Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

さようなら、ジャンボ - (10)

2011-02-28 | その他



1970年代初頭の就航以来、-100、-200、-300へとモデルが進化したB747であるが、コクピットやエンジン、客室内装などはあまり進歩せず、1980年代末から1990年代初頭に就航すると見込まれるA340、MD-11、あるいはB767といったいわゆるハイテク機と比較して技術的や経済性などで旧式化した点が目立つようになった。
そこで、今までの‘クラシック’なB747(-100、-200、-300)に最新の技術を投入し、新世代モデルとして甦らそうと開発されたのがB747-400である。

基本的な外形はアッパーデッキが延長された747-300と変わらないが、主翼端へのウイングレットや、空力の徹底した見直しや、最新型の低燃費でハイパワーなエンジンへ変更し、水平尾翼への燃料タンクの追加設置と最大離陸重量の増加によって、搭載できる燃料も増やされ、航続距離を-200型に優る13,000kmクラスまで大幅に伸ばした。
また、コクピットは大幅に電子化され、大型機でありながら航空機関士を廃し、パイロット2名による運航を可能とした。これらの改良により、在来型B747と比べると、外観ではウィングレット以外に大きな違いが見受けられないが、まったく別の飛行機に生まれ変わったといっても過言ではない。

JALでは、それまでに運航してきた従来型B747(クラシック)の増強・後継として1990年から「スカイクルーザー」の愛称で導入を始めた。日本国内線向けの短距離特別仕様といえる-SRタイプ「400D」も同時に導入された。

当時世界最大の旅客機でありながら成田-ニューヨークのような長距離路線から、羽田-伊丹のような短距離路線まで幅広く運用された。

ところで、JALでは、B747-400の導入に当たって、「3人で乗務していた操縦席が2人になって、安全性を担保できるのか」と言った観点から、乗員組合を中心に異論の声が上がった。こうした論争は、JALやANAだけではなく、-400を導入しようとする世界中の航空会社とパイロットたちの間で繰り広げられていた。




ついに、JALのジャンボに別れを告げる日が来たようである。

明日、3月1日、ホノルルから到着するJL075便、そして那覇より到着するJL3098便
両機は、13:30頃、成田で顔を合わせる。





さようなら、ジャンボ - (9)

2011-02-27 | その他


午後六時四十分、所沢の東京航空交通管制部のレーダー画面に、一際、明るい緑の輝点を放ち、緊急事態を発している国民航空一二三便が、異常な動きをはじめた。羽田に戻ると云いながら、西へ移動し続けていた一二三便は、浜松上空通過後、一旦、方位を東へ変えたかに見えたが、途中で北上しはじめた。羽田空港では、緊急着陸に備え、消防車をはじめ消火救難態勢の準備を完了していた。また、羽田、成田、大阪、福岡の各空港は東京管制部の要請で、出発機の離陸を見合わせる規制を発令していた。
にもかかわらず、一二三便は、北へ北へとふらつきながら、進んでいる。尋常ならざる飛行であった。
(山豊子著『沈まぬ太陽-御巣鷹山篇』より)



1985年8月12日18時56分、日本航空 123便、羽田発伊丹行、B747-SR(JA8119)が、群馬県多野郡上野村の御巣鷹山の尾根に墜落、炎上した。

乗員乗客524名のうち死亡者数は520名、生存者は4名であった。
死者数は日本国内で発生した航空機事故では最多であり、単独機の航空事故でも世界最多である。

航空事故調査委員会が公表した報告書では、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こした、いわゆる「しりもち事故」後の、ボーイング社の修理が不適切だったことによる圧力隔壁の破損が事故原因とされている。これをもって公式な原因調査は終了した。



圧力隔壁の破損による垂直尾翼、油圧の喪失が原因とされたが、事故調査委員会が公表した内容と生存者の情報に明らかな矛盾点(急減圧はなかったこと)が証言されているとして、自衛隊機の衝突説や在日米軍が誤射した対空ミサイルによる過失撃墜説、B747型機の気密安全の構造上の欠陥等、諸説ささやかれており、航空関係者や遺族などの一部からは再調査を求める声があるが、現在に至るまで行われていない。



