Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

輝く大地、水鏡の頃 (2) - 大潟村

2010-05-31 | 東北


秋田県大潟村は、昭和32年に干拓がはじまるまでは、琵琶湖に次いで日本で二番目に大きい“八郎潟”という湖であった。

八郎潟は、男鹿市船越で日本海とつながり淡水と海水がまじった半鹹湖(汽水湖)であった。そのため,淡水と海水の70種以上の魚介類が住む豊富な漁場であり、古くから“うたせ船”による漁業、冬の間は“氷下(こおりした)漁”といった風景が八郎潟の風物詩となっていた。



八郎潟干拓の計画は古く、安政年間に払戸村の渡辺斧松が八郎潟疎水案を立てたのに始まるが、実施には至らなかった。


輝く大地、水鏡の頃 (1) - 大潟村

2010-05-30 | 東北



潟は、うずめられてしまったのである。
水田をふやしたいというのは稲作が基礎になっている日本の社会的本能のようなもので、秋田藩の時代にもそういう案があったらしい。
が、技術がなかった。
戦後に、その技術を得た。

昭和三〇年前後の日本は、紀元前に弥生式稲作が伝来して以来の中になおくるまれていた。いわば二千年の米作りの歴史の最末端にあったといっていい。
日本にあっては、米作りこそ正義だったのである。あるいは倫理でもあり、宗教でさえあった。
敗戦から五、六年たって、八郎潟を国営で干拓して米を作ろうという考えがおこったとき、
――だめだ、米作万能の時代は、やがて去るだろう。
という予言をした人は、いなかったのではるまいか。

秋田市に農林省干拓事務所がおかれたのは昭和二七年だった。たれもが,飢えの記憶をもっていたし、米はタカラモノだという伝統の信仰をもっていた。

一方において,やがて国民を食わせることになる国産の乗用車が作られはじめたが、その出来栄えにもその将来についても世間の評価はつめたかった。
日本の工業と技術が、世界に還流しているドルを大量に日本にひきいれ、アメリカ経済にまで影響をあたえる時代がくるなど、夢にも予測されていなかった。むろん、経済学者のすべてをふくめてである。

(司馬遼太郎著『街道をゆく-秋田県散歩』より)



澄み渡る皐月の空を飛ぶ (12) - 美ヶ原

2010-05-22 | 中部



「霧の子孫たちがやらねばならない仕事はいっぱいあるでしょう。諏訪湖を生き返らせること、諏訪の澄んだ空気を工場の煙でよごされないようにすること。そうね、諏訪だけのことではないは、長野県全体、日本全体の霧の子孫たちが手をつないで、自然を守る運動を起こさないと日本の自然はほんとうに亡びてしまうかもしれないわね」

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)




有料道路反対運動に立ち上がったのは、「諏訪の自然と文化を守る会」を主催している考古学者の藤森英一氏、産科婦人科医青木正博氏、諏訪清陵高校理科教師牛山正雄氏であった。

この反対運動は日増しに拡がり、やがて全国的な注目を集めた運動が展開された。

結局、建設自体は覆らなかったが、八島ヶ原湿原と旧御射山遺跡を避ける「南回りルート」に変更された。

遺跡も湿原も一応は守られた。



当時自然破壊の問題は日本各地に起こっており、日に日に日本の自然と文化遺産が観光開発の名のもとに失われて行く中にあって、諏訪市における、この反対運動の成功はたいへん珍しいことであったという。


霧ヶ峰の麓の村、諏訪市角間新田に生まれ育った新田次郎氏は、1970(昭和45)年に、この事件を題材とした小説『霧の子孫たち』を書いた。

氏は、この小説のあとがきで、「霧ケ峰に有料道路が出来、なだらかな起伏が続く大草原が、コンクリートの道路によって分断されたのみならず、その延長路線が、旧御射山遺跡と七島八島の高層湿原地帯を通る予定だと聞かされたときは、身体が震えるほどの怒りを覚えた。なぜ貴重な自然や遺跡を破壊してまで、観光目的の有料道路を造らなければならないのだろうか。私は長野県の方針に疑問を持った」と述べている。

