尾瀬沼は標高が1665mと尾瀬ヶ原より高く、11月から4月まで雪だけの世界となる。雪は3m以上積もり、4月末に尾瀬沼畔の一部の山小屋が小屋明けする頃でも例年3mの雪があるという。
明治から昭和にかけ、日本が戦時体制になった時、尾瀬ケ原の水の出口をダムせき止め、尾瀬全体を一大貯水池として水力発電所を作ろうとする計画が生まれた。計画としては壮大なもので、高さ100mのダムを造れば、大貯水池(長さ6km幅2km深さ100m)ができる事になる。
東京電力は、有力な発電所として計画をしたが、一人の男の力により、この計画はつぶされる。
それが、現在も長蔵小屋にその名を残す「平野長蔵」という男である。平野長蔵は、当時誰も注目していなかった尾瀬が、すばらしい景観を持っている事に気づき、山案内人として山岳登山の案内や、冬山登山の案内をしつつ、尾瀬沼の一角に山小屋を建て、尾瀬に入山する人たちをもてなした。
明治から昭和にかけ、日本が戦時体制になった時、尾瀬ケ原の水の出口をダムせき止め、尾瀬全体を一大貯水池として水力発電所を作ろうとする計画が生まれた。計画としては壮大なもので、高さ100mのダムを造れば、大貯水池(長さ6km幅2km深さ100m)ができる事になる。
東京電力は、有力な発電所として計画をしたが、一人の男の力により、この計画はつぶされる。
それが、現在も長蔵小屋にその名を残す「平野長蔵」という男である。平野長蔵は、当時誰も注目していなかった尾瀬が、すばらしい景観を持っている事に気づき、山案内人として山岳登山の案内や、冬山登山の案内をしつつ、尾瀬沼の一角に山小屋を建て、尾瀬に入山する人たちをもてなした。