、弧を描く“クレーター”!!

直径3.2キロ、周囲10キロ。赤尾木湾は、日本で初めて発見された隕石孔として知られる
「奄美クレーター」を形成するなだらかな美しい円形をした湾である。

奄美大島北部、「赤尾木地区」は、細く括れて、南側の太平洋と北側の東シナ海が間近に迫っている。
東シナ海は龍郷町の北の先端「今井崎」と笠利町の西北端の「蒲生崎」から深く切れ込んで「笠利湾」となり、そのいちばん南側の奥まったところである。

昭和45年にラサール高校の教諭等が、赤尾木地区に伝わる「星窪」の由来(「星窪」という地名があり、星が落ちてきたという伝説)から赤尾木湾一帯を現地調査し、その土壌成分からクレーターに間違いないと結論付け、「奄美クレーター」と名付けた。

「赤尾木地区」はまた、大島紬のふるさとでもある。

伝説では昔、赤尾木の地に天から白馬が降り立ち美しい湖ができ、ここから湧き出る水が、絹糸を美しい色に染めたと言い伝えられる。天の川から(天馬)彗星が降下し、土となり、泥染めの染料として、大島紬のやわらかくしっとりとした風合を作り出す独特の染色技法を生みだした…と。


琉球弧の島々を飛ぶ (2) - 口永良部島

2009-07-26 | 九州
屋久島の北西12kmに、面積38km2、周囲50kmの小さな島が紺碧の海に浮かぶ。口永良部(くちのえらぶ)島である。
島の真ん中がくびれていて両端に山があるので瓢箪を水に浮かべたような島である。昔、NHKで「ひょっこりひょうたん島」という人形劇をやっていたが、まさにそんな形をした島である。(「ひょっこりひょうたん島」のモデルとなった島は別にあるらしいが...)写真は、島の西側、つまり屋久島と向かい合っている側から撮影している。
口永良部島は、薩摩火山群島中最大の活火山の島であり、昭和41年に大水蒸気爆発を起こした「新岳」が今も噴気を上げている。
島への唯一の交通手段は、屋久島の宮之浦港から、町営の“フェリー太陽”が、一日一便、約1時間40分で口永良部島の本村港を結んでいる。 
人口は1955年(昭和30)には、1855人であったが、現在は、約150人と人口流出が激しい。主な産業は、黒毛和牛の子牛生産を行っている。牛の頭数は約500頭。人間の数より多い。

平成19年3月、全島が霧島屋久国立公園に編入された。
口永良部島は,世界のオオコウモリ類の生息北限地であり、島に生息する“エラブオオコウモリ”は、国の天然記念物に指定されている。

琉球弧の島々を飛ぶ (1) - 硫黄島(いおうじま)

2009-07-26 | 九州
硫黄島と言えば、先日の“皆既日食”や2006年のアメリカ映画『硫黄島からの手紙』で有名になった、東京都小笠原村に属する硫黄島(いおうとう)を思い浮かべるが、こちらは、鹿児島港から南へ約100kmの海上にある薩摩硫黄島(いおうじま)。

霧島火山帯に沿って噴出した火山の島で、別名「鬼界ヶ島」とも呼ばれ、平安時代末期、平家打倒の陰謀が漏れて捕らえられた高僧・俊寛が流された島だという伝説がある。

島で採れる硫黄は薩摩藩の時代には重要な貿易品で、明治初年に本格的な採掘が始まってから昭和39年に閉山するまで「硫黄の島」として栄えた。
島の東側に聳える硫黄岳(704m)は年中噴煙をあげ、ふもとでは至るところから温泉が湧き出している。


鹿児島から、奄美、沖縄をへて石垣、与那国へと、約1,000㎞以上にわたって、
点々とつながる飛び石のような島々からなるアーチを、「琉球弧」という。


梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (15) - 日本海

2009-07-25 | 中国
石見地方での代表的な色は、「赤と白」とよく言われる。
赤は、「石州瓦」のことで、白は「石見銀」のことである。
そして、夏、空から眺めていて、最も目を惹くのが日本海の「青」であろう。

古代、北ツ海(『出雲国風土記』には、日本海のことを「北ツ海」と書いている)を媒介として朝鮮半島と日本海沿岸は環日本海文化圏を形成していた。とりわけ韓国との繋がりは深いものだった。

大陸からの文化を吸収する玄関口として北九州とならんで重要な拠点であり、特に朝鮮東部から船で日本海に出ると、海流のおかげで漂流した場合でもこの方面に流れ着くといわれている。玄界灘の潮の流れの激しさを考えると、距離は遠いが石見・出雲の方が朝鮮から容易に渡って来れたともいえるのである。