小説『霧の子孫たち』は、自然保護運動の記念碑的作品として読みつがれている。





晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (11) - 霧ヶ峰

2010-05-20 | 中部

「草原の植物は連帯して生存しているものです。特に霧ヶ峰草原の植物はその連帯性が強く、群生しているところに特徴があります。連帯共存している植物群落に有料道路というメスを入れれば、植物は必ず死にます。このビーナスラインの延長には、キリガミネヒオウギアヤメのほか数十種類の貴重な植物の群落があります。有料道路を造れば、それらの群落は分断され、死滅することは確実です。植物を分類すると、門-網-目-科-属-種に分かれます。キリガミネと頭につく植物はこの種に当たります。あらゆる科学的根拠から四千年ないし五千年前に交雑して出来た種類と考えられます。その霧ヶ峰にしかいないという植物が、二十種近くあるのです。亡びたら、二度と帰らない自然なのです。有料道路を取りやめることはできないものでしょうか」
牛島春雄は、小林に向かって哀願するように言った。

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)




1964(昭和39)年5月10日に、中信高原スカイライン、愛称「ビーナスライン」が、長野県企業局により茅野-蓼科-白樺湖間が開通した。
さらに1968)(昭和43)年7月21日には、白樺湖-霧ヶ峰強清水間、11.7kmが竣工。

引き続き、八島線が旧御射山遺跡を通って、八島ヶ原湿原のへりをかすめて建設されようとしたとき、道路建設計画が自然や文化などの破壊になるとして、この有料道路建設に疑問の目を向けていた「諏訪の自然と文化をまもる会」を中心とした県下の学者や文化人・住民などによる、猛烈な反対運動が起こった。


晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (10) - 霧ヶ峰

2010-05-19 | 中部


沢渡りを越えたところの斜面はレンゲツツジに覆われていた。冬の姿がそのまま残されている枯草を下敷きにして、赤い花は空に向かって開いていた。高原の春の花がすべてそうであるように、レンゲツツジも花がまず咲き、葉はそのあとを追いかけるように緑の面積を拡げて行くように見えた。ここでは花の存在が大きく、その葉はすべて隠れて見えた。斜面を覆い尽くしている強烈な赤い色は平面的なつながりを持って、稜線を乗り越えようとしている一方、赤い色のなだれが音を立てて、沢を埋め尽くそうとしているようであった。
沢には清冽な水の囁きがあり、沢を形成する背の低い樹叢は萌黄色に包まれていた。

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)





「霧ヶ峰」は、フォッサマグナ地溝帯の中に、八ヶ岳連峰とほぼ同時代に噴出した霧ヶ峰火山の溶岩流によって形成された。その後さらに火山灰をかぶり、現在のような主峰・車山(1925m)を中心とする標高1500~1900m、東西10km、南北15kmに広がる緩やか高原状台地を形成した。

なだらかな稜線の美しさは、植物の豊かさとともに霧ヶ峰の魅力のひとつとなっている。

霧ヶ峰台地には、ニッコウキスゲで有名な草原が広がり、その中に天然記念物に指定されている「八島ヶ原湿原」「車山湿原」「踊場湿原」の三つの高層湿原がある。

霧ヶ峰の高層湿原は、本州の南限に当り、特に八島ヶ原湿原は尾瀬ヶ原よりも泥炭層が発達しており、約8.1m、およそ1万年以上かかり現在のような湿原になったといわれている。


霧ヶ峰には、踊場湿原近くの「ジャコッパラ遺跡」、「池のくるみ遺跡」、旧御射山神社近くの「八島遺跡」、その他、「物見岩遺跡」や「雪不知遺跡」など、今から約3万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しており、全国屈指の黒曜石産地としても有名である。

また、八島ヶ原湿原のそばにある「旧御射山(もとみさやま)遺跡」は、中世に諏訪神社下社の狩猟神事が行われた祭祀遺跡で、中央の祭場と競技場を取り囲んで階段状の桟敷が設けられており、鎌倉時代には全国の武士達が集まり盛大に流鏑馬などの奉納射技が行われたという。



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (9) - “北八ッ”

