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冬の日本列島を飛ぶ (終) - 日本アルプス

2012-04-22 | 中部

再び、W・ウェストンについて。

1888(明治21)年に来日して富士山や九州の山々、そして槍ヶ岳、穂高岳など数多くの日本の山々を登ったウェストンは、1895年に英国に戻る。
翌1896年、日本での登山を『日本アルプスの登山と探検』にまとめロンドンで発行したことはすでに述べた。

そして1902(明治35)年、再び来日する。今度は新婚の妻、フランシスと一緒であった。
1905年に帰国するまでの3年間は、横浜で牧師をするかたわら、主として南アルプスを中心に登山し
北岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰、地蔵ヶ岳、千丈ヶ岳などに登頂した。
日本山岳会設立を小島烏水らに勧め、日本山岳会が生まれたのもこの期間である。

1911(明治44)年、三度来日し、北アルプスの山々や富士山に登り、1915(大正4)年に帰国、これ以後、日本に来ることはなかった。

そして、2度目と3度目の滞日中の記録を中心にした第2の著書『The Playground of the Far East(極東の遊歩場あるいは日本アルプス再訪)』を1918年出版した。

ウェストンの第3の著書『A Wayfarer in Unfamiliar Japan (知られざる日本を旅して)』は、今までの山の紀行文とは異なり、ウェストンの日本論ともいうべきものであるが、これを読むと、彼が日本の山々だけでなく日本人そのものを深く愛し、日本人の国民性や風俗習慣にも深い関心を示していたことがわかる。


渓谷の美しさや鬱蒼とした原生林の光景などヨーロッパとは一味違う日本独自の自然美に魅せられたウェストンであったが、後年ロンドンで、心から愛した上高地に近代的なホテルができる、とある日本人から聞いた時、彼は眼に涙を一杯浮かべて黙ったまま窓から外を見ていたそうである。


1937(昭和12)年、ウェストンの喜寿を記念して、日本山岳会の手で記念碑がつくられ、上高地の梓川のほとりに建立された。




1940年、ウェストンはロンドンで永遠の眠りにつく。享年78歳であった。









冬の日本列島を飛ぶ (10) - 日本アルプス

2012-04-08 | 中部


『一外交官の見た明治維新』は、アーネスト・サトウが、1862(文久2)年に日本に来て、1869(明治2)年にイギリスに帰国するまでの回想録である。

明治維新前後の怒涛のように揺れ動いた時代が「外国人」の目から記されている貴重な史料である。

そのアーネスト・サトウが、日本の近代登山にも足跡を残している。

明治4年から15年までにおよそ31回、日本国内を旅行した。
『日本旅行日記』には、主だった街道の旅行記を含め、南アルプスや奥秩父山系など各地の登山の記録も載っている。

南アルプス登山は、明治14年のことなので、ウェストンの赤石岳登頂よりも11年も早い。
農鳥岳から間ノ岳まで登ったものの、北岳には登らず下山してしまった。外国人としての北岳初登頂は、21年後のウェストンに譲ったわけだが、南アルプス登山の最初の開拓者であることに間違いはない。




冬の日本列島を飛ぶ (9) - 日本アルプス

2012-03-25 | 中部

アーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、幕末から明治にかけて、長く日本と関わりのあったイギリスの外交官である。
この時代の歴史小説を読むとイギリス駐日公使パークスの名とともに彼の名前がよく出てくる。

サトウは1843年ロンドンに生まれた。1862年、英国駐日公使館の通訳生として横浜に着任。生麦事件が起こる直前であった。
その後「薩英戦争」、「下関戦争」では、流暢な日本語を武器に、通訳として活躍。木戸孝允、高杉晋作、西郷隆盛、伊藤博文、井上馨、勝海舟など多くの人物とも交流している。


一方、アーネスト・サトウは日本研究の第一人者としても知られており、日本中を旅行しながら多くの日本の山に登った。






冬の日本列島を飛ぶ (8) - 日本アルプス

2012-03-20 | 中部


「日本アルプス」という、いみじくも名づけられたこの大山脈に私がはじめて興味を覚えたのは、数年前、その山々の景観をしきりに褒めそやしているチェンバレン教授のお話を聞いてからである。私は何度も現地を訪れて、そのたびに新しい風景の美しさ、雄大さを発見した。それは全体の八分の七を山地が占めている日本の国土でも、ほかでは見られないほどのものである。しかしこのあたりを旅行するのがきわめて困難なので、この天然の砦は、日本の国がかつて人為的に孤立していたのと同じように、自然によって隔絶された「秘境中の秘境」だったのである。しかし、日本国中どこへ行っても、これほど多様な自然の美しさに恵まれたところはない。というのは、この山々の斜面には氷河こそないが、それ以外は豊富な亜熱帯植物から高山性の雪にいたるまで、ないもののほうが珍しいからである。富士が白雪のマントを脱ぎすてて青ぐろい山肌をあらわすときも、飛騨山脈の巨大な花崗岩の山腹には残雪がまぶしく光っているのである。
(ウェストン著・青木枝朗訳『日本アルプスの登山と探検』より)





