Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

関東の空を飛ぶ (24) - 真鶴半島

2009-10-30 | 関東

神奈川県南西端、箱根火山の南東縁から約3kmにわたって相模灘に突き出た小半島が真鶴半島である。
真鶴の名は、この半島がツルの羽を広げた形に似ていることに由来するという。

かつて箱根火山(古期外輪山)から吹き出た溶岩が山麓から海へと流れ出た美しい自然の造形である。

半島先端は断崖をなし、それから続く海中には半島と同質の奇岩が点在し、うち大きな三つは「三つ石」とよばれる。
真鶴岬と三浦半島南端沖に浮かぶ城ヶ島を結ぶ線より北側の海域が相模湾となっている。

真鶴半島先端部の森林は、「お林」と親しみを込めて呼ばれ、古くから沿岸漁業の魚つき保安林として大切に守られてきた。

この森林は、もともと萱原だった岬に、今から約350年前の江戸時代(1672年ごろ)に幕府の命により松苗約15万本が植林されたのが由来とのことで、小田原藩領時代、明治維新以降戦後までの皇室御料林の時代を通じて、一般の立入りや伐採が厳しく制限されたため、自然林に近い状態が今日まで残されたといわれる。

現在は、針葉樹のクロマツの高木や、クスノキ、スダジイ、タブノキなど暖帯性常緑広葉樹林に覆われ、学術上の価値が高い。全域が真鶴半島県立自然公園に指定され、スダジイの極相林の保護にはとくに注意が払われている。

真鶴は、古くから上質の石材とされる小松石の産地でもある。

1853年ペリー来航に脅威を覚えた幕府が、江戸品川沖に急きょ11個所の砲台の建設を始めた時、そこに使用された大量の石材が、真鶴周辺を中心とした石材であった。
 
小松石の名は真鶴町旧岩村の小松山に由来している。
真鶴の石は鎌倉時代から広く使われていたが石材の産地として有名になったのは徳川家康が幕府を開いた頃。船による石材の江戸への運搬もこの頃盛んに行われた。

小松石は箱根火山噴出の溶岩。緻密で耐火性が強く、良く磨き上げると青黒い光沢が美しく高級な石として墓石、建築材、庭石、モニュメント工芸製品として幅広く利用されている。

関東の空を飛ぶ (23) - 七里ヶ浜・稲村ヶ崎

2009-10-29 | 関東

 真白き富士の嶺 緑の江ノ島
 仰ぎ見るも 今は涙
 帰らぬ十二の 雄雄しき御霊に
 捧げまつる 胸と心

 ボートは沈みぬ 千尋の海原
 風も波も 小さき腕に
 力も尽き果て 呼ぶ名は父母
 恨みは深し 七里ヶ浜




1910(明治43)年1月23日、神奈川県の逗子開成中学のボート部の生徒等12人の乗ったボートが遭難。
七里ヶ浜で全員溺死。遺体捜索には5日もかかったという。
この事件は社会的事件として新聞で大々的に扱われた。

そのなかで、中学5年生の徳田勝治と、逗子小学校高等科2年生の徳田武三の遺体が発見される。
彼等の遺体は、兄は前から弟を抱きしめ、弟は兄の首にしがみついた姿で収容され、2人を引き離すのに苦労したという(稲村ヶ崎の遭難碑の上には、徳田兄弟が抱き合うブロンズ像が立つ)。

この悲報に接した姉妹校・鎌倉高女の三角教諭が作詞した『真白き富士の根』を、三角自身がオルガンを弾き、鎌倉高女生が合唱した。別名『七里ヶ浜の哀歌』といわれる(原曲は明治23年「明治唄歌」)。
三角教諭は、後に、常盤松女学校(現・トキワ松学園)を創立した女性運動家の三角錫子(すずこ)のことである。

関東の空を飛ぶ (22) - 小網代の森

2009-10-28 | 関東
三浦半島油壺湾の北、小網代(こあじろ)湾をつつむように広がる「小網代の森」。
湾の周辺には干潟が広がり、湿地にはアシが茂り、さらに森が広がり1900種の生物が共存していると言われている。

真夏の大潮の夜、ここを舞台にアカテガニの集団が一斉に産卵(放仔)を行う。

月明かりの下で行われるその神秘的な光景を支える70ヘクタールほどの小さな森は、幾度となく市街化のために消滅の危機に瀕してきた。現在、行政や市民団体などが保全活動を進めているが、いまだ課題が横たわる。

長さ約1.2キロの「浦の川」が森の真ん中を流れ、源流から河口に向かって“森林、湿地、干潟、海”へと続く。
1本の川を軸に森と干潟と海とがひとつになった「完結した集水域の生態系」が存在しているのは、関東ではここだけという。