2010-05-18 | 中部

八ヶ岳の細長い主稜線は、普通夏沢峠によって二分され、それ以北が「北八ッ」という名で登山者に親しまれるようになったのは、近年のことである。北八ッの彷徨者山口耀久君の美しい文章の影響もあるだろう。八ヶ岳プロパーがあまりに繁昌して通俗化したので、それと対照的な気分を持つ北八ッへ逃れる人がふえてきたのかもしれない。

四十年前、私が初めて登った時は、八ヶ岳はまだ静かな山であった。赤岳鉱泉と本沢温泉をのければ、山には小屋など一つもなかった。五月中旬であったが登山者には一人も出会わなかった。もちろん山麓のバスもなかった。

建って二、三年目の赤岳鉱泉に泊り、翌日中岳を経て赤岳の項上に立った。横岳の岩尾根を伝って、広やかな草地の硫黄岳に着き、これで登山が終ったとホッとしたが、それが終りではなかった。そのすぐあとに友の墜落死というカタストロフィーがあった。

今でも海ノ口あたりから眺めると友の最後の場であった硫黄岳北面の岩壁が、痛ましく私の眼を打ってくる。

(深田久弥 著『日本百名山』より)

晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (8) - 八ヶ岳高原

2010-05-16 | 中部


八ヶ岳のいいところは、その高山地帯についで、層の厚い森林地帯があり、その下が豊かな裾野となって四方に展開していることである。五万分の一「八ヶ岳」図幅は全体この裾野で覆われている。頂稜から始まる等高線が、規則正しく、次第に目を粗くしながら、思う存分伸び伸びと拡がっている見事な縞模様は、孔雀が羽を拡げたように美しい。そしてその羽の末端を、山村が綴り、街道が通り、汽車が走っている。

その広大な斜面は、野辺山原、念場原、井出原、三里原、広原、爼(まないた)原などに区分されて、一様のようでありながら、それぞれの個性的な風景を持っている。風景というより、むしろ雰囲気と言おうか。例えば高原鉄道小海線の走る南側の、広濶な未開地めいた素朴な風景と、富士見あたりの人親しげな摺曲の多い風景とは、どこやら気分が異なる。高原を愛する逍遙者にとって、八ヶ岳が無限の魅力を持っているのは、こういう変化が至る所に待っているからだろう。

昔は信仰登山が行われていたというが、現在ではそういう抹香臭い気分は微塵もない。むしろ明るく近代的である。阿弥陀とか権現とかいう名前さえも、私たちに宗教を思いおこさせる前に、ヨーデルの高らかにひびく溌剌とした青年子女の山を思い浮ばせる。

それほど八ヶ岳は若い一般大衆の山になった。広濶な裾野、鬱然とした森林、そして三千米に近い岩の頂――という変化のあるコースは、初心の登山者を堪能させる。しかもその頂上からの放射線状の展望は、天下一品である。
どちらを眺めても、眼の下には豊かな裾が拡がり、その果てを限ってすべての山々が見渡せる。すべての山々? 誇張ではない。本州中部で、この頂上から見落される山は殆んどないと言っていい。

(深田久弥著『日本百名山』より)



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (7) - 八ヶ岳・赤岳

2010-05-15 | 中部



最高峰は赤岳、盟主にふさわしい毅然とした見事な円錐峰である。ある年の十一月初めの夕方、私は赤岩(硫黄岳西南の二六八〇米の岩峰)の上から、針葉樹に埋れた柳川の谷を距て、この主峰を眺めたことがあるが、降ったばかりの新雪が斜陽に赤く、まるで燃えているように染まって、そのおごそかな美しさといったらなかった。

  岩崩(く)えの赤岳山に今ぞ照るひかりは粗し眼に沁みにけり  島木赤彦


(深田久弥著『日本百名山』より)



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (6) - 八ヶ岳連峰

2010-05-13 | 中部


中央線の汽車が甲州の釜無谷を抜け出て、信州の高台に上り着くと、まず私たちの眼を喜ばせるのは、広い裾野を拡げた八ヶ岳である。全く広い。そしてその裾野を引きしぼった頭に、ギザギザした岩の峰が並んでいる。八ヶ岳という名はその頭の八つの峰から釆ているというが、麓から仰いで、そんな八つを正確に数えられる人は誰もあるまい。

