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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (21) - 的矢湾

2010-01-31 | 中部


『二十四の瞳』の作者、壷井 栄(つぼいさかえ)に、『伊勢の的矢の日和山』という作品がある。

「イセのマトヤのヒヨリヤマ」とは、壷井栄が幼い頃から子守歌のように聞いたという祖母の言葉。
船乗りだった夫、勝蔵は船中で急病にかかって亡くなり、その墓が「伊勢の日和山」にある。自分に代わって勝蔵の墓にお参りしてくれと孫たちに頼んだ。後年壺井栄は、的矢の日和山に祖父の勝蔵の墓を探したが見つからず、それからさらに10数年後、再び日和山を訪れ、寺の過去帳を調べたり、船宿の老人に聞いてみたりしたが、ついに墓を探し当てることはできなかった。

家族の強い絆、祖父、祖母への深い愛といつくしみが描かれた作品である。



的矢湾(まとやわん)は三重県志摩半島の東側にある東西10kmほどの細長い湾。

徳川幕府が開かれると、江戸の人口が爆発的に増え、それに伴って米、酒、油、醤油、ミソ、鰹節、木綿等の日用品や金物、瀬戸物、建築資材などを大量に運ぶ必要があった。このため、大阪から江戸への海上輸送が盛んになった。 
大阪から紀伊半島沿岸を廻ってきた船は、志摩半島を出発すると伊豆の下田まで、遠州灘を一気に突っ切る。途中立ち寄る港がないため、リアス式で湾が深く入り込んだ天然の良港である鳥羽湾、的矢湾、英虞湾で食料や飲料水を補給し、天候の回復を待った(日和待ち)。鳥羽、安乗、的矢、浜島は風待港として重要な位置にあり、「志摩の四か津」と言われ港町として栄えた。

こうした回船の船乗りを相手に、身の回りの世話や接待をする遊女が 「ハシリガネ」 と呼ばれてた。ハシリガネは、日和山に登って船の入港を知ると、白粉を化粧して、船乗りが下りてくるのを待った。中には馴染みの船や船乗りがいて、夕方、頭髪を島田マゲに結い、太鼓帯を締めて大風呂敷を抱えて船に出かけたという。


太平洋沿岸を飛ぶ (20) - 伊勢湾

2010-01-28 | 中部

1959年9月26日夜、一つの台風が東海地方を襲った。伊勢湾台風だ。

「1959年9月26日夜、和歌山県潮岬から上陸した台風15号は時速75キロの超スピードで、紀伊半島、近畿、北陸と本州の胴体部をわずか7時間で横断。日本海に抜け、翌27日朝6時には温帯低気圧に変わりながら北海道東部へと去った」

この足早な台風は最大瞬間風速61メートルという猛烈な勢力で堤防を決壊させ、家屋をなぎ倒し、三重・愛知・岐阜の東海3県を中心に死者・行方不明者5098人、負傷者約3万9千人、全・半壊家屋15万棟以上という類を見ない被害を残した。その多くが高潮による犠牲だった。

明治以降最悪の被害を出した台風となった。


伊勢湾は、一般に三重県鳥羽市の答志島と愛知県田原市の伊良湖岬を結んだ線の北側の海域から三河湾を除いた海域で、伊良湖水道を通じて、太平洋と結ばれる。水域面積が日本最大の湾で、三重県、愛知県に面する。
古くは伊勢海(いせのうみ)ともいった。志摩、知多、渥美の3半島に囲まれ、日本海岸の敦賀湾との間が、本州の一番狭くくびれた地域である。


太平洋沿岸を飛ぶ (19) - 伊良湖岬

2010-01-27 | 中部
伊勢の海の清き渚の海に遊び、類無き夕凪夕月夜の風情を身にしめ、物悲しき千鳥の声に和して、遠き代の物語の中に辿り入らんとならば、三河の伊良湖岬に増したる処無かるべし。(柳田國男著『遊海島記』より)



柳田國男が、渥美半島、伊良湖岬(いらござき)の恋路ヶ浜に椰子の実が流れついているのを見て、その話をもとに島崎藤村が「椰子の実」の詩としたエピソードについては、シリーズ「琉球弧の島々を飛ぶ(終)- 与那国島)」ですでにふれた。