画面は、在りし日のB747-SR(JA8119)。羽田空港で撮影。後、このような惨事が起こるとは夢にも思わなかった。 墜落事故当日、私は山中湖村でこの知らせを聞いた。

改めて、520名の方々、そして関係された方々の御冥福をお祈り申し上げます。







さようなら、ジャンボ - (8)

2011-02-27 | その他

JALは、B747-200を1980年代から、アメリカ東海岸路線に投入するが、やはり航続距離が足らず、アンカレッジでの給油が必要だった。
しかし、機体の短縮により座席数が276席と標準型に比べ大幅に減ったことから収益率が悪化することを嫌い、-SPを発注することはなかった。

1980年代中盤、JALがニューヨーク直行便専用に発注したボーイング747-200B高性能型(B747-300型用に開発されたパワーアップしたエンジンの搭載と燃料タンクの追加により最大離陸重量を引き上げたモデル)が出現し、風向きによっては搭載量を減らさなければいけないものの、東京―ニューヨーク間(11,280km)の無着陸直行便が可能になった。

この新しい-200B(JA8161、8162、8169の3機)には「Executive Express」の愛称がつけられ、JALのフリート中、最長となる航続距離を活かしてニューヨーク直行便に投入された。



同時期に、それまではアンカレッジ経由の北回りが主流であったヨーロッパ線でもノンストップ運航がはじまる。当時モスクワ経由は所要時間は最短だったが、運航便数に制限があった。

B747-300も、この時期JALに導入され、このノンストップ・ヨーロッパ線にも投入された。-300は、新型エンジンとともにアッパーデッキが後方に延長されたシリーズで、Stretched Upper Deck(SUD)とも呼ばれた。2階席は、YS11とほぼ同じキャパシティがあるため、座席供給数の多い路線(ロンドン、パリ、サンフランシスコ、ロサンゼルス線)に当初は投入された。


画面は、B747-200B(JA8162)。この機体は、かつて‘Executive Express’としてファーストクラス、ビジネスクラスの2クラスのみで運航したことのある機体。沖縄那覇空港にて撮影。



さようなら、ジャンボ - (7)

2011-02-26 | その他

1970年代後半~80年代前半の太平洋路線のノン・ストップ化の舞台は、アメリカ東海岸線へと移る。

今でこそ、東京―アメリカ東海岸のノン・ストップ運航など当たり前の時代だが、B747就航当時はいかにジャンボといえども、東京―ニューヨーク間を、ノン・ストップで運航することは困難であった。
当時、JALのニューヨーク線は、アンカレッジ経由で、ダグラスDC-10により運航されていた。

そして、この路線にB747-SPを投入し、往復ともノンストップでの運航を始めたのは、
またしても、あの「パンナム」であった。

B747-SP、(Special Performance)とは、B747の胴体を短縮して重量を減らし、さらに翼を改修することで航続距離性能を向上した短胴型の超長距離機である。


1976年4月25日、パンナムの1号機“Clipper Freedom(N531PA)”が、世界で初めて東京―ニューヨーク間のノン・ストップ便に就航した。
これにより、旅客の多くがパンナムに流れ、アンカレジ経由での運航を行っていたJALとノースウエストのライバル2社は大打撃を被った。


また、パンナムのB747-SPが、1976年5月1日から3日にかけて、ニューヨーク-ニューデリー-東京-ニューヨークの世界一周飛行を行い、46時間46秒の世界最速記録を作った。


画面は、 B747SP (N533PA) "Clipper Young America" PANAM ロゴの横には、"Flight 50: Around The World" のマークが描かれていた。羽田空港にて撮影。

さようなら、ジャンボ - (EXTRA ! )

2011-02-20 | その他

JALが導入した、歴代のB747のバリエーションを、時代を追って紹介している最中だが、本日、20日午後、B747-400D(Domestic-国内の“D”)のラストフライトとなるJAL1024便が、ラストフライトツアーの乗客450人を乗せて那覇空港から羽田空港に到着した。

