Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

春、列島を横断する (7) - 浦戸諸島

2011-04-30 | 東北




「島が守ってくれた」


日本三景の一つである松島が 東北大地震では甚大の被害を受けた他の三陸沿岸地域と比べると津波の被害は少なかった。

松島湾内に点在する島々が緩衝材となり、津波の勢いを弱めたためとみられている。




一方、自然の防波堤となって、松島を守った島々、浦戸諸島は、日本三景松島の湾内に点在する桂島、野々島、寒風沢、朴島の四つの島からなる。

桂島は、塩釜港から市営汽船で約20分。東西に長く、周囲約6・8キロ。人口約250人。ノリやカキの養殖が盛んだ。

のどかな島の風景は今回の地震・大津波で一瞬にして奪われた。島の山は木がなぎ倒され、山肌が露出。海にはノリの養殖に使う網やいかだが幾つも漂う。

1年前のチリ大地震津波の被害を乗り越えて復旧したばかりであった。ノリ養殖施設は全滅。寒風沢島の浮桟橋も流された。


寒風沢島(さぶさわじま)は浦戸諸島の中で最も大きい島で、江戸時代は伊達藩の江戸廻米の港として多くの千石船が来航し繁栄した。
江戸後期、日本人初の世界一周を達成し、確認されている漂流民の中で最も規模の大きい漂流をした人物である津太夫(つだゆう)の出身地でもある。





春、列島を横断する (6) - 松島湾

2011-04-30 | 東北


松島や、ああ松島や、松島や。


大津波は、名勝をも襲った。





日本三景の一つで国の特別名勝・松島がある宮城県松島町は、島々が天然の防波堤代わりとなり、被害を最小限に食い止めたという。
死者・行方不明者こそ少なかったものの、松島の海岸沿いの町並みは、ほとんどが津波の被害を受けた。船が海岸へ乗り上げ、島々を結ぶ橋は津波で跡形もなく消えた。


松島の島々を巡る遊覧船も、航路に船が沈むなどの被害を受け、運航できずにいたが、ゴールデンウイークに向け、がれきの撤去などを進め、昨日、29日午前9時、震災後初めてとなる遊覧船がおよそ40人の観光客を乗せ、松島の観光桟橋を出発した。



遊覧船の再開をきっかけに、観光地としての復活を目指す。






Matsushima is a group of islands in Miyagi Prefecture. There are some 260 tiny islands (shima) covered in pines (matsu) – hence the name – and is ranked as one of the Three Views of Japan.


When the famous haiku poet Matsuo Basho first laid eyes on Matsushima, he is reported to have been so dazzled by the beauty of the scene that the only thing he could utter was

‘Matsushima, ah, Matsushima, ah!, Matsushima’



Despite the proximity of Matsushima to the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami, the area was protected by the islands and suffered little damage.








さらば、ヨーロピアン・エアバス A300 - (4)

2011-04-23 | その他



1991年7月、東京-青森線に投入されたのを皮切りに、主に地方空港の東京線で活躍してきた。



以来、最盛期には22機が在籍したA300-600Rではあったが、昨年秋、JALは更生計画で経営の効率化に向け老朽化した航空機の撤退を掲げ、A300-600R全機退役を発表した。


そんな中、A300-600R(JA8375号機:旧・日本エアシステムが導入したA300-600Rの初号機)は、2011年3月26日、羽田から旭川、高松、鹿児島へと飛び、JL1878鹿児島-東京を最後に引退することが決まった。


3月26日、このJA8375の引退をもってA300-600Rが日本の空から消えることになるはずであった・・・。




ところが3月11日の、東日本大震災発生を受け、東北地方復興・支援のため、27日以降も当面の間、A300-600Rは継続して運航することが決まったのである。
震災の影響で、一部区間が不通となっている東北新幹線など、東北方面の地上交通機関が完全に復旧するまでは、同方面を中心に、引き続き、A300-600Rが活躍するものと思われる。



A300-600Rの就航初便が羽田-青森線であったこと、そして退役延期後も青森へ飛ぶことになったことを思うと不思議な運命を感じずにはおれない ...。










画面は、1980年11月29日に第5回国際航空宇宙ショーが埼玉県入間基地にて開催された際、エアバス社はレインボーカラーのコーポレート塗装に東亜国内航空(TDA)と書いたA300-B2(F-BUAD)で飛来した(羽田空港にて撮影)。

この機体を見て、TDAの社長以下関係者は感激し、このカラーリングがのちのTDAの塗装に決定した事はよく知られた話である。









さらば、ヨーロピアン・エアバス A300 - (3)