では、若き日の柳田を伊良湖岬に誘ったのは何だったのか。

渥美半島に福江という町がある。福江出身の挿し絵画家、宮川春汀(しゅんてい)が東京世田谷に住んでおり、その隣が二葉亭四迷の家だったという。そして近所には柳田國男をはじめ田山花袋など多くの著名人が住んでいて交流をしていた。
春汀は、折にふれては、自分のふるさとの珍しい習俗や美しい風景について、この仲間たちに語っていたらしい。この話を聞いて、柳田はたいそう心を動かされ、伊良湖へ行こうということになったという。

この地で、柳田の関心を惹いたのは、人々の暮らし、そして土地の風俗だった。彼の『遊海島記』には、伊良湖岬の突端から望まれる神島(この島は、三島由紀夫の小説「潮騒」の舞台となった)、知多半島との間に飛び石のように浮かぶ篠島、伊良湖の地形と集落・港の関わり、船の形・航路、漁民の生態・習俗などが、実に正確に記されている。

もし宮川春汀との出逢いがなかったら、柳田が伊良湖へ来て、椰子の実を見つけることもなかったし、柳田が椰子の実から発想した日本民族起源論、つまり日本人の南方説を構築することもなかったのかもしれない。




太平洋沿岸を飛ぶ (18) - 渥美半島

2010-01-26 | 中部

渥美半島は、三河湾を太平洋から隔てるように長く伸び、その幅はおよそ7km、海岸線の総延長は80km以上にも及ぶ。細長い半島の中央部には、標高300m以上の山が8つあり、起伏に富んだ地形となっている。
行政的には、豊橋市、田原市からなる。半島の先端は、伊良湖岬であり伊良湖水道を挟んで三重県の神島、さらには志摩半島と向き合っている。
台地部では、近郊園芸農業が盛んで全国有数の農業地帯となっている。


渥美半島は、古くからサシバの渡りの名所である。毎年秋、東日本や北日本から中国大陸・台湾・フィリピン方面に渡って行く際、サシバの群れが伊良湖岬上空を通る。サシバの渡りは、渥美半島の中央を東西に走る中央構造線がコースの目印となっており、日本列島の中でも渥美のように東西に長く延びる半島は意外なほど少なく、伊良湖は多くの渡り鳥の中継地となっている。

かの柳田國男も、この渡りのことを - 晴れたる日には屡々鷲を見る。熊野の山奥より、信遠の高嶺に往通 ふものは、大抵伊良湖の空を過ぐるなり。山の上にわなを設け、犬などを餌にして之を捕ふることあり。- と『遊海島記』の中で記している。
柳田國男もこの渡りのことを知っていたのだ。


太平洋沿岸を飛ぶ (17) - 浜名湖

2010-01-24 | 中部
浜名湖は、太平洋を臨む日本のほぼ真ん中に位置し、面積約68.8km2(全国第10位)で、海水と淡水の混じりあった汽水湖である。南部は遠州灘に通じているため、一部では「浜名湾」とも呼ばれる。
明治の随筆家、大町桂月は、「浜名湖は湾入多く、ざっと形容すれば、手を広げたるが如し、手首は今切也」の名文を残した。

古名は遠津淡海(とおつあわうみ)と呼ばれており、遠江の語源となったとも言われる。この時代は、(琵琶湖より)遠い淡海つまり淡水湖として認識されていた。

1498(明応7)年に起きた大地震やそれに伴う津波により、浜名湖と海を隔てていた地面の弱い部分(砂提)が決壊し現在のような汽水湖となった。

この時に決壊した場所は今切(いまぎれ)と呼ばれ、その後は、渡し舟に頼るしかなくなった。この渡し舟を「今切の渡し」といい、今切口東側の「舞阪」と西側の「新居」に渡舟場が置かれた。
こうして東海道を分断することになった浜名湖を、徳川家康は、1600(慶長5)年、軍事上の理由から「今切の渡し」の新居側渡舟場に関所を設置、東海道では、箱根とともに、最大級の規模を持っており、江戸に不審者が入らないようにするための、重要な拠点となった。



