Tenkuu Cafe - a view from above

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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

冬の日本列島を飛ぶ (4) - 丹沢山塊

2012-02-16 | 関東

登山者として最初に丹沢に登ったのは岡野金次郎で、明治24年(1891年)に塔ノ岳に 立っている。

岡野金次郎は明治7年(1874)に横浜で生まれた。
明治35年(1902年)、小島烏水(コジマウスイ・日本山岳会初代会長)とともに、日本人登山家として初めて槍ヶ岳へ登頂を果たした。 その翌年、自分たちより前に槍ヶ岳に登ったイギリス人宣教師で登山家のウォルター・ウェストン(日本アルプスの名付け親)と出会い、日本にも山岳会をつくることを勧められる。 これが日本山岳会の設立につながったという。

晩年平塚に移り住んだ岡野金次郎をたたえ、平塚市の湘南平には彼の記念碑が建てられている。



ちなみに、小島烏水と岡本金次郎は、2009年6月公開された映画『剣岳・点の記』(新田次郎原作)で地図を作るために未踏峰と思われていた剣岳に登った測量官・柴崎芳太郎と剣岳初登頂を争う日本山岳会の登山チームのリーダー(ナカムラトオルとコイチ マンタロウ)として描かれている。

冬の日本列島を飛ぶ (3) - 丹沢山塊

2012-02-11 | 関東


丹沢は大きく東丹沢と西丹沢に分けられる。

東丹沢の代表的な山は、大山(1252m)、鍋割山(1273m)、塔ノ岳(1491m)、丹沢山(1567m)など。山頂からの展望もよく、開放的な眺めで尾根歩きが楽しめることから入山者が多い。

一方、西丹沢(画面)は、ブナの樹林におおわれ、丹沢本来の姿を楽しめる山が多い。
桧洞丸(1601m)、大室山(1588m)、畦ヶ丸(1293m)、菰釣山(1379m)が西丹沢を代表する山である。






冬の日本列島を飛ぶ (2) - 丹沢山塊

2012-02-07 | 関東

丹沢は神奈川北西部に東西約40km、南北約20kmにわたって広がる山群である。
その名の由来にもなったように多くの沢があり起伏に富んだ地形が特徴である。
面積は40,000haにも及び、神奈川県の約6分の1を占めている。

かつて丹沢は南の海のフィリピン海プレートの海底火山として形成された。
約500万年前にフィリピン海プレートの北上に伴って北米プレートと衝突して本州の一部となった。

さらにその後、約100万前に丹沢山地の南側に位置していた伊豆が、後を追うように本州に衝突して激しく隆起した結果、浸食作用を受けて、現在のような丹沢の険しい山々が作られたという。
今でも丹沢の山中では、暖かい南の海にしか生息しないキクメイシサンゴやオウムガイの化石が見つかる。

丹沢には、標高1,000mを越えているものが十数座存在することから、「神奈川の屋根」とも呼ばれている。






冬の日本列島を飛ぶ (1) - 丹沢山塊

2012-02-04 | 関東

神奈川県の西北に位置する丹沢山塊に本格的な冬山シーズンが到来した。

1月末の降雪で、丹沢山系の標高1,200m以上の尾根筋は雪稜に変わり、白銀の世界となっている。


太平洋側気候に支配される丹沢は、冬型の気圧配置が続く限り降雪は望めないが、冬型が崩れ、太平洋岸を前線や低気圧が通過する時には降雪を記録することが多い。






初秋の佐渡を飛ぶ (終)

2011-11-03 | 関東


道中、熱が高く、狭い駕籠の中でゆられながら、ひらひらと自分が蝶に化ったような錯覚をしきりに感じた。平塚の外れの野をゆくとき、菜の花に蝶が舞い、『荘子』にあるように
栩栩然として宙空に点を撃つことを楽しんでいる。荘周(荘子)は夢に胡蝶となり、覚めれば荘周であった。荘周が夢を見て胡蝶になったのか、胡蝶が夢をみて荘周になったのか、大きな流転のなかではどちらが現実であるのかわからない。佐渡の新町の生家の物置の二階で『荘子』を読んだときの驚きが、菜の花畑の中をゆく駕籠の中でよみがえった。

「おれは蝶だぞ」

伊之助は、駕籠から首を出して叫んだ。早くゆけ、もっと揺れろ、ともいった。駕籠かきはおびえながら、すねを高く揚げた。伊之助の体はおもしろいほど揺れ、やがて熱が伊之助の意識をいよいよ宙空に遊ばせた。

戸塚の宿の松原が夕もやにけむるころ、旅籠に着いた。

明治十二年三月十一日であった。 夜、大喀血をし、窒息したのかどうか、旅籠の一隅で誰にも看取られることなく逝った。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)





伊之助、41歳。
胡蝶のように舞い、世を去っていった。








初秋の佐渡を飛ぶ (10)