芙蓉八朶(富士山)、八甲田山、八重岳(屋久島)などのように、山名に「八」の字をつけた例があるが、いずれも漠然と多数を現わしたものと見なせばいいのだろう。克明にその八つを指摘する人もあるが、強いて員数を合わせた感がないでもない。詮索好きな人のために、その八峰と称せられるものを挙げれば、西岳、網笠岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、峰ノ松目。

そのうち、阿弥陀岳、赤岳、横岳あたりが中枢で、いずれも二千八百米を抜いている。二千八百米という標高は、富士山と日本アルプス以外には、ここにしかない。わが国では貴重な高さである。この高さがきびしい寒気を呼んで、アルピニストの冬季登山の道場となり、この高さが裸の岩稜地帯を生んで、高山植物の宝庫を作っている。

(深田久弥著『日本百名山』より)




晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (5) - 八ヶ岳山麓・野辺山

2010-05-12 | 中部

奥多摩湖のダムの犠牲となって清里に来た開拓者たちを熱心に指導した人物がいた。

山梨県耕地課八ヶ岳開墾事務所長・安池興男氏(やすいけ・おきお)である。


氏は営農の経験がなく、不安に駆られる人々に種を与え、農具を与え、作物の作り方を指導した。出来た作物を甲府で売るために、宿泊場所として官舎まで提供した。

山梨県の八ヶ岳開墾事業として、この地に入り、事務所長として清里の開拓者たちを熱心に支援した。入口にむしろをたらすだけの小屋を建て、原野を鍬一丁で開墾し、ともすれば挫けそうになる人々を支え続けた。

寒さのために部屋の中で燃やしている松ヤニの臭いが体に染みつき、子どもたちが学校でいじめられていることを知ると、私財を投じて分教場を建設した。

上司との軋轢の中で、広島への栄転を断り、役人としての出世を投げ打ってまで清里にとどまり、開拓者たちと共に清里の開拓に尽力した。

国からの補助が乏しい中で始まった開拓事業は困難を極めたが、安池氏と彼を強く信頼してきた開拓者たちは必死に清里の荒地を開墾した。


現在清里八ヶ岳地区にある公民館は安池興男氏の「興」の字をとって、八ヶ岳興民館と名付けられた。彼の存在はダムの底となった村から来た清里の開拓者たちにとって大きな存在となった。

清里駅を下り、国道141号に出た所に観光施設「萌木の村」がある。
その奥にある「八ヶ岳霊園」には、この地に入植し開拓された方々が眠っている。

霊園中央には開拓を指導し成功に導いた故安池興男氏夫妻を讃える恩賜の碑がある。
墓石は湖底となった故郷奥多摩湖を向いているという。

碑の背面には氏の言葉が刻まれている。

「感激の至情、楽土を拓く 興男」






晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (4) - 八ヶ岳山麓

2010-05-11 | 中部

1938(昭和13)年、新天地を求めて八ヶ岳山麓念場ヶ原開拓地(現清里高原)へ入植したのは、小河内ダム(奥多摩湖)の底に沈んだ村からの開拓団28戸だった。

今でこそ清里は都会の人間の目を引くリゾート地となり、高原野菜と牛や馬がのんびりと牧草をはんでいるが、当時の八ヶ岳山麓は、一面の熊笹に覆われた無人の荒野であった。
標高千二百メートルの高原、清里の1月の平均気温は、氷点下4.9度。当時の寒さは想像を絶する。

そして彼ら開拓者は、ダムの犠牲になったあげく厳しい土地を開墾しなければならないという過酷な現実に直面することになる。



清里は火山灰地で作物を作るのには適さなかった。
貧しい開拓者たちに不作、冷害、水不足、食料不足、さらには戦争突入と、つぎつぎと困難が襲いかかる。

鍬の柄が血で染まる、困難を極める作業に多くの人々が倒れた。




晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (3) - 津久井湖・城山湖

2010-05-09 | 関東


「御覧なさい、下の方はもう日がかげって来た。朝は十時にならなくては日が当らないし、午後は三時になるともう山の向こうに日が落ちてしまう。一日にたった五時間しか日が当らない。僕は自分ひとりでこの村に“日蔭の村”という名をつけているんです。この名前には別の象徴的な意味もあるんです。つまり東京という大都市が発展して行く、すると大木の日蔭にある草が枯れて行くように小河内は発展する東京の犠牲になって枯れて行くのです。山の日蔭にある間はまだよかった。都会の日蔭になってしまうともう駄目なんです」
(石川達三著『日蔭の村』より)