太平洋沿岸を飛ぶ (16) - 日本平

2010-01-22 | 中部
「日本平」は、静岡県中部、有度山(標高300m)山頂の平坦地で、安倍川によって形成された静岡清水平野が隆起した台地である。南側は急傾斜の海食崖の地形で、有度浜から駿河湾に面し、崖下は「石垣イチゴ」の産地となっている。東側も急斜面で清水港に面する。
富士山、駿河湾、伊豆半島を一望のもとに収める優れた展望台として知られ、1950年(昭和25)日本観光地百選で第1位になり、59年に国の名勝に指定され、また県立自然公園にもなっている。徳川家康ゆかりの久能山東照宮との間はロープ・ウェーで結ばれている。

2007年1月よりTBS系列で放映された、木村拓哉主演の山豊子原作『華麗なる一族』で、阪神特殊製鋼を望む眺望と、将軍様(コイ)のいる池が印象的だった万俵家の庭園は、山頂にある「日本平ホテル」の庭園である。
ドラマの中でキムタク演じる万俵鉄平が思い悩み眺めた神戸の夜景、実は、日本平から清水の港町を望んだものだったのだ(「雲上を飛ぶ-(37)」の画像)。

日本平の地名の由来は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が、東夷征伐のために東国に向かう途中、 敵の包囲軍に火を放たれて危機に陥った時、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)から預かった宝剣で周囲の草を薙ぎ払って攻勢に転じたということから、 日本武尊の名に因んで「日本平」と名付けられたと言われる。このとき用いられた宝剣が有名な「草薙の剣」である。
山頂から北側山麓には「草薙」の地名があり、麓にある草薙神社には日本武尊が祀られている。


太平洋沿岸を飛ぶ (15) - 牧ノ原台地・静岡空港

2010-01-21 | 中部
牧ノ原台地の茶畑の真ん中に出現するのは「静岡空港」。

2009年6月4日、日本で98番目の空港として開港した。建設工事が始まった当初から、様々な議論を巻き起こし、測量ミスによる立ち木撤去問題の責任を取る形で知事が辞任、開港予定日が大幅にずれ込むなど、地元では何かと物議をかもしだしてきた。

滑走路とターミナルビルの真下には、東海道新幹線がトンネルで通過する。
いくつかの空港建設候補地があった中で、最終的に現在地になった理由として、将来、新幹線駅をここに作ることができることが決め手になったと言われている。


今月19日、経営危機に陥っている日本航空が東京地裁に会社更生法の適用を申請した。
そして再生に向けた路線廃止や縮小のあおりで、開港からわずか1年足らずでJALの翼は4月、静岡の空を去ることとなった。


また日本航空の経営危機は、同時に、日本の空港問題の根深さを浮き彫りにした。

静岡空港は、1980年代の空港政策「一県一空港」による「最後の地方空港」といわれている。
一県一空港政策はアメリカからの内需拡大要求が始まりで、日米構造協議での合意がもと。 当時の日本は欧米に比べて人口、国土面積、経済規模を勘案した総滑走路延長指標の値が低かったため、 空港整備をするようアメリカから要請されていた。

日本の航空政策はアメリカに言われるがままに行われてきた。その結果、行き当たりばったりの空港が次々と生まれたのである。


太平洋沿岸を飛ぶ (14) - 牧ノ原台地

2010-01-20 | 中部
静岡県の中西部に分布する牧ノ原台地は、標高およそ、40m~200mの平坦面が北から南へかけて緩く傾斜している。この平坦面は、昔の扇状地面であったと考えられている。現在、大井川は、金谷でその流下方向を東へ向きを変え、駿河湾に注いでいるが、今から、およそ12万年前には金谷付近からそのまま南下し、太平洋に注いでいたことが知られている。

牧之原の茶畑作りは、徳川最後の将軍慶喜が1867年、大政奉還したところから始まる。

慶喜は大政奉還により駿府(今の静岡市)に隠居する。
その際、慶喜の身辺警護を勤める「精鋭隊」(のちの「新番組」)に属する武士たちも同行し、ともに駿府に移り住んだ。
ところが、明治2年(1869)の版籍奉還により、「新番組」は突如その任務を解かれ職を失ってしまうのだ。
鎖国政策から一転開国をした新政府は、外貨獲得の輸出品として、生糸と茶に注目。山岡鉄舟や勝海舟の提言もあって、明治2年(1869)中條景昭(ちゅうじょうかげあき)を隊長とした「新番組」の面々は剣を捨て、牧之原台地における茶畑の開墾を決断した。
それは「武士から農民になる」という一大決心であった。