2011-11-01 | 関東


伊之助は当時すでに「大教授」という職であったが、ドイツ人教師ミュルレルらの帰国とともに免職となった。
その後、愛知県に招聘され、名古屋に移った。

明治9年(1876年)公立医学所(後に愛知医学校、愛知県立医学校と改称、 現・名古屋大学医学部)教授となる。
そのあとしばらく名古屋の市中で開業したが、得た金はすべて花街で蕩尽し、月ごとに借金がかさんだ。

「借金とりがやってくる月末になると、翻訳をやらされた」
と、当時、書生として住みこんでいた後藤新平が、語っている。

後藤は仙台の士族で、明治九年須賀川医学校を卒え、名古屋にきて愛知県立病院の下級医員をつとめつつ伊之助の書生になってドイツ語を学んでいた。

伊之助はすでに肺結核になっていた。江戸期漢方の一書に「多クハ男子四十歳前後ニ至リ淫慾ニ耽ルニヨリテ生」ずるとされた消耗こそ原因だったにちがいない。伊之助は、自分の病気が肺結核であることがわかっていた。安静が大切ということも知っていたはずであるのに、明治十二年の寒いころ、名古屋を発ち、駕籠で熱海にむかった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)



初秋の佐渡を飛ぶ (9)

2011-10-29 | 関東


その後の伊之助の仕事は、教室に出て二人のドイツ人教師のしゃべるのを口写しで通訳することであった。文体は、漢文崩しであった。新語については即座に造語し得たのは、この男の漢文の素養と、医学知識によるものであった。
ミュルレルはすでに五十歳を越えた温厚な人物で、その夫人はフランス人であった。
伊之助と初対面のとき、
「あなたはドイツのどこにおられましたか」
と、きいた。伊之助は日本から一度も離れたことがない、というと、ミュルレルは感嘆して、自分の妻はフランス人である、私と結婚して十一年になるが、あなたのように流暢には話せない、といった。
この時代が数年つづく。
伊之助の三十九年五ヵ月の生涯にとって、ほんの一時期ながら唯一の安定した時期であったろう。
かれの私塾のある練塀小路の春風社も繁盛した。ドイツ語が看板になり、かれの塾頭以下の共同作業で教科書や辞書(和訳独逸辞典)など何種かの本も出版された。
佐渡にのこした許嫁者の春江もよび、明治七年には長女綾がうまれた。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)




新政府は最初はイギリス医学をとりいれ、やがてドイツ医学に転換する。
医学校(東京大学医学部の前身)でドイツ人教師ミュルレル(Müller )とホフマン(Hoffmann)の通訳となった。
東校のドイツ語講義には、まだ和訳されていない用語が次々に現れる。伊之助はそれを聞いて即座に新しい日本語を造語する才能も備えていた。蛋白質(Eiweiss)、窒素(Stickstoff)、十二指腸(Zwölffingerdarm)など、基本的医学用語の多数は伊之助による急造日本語であった。
一方、東京下谷にひらいたドイツ語の私塾「春風社」も大繁盛した。




初秋の佐渡を飛ぶ (8)

2011-10-24 | 関東


伊之助の異能と学殖にまず気づいたのは日本人医師よりも、ウィリスのほうであった。
「あなたは、ヨーロッパの医科大学で正規に医学を学んだのでしょう」
と、接触したその日に、ウィリスはいった。
「私は日本を離れたことはない」と伊之助が答えると、まずその英語が不審です、日本人で英語を解する者はきわめてまれだが、あなたはどこで学びました。ときいた。
「この大気のなかに英語が浮遊しています。それを吸ったにすぎません」
伊之助が大まじめでいうと、ウィリスは頭を振った。自分をからかっていると思ったらしい。
「医学のほうは?」
「長崎のポンぺ医学校で学んだのです」
といった瞬間から、ウィリスのほうの態度がかわった。かれは伊之助を同格の医局員として遇しはじめたのである。

ウィリスは日本の医学を英国式に一変させるべく精力的に準備し始めていた。むろんそれらの仕事にも、伊之助は通訳としてウィリスの片腕になっており、伊之助が怠けて来ない日は、人を練塀小路の春風社に走らせて引っぱり出したりした。伊之助は私塾の春風社でも、医学所でも英語の初歩を教えた。医学が英方になったというので、にわかに英語熱が高まり、春風社へ英語受講を指定してやってくる者が多く、むろん誇張された数字だが、「千人を越えた」といわれたりした。
とたんに伊之助は分限者になった。
かれの日常は多忙で、塾で教え、大病院・医学所でウィリスの通訳をし、日暮れになると、神田明神下や柳橋ヘ行って、芸者をあげた。良順の芸者遊びの癖を、伊之助は過度なかたちで相続したようであった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)