戦後も、経済の高度成長により京浜工業地帯を中心とする都市は発展、膨張し、神奈川県では「相模川河水統制事業」は続いた。
1965(昭和40)年3月、県と横浜、川崎、横須賀の三市により津久井町荒川と城山町水源地区との間に、県下で4番目の「城山ダム」が完成した。

1953(昭和28)年に調査が始められてから、地元住民との長い補償交渉の後、1962(昭和37)年に工事が始められた。

城山ダムの完成によりできた人造湖が、「津久井湖」である。
相模湖とほぼ同じ規模をもつ。

このダム建設のかげには、奥多摩湖や相模湖と同じように、住み慣れた我が家を湖底に沈め、先祖伝来の土地を離れた人々がいた。
津久井町荒川(116世帯)、不津倉(27世帯)、三井(45世帯)、三ヶ木(8世帯)、川坂(7世帯)、相模湖町沼本(41世帯)、城山町中沢(36世帯)や小倉(5世帯)の人々で水没家屋は全部で285世帯、約1400人の人々である。

代替地は、津久井町中野、相模原市相原、二本松、磯部、城山町、八王子などで、中でも二本松地区には132世帯が移動した。



上空から、山間に静かに水を湛えた湖を目にすると、このように湖底に沈んでいった村々の歴史が頭をよぎって行く。



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (2) - 相模湖

2010-05-05 | 関東

1937(昭和12)年、石川達三は小説『日蔭の村』を発表し、水没する小河内村の村民たちの6年間に及ぶ辛苦の日々を描いた。

同年、帝国議会が召集され「臨時資金調達法」や「輸出入品等臨時措置法」など軍需産業優先に向けた経済統制立法が制定された。そして「国民精神総動員法」や朝鮮人に対して「皇国臣民の誓詞」も配布され、全てが聖戦の遂行に向け動き始めた。

このような状況の下、神奈川県では軍需工場が集中する横浜や川崎に向け、水や電力を安定的に供給するため「相模川河水統制事業」が始まり、旧津久井郡の相模川本流に「相模ダム」の建設が決定した。

建設に伴い196戸が水没することから水没住民より強固な反対運動が持ち上がった。
しかし日中戦争勃発後、戦時体制へ突き進む陸軍と海軍は、海軍艦艇建造の要である横須賀海軍工廠や軍需産業が密集する京浜工業地帯への電力・用水供給を急いでいた。このため反対住民に対し荒木貞夫などが旧津久井郡藤野町へ出兵して陸軍閲兵式を行い、反対する住民に対して示威行為を以って強力な圧力をかけた。

このようにダム建設は1940(昭和15)年、有無を言わせず本体工事を着工させた。
のべ360万人がダム工事のために働き、その3分の1が朝鮮の出身者であった。他に捕虜として強制連行され、働かされた中国人が287人いた。そして日本人を含め、83名の犠牲者を出し1947(昭和22)年に完成した。

水没住民は、住み慣れたふるさとを離れ、高座郡海老名村や東京都下日野村等に移住した。



ダム湖となった相模湖は、総貯水量6300万トン。戦後一貫して、京浜工業地帯の貴重な水源、電源として、また東京圏のスポーツ・レクリエーションの場としての役割を担ってきた。現在も神奈川県の16%の水を供給する「水がめ」であり、休日には多数の観光客が訪れている。

