Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

沈黙の銀世界 - 尾瀬(2)

2009-03-25 | 関東
尾瀬沼は標高が1665mと尾瀬ヶ原より高く、11月から4月まで雪だけの世界となる。雪は3m以上積もり、4月末に尾瀬沼畔の一部の山小屋が小屋明けする頃でも例年3mの雪があるという。
明治から昭和にかけ、日本が戦時体制になった時、尾瀬ケ原の水の出口をダムせき止め、尾瀬全体を一大貯水池として水力発電所を作ろうとする計画が生まれた。計画としては壮大なもので、高さ100mのダムを造れば、大貯水池(長さ6km幅2km深さ100m)ができる事になる。
東京電力は、有力な発電所として計画をしたが、一人の男の力により、この計画はつぶされる。
それが、現在も長蔵小屋にその名を残す「平野長蔵」という男である。平野長蔵は、当時誰も注目していなかった尾瀬が、すばらしい景観を持っている事に気づき、山案内人として山岳登山の案内や、冬山登山の案内をしつつ、尾瀬沼の一角に山小屋を建て、尾瀬に入山する人たちをもてなした。

沈黙の銀世界 - 尾瀬(1)

2009-03-22 | 関東
雪で閉ざされた尾瀬国立公園を上空から見渡した。夏のシーズン中は大勢のハイカーでにぎわう尾瀬ケ原の木道や湿原は深い雪の下。雄大な至仏山のふところで人影の無い尾瀬ヶ原の光景は、時間が止まっているかのようだ。 この時期、尾瀬周辺の積雪は約1.5m。例年(2m前後)と比べると少なめだが、国内有数の豪雪地帯。ひっそりとした、人けのない尾瀬。植物達は、じっと雪の下で春の訪れを待っている。静寂とともに、もうしばらく尾瀬の冬は続く。

コシヒカリ育む山々- 越後三山

2009-03-19 | 関東
越後駒ヶ岳・2,003m、中ノ岳・2,085m、八海山・1,778mは、「越後三山」または「魚沼三山」と呼ばれ、豪雪地帯の魚沼地方に聳える北国・新潟を代表する山々である。古くから修験道の聖地として拓かれ、特に八海山はその中枢となってきた。冬の間、降り積もる雪は、春になっても多く残り、山から流れる雪解け水の恵みによって魚沼の平野は潤う。この水が全国にその名を知られる「魚沼コシヒカリ」を育んでいるのだ。
荒沢岳は、標高1,969m、「越後の穂高」の異名を持つ、深い谷と荒々しい岩峰を持つ山。2,000m未満の山とは思えないその迫力ある姿は多くの岳人を魅了してきた。越後三山只見国定公園に指定されている。

直江兼続、生誕の地 - 南魚沼市

2009-03-15 | 関東
南魚沼市は、新潟県の南部。南東の越後三山・三国山脈、北西の魚沼丘陵に挟まれ 中央に信濃川の支流、魚野川の流れる魚沼盆地に位置する。冬には最高積雪深が2mから3mにもなる日本有数の豪雪地帯である。
北国と関東を結ぶ要衝の地でもあり、さまざまな情報と物流が行き交う中継地としての役割を果たしてきた。
また、南魚沼市(旧六日町)は、米沢藩初代藩主の上杉景勝並びに重臣である直江兼続の生誕の地(上田の庄)としても知られている。
当時の武士たちは田畑を持ち、ふだんは農業に従事しており、兼続も田畑の仕事の手伝いをしたのではないかと考えられている。後年に領民である農民を慈しみ大切にするという兼続の政治の礎は、雲洞庵の北高禅師や通天和尚の教えとともに育まれ、「愛」の思想として兼続の心の中で確かなものとなる。