しかしながら、当時の牧之原台地は地元の農民さえ見向きもしない荒廃地。
何よりも台地における水不足は深刻で、育苗・改植用の水はもとより生活に必要な水にも事欠く状態であった。
しかも、その開墾をおこなうのが農業の素人集団であったため、当初は苦労と失敗の連続であったといいう。

このような厳しい状況の中で、中條たちは粘り強く着々と開拓を進めた。
とりわけ、身分の高い武士から能楽師まで、多種多様な人々を、昨日までの地位身分に関係なく、農耕開拓団として統率していった中条の指導力は特筆すべきものであった。
その後、同じく仕事のなくなった大井川の「川越人足」や地元の農民たちも、広大な牧之原の残された部分に進出して開墾をはじめ、茶園は急速に拡大した。
そして、開墾開始から4年後の明治6年(1873)、ようやく牧之原で初めての茶摘みが行われた。

その後も中條は茶畑の開墾に全精力を注ぎ込む。
途中神奈川県令(知事)にとの誘いがあったものの、「いったん山へ上ったからは、どんなことがあっても山は下りぬ。お茶の木のこやしになるのだ」とまったくとりあわなかったという。
そして明治29年(1896)、後進に後を託し、中條は70歳にしてこの世を去った。

現在、静岡県は全国の緑茶の生産量の約50%を生産する。そしてその中で最も広大な茶畑が広がっているのが牧ノ原の台地である。茶園面積は約五千ヘクタール、日本一の大茶園となった。



太平洋沿岸を飛ぶ (13) - 三保半島・清水港

2010-01-19 | 中部

駿河湾に突き出た三保半島は、安倍川から海へと流された土砂が太平洋の荒波に運ばれ、日本平を削りながら出来た長さ約4km、幅約1kmの砂嘴である。何百年にわたり流された土砂が静岡海岸、さらには清水海岸に幅百メートルを超える砂浜を作り、現在の清水港を囲む三保半島、および三保の松原の砂浜を形成した。

羽衣伝説の舞台でもあり、浜には天女が舞い降りて羽衣をかけたとされる「羽衣の松」と呼ばれる樹齢650年の老松があり、付近の御穂神社には、羽衣の切れ端が保存されている。
平安時代から親しまれている三保半島の南側に広がる景勝地である。
総延長7km、5万4千本の松林が生い茂る海浜と、駿河湾を挟んで望む富士山や伊豆半島の美しい眺めで有名。その美しさから、日本新三景・日本三大松原のひとつとされている。



「羽衣伝説」とは、天から舞い下りた天女が松の枝にかけていた羽衣を通りすがりの漁師が隠したので、天女はやむなくその漁師と結婚するが、のちに羽衣を取り戻して天に帰っていくという話。
こうした羽衣伝説は、中央アジアに原点をもつと思われる「白鳥説話」の一変形らしい。

星野之宣著『宗像教授伝奇考』第1集「白き翼 鉄(くろがね)の星」は、この羽衣伝説・白鳥説話と鉄器文化について描かれている。

白鳥説話の起源は、古代ギリシャのオリオンとプレアデスの神話だという。

プレアデスとは美しい七人の姉妹の名であった。いつも森の中で遊んでいたが、ある日、猟師のオリオンに襲われた。シリウスという犬を連れて迫るオリオンにプレアデス七姉妹は逃げ惑い神々に助けを求めた。
神々は姉妹を鳩に変えて空に逃がしてやった。そして、そのまま天に昇らせて七つの星にした。
その後、七つの星は六つの星になった。それは、姉妹の1人が人間に恋をして姿を隠したとも、彗星になって飛び去ったためとも言われている。オリオン座は今でも残る6人を追って天空を巡っている。

プレアデス(昴)は7つの星が輝いていた。その一つが爆発したとも言われ、いつの頃からか6つに減った。プレアデスの神話は現実の天体現象に基づいている。
「白鳥説話」も「羽衣伝説」も原点は“星の神話”だったのではないかと。

