Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

さらば、ヨーロピアン・エアバスA300 - (Final)

2011-05-31 | その他


日本航空(JAL)のエアバスA300-600Rが、本日、5月31日、青森から羽田へのJL1208便で最後の役割を終え引退した。



1991年7月、日本エアシステム(JAS)に導入され、羽田と地方空港を結ぶ路線を中心に、約20年間にわたり活躍してきた。

濃霧や雪など視界が悪くても着陸が可能な着陸方式「カテゴリーIII」(CAT-3)に対応できる高機能計器着陸装置を搭載し、短い滑走路での運用に適した冷却ファンを内蔵した強力なブレーキ、航空貨物用コンテナの積みやすい機体設計など、優れた性能をもった機体であった。


日本航空(JAL)の経営合理化のため、機種数の削減と小型化を柱としたJALの経営再建策の一環として退役が決定。当初は3月26日の鹿児島-羽田のフライト引退する予定となっていた。



しかし、東日本大震災で新幹線や仙台空港が被災。引退は延期され、東北地方の輸送力強化で青森、秋田などへ飛び、人や物資を運び続けた。


3月初旬のボーイング747-400ジャンボ機退役時のような記念イベントは震災のため中止され、異例のラストフライトで日本の空から姿を消すこととなった。


春、列島を横断する (18) - 久慈・小袖海岸

2011-05-29 | 東北


咲いだ花より、咲ぐ花よりも、咲いで実をもつ花がよい・・・・・だ。



初めて私がこの北山ひでさんを見かけたのは、雪の深い二月でした。私は日本のチベットと云われる北ノ果てのへき地を旅して歩いたのですが。
・・・・・・・・・
海猫の群が訪れるほかは、去年まで誰一人この北の果てを訪れたものはないということでした。というのはこの道が出来るまでは全く山に閉ざされ、北の浜は孤立しただったということです。

私はこの、酒に酔ったお婆さんを見かけた時、一定の距離をおいたまま、声をかけずに黙って歩いて行きました。
・・・・・・・・
あのひでさんが北の浜の一二を競う海女だということを、あとで知ったのですが、いつの間にかその足の早い後ろ姿は雪のトンネルの中に消え、やがて、私浜の入り口にあるバラックの組合に着くころは、もう見失っていたのです。

(水木洋子作『北限の海女』より)






岩手県北東部、久慈湾にのぞむ玉の脇から南部の小袖集落にかけては、段丘崖や、海水の侵食を受けた花崗岩の岩礁、海食洞などの変化に富む岩石海岸をなし、1971(昭和46)年、陸中海岸国立公園に指定された。

二子、大尻、小袖は、磯漁業や定置網による漁業集落で、磯漁に従事する女性たちの姿は『北限の海女』(水木洋子作)としてラジオドラマとなり有名になった。




春、列島を横断する (17) - 陸中海岸

2011-05-28 | 東北


「囮とはどういうことだ」
思わず侍は驚きのあまり声をあげた。たじろいだ松木は、
「江戸も藩もあの時―ノベスパニアとの取引きを第一の目論見とはしておらなかった。日本に戻ってな、俺はこのことがわかって参ったのだが・・・・・」
「何を言う」
「聞け。まして切支丹の僧を招く気など毛頭なかった。江戸が藩を使うて知りたかったのはな、まず大船の造り方、大船の動かし方。大船が渡る海の航路で、それなればこそあまたの水手を商人に交えて乗せたのだ。商人も俺たちもな、そのための囮よ。南蛮人を怪しませぬための囮であるゆえに然るべき方々でなく、どこで死のうと朽ち果てようと、一向にかまわぬ身分のひくい召出衆をやはり使者衆に選んだのだ」
「それが政か」と西は狂ったように膝頭を拳で打った。「それが御政道と申すものか」
「御政道とはそのようなものだ。今の俺はそう思う。四年前には善きことも、今日に役立たねば、悪として裁かねばならぬ。それが御政道だ。・・・・・」
(遠藤周作著『侍』より)