このフライトの便名は、昨日19日に同機が羽田空港から北海道の新千歳空港に向かったJAL3152便とつなげると「最後に飛ぶよ」という語呂合わせになっているそうだ。

B747-400Dは、前号、‘さようならジャンボ(6)’で紹介した、“―SR”と同じく、B747-400の国内線仕様の最新型で1991年から就航し、8機が導入された。座席数は546。国際線仕様の747-400同様、初期のジャンボよりも1人少ない2人のパイロットで運航することが可能なほか、新型エンジンを採用することで燃費も改善している。JALでは2001年度から2005年度にかけてB747-400を40機以上運航していた。

ラストフライトに充てられた機体は、B747-400D(JA8084)。


3月1日(那覇→成田、ホノルル→成田)がラストとなる国際線仕様のジャンボより、ひと足早く本日、最後のフライトを終えた。 (>_<)



さようなら、ジャンボ - (6)

2011-02-20 | その他


当時、日本国内では、航空需要が年々高まる一方で、空港の処理能力や騒音問題などで安易に増便ができないという特殊事情を抱えていた。

ボーイング社は、高需要の短距離路線向けに特化したB747の派生型、-SR (Short Range・短距離)を、日本の航空会社に提案、それに応じてJALが発注、1973年10月、羽田―那覇路線に就航した。

空港へ乗り入れる便数を少なくする代わりに、一度に輸送できる旅客数(最大で550人)を多くするため、従来のB747-100を1~2時間程度の短距離飛行用に改良したのがSR型で、JALとANAの2社のみが、ボ社に発注した特殊仕様機である。

長距離飛行用の燃料タンクを撤去、離着陸を頻繁に行えるよう車輪を従来より強化、強力な冷却装置を取り付ける等の疲労破壊に備えた特殊加工が施された。

いよいよ国内線にも憧れのジャンボが飛ぶということで、私も羽田空港にかけつけ、ピカピカの新造機を目にし、その美しい巨体に惚れ惚れと見入っていたのを思い出す。


以降、JALのジャンボ機は急増し、遂には、世界一のジャンボユーザーになった。


さようなら、ジャンボ - (5)

2011-02-19 | その他



1970年7月1日、JAL、B747の一番機が320人の乗客をのせて午後9時39分、羽田空港からホノルルに向けて飛び立った。月曜、火曜、木曜、土曜のホノルル行き週4便と、木曜、土曜のホノルル経由ロサンゼルス行き週2便でスタートした。15日からはジャンボ3機を使って合計9便に増便する。

JALに、初めて引き渡されたジャンボは、初期型であるB747-100型(ダッシュ100)といわれるタイプであった。“-100”では、アメリカ西海岸から東京への直行も厳しく、ホノルル寄港が必要であった。

その後、この“-100”が原型となり、離陸重量やエンジン性能の向上により、航続性能を高めた“-200B”型が登場し、1971年、JALに4番機(JA8104)が導入され、アメリカ本土へジャンボがノンストップで飛んだ。

1970年7月の羽田-ホノルル線就航以来、JALのB747の就航路線は次々と広がり、北米線、北回り欧州線、南回り欧州線、アジア・中国線、オセアニア線、中南米線とJALのあらゆる航路に投入されることになる。



JALジャンボの1号機(JA8101)は、1970年4月22日にシアトルでBoeing社から引き渡されたが、そのまま、アメリカ、モーゼスレイクで乗員訓練に使用されたため、日本へ初上陸したジャンボは(1970年6月1日)、2号機(JA8102)であった。 画面は、JAL B747-100A(JA8102)、羽田空港にて撮影。




さようなら、ジャンボ - (4)

2011-02-15 | その他


日本初のジャンボ、B747-100型の1番機が羽田空港から飛び立ったのは、1970(昭和45)年、日本では大阪万博が開かれた。
「いざなぎ景気」がピークを迎えるなど、日本経済が最高潮に達した時代でもある。

庶民の夢だった海外旅行が一気に身近になった。大きくて、華やかで、夢がある“ジャンボ”は、大量生産、大量消費社会の象徴でもあった。


1970年のジャンボジェット導入を機に、JALは客室乗務員(スチュワーデス)の制服を一新する。
デザインは、世界の森英恵(ハナエモリ)。もちろん制服は、当時流行していたミニのワンピースである。(ミニスカートは1967年、イギリスのモデル、ツイッギーが来日しブームとなる)。