2011-04-16 | その他


JAS(日本エアシステム)が、1991年からA300B2/B4の増強用として導入したのがA300-600Rである。

A300-600Rは、A300B2/B4の胴体にA310の開発で培ったグラスコックピットやFBW(フライバイワイヤ)を導入、独自のECAMを装備するなど最新技術を投入し、大型機では初めてツーマン・クルー化を果たすなど最新の設計を行った機体である。さらに低燃費エンジンと尾翼燃料タンクの装備、また主翼にウィングチップフェンスを装着し、航続距離を伸ばした。
また、A300譲りの優れた離着陸性能を生かし、地方空港の短い滑走路でも運用できるオールラウンド機として世界各地で活躍している。

国内幹線に就航する一方で地方路線の機材大型化も担い、北は女満別から南は那覇まで日本中に翼を広げた。近距離の国際線機材としても、中国路線を中心に活躍を見せた。
フリートは旧JASでも最大規模となる22機を誇った。


2002年にJALとJASの経営統合が決まり、本機種はそのままJALのフリートに合流する形となった。

JALのフリートでは同クラスとなるB767-300よりも貨物搭載量が大きいこともから、羽田発着の地方路線には欠かせない存在だった。


しかしながらJALの経営再建に伴う機材整理により、2010年度で全機退役することが決まっていた。


さらば、ヨーロピアン・エアバス A300 - (2)

2011-04-10 | その他


A300は、エアバスインダストリー(Airbus S.A.S:欧州連合の内の4カ国の国際協同会社)が、初めて開発した旅客機で、世界初のワイドボディ双発機である。

ヨーロッパ内の路線をターゲットにして開発されたため、航続距離は短いが、経済性・信頼性は非常に高い。

同じく300人乗りのB767に比べ、A300は胴体の直径が大きいため床下には、世界標準のLD-3コンテナを2列搭載できる(B767は、1列しか積めない)。


1981年、TDA(東亜国内航空)が初めてのワイドボディ機として導入し、日本で初めてのヨーロッパ製ジェット機となった。運航乗務員3人の短距離用のB2型、中距離用のB4型であった。

今となっては懐かしい“レインボーカラー”の塗装は、A300導入時にエアバスから譲り受けたため、「エアバスレインボー」と呼ばれた。


TDAは、このA300を使用し、国内幹線進出を果たした。1981年、導入間もなく、私も“ヨーロピアン・クイーン”とよばれる日本初のヨーロッパ製のジェット機に搭乗したのを思い出す。




機体の社名は、TDAからJAS(日本エアシステム)、そしてJALジャパンへと変わっていった。



さらば、ヨーロピアン・エアバス A300 - (1)

2011-04-09 | その他



JALのジャンボが退役してから、早、一ヶ月が過ぎた。
赤い尾翼のジャンボがいない空港は、やはり、どこかさびしい。



ところで、3月26日、派手なセレモニーが行われたジャンボの引退の蔭に隠れ、ひっそりと退役するはずのジェット機がもう1機種あった。

JALのエアバスA300である。


ところが、退役するはずであったA300が、ある事情で、今も飛び続けている。




JALは、26日の羽田-鹿児島便で引退する予定だったエアバスA300-600Rの引退を延期し、青森、秋田などを中心に飛ばすことで、大震災による被災地周辺を含めた輸送力増強を図ることにしたのだ。


春隣、列島を横断する - (5)

2011-04-03 | 関東


神奈川県の西部、足柄平野のほぼ中央部を流れる酒匂川は、古くから、洪水が頻発する“暴れ川”として知られてきた。

1707年(宝永4年)、富士山の大噴火(宝永噴火)で酒匂川の川底が埋まり、1711年には大決壊し、足柄平野の人家・水田を押し流してしまった。

小田原藩主、大久保氏は、自力復興は不可能とし、この領地を幕府に返還した。

そこで幕府は当時南町奉行として名高かった大岡越前守に酒匂川を復興するように命じた。越前守は、この大任を川崎宿の名主・問屋役の田中休隅(たなか・きゅうぐ)に頼んだ。当地の代官・蓑笠之助の義父にも当たる。


丘隅は1726(享保11)2月、工事にかかる。
大口橋の北に200mの岩流瀬堤(西堤)をつくり、水流をローム層の赤岩に打ちつけ流れを弱めたあと、大口堤(東堤)180mをつくり、流れを東方に誘導した。この年の5月には完成した。

昔、中国の禹という国の皇帝は、黄河の洪水に悩まされ、一生をかけて治水工事に尽力した。皇帝は、功績を称えられ「文命」という称号を得た。丘偶はこの伝説から大口堤を「文命堤」と名づけた。

丘偶は工事現場に僧を呼んで読経させ、築堤用の蛇籠には石とともに経文一巻ずつを入れさせたという。
丘隅は堤の完成に当たり、「今後、堤に来るときは、必ず石を一個ずつ持ち、堤には木を植えるように」とさとしているが、その心は今も生きている。

この堤で救われた開成町には、町立文命中学校の名も残っている。