三浦市で市街化にむけた開発が次々と進められた1980年代。
小網代の森にもゴルフ場を建設したり、鉄道を延長する計画(京急・三浦海岸 - 油壺間4.3km)などが浮上した。

しかし、豊かな生態系を守ろうとする地元の自然保全団体などが森の保全を全国に訴えた。
94年、三浦市は開発の断念を発表し、翌95年には当時の長洲一二神奈川県元知事が小網代地域72ヘクタールを保存し、開発は残りのエリアで行うようにと三浦市に提示し、市も保全対策検討会を設けた。97年には県が環境基本計画に「小網代の森の保全の推進」を盛り込み、県による土地の買い入れが始まった。

京急は小網代の森の約半分の緑地を所有していたが、そのうち約60%は県が買い取り、約5%を寄付。残りの約35%の大部分は 「かながわトラストみどり財団」と緑地保存契約を締結している。

すべての生物にとっての宝物である「小網代の森」をどう守り続けるか、今、我々人間の英知が問われている。


関東の空を飛ぶ (21) - 城ヶ島

2009-10-26 | 関東


雨は降る降る 城ヶ島の磯に
利休鼠の 雨が降る
雨は真珠か 夜明の霧か
それとも私の 忍び泣き

舟は行く行く 通り矢のはなを
濡れて帆あげた 主の舟

ええ 舟は櫓でやる
櫓は唄でやる
唄は船頭さんの 心意気

雨は降る降る ひは薄曇る
舟は行く行く 帆がかすむ




大正2年5月、白秋は、家族とともに東京から神奈川県三浦三崎に移り新居を構えた。
ときに白秋27才の春であった。

「桐の花事件」による挫折、傷心から再起をはかるには、三崎の地が白秋の心を深くとらえたのだ。
それは、白秋が人妻である松下俊子と恋愛関係に陥ったことに始まる。
白秋の行為は厳しく非難され、後に拘留されるに至る。
また同じ頃、生家の造り酒屋が破産し、白秋は神経をすり減らし、途方に暮れた。

三崎移住時には死を決意した白秋ではあったが、時が過ぎるにつれ、三浦半島の美しい風物が心を癒し、再度、創作に挑む決心が固まりつつあった。

「城ヶ島の雨」は舟唄として作詞し、これに梁田貞が曲をつけたもの。
住んでいた家の対岸に城ヶ島があり、白秋はそこから見える風景を元に詩を書いた。

白秋には、この三崎滞在期は、生涯で最も充実した創作期となり、「城ヶ島の雨」の他、「真珠抄」「白金之独楽」「雲母集」などの歌集を刊行している。

大正3年3月、三浦半島を離れた白秋は、小笠原諸島に向かい、以後、千葉県葛飾、神奈川県小田原など点々と転居を繰り返すことになる。

しかし、白秋は自らが再生した三崎を晩年まで懐かしんだという。


関東の空を飛ぶ (20) - 三浦ダイコン

2009-10-23 | 関東

三浦半島の農耕地の土壌は、ほとんど洪積火山灰土壌から成っている。

温暖な気象に恵まれ、特に南部の海岸地域には年平均気温16゜Cの無霜地域もあり海洋性気候を呈している。
主要作物は冬作のダイコン、キャベツ及び夏作のスイカ、メロン、カボチャであり、冬期の温暖な気象や優れた土壌等に恵まれダイコン、キャベツは全国的にも有数の大産地となっている。

ダイコンは寛永年間から栽培されていたことが『相模風土記』に記録されている。
大正14年から東京市場に出荷されて「三浦ダイコン」の名が付けられた。この三浦ダイコンは在来「高円坊系」に「練馬」を交配したものが基本で、三浦特産の冬ダイコンとして長年にわたって名声を維持してきた。

重さ2.5~3kgになる長大で中太り型の冬どり大根で、首から尻まで真っ白、やわらかくみずみずしい。面取りしなくても煮崩れせず、煮るほどに味がしみ込むのが、三浦大根の最大の特長だ。煮物やふろふき、ぶり大根、おでんにすると、じつにおいしい。根が長く、すべて土中に伸びるため、抜き取り作業が大変なことや、煮物文化の衰退によって、栽培も店頭販売も大幅に減少した。

昭和54年に大型20号台風が三浦地域を襲い、三浦ダイコンが大きな被害を受けたのを契機に、「青首ダイコン」が三浦のダイコンの座を取って替るようになった。甘みと小振りなサイズが消費者ニーズに合い、現在は 99%が青首ダイコンになっている。