1970年8月、時を同じくして、テレビドラマ『アテンションプリーズ』が放送された。
日本航空の協力により制作された、航空業界が舞台のテレビドラマで、主演は紀比呂子。九州・佐賀出身の主人公が高校卒業後、スチュワーデス試験に合格して上京し、厳しい訓練を経て国際線スチュワーデスとして活躍するまでを描いた。



画面は、B747の客室最前(ノーズ)部、上級クラス(ファーストクラス、ビジネスクラス)席として使用された。ちょうどこの上に、コクピットがある。



さようなら、ジャンボ - (3)

2011-02-13 | その他


当時、太平洋路線でライバルであったPanAm(パン・アメリカン航空)の大量発注に対抗して、JALは、B747の導入を決断する。

これはジェット機の導入で遅れをとり、太平洋路線で大きな痛手を受けたことの教訓だった(JALは初のジェット機DC-8の路線就航が、PanAmのB707太平洋横断路線導入から11カ月遅れたことで、太平洋横断路線の乗客の多くは旧型プロペラ機のDC-7Cで運航するJALではなく、所要時間が短いB707のPanAmを選択したため、収益で大打撃を受け赤字に転落することを余儀なくされた)。

その一方で、当時の主力機材といえば一番大型の機体でも200人乗りのDC-8の時代に、その倍以上が乗れるB747の導入は、JALにとって、いわば「賭け」だった。

そしてPanAmから遅れること4ヶ月の1970年7月、JALは、B747を東京~ホノルル線へ投入した。





JAL decided to order B747s soon after Pan Am, which was JAL’s rival airline in the trans-Pacific routes, ordered 25 B747s in April 1966.

About ten years ago, Pan Am B707 was introduced in the trans-Pacific routes in 1959, when JAL still operated the old propeller DC-7 C. Because of the delay of the introduction of the jet liners, JAL was forced to run a deficit on the routes.

On July 22, 1970, Boeing delivered the first B747s to JAL. Three months later the aircraft was introduced on the Tokyo-Honolulu route.

It seemed, however, a big bet for JAL to introduce a passenger aircraft more than twice the size of JAL's biggest fleet DC-8 whose capacity was 200 passengers at that time.





さようなら、ジャンボ - (2)

2011-02-10 | その他

“ジャンボ”こと、Boeing 747型機は、1969年、アメリカのボーイング社によって開発された超大型旅客機である。



一度に多くの旅客を運ぶことで、1席あたりのコストを下げ、空の旅をより身近なものにした。
欧州エアバス社のA380が、2007年に就航するまでは世界一巨大な旅客機であった。

そもそも、B-747は、ボーイング社が、アメリカ空軍の次期戦略輸送機として設計した大型軍用輸送機(空軍はロッキード社 C5-A を採択)をベースとしており、1階を客席とし、2階にコクピットを置くデザインは、1970年以降、航空輸送の主力になると予想されていた、コンコルドなどの超音速旅客機の就航後は、貨物機に転用することを想定していたためである。

1970年、B-747の開発を後押し、大量発注した、パン・アメリカン航空が、太平洋路線にB-747を投入し、航空大量輸送時代の幕が開けた。

“ジャンボ”の愛称は、19世紀後半にロンドン動物園やバーナム・アンド・ベイリー・サーカスで活躍した有名なアフリカ象、ジャンボの名前に由来する。






The Boeing 747 (often referred to by the nickname Jumbo Jet after Jumbo, a famous elephant) is the first wide-body commercial aircraft, first to use the twin-aisle concept, manufactured by Boeing, U.S.A in 1969.

It was two and a half times the size of the Boeing 707 or Douglas DC-8, the common large commercial aircraft of the 1960s and being much larger than its predecessors meant a revolution in air transport.

First flown commercially in 1970, the 747 held the passenger capacity record for 37 years, until in October 2007 the Airbus A380 took over this position.

The history of the 747 started halfway the 1960s. Boeing lost the competition for the development of a large airlifter for the US Air Force in 1965 to Lockheed's C-5A Galaxy and sought ways to apply the experience gathered on this project to a big airliner.

In March 1966 the Boeing decided to go ahead with the 747 program and one month later Pan American World Airways announced the purchase of 25 aircraft.

The cockpit was placed on a shortened upper deck so that a freight-loading door could be included in the nose cone; this design feature produced the 747's distinctive "bulge".