1613((慶長18)年、支倉常長ら慶長遣欧使節団一行を乗せた巨大帆船が、石巻月浦を出帆し、日本の船としては初めて太平洋を2往復した。


船は、サン・ファン・バウティスタ号(San Juan Bautista、“St. John the Baptist”)。

仙台藩主、伊達政宗の命で、スペイン人提督セバスティアン・ビスカイノと幕府船手奉行の指導の下、建造したガレオン船である。約500トン級で最初の日本製西洋型軍船。船名は「洗礼者・聖ヨハネ」に由来すると伝えられている。


この船は、仙台藩主・伊達政宗が、スペイン人・ビスカイノと幕府船手奉行の指導の下、建造したもので、造船に必要な材木は、すべて仙台藩領であった現在の岩手県東磐井地方や気仙沼地方から伐採し、北上川を利用して運ばれたと言われる。



その後、サン・ファン・バウティスタ号は、慶長遣欧使節団の月浦出帆380年にあたる1993(平成5)年に、に再建され、進水した。
宮城県志津川産のマツ、牡鹿半島のスギ、岩手県産のケヤキなど、南三陸地方の木材で建造された。387トン、全長55.35メートルで高さ48.80メートル。国内最大級の木造様式帆船は、16億7千万円をかけて完成した。
船は暫く石巻新漁港に仮係留され一般公開された後、宮城県石巻市のテーマパーク・宮城県慶長使節船ミュージアムのドックで展示されている。




今回の東日本大震災で発生した津波の被害により、ドッグ棟展示室が壊滅。
しかしながらドックに浮かぶこの木造船は、押し寄せる津波に奇跡的に耐え抜いた。船に対し正面から波がきたので、大きな損傷を免れたのではないかということである。そして今もがれきに囲まれながら、威容を誇っている。


同ミュージアムは、現在避難所になっており、周辺住民が暮らしているとのこと。






San Juan Bautista was one of Japan's first Japanese-built Western-style sail warships. She crossed the Pacific in 1614. She was of the Spanish galleon type, known in Japan as Nanban-Sen (lit. “Southern Barbarian ships”).

San Juan Bautista was built in 1613 by Date Masamune, the Daimyo of Sendai in northern Japan, in Tsuki-No-Ura harbor (Ishinomaki, Miyagi). The project had been approved by the Bakufu, the Shogun's government in Edo.

She transported the first leg of a Japanese embassy of 180 people to the Pope, headed by Hasekura Tsunenaga and accompanied by the Spanish friar Luis Sotelo. After transporting Hasekura to the Spanish possessions of Mexico, the ship returned to Japan. Hasekura and the embassy went on to Europe, eventually reaching Rome.




A new San Juan Bautista was reconstructed in 1993 on the basis of the records of the House of Date.
The ship is currently on display in a theme park in Ishinomaki, in northern Japan, close to the location where she was originally built.


The replica survived the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami intact with minor damages, and there are hopes of using the ship as a symbol of the town's reconstruction.






春、列島を横断する (16) - 陸中海岸

2011-05-24 | 東北



侍は屋根のむこうに雪が舞うのを見た。舞う雪はあの谷戸のしらどりのように思えた。遠い国から谷戸に来て、また遠い国に去る渡り鳥。あまたの国、あまたの町を見た鳥。あれが彼だった。
そして今、彼はまだ知らぬ別の国に…..。

「ここからは……あの方がお供なされます」
突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞こえた。
「ここからは……あの方が、お仕えなされます」
侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。そして黒光りするつめたい廊下を、彼の旅の終りに向かって進んでいった。
(遠藤周作著『侍』より)






藩主伊達政宗は、帰国後の支倉常長から7年間の海外経験の報告を受け、その後幕府に報告書を提出したが、幕府の厳しい禁教政策のもと、常長が持ち帰った品々は、キリシタンに関わるものとして藩に没収され、決して表へ出ないように厳重に保管されていた。
時が移り、1873(明治6)年、岩倉具視を団長とする明治政府遣欧米使節団が、訪問先のイタリアの書庫で常長の花押と手紙を発見し、政宗と常長の偉業に驚嘆し、帰国後、明治天皇に奏上し広く国内においても知られるようになった。