水との戦いの歴史 - 木曽三川

2009-03-13 | 中部
濃尾平野に流れる大河川、木曽川、長良川、揖斐川。流域の人々はこれらを一筋の川と同様に考え、「木曽三川・きそさんせん」と呼んで親しんできた。
木曽三川の歴史は、災害との長い闘いの繰り返しでもあった。
昭和34年の伊勢湾台風では、いたるところで堤防が破壊され、濃尾平野の0メートル地帯は、またたく間に泥海となり、未曾有の災害をもたらした。
戦国時代までは、木曽三川の流路は網の目のように流れ、上流に降った雨は、地形的特性から濃尾平野の西側に集まり、気象特性から、「四刻八刻十二刻」と言い伝えられているように揖斐、長良、木曽の順に時間を追って洪水が襲うことから、一番低い揖斐川筋では長時間の洪水に苦しめられ、集落単位の洪水防御としての「輪中」が発達し独特な輪中文化が生まれた。輪中では自己のを洪水から守り、内水についても自己の輪中内で処置する伝統があり、それは時として、水をめぐる輪中同士での流血の騒ぎになることもあったという。

干ばつ半島 - 知多半島

2009-03-11 | 中部
知多半島は、愛知県名古屋市南部、伊勢湾に突出する南北に細長い半島。長さ40km、幅5~14km。伊勢湾と三河湾を分ける。
知多半島では、大きな河川がなく、田畑で使う水を川から取ることができなかった。水不足は深刻で人々は井戸やため池をつくって渇水に備えていた。しかし、1947年(昭和22年)は日照りが長く続き、ため池の水が無くなってしまい、作物が枯れるなど大きな被害がでた。水に困った知多半島の人々は、「木曽川から水が引けたら・・・」との夢があり、1947年の大干ばつをきっかけに、この夢を実現させようと久野庄太郎、濱島辰雄らが立ち上がり、国家事業として愛知用水をつくるよう働きかけ、世紀の大事業といわれた愛知用水の第一歩を踏み出した。そして1961年ついに、この「夢の用水」、愛知用水が完成した。

遠淡海 (とおつおおみ) - 浜名湖

2009-03-09 | 中部
浜松市の西端に位置する浜名湖は、南は遠州灘に通じる、淡水と海水が混ざった"汽水湖"である。大きさは日本で10番目。細江湖、猪鼻湖、松見ヶ浦、庄内湖と4つの枝湾(水域)を持つ複雑な形の周囲長は114kmで、日本で3番目の長さである。
約1万年前、浜名湖は誕生し、その後、約1800年前に淡水湖として、明応7年まで存在していたと言われている。
平安の時代には、京の都に近い琵琶湖を「近淡海」と呼び、都から離れた浜名湖を「遠淡海」(とおつおおみ)と呼ばれ、当時から交流があったことが窺われる。1498年大地震により、今の今切口の部分が埋没し、太平洋とつながり塩水が入り込み、汽水湖に変わった。その後、1510年、暴風雨により今切口が広がり、現在の浜名湖のすがたになったと言われている。
汽水は幼稚魚の成育に大変適していて、ウナギ、カキ、ノリ、スッポンなどの養殖が盛んで、特に養殖ウナギは有名。

東西文化の境界 - 大井川下流域・島田市

2009-03-07 | 中部
『箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川』
静岡県中部、大井川の両岸に位置する島田市は、江戸時代には、東海道島田宿の宿場町として盛えた。市内を流れる大井川は、江戸の防衛上の理由から架橋を禁止されたため、人足による川越制度が敷かれた。
明治維新によって川越制度が崩壊。この当時、徳川将軍慶喜は駿府で謹慎、家臣の多くが町にあふれた。勝海舟、山岡鉄舟の計らいで、大井川西の台地「牧の原」の開拓を行い茶の栽培をして今日の牧の原茶産地の礎を作った。
駿河国と遠江国の境界線である大井川沿いに位置するため、自然地理的にも人文地理的にも、島田市が東西の境界線となっており、島田市から西と東では地形地質も食文化も大きく異なっている。
現在、市南部と牧之原市との境で、富士山静岡空港が建設中(画面右下)である。2009年6月開港予定。国内6路線1日10往復、海外2路線週18往復が決定している。