Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

“Te Papa” の空を飛ぶ (1) - フェアウェル岬

2010-08-31 | 海外



国鳥 “キウィの嘴”!

そう呼ばれるフェアウェル・スピット(Farewell Spit)。

ここは、ニュージーランド南島の北端部。

スピット(spit)とは、日本語で砂州または砂嘴のことで、沿岸の海流によって運ばれた砂や礫が半島や岬から海に向かって堆積し、細長く突き出るように形成された地形のこと。

フェアウェル・スピットの長さは、約30km。
日本の「天橋立」が3.3kmなので、その10倍近い長さになる。

砂洲の付け根の部分は、フェアウェル岬と呼ばれる。

これらの地名は、1770年にキャプテン・クックが、ニュージーランドを去る際に、
“フェアウェル(さらば)”と言ったことから名づけられたという。



この夏、南半球の国・ニュージーランドの空を飛んだ。





It looks remarkably like a kiwi's beak!

“Farewell Spit” is located at the very top of the South Island of New Zealand.
New Zealand's longest sandspit system extends eastward in the Tasman Sea forapproximately 30 km.

Cape Farewell and Farewell Spit were both named after an episode of Captain James Cook who said “Farewell” to the land when he left New Zealand in 1770.


五島列島を飛ぶ (12) - 野崎島

2010-08-16 | 九州



与助は、フランス人神父から、リブ・ヴオールト天井をかける方法や幾何学を学び、また、さまざまな教会建築の技術を身につけた。

与助は建築技術の指導者として神父達に終生深い敬愛の念を持ち続けていた。
神父たちに接すれば接するほど、その人格に惹かれて行った。それは同時に、カトリックへの熱き思いであった。

しかし、与助は、敬虔な「仏教徒」だったのである。

若き与助は、悩み、カトリック入信に傾いたこともあった。
「先祖代々の信仰を、自分の代で改宗しては、ご先祖様に申し訳ない」と
ようやくのこと踏みとどまった。
入信を勧めた神父も、「信仰は個人の自由の問題だ。残念だがやむをえない」と言って以後その話をすることがなかったという。

カトリック教徒の中には、
「聖なる天主堂の建設に仏教徒の力を借りることなど、もってのほかである」
と与助の参加をかたくなに拒む信者が少なからずいた。

しかし、与助の人柄と仕事ぶりを目の当たりにしたとき、与助に冷ややかだった彼らの目の色は徐々に移ろいをみせていった。
「鉄川でなければ、天主堂は建てきらん」ということばがささやかれるようになってきた。



天主堂建築に生涯を捧げた男、
鉄川与助は、1976(昭和51)年7月5日、97歳でその生涯を閉じた。
多くの有能な神父との出会いを大事にしながらも、自らは信徒となることはなく、終生仏教徒を通した。

与助の墓は、生まれ故郷である新魚目町丸尾郷の山腹に、神父達の故国、遥かな西欧を望むように建っている。




五島列島を飛ぶ (11) - 福江島

2010-08-09 | 九州



「本当に今残っておったら世界遺産だったはずです。悔やまれてならんと、ほんとうに。あれは二十世紀の十字架です。人間の愚かさを教えてくれるものだった。キリスト教を信じとる国が、同じカトリックの信者のおる浦上の真上に原爆を落とした。まるで作り話のような物語性をもった世界遺産になったとではないですか」
(高瀬毅著『ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」』より)



今日、8月9日、被爆地・長崎は、65回目の「原爆の日」を迎えた。
爆心地に近い長崎市松山町の平和公園では、長崎原爆犠牲者を慰霊する平和祈念式典が開かれ、被爆者や遺族ら約6000人が参列。原爆投下時刻の午前11時2分、1分間黙祷し、原爆死没者の冥福を祈った。米政府代表が広島市の平和式典には出席したものの、長崎市の式典には欠席した。





旧・浦上天主堂は、明治28年、フランス人、テオドール・フレノ( Fr. Pierre-Thèodore Fraineau)神父(1847-1911)が天主堂を計画し、着工した。

鉄川与助は、天主堂のシンボルとなる「双塔(南北2つの鐘楼)」を手掛け、大正14年5月に完成した。
完成した浦上天主堂は、当時「東洋一」の規模を誇った。

しかしながら、旧浦上村の260年間の弾圧に耐え、実に31年という歳月をかけて完成したにもかかわらず、完成からわずか20年あまりで、原爆によって一瞬のうちに天主堂は崩壊した。
天主堂の北ドーム(鐘楼)は爆風で40mほど吹き飛ばされたが、無傷のまま川に落下しその流れをせき止めた。

「おれの造ったドームがそう簡単に壊れるものか」与作は苦笑いを浮かべて言ったという。

被爆から13年間、天主堂は廃墟の姿で放置されたが、1958(昭和33)年に解体、撤去される。そして翌年9月27日に鉄川工務店(鉄川与助創立)により、鉄骨鉄筋コンクリート構造の現・教会が完成し、同年11月に献堂された。



ところで、なぜ「広島・原爆ドーム」は保存され、一方、長崎・浦上天主堂の遺構は取り壊されてしまったのか。

戦後、この教会を保存して被爆体験を次代に伝えるか、それとも新しい教会として改修するか論議された。当初は天主堂保存の意向を示していた市長が、合衆国視察旅行後突然撤去へ方針転換する。残っていれば原爆ドームと並んで被爆のシンボルになりえた浦上天主堂の廃墟はなぜ残らなかったのか。
高瀬毅著『ナガサキ―消えたもう一つの「原爆ドーム」』は、この謎をたいへん興味深く描いている。

話がだいぶそれてしまった・・・。



五島列島を飛ぶ (10) - 福江島

2010-08-06 | 九州

与助は、29歳の時に日本建築学会の準会員となる。
西洋建築に携わる者にとって、中央から離れた田舎に暮らすことは不利に思えた。
建築学会の機関誌を購読し、また東京で建築学会主催の講習会が開催されるときは、五島から何日もかけて上京した。誰よりも早く会場に姿を見せる彼は、受付係に顔を覚えられるほどだったという。


当初は木造建築を手掛けていた彼が、次に取り組んだのは「レンガ造り」の天主堂、野崎島・野首天主堂。その集大成ともいうべき教会が、田平教会だった。

そして「二層屋根」の上五島・青砂ヶ浦天主堂など、与助は次々と精力的に天主堂造りに取り組む。

福江島に楠原天主堂を建てたころになると、彼の名は長崎や福岡までも知られるようになっていた。
大正二年、与助は長崎へ渡り、そこに仕事の拠点を構える。

長崎で出遭ったのが、ド・ロ神父(Marc De Rotz)である。

ド・ロ神父は、1868(明治元)年、フランスよりプティジャン神父とともに来日し、印刷、医療、福祉、土木、建築など幅広い技術を、長崎・外海の人々に教え、「ド・ロさま」と呼ばれ親しまれた神父であるが、彼の建築に対する深い知識は与助に大きな影響を与えることになる。

1915(大正4)年、長崎・大浦天主堂の司祭館を建設するときは、神父が設計し、与助が図面を引き、施工した。

神父は、与助を「てつ、てつ」と呼び、亡くなる前の短い三年間、建築知識の全てを与助に託そうとしたという。




Yosuke Tetukawa received also influence from the priest missionary Marc De Rotz (1840-1914), who constructed the Shitsu church (Sotome town) and from Fr. Pierre-Thèodore Fraineau, (1847-1911), who constructed the Oura Church, now designated as a National Treasure.