この時、岩倉具視が著した「特命全権大使米欧回覧実記」には、「支倉常長は、伊達政宗の家臣として堂々と使節としての役割を果たし、厚く処遇された。(略)伊達政宗がどのような目的で支倉常長を使節として派遣し、スペイン・イタリアとの交流を求めたかの理由は定かでない。ここで見聞きしたことを記録し、歴史家の考えに判断を委ねたい。」と記録されている。

常長ら一行が持ち帰った「慶長遣欧使節関係資料」は、現在、仙台市博物館に所蔵されており、ローマ市から常長が受け取った「ローマ市公民権証書」や常長の肖像画、ロザリオの聖母像など47点がある。日本初の日欧外交使節資料として高く評価されており、2001(平成13)年、歴史資料としては初の国宝に指定された。



そして、このほど、2011年5月11日、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に推薦されることが決まった。2013年の国際諮問委員会で最終選考される。

2年後の2013年は使節が日本を出発して、ちょうど400年目に当たる。



記憶遺産は、ユネスコが世界の史料遺産を保存しようと1992年から取り組み始めた。これまでに「アンネの日記」やフランスの人権宣言など193件が登録されている。日本からの推薦は今回が初めて。







春、列島を横断する (15) - 栗駒山

2011-05-22 | 東北


故遠藤周作氏の代表作である『侍』は、この「慶長遣欧使節団」の支倉常長とルイス・ソテロをモデルに描いた作品である。

支倉常長は、長谷倉六右衛門という侍として、また、常長と共に海を渡った宣教師のルイス・ソテロは、小説ではベラスコという名前で登場する。
そして、貧しい土地の侍として生まれた六右衛門と野心的なベラスコの二人が、長い旅路の中で、その苦難と失意に満ちた日々をそれぞれの視点で胸中を語ることで物語が展開する。

「侍」のキリスト教徒に対する疑問、宣教師ベラスコの神への祈りが小説の中で交錯することで、時代に翻弄された男たちの人生、その中での信仰の意味を考えさせられる。



遠藤周作氏は『侍』執筆に先立ち、牡鹿半島の月ノ浦(侍が出航した港)や旧支倉村を訪れ、メキシコ、ローマなどへの取材を重ね、約5年の歳月をかけてこの小説を書き上げたという。



春、列島を横断する (14) - 三陸海岸沖上空

2011-05-21 | 東北




鳥たちがどこから来たのか、なぜ、こんな小さな沼を長い冬の居場所として選んだのかわからぬが、旅の途中、力つきて飢え、死んだものもいるだろう。
「この鳥も」侍は眼をしばたたいて呟いた。「ひろい海を渡り、あまたの国を見たのであろうな」与蔵は両手を膝の上に組みあわせ、水面をみつめていた。
「思えば・・・長い旅であった」
言葉はそれで途切れた。この言葉を呟いた時、侍は与蔵にもう何も言うべきことはないように思えた。辛かったのは旅だけではなかった。自分の過去も、与蔵の過去も、同じように辛い人生の連続だったと侍は言いたかった。
風が吹き、沼の陽のさす水面に小波が動くと、鴨もしらどりも向きを変えて静かに移動し始めた。うつむいた与蔵が眼をかたくつぶり、万感の思いを怺えているのが侍にはよくわかった。彼にはこの忠実な下男の横顔がふと、あの男に似ているようにさえ感じ思われた。あの男も与蔵のほうに首を垂れ、すべてを怺えているようだった。「その人、我等のかたわらにまします。そのひと、我等が苦患の嘆きに耳をかたむけ・・・」与蔵は昔も今も侍を決して見棄てなかった。侍の影のようにあとを従いてきてくれた。そして主人の苦しみに一言も口をはさまなかった。
「俺は形ばかりで切支丹になったと思うてきた。今でもその気持ちは変わらぬ。だが御政道の何かを知ってから、時折、あの男のことを考える。なぜ、あの国々ではどの家にもあの男のあわれな像が置かれているのか、わかった気さえする。人間の心のどこかには、生涯、共にいてくれるもの、裏切らぬもの、離れぬものを―たとえ、それが病みほうけた犬でもいい―求める願いがあるのだな。あの男は人間にとってそのようなあわれな犬になってくれたのだ」
自分に言いきかせるように侍は繰りかえした。
「そう、あの男はともにいてくれる犬になってくれたのだ。テカリの沼であの日本人が書いた紙にこう書いてあった。あの男が生前、その仲間にこう申した、と。おのれは人に仕えるためにこの世に生まれ参った、と」
この時、うつむいていた与蔵がはじめて顔をあげた。そして今主人の言葉を噛みしめるように沼に眼をむけた。
「信心しておるのか、切支丹を」
と侍は小さな声でたずねた。
「はい」
と与蔵は答えた。
「人には申すなよ」
与蔵はうなずいた。
「春になればな、渡り鳥はここから去るが、我等は生涯、谷戸からは離れられぬ」侍は話題を変えるために笑い声をわざとまじえ、「谷戸は我らの生き場所ぞ」
あまたの国を歩いた。大きな海も横切った。それなのに結局、自分が戻ってきたのは土地が痩せ、貧しい村しかないここだという実感が今更のように胸にこみあげてくる。それでいいのだと侍は思う。ひろい世界、あまたの国、大きな海。だが人間はどこでも変わりなかった。どこにも争いがあり、駆引きや術策が働いていた。それは殿のお城のなかでもベラスコたちの生きる宗門世界でも同じだった。侍は自分が観たのは、あまたの土地、あまたの国、あまたの町ではなく、結局は人間のどうにもならぬ宿業だと思った。そしてその人間の宿業上にあの痩せこけた醜い男が手足を釘づけにされて首を垂れていた。「我等、悲しみの谷に泪して御身にすがり奉る」テカリの修道士はその書き物の最後にそんな言葉を書いていた。このあわれな谷戸とひろい世界とはどこが違うのだろう。谷戸は世界であり、自分たちなのだと侍は与蔵に語りたかった。うまく言えなかった。