関東の空を飛ぶ (19) - 江奈湾・毘沙門海岸

2009-10-22 | 関東
三浦半島で最も美しい景観を見せるのは半島南端部の海岸線である。

江奈湾の西、毘沙門海岸あたりから、宮川湾、そして江戸期から絶景の地といわれた八景原付近までの海岸線にかけて、直角に近いほど鋭く切り立った絶壁が海に向かって続き、その真下には、さまざまな姿をした岩礁が、台地状に広がっている。

こうした海蝕風景が続くなかに、ひときわその奇景が目立つのは、“盗人狩”。
歩く人の頭上に覆いかぶさるような巨岩が、その下をえぐられて海に突き出て、足元の岩に波がぶつかっては砕け散って渦を巻き、荒々しい音をたてている。

その昔、盗賊のひとりが追われてこの絶壁の上まで逃れてきた。しかし、崖の下からは異様な物音が聞こえ、ふと下を見ると、吸い込まれるような絶壁と、逆巻く激浪がぶつかり合っている。そのあまりにも恐ろしい光景のために、足がすくんで動けなくなった盗賊は、たちまち追っ手に捕らわれたという。

関東の空を飛ぶ (18) - 剱崎

2009-10-21 | 関東
三浦半島東南端に位置する岬、「剱崎」。(画面左)

周辺は岩礁が発達し、対岸に房総半島を望む風光明媚な地である。

剱崎と対岸の房総半島南西端にある洲崎とを結ぶ線が浦賀水道(東京湾)の南限、そして伊豆大島とを結ぶ線は相模灘の東限となっている。

東京湾に出入りする航路における要所であり、剱埼灯台が造られ、現在も使用されている。
1866年、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの4ヶ国と結んだ江戸条約によって江戸幕府が建設を約束した8ヶ所の灯台(条約灯台)の一つで、設計は「灯台の父」と呼ばれるお雇い外国人リチャード・ブラントンが担当した。当初は石造であったが、現在使用されている灯台は、関東大震災の後にコンクリート造で再建された。

この沖合いで、江戸幕府に納める材木を積んだ船が嵐で海底に沈んだ際、神主が剣を海に投げ竜神に祈ったところ風波が静まって材木が浮かび上がってきたことから「剱崎」と呼ばれるようになったと伝えられている。


剱崎の北(右側)、間口漁港で水揚げされるサバは、「松輪サバ」と呼ばれ、大分県の「関サバ」と並び称される。
8月中旬から11月にかけてが旬で、この時期は、腹部が金色に輝き、美味しくなるので「黄金サバ」とも称され、最高級食材として料亭などで珍重されている

松輪サバ漁は、江戸時代からの伝統である「1本釣り漁法」を守り、東京湾沿岸域をゆったりと回遊しているサバを、1本づつ大切に釣り上げる。


関東の空を飛ぶ (17) - 三浦海岸

2009-10-20 | 関東

相模国(神奈川県)の三浦半島は、まことに小さい。
この半島からみれば、ともに東京湾をかかえる東の房総半島(千葉県)などは、大陸のようにみえる。またともどもに相模湾をかかえる西の伊豆半島(静岡県)からみても、はるかに小さい。
この半島から十二世紀末、それまでの日本史を、鉄の槌とたがねでもって叩き割ったような鎌倉幕府が出現するのである…
(司馬遼太郎著『街道をゆく・三浦半島記』)


三浦半島は、太平洋に向けて突き出し、東京湾と相模湾とを分ける。横浜市磯子区の南西にある円海山から藤沢市片瀬にいたる線が北限となる。半島東端の観音崎は東京湾の南限であり、浦賀水道を隔てて東の房総半島とともに東京湾を囲む。

三浦海岸は、三浦半島南東部にある海岸で、浦賀水道に面する金田湾を囲み、横須賀市野比から三浦市南下浦金田まで約10kmにわたって緩やかな弧を描く海岸である。

砂浜が弓なりに続く関東有数の海水浴場となっており、遠浅の浜なので、シーズン中は家族連れをはじめ多くの海水浴客で賑わう。


関東の空を飛ぶ (16) - 富津岬 ・ 第一海堡

2009-10-19 | 関東

三浦半島観音崎から浦賀水道を約7km隔てた対岸にある「富津(ふっつ)岬」。

長さ約5kmにわたって鳥のくちばし状に延びた砂嘴で、東京湾を内湾と外湾に分ける。小糸川から流れ出た土砂や磯根岬からの砂が潮流で堆積して砂嘴を前進させた。

幕末に老中松平定信が外国船の来航に備えて富津岬に砲台を築き、明治時代に入ると一帯は、海軍の軍用地となり、要塞地帯として東京湾防衛のため、沖合に第一~第三海堡(かいほう)がつくられた。