梅雨明け、真夏の陽ざしを映す「日本海ブルー」はその美しさを増す。

梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (14) - 石見(いわみ)・益田市

2009-07-24 | 中国
日本海の青に赤瓦のコントラストが映える。

出雲地方を過ぎる頃、海岸線の漁村集落の屋根が赤い(赤褐色)のに気が付く。
これは、島根県の石見地方(旧 石見国=石州)で生産されている粘土瓦、「石州赤瓦」が使われているとのこと。
三州瓦、淡路瓦と並ぶ日本三大瓦の一つである。

島根県の石見地方で瓦が焼かれるようになったのは、百済からの帰化人の影響と言われている。朝鮮半島に近いという地理的な条件と共に、よい粘土が取れたことで、1600年ごろから、“赤色の瓦”が焼かれた。

江戸時代の初めに石見国で産声をあげた石州瓦は、400年の時をこえて、現在の島根県西部地方~大田市、江津市、浜田市、益田市~にまたがる地場産業として産地を形成している。
石州の粘土は、鉄分が少なく、高温で焼くため、締まって硬く、水を吸いにくく、寒さに強い瓦ができる。又、海岸付近に多い塩害にも強いという。

石見地方を中心に日本海沿岸の市街地や山あいの集落では、赤褐色の石州瓦の家並みが古くから地域性豊かな景観を形成している。

しかし、近年、銀黒瓦などの普及に伴い、赤瓦の使用量は減少しており、石見特有の景観が次第に失われつつある。


天空の「皆既日食ショー」

2009-07-23 | その他
皆既日食の時間帯に合わせ、139名の乗客を乗せたANA2010便(B777-200)は10:07に鹿児島空港を離陸。
鑑賞ポイントとなる種子島の南南東180キロ付近に30分弱で到達。そして43,000フィート(約13,100メートル)の高度で遊覧を開始し、皆既日食の最大食(11時頃)を待つ。

機内の照明が落とされ、11:00少し前から急激に空が暗くなり、機内が真っ暗になった瞬間、傾けた機体の窓から皆既日食が大きく広がった。
そして約6分間(10:58~11:04)の「皆既日食ショー」が展開された。

皆既日食終了直後は、紫がかった空になり、その後すぐに太陽が光り輝き、明るくなった。
遊覧フライトを終えた鹿児島南方上空・遊覧フライト「真昼の夜間飛行号」は、11:55に鹿児島空港に無事着陸した。

この臨時便に搭乗された方々にとっては、一生の思い出となったことでしょう!
(写真は今回の日食のものではありません。「月」です!悪しからず。)

皆既日食が見える島 (2) - 屋久島

2009-07-22 | 九州
こちらも、今回、皆既日食帯に入る「屋久杉」で有名な屋久島。
ユネスコの世界自然遺産に登録されている。
中央部には日本百名山の一つで九州地方最高峰の宮之浦岳 (1,936m) が聳えるほか、他にも数多くの1,000m級の山々を有し、「洋上のアルプス」の呼び名があるが、海からの湿った風がこれらの山にぶつかり、
「屋久島は月のうち、三十五日は雨」( 林芙美子『浮雲』)と表現されるほど大量の降雨をもたらす。
そのためか、なかなか島全体をクリアに写真に収めることができない。

全日本空輸(ANA)は、7月22日の皆既日食の時間帯に、「鹿児島南方上空・遊覧フライト」と銘打ったチャーター便を運航する。日食そのものを観測するのではなく、その時間帯に、空の様子がどう変化するのかを鑑賞する。機外が真っ暗になり、地平線近くが光り輝く幻想的な光景が見られるという。
鹿児島空港に発着し、同県南方の上空を飛ぶ。運航時刻は9時55分発、11時55分着を予定する。上空では地上に比べ天候に左右されることが少ない。ただし太陽が高い位置にあるため、皆既日食そのものを見ることはできない。(旋回する際に、太陽が見えるかも!)
その他、鹿児島空港発着で日食帯への遊覧飛行が予定されているほか、同空域を通過する定期便の航空機が日食時刻に合わせて飛行時間を変えるなど、皆既日食に向けた企画が各所で盛り上がりをみせている。

日本の陸地に限ると、皆既日食が観察できるのは1963年7月21日の北海道東部で見られた皆既日食以来、46年ぶり。
次回の皆既日食は、2035年9月2日の北陸・北関東などで見られるという。


皆既日食が見える島 (1) - 奄美大島

2009-07-21 | 九州
奄美大島上空に、モクモクと湧き上がる積乱雲。

2009年7月22日、日本では、全国で部分日食を観察することができる。
また奄美大島北部、トカラ列島、屋久島、種子島南部など、「皆既日食帯」と呼ばれる細長くのびた地域では、皆既日食を観察することができる。

残念ながら、日本列島は、梅雨前線が停滞し、大雨の災害が各所で起こっており
皆既日食も地上からの観測は危ぶまれている。

天気に左右されない「雲上の観測」については、
沖縄那覇を神戸、羽田へ向けて飛ぶJTA312,ANA432,JTA070の各便、そして福岡、岡山から那覇へ向かうJAL3605,JTA011の各便は、ちょうど皆既日食が起こる時間(10:57頃)に、この皆既日食帯を通過するという。

さて機上(雲上)から見る、今世紀最大の天体ショーはいかに!


梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (13) - 日御碕(ひのみさき)

2009-07-21 | 中国
島根半島の西部、稲佐の浜から「日御碕」へ続く海岸には奇岩や絶壁が連なる。流紋岩から構成される隆起海食台で、周辺には柱状節理や洞穴が見られ海上には小島や岩礁が点在する。

また、日御碕は八束水臣津野命が他の土地を引き寄せた「国引き神話」の場所としても有名。
岬先端には、1903年(明治36年)初点灯の出雲「日御碕燈台」が立つ。海抜63m、灯塔は43.65mと石作りの灯台としては日本一の高さを誇り、白亜の姿が美しい。

目の前に浮かぶ「経島(ふみしま)」は、経巻を積み重ねたような柱状節理の石英角斑岩からなっており、お経の本を載せる文机のようにみえるので、その名が付いたと伝えられている。
島は、「日御碕神社」の神域として一般の立入りは禁止されているが、年に一度8月7日の御幸祭に宮司だけが渡ることができる。

青森県の蕪島とともに日本でただ2カ所の「ウミネコの繁殖地」として知られ、国の天然記念物に指定されている。


梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (12) - 松江市

2009-07-20 | 中国
It is a sound never forgotten,this pattering of geta over the Ohashi
- rapid,merry,musical,like the sound of enormous dance;        (Glimpses of Unfamiliar Japan)

松江大橋は小泉八雲の作品『知られざる日本の面影』にも登場する松江のシンボルの一つである。
小泉八雲ことラフカディオ・ハーン(Lafcadio Hearn))(1850-1904)は、
明治の日本と、日本人の心のありようを、流暢な文章にのせて全世界に紹介した。
『知られざる日本の面影』には、松江周辺の古い面影が書かれている。また、この中に書かれている随筆の中には、この地方で伝承されていた幽霊やお化けの話も収められている。
 
宍道湖の河口に架けられ、全長134メートル、幅12メートル、八雲は松江大橋からみる大山を絶賛している。また、この橋の様子を「どうしても忘れられぬ音だ、このカラカラと大橋を渡る下駄の音は、早くて、陽気で、調子よく、まるで大舞踏会の足音だ」と語っている。(原文-冒頭)


松江市は大橋川より北の地域である「橋北」と南の地域である「橋南」に市街地が二分され、西側(画面右)から、宍道湖大橋、松江大橋、新松江大橋、くにびき大橋が架かっており、大橋川は宍道湖や中海とともに「水の都」とされる松江を象徴する景観である。

梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (11) - 宍道湖・中海

2009-07-19 | 中国
宍道湖(右)には、斐伊川(ヤマタノオロチとの戦いは斐伊川の水害との戦いでもあった)という大河が流れ込んでいる。その水は宍道湖にいったん溜まったのち、松江市を貫流する「大橋川」となって東へ向かい、約8kmで中海に至る。中海(左)の水は境水道を通って日本海へと出る。
満潮時にはこれが逆流して、日本海の塩水が宍道湖にまで入ってくる。そのため宍道湖は汽水となって、「シジミが湧く」ことになる。海に近い中海は、同じ汽水湖でも宍道湖より塩分が濃い。

中海・宍道湖の大規模干拓および淡水化は、『出雲国風土記』の国引きの神話になぞらえて「昭和の国引き」とも言われ、1960年代に事業が開始された。 
しかし、国の減反政策、そして水質汚染や環境破壊を懸念した反対運動が高まり、40年を経て、中海・宍道湖の淡水化を目的とした大規模干拓事業は2000年、完全中止が決定した。

梅雨の晴れ間に山陰海岸を飛ぶ (10) - 皆生海岸

2009-07-18 | 中国
上空から見ると、鋸の刃のような形をした米子市の皆生海岸。
この形状は「トンボロ」といい、約3kmに渡り設けられた12基の離岸堤によってできた地形である。皆生海岸は全国で初めて離岸堤が造成された海岸。
かつては日野川上流の「かんな流し」により、大量の砂が堆積していた。
「たたら製鉄」が衰退し、大正末期から海岸浸食が進行。海岸線は最大で300m後退するほど抉られたが、1971年に最初の離岸堤が完成し、浸食はストップ。トンボロ形状が現れた。
しかし海岸浸食を40年間近く守ってきた防波堤は老朽化が進み、国交省は防波堤から、自然な海岸線ができる「クレスト付型人工リーフ」に改良する工事に着手。
トンボロ形状が見られなくなる日もそう遠くない。