世界最初の鉄器民族であるアーリア人のヒッタイト王国。ヒッタイト人の最初の鉄器は隕鉄から造られたということで、これが星の神話と鉄との結びつきである。

ヒッタイト王国が滅亡しても鉄器文化はオリエント付近から世界の隅々にまで伝わって行った。そしてそれと同時に、ヒッタイト人の星の神話・白鳥伝説も世界各地に広まって行った。
そのルートは白鳥の渡りと重なって白鳥を知らない地域では天女や海女となって「羽衣伝説」として伝えられていく…

「鉄」と「白鳥」との関係は?
白鳥などの渡り鳥が方角を知る手段は地磁気ではないかと考えられる。
鉄鉱石や砂鉄は磁性を帯びていることが多い…
つまり「鉄あるところに白鳥あり!」というわけである。

話がそれてしまった。このへんで!


太平洋沿岸を飛ぶ (12) - 大瀬崎

2010-01-18 | 中部

伊豆半島の北西端、駿河湾に突き出た勾玉のような小さな半島がある。
大瀬崎とかいて「おせざき」と読む。
琵琶島(びわしま)と呼ばれることもある。
大瀬崎は駿河湾の海流で形成された砂嘴で、一年中多くのダイバーが訪れるダイビングスポットであり、富士山の眺望の名所としても有名な岬である。

大瀬崎一帯は、百数十本のヒノキ科のビャクシン(柏槇)におおわれ、樹林を形成している。
ビャクシンの樹林としては日本の最北端で、樹齢千年以上と思われる老木も見られるこの樹林は、全国的に珍しいものとされ、昭和7年7月25日、国の天然記念物に指定されている。

この大瀬崎の先端には“海の守護神”として知られる大瀬明神が祀られている。
この明神の神域に、底知れぬ深さの池がある。海に近く周囲250mの池だが、水は淡水である。海が荒れた日には海水が流れ込むのに、 池の水はあくまで淡水のままらしい。その不思議な現象から人々はこの池を「神池」と呼び、伊豆七不思議の一つにも数えられている。この神池の水がどこから湧出しているのか。ある人は富士山の伏流水といい、またある人は三島明神の池水がここに湧き出てくるとも伝えられる。

その昔、保元の乱(1156年)に破れ伊豆大島に流人の身となった源為朝が、遥か海を渡りこの明神に源家再興を祈願したという 伝説も残る。


太平洋沿岸を飛ぶ (11) - 伊豆大島・三原山

2010-01-17 | 関東


行方不明の日航機「もく星」号は十日朝、伊豆の大島三原山噴口近くで発見された。機体は散乱し、全員三十七名はすでに死体となっていた。この朝、前日にかわる快晴の空を「もく星」号捜索は、日航、航空局、海上保安庁、米空軍協力のもとに未明から行われ、午前八時三十四分、日航捜索機“てんおう星”号は三原山噴火口東側一キロ、高さ二千フィートの地点に横たわる「もく星」号のバラバラの機体を発見した。一方、ほとんど同時に認め米空軍第三救助中隊捜索機五機のうち一機も同じく「もく星」号の機体を認め、医療隊員二名が惨事の現場にパラシュートで降下し、遭難機がマーチン二〇二であることを確認し、生存者が一人もいないことの報告がただちに極東空軍司令部から発表された。消息を絶って以来二十四時間目に発見された「もく星」号は日本の航空史上最大の痛ましい事故を起こしていたのである。(松本清張著『一九五二年日航機「撃墜」事件』より)



「もく星号」は、第二次世界大戦後の日本初の民間航空機として1951年に就航した日本航空のマーチン202型機(機体記号:N93043 “N”は米国籍)の愛称である。
もく星号は日本航空便として運航されていたものの、第二次世界大戦で日本が敗北すると、日本の占領に当たったアメリカ軍やイギリス軍を中心としたGHQによって、官民を問わず全ての日本国籍の航空機の運航が停止されたことを受け、アメリカのノースウエスト航空(現在はデルタ航空に吸収合併)による委託運航を行っていたものである。パイロットをはじめとする運航乗務員や、運航技術、機体など多くは、ノースウエスト航空からの借り物であった。
さらに、航空管制も米軍基地の管理下であり、ジョンソン基地(現、航空自衛隊・入間基地)のコントロールタワーが管制していた。