(遠藤周作著『侍』より)









春、列島を横断する (13) - 石巻沖

2011-05-16 | 東北



はじめて見る大海。陸地も島影もなかった。波はあまたの兵士が入り乱れているように、ぶつかり、ひしめき、鬨の声をあげていた。灰色の空を槍のように船首が刺し、船体は高い水煙をあげて海の谷間に突っこんだかと思うと、ふたたび浮かびあがる。
侍は眩暈がした。額を撲つ風に息もつけなかった。東も波濤のおどり狂う海。西も波の闘う海。南も北も見わたすかぎり海。生まれてはじめて侍は海がどんなに広大かを知った。その海を前にして彼が住みついていた谷戸は一つの芥子粒にすぎぬこともわかった。おお、おお、と彼は叫んだ。・・・
「まこと大きい、世界とは」
だが風は侍の声をちぎり海の遠くに紙のように飛ばしていった。
「このような海が・・・ノベスパニアまでただ拡がっているとは信じられぬ」
(遠藤周作著『侍』より)





仙台藩主、伊達正宗の命を受け、それまで誰も成しえなかった太平洋・大西洋の二大洋を横断し、メキシコ、スペイン、イタリア、そしてバチカンと旅した常長ではあったが、日本との通商は、イエズス会宣教師らの抵抗により合意に至らない。

スペインでは、お役目達成のために洗礼を受け、過酷な7年の歳月を費やした。旅から帰国した時、幕府の政策は鎖国、そしてキリシタン禁教令下の真っただ中であったのだ。

帰国した常長を出迎えたのは、労をねぎらう言葉ではなく、仙台藩の冷たい態度であった。
常長は、非運にも反逆者キリシタンとして、幕府の厳しい追及を受ける。
そして2年後に失意のうちに死去したといわれる。

その後、常長は歴史の表舞台に立つことはなかった。

慶長遣欧使節は、「日本人が初めてヨーロッパの国へ赴いて外交交渉をした」画期的な出来事であったことを考えると、あまりにも不運だったとしか思えない。




彼の業績が評価されるようになったのは、1873(明治6)年に岩倉使節団がヴェネツィアに赴いた際、常長の書状を発見した時のことであった。

250年の歳月が流れていた。





On the return trip, Hasekura and his companions re-traced their route across Mexico in 1619, sailing from Acapulco for Manila, and then sailing north to Japan in 1620. He is conventionally considered the first Japanese ambassador in the Americas and in Europe.