さようなら、ジャンボ - (1)

2011-02-07 | その他

JAL、日本航空のボーイング747型機、通称“ジャンボジェット”が、国際線は2月28日のJL075便、ホノルル発成田行、国内線は3月1日のJL3098便、那覇発成田行をもって全機退役となる。

JALは、1970年の初就航から41年間、累計109機のジャンボを保有した世界一の航空会社であるだけに、「JALといえばジャンボ、ジャンボといえばJAL」というほどの存在感があった。

JALのフラッグシップとして41年もの間、空の旅を支えてきたジャンボであるが、経済的に非効率な機体であるという理由で、JAL再建の一環として退役が決定した。

私自身、ジャンボが日本の空を飛び始めて以来、ジャンボへの思い入れは特に深く、今後再び、馴れ親しんだJALのジャンボの姿を見ることができないと思うと実に寂しい。





JAL-Japan Airlines has announced it will operate the last Boeing 747 flight on February 28, 2011.

JAL has been a loyal and long-time operator of the Boeing 747 (41 years). JAL took delivery of the first Boeing 747 on April 22, 1970.

JAL is reorganizing in bankruptcy protection and will retire all remaining Boeing 747s.

The last scheduled B-747 international route now serves the Tokyo Narita-Honolulu route on February 28, domestic route Narita-Naha Okinawa on March 1st 2011.


It is hard to imagine JAL without B-747s and Ifeel very sad.






“Te Papa” の空を飛ぶ (終) - Conclusion

2011-02-05 | 海外



かつて、ニュージーランドは、「鳥の楽園」であった。

この島に先住民族マオリが移住してきたのは、今からおよそ1400年前。
その後、ヨーロッパからの入植者が移り住み、すべての人が平等な権利を有する国家を築くことを理想に掲げた。

彼らは、世界に先駆けて女性参政権の確立や最低賃金法など社会福祉政策を導入した。

一度は農地開拓によって破壊された自然ではあるが、 その後のすばやい対応により、国土の多くが自然保護地域に指定された。そこには、太古の自然の姿を取り戻そうという姿勢が強く感じられる。

また、反核を明確に打ち出し、原子力に頼らない生活を実現するため、エネルギー消費量を抑える努力が様々な形で行われている。核を持ち込む米国との軍事同盟も打ち切った。

ニュージーランドの建国の精神は、今も脈々と受け継がれているのだ。
自然の中で、そして日常の生活の中で、素朴なキーウィたちの暮らしは、私たちが忘れかけている生き方を再発見させてくれる。



“Te Papaの空を飛ぶ”と題して、9月から始めたニュージーランド・シリーズであるが、気がつくともう2月。半年近くもダラダラと続けてしまった。

おつきあいいただいたみなさまには、さぞ退屈されていることとおもいます。
最後に、ニュージーランド出身、デイム・キリ・テ・カナワの『May It Be』を聴いていただき、一先ず、幕を閉じることといたします。

長い間ご覧いただきありがとうございました。





“Te Papa” の空を飛ぶ (55) - Kapiti Island

2011-02-02 | 海外


カピティ島は、1897年、島全体が希少種の動物たちを絶滅の危機から救うための自然保護区に指定された。そして危険な哺乳類は全て駆除され、かつての巨大な降雨林の復元が進められた。

1980年以来、ニュージーランドの国鳥、リトル・スポッテッド・キーウィ、ウッド・ピジョン、スティッチバード、コカコ、タカヘ(大型のクイナの一種で進化の過程で羽が退化)、サドルバックなどが、この島に移された。

1日の上陸人数が厳しく制限されており、許可を受けた者だけが訪れることができる。事前に環境保全省の上陸許可を取得する必要がある。

現在、鳥類の個体数回復の場として、カピティ島はニュージーランドで最も重要な場所となっている。




Kapiti Island is now one of New Zealand’s most important sites for bird recovery.

Stitchbird, kokako, takahe, brown teal, and saddleback have all been transferred to Kapiti since the 1980s. Earlier releases (1890s to 1910s) included two types of kiwi and weka. The little spotted kiwi thrives on Kapiti Island.

Visitor numbers are strictly limited - access is only by licensed launch and a landing permit from the Department of Conservation is required.