墜落原因としては、管制官の指示ミスなのか、機長のミスか、あるいは近くを航行中の米軍の訓練機を避けようとして高度を降下したのか…
運輸省は原因追求のためジョンソン基地の管制塔と「もく星号」との交信テープを要求したがアメリカ側は提出を拒否し続けた。墜落原因は特定されないまま捜査は終了した。

サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の空の自主権が回復するのはこの事件の19日後、1952年4月28日のことであった。そして日本人機長の誕生は1954年10月まで待たなければならなかった。



太平洋沿岸を飛ぶ (10) - 伊豆大島

2010-01-15 | 関東
昭和二七年四月九日午前七時三十四分、大阪経由福岡行き羽田空港発のマーチン二〇二型双発「もく星」は乗客三十三名、乗員四名のほか郵便物二一四㌔、燃料一千㌔を積んで出発したが、約二十分後、消息を絶った。日航の羽田発下り便は約三千フィートで千葉県館山上空を旋回、大島ラジオ・ビーコンに乗って高度六千フィートで大島を通過することになっている。げんに「もく星」の機長は館山からは羽田に通信しているが、大島からは通信がなく、以後ビーコンのコースに当たる静岡県浜松上空のチェク・ポイントでも同様である。当日は朝からの風雨で「もく星」はおそらく地上ビーコンの誘導にたよって計器飛行をしていたと思われるが、レーダーの設備はなかった。




1952(昭和27)年4月9日、羽田空港を離陸した大阪経由・福岡行きの日本航空「もく星号」マーチン202型(プロペラ双発機)が館山上空を通過直後に消息を絶った。同機には米国人のスチュアート機長ら乗員・乗客37人が搭乗しており、八幡製鉄社長や漫談家の大辻司郎ら著名人も含まれていた。

海上保安庁、米軍、日航が合同で捜索した結果、翌日の10日朝、米軍機が大島の三原山御神火茶屋付近で飛び散った「もく星号」の残骸を発見した。連絡を受けた救援隊が現場に駆けつけたが、37人全員の死亡を確認する最悪の結果となった。墜落現場は、遺体やハンドバック、靴などが散乱し地獄絵図のようだった。


「もく星」号は戦後初めての民間航空機で半年前の1951年10月、運航を開始したばかりだった。


太平洋沿岸を飛ぶ (9) - 柿田川

2010-01-14 | 中部

蛇行する狩野川に盲腸のように繋がる短い川(画面中央)は、一日約100万トンの水量を誇る東洋一の湧水を水源とする、全長約1.2kmの日本最短の一級河川、柿田川である。

柿田川は四万十川や長良川とともに日本三大清流に名を連ねる清流として知られる。
三島駅(画面上)から徒歩30分ほどという都市部に隣接した場所を流れていることにまず驚く。

柿田川はその大部分を富士山からの湧水に頼っているが、富士山に降った雨や雪が地下に浸透し、長い年月をかけた後、柿田川の上流部分で湧き出している。

柿田川にこれほどの流量がある理由は、富士山南部の山麓が水を通しにくい地層(古富士泥流)の上に、水を通しやすい地層(三島溶岩流)が重なっているためだ。富士山に降った雨や雪は三島溶岩流の中を通って、三島市の辺りで一気に湧いて出るのだ。柿田川の水は、湧き水であるため、水温は年間を通して一定しており、そのため多くの貴重な動植物が柿田川には生息しているという。

ミシマバイカモ(三島梅花藻)はその名の通りこの地域にしか生息しない希少な種だ。この水生植物は、かつては三島市内各地の河川や湧水池などで一般的に見られていたが、湧水の減少や水質汚染の影響で、柿田川以外の場所ではその姿を見られなくなった。また11月下旬から12月初旬にかけては一斉に遡上していくアユは柿田川を語る上で欠かせない存在だ。

環境省が選定した「名水百選」や森林文化協会と朝日新聞社が選定した「21世紀に残したい日本の自然100選」などにも選ばれ、日本有数の貴重な河川としてさまざまな場でその価値が認められている。

今を遡ること40年、田中角栄の“日本列島改造論”による開発や、第1次オイルショックの不況対策で、公共事業費の大盤振る舞いに因る乱開発が柿田川でも跋扈(ばっこ)した。それを見兼ねて、1975年、「柿田川自然保護の会」が発足。漆畑会長らが、自然保護の運動に立ち上がった。以来30数年、柿田川自然保護の会の人達の地道な活動・努力によって、この清流は守られて来た。また“柿田川みどりのトラスト”を立ち上げ、川に隣接する自然林や川中の湿地帯の募金による買い取りや、水源の富士山の植樹や涵養までも行っている。