Although Hasekura's embassy was cordially received in Europe, it happened at a time when Japan was moving toward the suppression of Christianity. European monarchs such as the King of Spain thus refused the trade agreements Hasekura had been seeking.
Hasekura returned to Japan in 1620 and died of illness a year later, his embassy seemingly ending with few results in an increasingly isolationist Japan.




Japan's next embassy to Europe would only occur more than 200 years later, following two centuries of isolation, with the "First Japanese Embassy to Europe" in 1862.











春、列島を横断する (12) - 石巻港

2011-05-14 | 東北



五月五日、牡鹿の小さな港、月の浦を出港。日本人たちが「ムツ丸」と称し、エスパニア人の船員たちが、「サン・フアン・バプティスタ」と呼ぶこのガレオン船は、つめたい太平洋を北東に向かってゆれながら進んでいる。弓なりに帆はふくらんでいる。出向の朝、私は甲板で、十年間、住みなれた日本の島々をいつまでもながめた。      (遠藤周作著 『侍』 より)







今から約400年前、江戸時代初頭、仙台藩の「侍」が藩主伊達政宗の命令で太平洋と大西洋を渡りスペイン、ローマへ向かった。

彼の名前は、支倉六右衛門常長。


宮城県石巻 (牡鹿半島)で建造したガレオン船「サン・フアン・バブティスタ号」で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、ヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)太平洋岸のアカプルコへ向かった。アカプルコから陸路大西洋岸のベラクルスに、ベラクルスから大西洋を渡りエスパーニャ経由でローマに至った。

宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使、常長は副使として、率いたこの使節は「慶長遣欧使節」と呼ばれている。



Hasekura Rokuemon Tsunenaga was a Japanese samurai and retainer of Date Masamune, the daimyo of Sendai.

In the years 1613 through 1620, Hasekura headed a diplomatic mission to the Vatican in Rome, traveling through New Spain (arriving in Acapulco and departing from Veracruz) and visiting various ports-of-call in Europe.

This historic mission is called the Keichō Embassy , and follows the Tenshō embassy of 1582.


He is conventionally considered the first Japanese ambassador in the Americas and in Europe.








春、列島を横断する (11) - 南三陸町志津川

2011-05-07 | 東北




「只今津波が襲来しています。高台に避難してください!」
「海岸付近には絶対に近づかないでください!」

「高台に避難してください、
 異常な潮の引き方です、逃げてください…  」





南三陸町に巨大津波が襲いかかってくる最中、自らの命を張って町民を救い、そして消えていった女性がいた。

彼女の声は、ニュースで何度も流れた。切羽詰まった声であった。


南三陸町機管理課職員遠藤未希さん(25歳)。
彼女は、3月11日、午後2時46分から約30分間、防災対策庁舎2階にある放送室から津波の来襲と高台への避難をひたすら呼び掛け続けた。

海岸にいた両親にもその声は届いた。最後の方は声が震えていたという。



3階建ての防災対策庁舎は津波にのまれ、庁舎に残った職員約30人のうち、助かったのは10人。

その後、行方不明になっていた未希さん、そのご本人と思われるご遺体が、4月23日、志津川湾に浮かぶ荒島の北東約700メートルの地点で見つかった。


母、美恵子さんは3月下旬、遠藤さんが水中で亡くなっている夢を見たそうだ。
「未希が『早く捜してほしい』と、助けを求めていると思った」と。



まだ、青春真只中の未希さん、あなたのマイクの声でたくさんの人々の命が救われたのだ。





今回の地震でお亡くなりになられた皆様のご冥福を改めてお祈りいたします。





“Please run away fast !”
“Please run for the higher place !”

It’s a broadcast call of urging the citizens repeatedly to hurry and escape.

Miki Endo was a 25 year-old public worker who worked in the Crisis Management Dept. of the city of Minami Sanriku, one of the worst-hit cities in the Miyagi prefecture - of its 17,000 inhabitants, 10,000 perished and only 7,000 or so survived the tsunami.
Many of those 7,000 that survived escaped death because of Miki Endo’s broadcast.

When the quake and tsunami hit, she remained at her post on the 2nd floor of the building and used the community broadcast system to urge residents to quickly move to higher ground. She continued broadcasting these announcements.