かつて東京湾上空から東京を目掛けて飛来したB29爆撃機に向けた高射砲があった場所である。

戦後は千葉県に払い下げられて千葉県立富津公園となっている。


関東の空を飛ぶ (15) - “三浦岬”

2009-10-18 | 関東
あなたを思い出す この店に来るたび
坂を上(のぼ)ってきょうも ひとり来てしまった
山手のドルフィンは 静かなレストラン
晴れた午後には 遠く三浦岬もみえる
ソーダ水の中を 貨物船がとおる
小さなアワも 恋のように消えていった

あのとき目の前で 思い切り泣けたら
今頃二人ここで うみを見ていたはず
窓にほほをよせて カモメを追いかける
そんなあなたが 今も見える テーブルごしに
紙ナプキンには インクがにじむから
忘れないでって やっと書いた 遠いあの日
(荒井由実作詞・作曲『海を見ていた午後』)



1974年10月にリリースされた、荒井由実のセカンドアルバム「MISSLIM」(ミスリム)の4曲目、『 海を見ていた午後』という曲がある。

恋人との思い出が溢れる丘の上のレストラン、1人で海を眺める女性。
青い海を映すソーダ水の中を貨物船がいきかう。
いつもと変わらぬ風景と変わってしまった2人の関係。

歌詞からも、メロディからもその情景がパースペクティブをもって連想される名曲である。

“晴れた午後には遠く「三浦岬」も見える・・・”と歌われているが、実際は「三浦岬」という岬はなく、それは「観音崎」だという。しかし「観音崎」では響きが悪いので「三浦岬」に変えたそうだ。


観音崎は、三浦半島東端に位置し、東京湾(浦賀水道)に面する。対岸の房総半島富津岬までは約7kmである。江戸時代には江戸防衛、及び船舶通航上重要な位置を占めていたので幕府はここに台場を設けて大筒5問を置いて船行する船を監視していた。

付近は県立観音崎公園として整備され、観音埼灯台が立地するほか、当時の砲台と弾薬庫跡も多く残る。

当時は横浜・山手(実際の住所は根岸旭台)にあるレストラン「ドルフィン」には多くのユーミンファンが訪れたという。


関東の空を飛ぶ (14) - 浦賀・観音崎

2009-10-16 | 関東


異国船さわぎはここ五、六十年来何度かあるが、こんどのように軍艦が四隻もやってきたのは、はじめてである。
しかも蒸気のかまを装備して自力で推進できるし、船腹は鉄板でつつみ、砲はそれぞれ二十門も積んでいる。もし四隻八十門の砲が火を噴けば、海岸の諸藩の警備隊などはこっぱみじんにくだかれるだろう。
「ペリーという大将はずいぶん悪(あく)たれた男で、浦賀の奉行をおどしあげているそうだ。幕府の役人どもは、震え上がっているらしい」
と、武市はいった。聞く者は幕府の不甲斐なさに悲憤し、
「大公儀は、腰が抜けたか」
歯がみした。
「黒船の異人を残らずたたっ斬ってやればよい」
と叫ぶ者もあった。
幕末の天地を風雲につつんだ攘夷論は、このときに始まっているといっていい。
・・・・・・・・
竜馬はちょっと思案して、
「本音を吐きますとな、黒船を捕まえにゆくといったのは、あれは景気付けの法螺ですよ。
わしは、日本中が怖がっている黒船というのがどんなものか、見物に行くだけのことです」
・・・・・・・・
足の続く限り浦賀街道を南にむかって駈けた。
六浦で夜が上け、昼は山中で寝た。浦賀についたのは、翌々日の未明である。
浦賀水道を見下ろす小原台によじのぼって日の出を待った。
やがて、夜が明けた。
濃紺の海に巨大な軍艦が四隻浮かんでいる。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)

関東の空を飛ぶ (13) - 野島崎

2009-10-15 | 関東
房総半島の最南端、
太平洋に向かって突き出た岬、野島崎。

古くは房総半島と離れた島であり「野島」と呼ばれたが、1703年(元禄16年)の元禄大地震で隆起し、地続きとなった。

岬に立つ灯台は、野島崎灯台で、明治2年(1869年)にフランス人技師、F・L・ヴェルニーによって設計、建設された。当初は、白色八角形のレンガ造灯台であったが、関東大震災によって一度倒壊し、大正14年(1925年)に再建され現在に至る。