太平洋沿岸を飛ぶ (8) - 狩野川

2010-01-13 | 中部
狩野川は、その源を伊豆半島の天城山系に発し、太平洋側の川としてはめずらしく南から北に向かって流れる。下田街道に沿って北上した後、大見川、修善寺川等の支流を合流し、田方平野を潤し、更に北に向かって蛇行しながら流路を西北に転じ、来光川、大場川の諸支流を合わせ、狩野川最大の支流である黄瀬川と合流した後に、沼津市街を経て駿河湾に注ぐ。

狩野川の水源地天城連山は雨の多い地域で、古来より幾多の洪水を発生させてきた。
鎌倉時代には、大きな洪水のたびに流路を変えてきた狩野川の流れを、西に迂回させるという「守山の開削」が行われたと伝えられている。

明治時代以降も多くの洪水に襲われてきたが、昭和33年の「狩野川台風」は、この流域にとって最も大きな災害をもたらした。

一方で、柿田川に代表される富士山からの伏流水を合わせた流量の豊富なその水は清流としても知られ、天城湯ヶ島や中伊豆では、ワサビ栽培が盛ん。また、鮎の宝庫で友釣りの発祥地でもある。

太平洋沿岸を飛ぶ (7) - 富士山

2010-01-12 | Fuji
3,776mの富士山頂。ここにレーダーを設置できれば、南方800kmに近づいた台風をキャッチできる。気象庁課長の葛木(芦田伸介)は、台風の被害を少しでも減らすべく、富士山レーダー建設に情熱を燃していた。
大蔵省へ歩を運ぶこと三年、葛木の夢は実を結ぶこととなった。三菱電機技術部員、梅原(裕次郎)もまた技術者の立場から富士山レーダーに情熱をかけ、大成建設の伊石(山努)とともに山頂の気圧や地盤について調査をしていた。
建設予算2億4千万円、三菱電機、大成建設による工事が始まった。
霧の晴れ間を縫って朝吉(勝新太郎)の率いる荷馬車隊が登って行く。七合八勺までくると荷物は馬から強力(ごうりき)にかわって運ばれる。そんな中で辰吉(佐藤充)はブルドーザーを運転した。これは馬にのみ頼ってきた朝吉を驚かせた。マイナス30℃、風速は常に20m/s。酷寒、低気圧の中で梅原らの難作業は続いた。直径9メートル、重量500kgのドームを基礎土台にはめこむ作業は技術陣を緊張させた。
人々が固唾をのんで見守る中を加田(渡哲也)が操縦するヘリコプターがゆっくり下降、ドームは土台と完全に結合した。壮挙は終った。


新田次郎原作『富士山頂』は、富士山頂の測候所に台風観測のための巨大レーダーを建設する様子を描いたもの。作者の新田氏は、気象庁課長として実際にそこの建設に携わっていた。
小説では建設の様子だけでなく、建設に至るまでの大蔵省における予算の復活折衝の様子や大手電機メーカー各社による激しい入札争い・政治家や政府高官を使った圧力など、気象庁職員だった作者の経験に基づくエピソードや、富士山の馬方や強力(ごうりき)が合同して富士山頂までブルドーザーを使った輸送方法を開発する様子などが描かれている。

この小説を元に石原プロが映画を製作、1970年2月に日活系の映画館で封切られた。
「映画は映画館で見るもの」という石原裕次郎氏の遺志もあり、ビデオ化、DVD化されておらず、テレビ放送されたこともなく、「幻の大作」といわれてきた。昨年、石原プロが裕次郎氏の二十三回忌に合わせ、テレビ初放送したのは記憶に新しい。

1999年11月1日、富士山レーダーは気象衛星により台風の接近を観測できるようになったことと、代替レーダーが静岡県の牧之原台地と長野県の車山の2カ所に設置されることによりその役割を終え、運用を終了した。その後富士山頂から本体は解体撤去され、2001年9月に富士吉田市に移設され、富士吉田市立富士山レーダードーム館として公開されている。