But Endo herself was never heard from again after the office was engulfed by tsunami. Family and relatives had been searching for her ever since.

On April 23, Miki Endo's body was recovered 700m off the cost of Minami Sanriku.

Endo should be remembered as a true hero of the highest order, and remembered forever with grateful reverence.





春、列島を横断する (10) - 南三陸町志津川

2011-05-05 | 東北



昭和35年5月23日、チリで巨大な地震が発生した。

それから約22時間後、日本にも津波が押し寄せた。
地球の反対側からまさか津波が来るとは….。 その距離なんと1万7千km。

ここ三陸地方の志津川町を襲った津波の高さは、なんと6mという途轍もないものであった。この津波による死者、行方不明者は全国で140人にのぼった。




南三陸町志津川の松原公園内の「モアイ像」は、平成3年、復興と防災のシンボルとして津波襲来30周年にチリ共和国との友好の証として建てられた(チリ地震の際、大津波で全て倒れ、散乱したイースター島のモアイ像が日本企業の協力の下、15体が立て直された経緯がある)。


この像は、イースター島にあるモアイ像のレプリカで、本物のモアイと同じ種類のチリ共和国本土の石から、現地の石工が製作し設置したものだ。



三陸地方はリアス式海岸であり、津波が湾内に進むにつれ高さが増幅されるため、明治29年には死者、行方不明者2万7千人、昭和8年には3千人が犠牲となった三陸津波が起こっている。



今回の大震災で、このモアイ像は津波の衝撃で土台と頭部が割れたが、土台はそのままの場所にあり、頭部もそこから少し離れた場所で見つかったという。




イースター島の言葉で「モ」は未来、「アイ」は生存を意味する....。








春、列島を横断する (9) - 桜

2011-05-02 | 東北




〈東北の桜それでも春を待ち〉





大震災後、景色をゆっくり楽しむ余裕も無く、ふと気付けば、桜の季節は過ぎ去っていた。


今年の桜は、いつもとは違って見えた。
何かを感じさせ、考えさせられる桜の季節であった。



桜前線は、東北、そして北海道へと北上する。








"Cherry-blossom front" has reached the Tohoku area and is now on its way to Hokkaido.

It has been over seven weeks since the devastating earthquake and tsunami, however the situation is still far from full recovery.








春、列島を横断する (8) - 東松島市松島基地

2011-05-01 | 東北



東日本大震災で大津波の直撃を受けた仙台空港は4月13日、国内線の運航を暫定的ながら再開した。

同じく宮城県東松島市の沿岸部にある、航空自衛隊松島基地も津波の被害を受けた。

松島基地には4mほどの津波が押し寄せ、駐機場および格納庫に駐機していた航空機28機(F-2支援戦闘機18機、T-4練習機、U-125A救難捜索機、UH-60J救難ヘリコプターなど計10機)全てが水没し全滅した。
松島基地には、2,700mと1,500mの2本の滑走路があり、被災地に近い輸送拠点として復旧が急がれていたが、4月16日、まず米軍の輸送機C130が大量の水を積んで到着。陸上自衛隊のトラック5台に積み込み、宮城県気仙沼市の病院や岩手県陸前高田市の避難所などに向かった。

当基地は航空自衛隊パイロットの養成部隊である第4航空団が配備されており、曲技飛行を行うブルーインパルスの本拠地としても知られる(ブルーインパルスは、震災当日、九州新幹線全線開通の祝賀飛行のため芦屋基地に展開中であった)。


今から40年前、1971(昭和46)年7月30日、岩手県雫石町上空で松島基地所属のF-86F戦闘機と全日空58便(B727-200)が衝突し双方墜落、全日空機の乗客155名と乗員7名の計162名全員死亡するという大惨事が起こった(自衛隊機側の乗員は脱出)。





Matsushima Airbase is a military aerodrome of the Japan Air Self-Defense Force. It is located west of Ishinomaki in the Miyagi Prefecture.

During the 2011 Tōhoku earthquake and tsunami, the base was flooded with seawater, and eighteen F-2Bs belonging to 21st Squadron, as well as other aircraft, were damaged or destroyed.




In 1971 an F-86F fighter jet from this base collided with All Nippon Airways Flight 58, causing 162 deaths.