この灯台は、幕末の1866年(慶応2)5月に、アメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つである。
これらを「条約灯台」とも呼び、日本で最初に建設された一群の洋式灯台(野島埼灯台、樫野崎、潮岬、佐多岬、剣崎など)でもある。これらが順次建設され、 観音崎灯台に続いて、日本で2番目に初点灯した。

野島崎沖は太平洋から東京湾に入る重要な航路で船舶の往来が多い。


関東の空を飛ぶ (12) - 牛久沼

2009-10-14 | 関東

旅立つ白鳥は沼を中心に、茅屋の上空を二度、三度と旋回する。旋回するうちに向うべき方(かた)がきまるのであろうか、やがてくうくう、くくう…とうたいながら、なきながら、列をととのえて北の空に消えてゆく。別離の哀愁と、再開の期待を胸にひめ、ほっと溜息をつくのは、暫く間ををおいてからだ。それまでの私は、ただ漠然と立っている…。
前の年の十二月から、あくる年の三月まで…。それは白鳥にとって長い滞在だったのか、それとも束の間の宿りだったのか、私には謎だ。けれども白鳥に寄せる私の思念(おもい)は同じ地球に生命を保つものとして、当然、彼らにも通じていよう。恐らく白鳥たちは、牛久沼に静けさがもどってきたら…と、その日を待ちかねているにちがいない。
(住井すゑ著『牛久沼のほとり』より)

茨城県南部、龍ケ崎市の北西部にある沼。周囲25キロメートル。市の鳥である白鳥が毎冬約40羽近く飛来する。

作家、住井すゑは、生涯、文学を通して、解放、生命の尊厳、反戦平和を訴え続けた。住井は33歳より95歳(平成9年)で逝去するまでの62年余、夫、犬田卯の出身地、牛久沼のほとりを作家活動の場とし、代表作の『夜あけ朝あけ』、『橋のない川』、『牛久沼のほとり』などを執筆した。

関東の空を飛ぶ (11) - 筑波山

2009-10-13 | 関東


「筑波山を日本百名山の一つに選んだことに不満な人があるかもしれない。高さ千米にも足りない、こんな通俗的な山を挙げるくらいなら、他にもっと適当な名山がいくらでもあるではないかと。しかし私があえてこの山を推す理由の第一は、その歴史の古いことである」(深田久弥著『日本百名山』より)


百名山で標高1,000mを切る山は、筑波山(標高877m)と開聞岳(標高922m 薩摩富士)のみである。
そして百名山に選んだ理由として、その「歴史の古さ」と「展望のよさ」を挙げる。

万葉の歌人に「筑波嶺の峰より落つるみなの川、恋ぞつもりて淵となりぬる」と歌わせた山であり
南に「雪の富士」、北に「紫の筑波」は、関東の二名山であって、吟咏の対象であったのみならず、江戸の街から地平線を望む場合、広重はたいてい、西方なら富士山、北や北東なら筑波山を、大写しにして画面に描き込むなど、江戸に配する好画題でもあった。



 昔、祖先の大神が、諸国を旅したときのこと、駿河の国で日が暮れてしまった。そこで富士の神に宿を請ふと、「今日は新嘗祭のために家中が物忌をしてゐるところですので」と断られた。次に、筑波の山で宿を請ふと、筑波の神は、「今宵は新嘗祭だが、敢へてお断りも出来ますまい。」と答へ、よくもてなした。これ以来、富士の山は、いつも雪に覆はれて登ることのできぬ山となった。一方、筑波の山は、神のもとに人が集ひ、歌や踊りで、神とともに宴する人々の絶えることは無いといふ。坂東の諸国の男女は、春に秋に、神に供へる食物を携へてこの山に集ひ、歌垣を楽しんだといふ。(『常陸国風土記』)


関東の空を飛ぶ (10) - つくば市

2009-10-12 | 関東
都心から約60km、茨城県南部に位置する、つくば市、「筑波研究学園都市」。
北に筑波山を擁し、東に霞ヶ浦をひかえる。

東京とその周辺から、試験研究・教育機関を計画的に移転することにより、
東京の過密を緩和するため、国家プロジェクトとして建設された計画都市である。

市の東部に南北に広がる「研究学園地区」と、その周囲にある「周辺開発地区」に分けられる。
2004年、首都圏新都市鉄道つくばエクスプレス(TX)の開通により東京(秋葉原)と50分で結ばれ、駅を中心にニュータウンが形成されている。

約300に及ぶ研究機関・企業と約1万3千人の研究者(博士号取得者は約5千600人)を擁する世界有数の学術・研究都市といわれる。