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太平洋沿岸を飛ぶ (49) - 足摺岬

2010-03-17 | 四国


ジョン万次郎の生れ故郷は、土佐の国幡多郡中の浜という漁村である。文政十(丁亥)年の生れということだが、生れた正確な月日はわからない。父親は悦介といい、万次郎九歳のとき亡くなった。母親の名をシオといい、寡婦になってからは万次郎ら兄妹五人のものを、女ひとりの手で養育した。もちろん赤貧洗うがごとき有様で、子供たちに読み書きを仕込む余裕などあろうわけがない。万次郎は働かなければならなかった。十三四歳の時から漁船に乗り、いわゆる「魚はずし」の役を勤めながらその日その日を凌いでいた。他人の持船に雇われていくらかずつの手当をもらうのである。ところが万次郎十五歳の正月五日、いつものように他人の持船に雇われてその年の初漁に出た。宇佐浦徳之丞というものの持船で、乗組は同国高岡郡西浜の漁師養蔵の伜伝蔵(当年三十八歳)その弟重助(二十五歳)伝蔵の伜五右衛門(十五歳)同じく西浜の漁師平六の伜寅右衛門(二十七歳)とともに五人の乗組であった。伝蔵は船頭ならびに楫取りの役。重助、寅右衛門の二人は縄上げの役。五右衛門は櫓押し、万次郎は魚はずしの役。それぞれ役割を分担し、白米三斗とそれに相応するだけの薪水を積込んで、五日の朝十時ごろ、宇佐浦を出帆した。早春の潮に集まって来る鱸を釣る目的であった。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)





太平洋に突き出した足摺岬、その西の付け根あたりに、小さな漁村がある。
「中ノ浜」と言う。

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、1827(文政10)年、漁師の次男としてここで生まれた。
15歳の時、高岡郡宇佐浦の漁師に雇われて出漁、足摺岬沖で遭難、7日間の漂流のち鳥島に漂着、143日に及ぶ無人島生活のすえ、米国の捕鯨船に救助される。