すでに明治になっている。
長崎から横浜へと、洋学の中心地が移り変わろうとしていた。
オランダ語が万能だった時代は終わり、英語、さらにフランス語、ドイツ語が重宝される時代がきていた。
伊之助はどの言葉も話すことができた。時代の波に乗ってゆく。
そして佐藤泰然のすすめもあり、新政府で働くようになった。


英国人医師ウイリアム・ウィリス は1863年に英国総領事館付医官として来日し、1877(明治十)年に帰国するまで、黎明期にあった日本の医療システム構築に多大の功績を残した。明治二年には東大医学部の前身である東京医学校兼大病院の院長に就任したが、一年弱でこの職を退き、のちに鹿児島大学医学部となる鹿児島医学校兼病院で治療の傍ら、忍耐強く臨床重視の医学教育確立と地域医療や公衆衛生の改善に貢献した。









初秋の佐渡を飛ぶ (7)

2011-10-22 | 関東



祖父の伊右衛門が卒中でたおれたという急報をうけた。
伊之助は届を出すとすぐさま駆けた。中山峠を駆けのぼり駆けくだって、ふもとの沢根につくと駕籠をやとった。あとは真野湾ぞいを駆けさせた。
すでに暗かった。
(生きていてほしい)
駕籠のなかで何度も合掌した。この若者に信仰心などあるはずはなかったが、今は駆けすぎてゆく野の石地蔵も祠の氏神もみな祖父のそばにあつまってほしいとおもった。
身がしきりにふるえた。恐怖の一種かもしれない。
(孤児になった)
三十にもなって孤児でもなかったが、祖父がいない自分の人生など考えられもせず、このあとどのように生きてゆけばよいかわからない。
幼いころは祖父に監視されて漢籍を学び、そのあと祖父につれられて江戸へゆき医学修行の道に入った。たまたま勝手に平戸で入婿していたときも祖父がやって来て引き離され、佐渡につれもどされた。

一面では祖父が伊之助を抑圧してきたのだが、伊之助はべつだん反発もおぼえず、自分のしたいことをしたいとは思わなかった。元来、伊之助には本然の願望とか志とかいうものがないのではないか。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)





祖父伊右衛門が亡くなった。
伊之助はすでに30歳になっていたが、孤児になった気分がした。

やがて松本良順の父泰然が横浜にいることを知り、伊之助は再び佐渡を出ることになった。






初秋の佐渡を飛ぶ (6)

2011-10-20 | 関東


初夏の佐渡に上陸したとき、さすがに伊之助の胸が、甘酸っぱい感情でさざなみ立った。下船した小木湊では、すでに日暮だった。
その夜は小木で泊まり、翌朝、官道を新町にむかって歩いた。
途中、風景は多様だった。左手に荒磯が見えるかと思えば、山中に入った。山間の小さな野では、菜ノ花の黄が目に痛かった。伊之助は、涙がこぼれた。

「ふるさとはいいだろう」と、伊右衛門はそういう概念まで押しつけてきた。押しつけられるまでもなく伊之助は一個の詩人になって歩いていた。
一面、佐渡は絶海の孤島だった。
(もはや他郷には出ることがないだろう)
とおもった。この土地で祖父伊右衛門のように老い、父栄助のように死ぬ。江戸も長崎もあるいは平戸も、思いうかべると夢のようで、かつてそこにいたということが、実感としては煙をつかむようでにおいすらよみがえって来ない。

昼すぎに真野湾に面した故郷の新町についた。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







長崎を出た伊之助は、平戸にしばらく滞在する。ポンぺの塾でともに学んだ平戸藩医師・岡口等伝のひとり娘・佳代の婿養子になる。

しかし祖父の伊右衛門は、自慢の孫が平戸に居ついてしまうことを怖れ、佐渡からはるばる伊之助を連れ戻しに来てしまった。
すでに佳代は妊娠していたのだが、伊之助は何も知らされないまま船に乗せられ、結局、妻子を残したまま佐渡に戻ることになった。

再び佐渡へ帰ったものの、伊之助は無為の日々を過ごしている。
開業するも患者は一人も来ない。







初秋の佐渡を飛ぶ (5)

2011-10-17 | 関東



「イノ。 君に仕事を命ずる。いままで私からきいた話を要約してみたまえ」
といったとき、ポンぺは伊之助のまとまったオランダ語をはじめてきいた。十分以上に理解し、見事に要約し、なによりもそのオランダ語が立派だったことに、ポンぺは驚きよりも腹立たしさを覚えた。
(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)






長崎医学伝習所で、伊之助はポンぺの講義を聴いては、たちどころに翻訳し、学生達に教えるという役割を果たし、彼の才能を存分に発揮した。

関寛斎とともに『七新薬』という著書(ポンペの説により7種の新薬をあげて、それぞれの健康作用と医治効用とを論じたもの)を出版するが、これは断りもなくポンぺの書斎に入りこみ、勝手に医学書等を見て作った本であり、ポンぺにすっかり嫌われてしまう。