湖畔の相模湖公園内にある湖銘碑にはダム建設で犠牲となった人々の氏名が日本語、ハングル、中国語で記されている。




晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (1) - 奥多摩湖

2010-05-03 | 関東



東京から多摩川の渓流を遠く遡って、御岳、氷川を過ぎ鳩ノ巣、数馬、水根峡の奇勝を過ぎると、たたなわる山また山の谷あいのが渓流の岸の断崖の上に点々と危うげな小舎をつらねている。百尺に近いその崖の下には青い淵が静かに泡を浮かべて雲の影を映しているか、または湧きたつ早瀬が岸をかんで滔々と鳴りながら、深い山襞の底をめぐりめぐって真白い曲線を描いている。この山峡のにいては富士も見えず、雲取も大菩薩も望むべくもないが、笠山、前山、後山、その他名も知れぬ傾斜の急な山々が高く四方をかこみ、三頭山の頂きも遠く見えて、黒々と茂った杉や檜の多摩川水源林の間々に六月の緑の雑木林が点々と明るく、甲州に通ずる崖の上の道をハイキングの学生達が前かがみになって、物も言わずに歩いて行く姿を時おり見かけるのが、東京があまり遠くないことを証明する唯一の風景である。
(石川達三著『日蔭の村』より)




5月、まばゆい新緑が山腹を鮮やかに染める。

ここは、首都圏のオアシスとして親しまれている奥多摩湖。
多摩川上流部を小河内(おごうち)ダムによって堰き止めてできた人造湖である。周囲約45km、水道用湖としては日本一の大きさを誇る。
東京都の貴重な水源で、総貯水量1億8000万トン、都民の利用する水の約2割を供給している。


東京市(当時)が将来の人口増加に備え、小河内ダム建設を決めたのは昭和7年。

ほぼ全体が水没する旧小河内村では建設反対の声が高まったが、当時の村長が建設を了承し、村民を説得したという。

村人は将来に不安を感じ仕事が手に付かない。その上、東京市の態度が二転三転し、補償金をもらって村を出るまでに6年もの歳月がかかる。
村人は生活の方向を見失い、山林や田畑は荒れ、借金がかさむ一方。さらに、そこへつけ込んだブローカーが暗躍した。
また反対住民と警察隊が衝突し、流血事件になったともいう。

ダムは32年11月、完成。旧小河内村の集落はほぼ水没し、同村と山梨県小菅村、丹波山村の計945世帯が湖周辺の高台や山梨県の八ケ岳山麓などへ移転。建設工事では87人が殉職した。

作家・石川達三は、1937(昭和12)年から、村々を訪ね歩き、その歴史を『日蔭の村』という小説にした。

ダム建設で、一つの集落が国や自治体に翻弄され、東京の日蔭となって苦悩する村民の姿が克明に描かれている。






First of May

2010-05-01 | その他

When I was small, and Christmas trees were tall,
We used to love while others used to play
Don’t ask me why, but time has passed us by,
Some one else moved in from far away.

Now we are tall, and Christmas trees are small,
And you don’t ask the time of day.
But you and I, our love will never die,
But guess well cry come first of May.

The apple tree that grew for you and me,
I watched the apples falling one by one.
And I recall the moment of them all,
The day I kissed your cheek and you were mine.




今日から5月。

若葉が芽吹く季節になると頭をよぎるメロディがある。

First of May  邦題「若葉の頃」

1971年のイギリス映画『小さな恋のメロディ』(原題:Melody)の挿入歌である。
映画は、ビー・ジーズの歌が全編を流れ、テーマ曲「メロディ・フェア」 (Melody Fair) とともに日本で大ヒットした。

マーク・レスターとトレーシー・ハイドの可愛い二人が墓地でのデートシーン
ひとつのリンゴを二人で食べあう。そして「若葉の頃」が流れる。

「僕が小さくて、クリスマスツリーが大きかったころ、友達が遊んでいた時に、
僕らは恋をささやいた。僕に聞かないで、なぜ時が過ぎ去ったのか。
なにかが遠くからやってきて、僕たちは大きく、クリスマスツリーが
小さくなった・・・」

この曲は、若葉の季節を歌った内容ではなく、遠く過ぎ去った「若葉のころ」を懐かしんでいる歌詞なのだ。

映画の最後、結婚式に乱入してきた先生たちを追い返し、二人はトロッコに乗って、走り続けるラストシーンは印象的で今も脳裏に焼きついている。