そしてポンぺに破門された伊之助は長崎を去る。





初秋の佐渡を飛ぶ (4)

2011-10-15 | 関東



「あなたはオランダ語が話せるか」

とポンぺはいった。伊之助が黙っていると、「なぜ返事をしない」といった。
伊之助は生まれてはじめて聞く、ネイティブのオランダ語に魅せられた。ポンぺの喉、口、舌を凝視した後、伊之助はまねをしてみせた。

〈あなたはオランダ語が話せるか。 なぜ返事をしない〉

うまくできた。というよりもポンぺの声そっくりだった。
ポンぺは一瞬、呆然とした。

(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







江戸幕府はペリーの黒船来航後、海軍の必要性を痛感していた。1855(安政2)年、「海軍伝習所」を長崎に設立し、オランダに指導を依頼する。勝海舟、榎本武揚といった人々が育つことになるが、教授陣の中に軍医が入っていた。 ポンペ・ファン・メーデルフォールトである。

松本良順は海軍伝習所に軍医として入り、ポンぺに学ぶ学校づくりに奔走する。全国からポンぺの噂を聞きつけた蘭方医たちも集まって来た。ポンぺに良順が教わり、良順が諸藩の学生たちに教えるという形で、医学校(長崎奉行所西役所医学伝習所)は始まった。1857年12月27日のことである。 ここが日本における近代医学教育の夜明けとなった。(現在、長崎大学医学部の開学記念日とされている)。


しかし学生たちの多くはオランダ語が分からない。ここで異能の人物が活躍することになる。
佐渡でぼんやりとした日々を送っていた伊之助だった。
良順が呼び寄せたのである。

伊之助にとっても、生のオランダ語に接するのは初めてだったが、たちまち理解してしまう。






初秋の佐渡を飛ぶ (3)

2011-10-10 | 関東


「どう思うか」

舜海は、横文字の羅列の中から「医術」をつかみ出してゆくという経験を重ねている。塾生にも、それと同じ経験をさせるというのが討議の趣旨であった。このため、この討議ばかりは、どういう怠け者の塾生でも真剣になった。

ただ、一ヶ所の席だけが、別なふんいきを持っている。伊之助である。伊之助だけがすでにセルシウスの外科書を筆写していて、それをながめているのだが、そこから「医術」をつかみ出そうという気はさほどになく、コトバというものが醸し出している文学的な、あるいは音楽的、もしくは言語学的な興味のほうに没入してしまっていて、自分の手書き本を見つめつつも、他の世界に住んでいる。むろん、討議にも加わらない。(ああいう男がいては、やりにくいな)舜海はおもっているが、口には出さない。他の塾生のほうが、舜海以上に伊之助の存在を迷惑がった。(司馬遼太郎著 『胡蝶の夢』より)







伊之助は、驚異的ともいえる外国語習得力を見せるが、医者としての実技を重んじる順天堂の校風に馴染めず、さらに周囲の対人関係も正常に保てない。

伊之助は、結局、佐渡に帰ることとなった。 江戸行きはうまくいかなかった。







初秋の佐渡を飛ぶ (2)

2011-10-08 | 関東


佐渡という島には大佐渡山脈と小佐渡山脈が並行して走り、その中間が国中とよばれる平野になっている。大佐渡山脈の最高峰が金北山という1,172メートルの峰で、十歳の脚ではさすがにつらかった。登りながらこのときも波の上にこだわり、「佐渡はこれっきりか」と念を押した。
これっきりだ、と質屋をいとなむ伊右衛門は品定めでもするように答えた。伊之助はこのとき肝の冷えるような心細さを何とか噛み殺すために、帰宅してから七言絶句の登高の詩をつくった。四百余州という大きな唐土にうまれても、絶海の孤島にうまれても、人間には変わりがないというのはどういうことか、という奇妙といえば奇妙な詩だった。
(司馬遼太郎著『胡蝶の夢』より)






島倉伊之助(後の司馬凌海)は、1839(天保10)年、佐渡島真野新町に生まれた。

小説の伊之助は、祖父伊右衛門に5歳のときから論語や孟子を学ばされ、わずか十一歳で江戸へ出て幕府の奥御医師松本良順に弟子入りする。しかし奔放な伊之助は、幾度となく問題を起こして、やむなく下総佐倉の順天堂に学ぶ。

佐倉順天堂は藩主堀田正睦の招きを受けた蘭医佐藤泰然(松本良順の実父)が天保14年(1843)に開いた蘭医学の塾。西洋医学による治療と同時に医学教育が行われ、佐藤尚中をはじめ明治医学界をリードする人々を輩出した。