当時、ウェストンより先に来日していた英国人は、いずれも例外なく旅と山を愛して、富士山や中部地方の山岳地帯について知見をもっていた。

ラザフォード・オールコック、ハリー・パークス夫人、ロバート・ウィリアム・アトキンソン、アーネスト・サトウ、ウィリアム・ゴーランド、バジル・ホール・チェンバレン、ジョン・ミルン、イザベラ・バードなどである。









冬の日本列島を飛ぶ (7) - 日本アルプス

2012-03-10 | 中部

飛騨の山域をはじめて「日本アルプス」と呼んだのは、お雇い外国人ウィリアム・ゴーランドだが、それを単行本の表題に用いたのはウォルター・ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』が最初で、これをきっかけに「日本アルプス」という呼称がしだい広く通用するようになった。

ウォルター・ウェストン(Walter Weston)は、1861年(万延元年)12月25日 - イギリスのダービー市に生まれた。ケンブリッジ大学を卒業。リドレー・ホール神学校に学び、イングランド国教会の聖職につく。

1888年(明治21年)に、宣教師として日本を訪れ、熊本、神戸の教会に在籍し、その間1890年には富士山をはじめ九州の阿蘇山、祖母山、霧島山、桜島山等に登った。

1891年から1894年にかけて中部地方の山岳地帯を集中的に旅し、その山旅で見た情景と感慨を『MOUNTAINEERING AND EXPLORATION IN THE JAPANESE ALPS』(日本アルプスの登山と探検)と題して1896年にロンドンの出版社から刊行した。








冬の日本列島を飛ぶ (6) - 日本アルプス

2012-02-28 | 中部

ヨーロッパ・アルプスにちなんで、初めて“日本アルプス”という言葉を使ったのは、イギリス人のウイリアム・ゴーランド(William Gowland, 1842-1922)である。
ゴーランドは、1872(明治5)年、明治新政府から招聘を受け大阪造幣局の冶金技師としてやってきた「お雇い外国人」であり、本務の傍ら、登山家として槍ヶ岳等の名山にも数多く登り、著書『日本案内(1881年)』で飛騨山脈のことを「日本アルプス」と呼んだ。

後にW・ウェストンが赤石山脈を「南アルプス」と呼び、更にその後、小島烏水が木曽山脈を「中央アルプス」と名づけたといわれている。

飛騨山脈は今では「北アルプス」と呼ばれ、中部山岳地帯に連なるこの三つの山脈を総称して「日本アルプス」と呼んでいる。






冬の日本列島を飛ぶ (5) - 日本アルプス

2012-02-25 | 中部


登山家・岡野金次郎がイギリス人宣教師で登山家のウォルター・ウェストンと交友が始まったのは、岡野の勤務先スタンダード石油会社の横浜事務所で、支配人から、ちょうど通りかかった岡野に、W・ウェストンの『日本アルプスの登山と探検』の英文原書を紹介されたことがきっかけだった。

明治35年、岡野は小島烏水とともに槍ヶ岳登山を果たした。
霞沢を溯行して霞沢岳に登ってから上高地に下って槍ヶ岳に向かうというルートであった。

W・ウェストンの著書を読んだ岡野は、実は既に明治25年に、W・ウェストンは、平湯から安房峠を越えて徳本峠を経て上高地入りし、槍ヶ岳登山を果たしていることを知る。

驚いた岡野は小島烏水に連絡し、著者ウェストンを捜すと、なんと自分達の住んでいる横浜にいることが判った。

苦労して登った槍ヶ岳を、W・ウェストンはもう10年も前に楽なルートから登っていたのだった。岡野らは情報収集力の違いに愕然とした。

澄み渡る皐月の空を飛ぶ (12) - 美ヶ原

2010-05-22 | 中部



「霧の子孫たちがやらねばならない仕事はいっぱいあるでしょう。諏訪湖を生き返らせること、諏訪の澄んだ空気を工場の煙でよごされないようにすること。そうね、諏訪だけのことではないは、長野県全体、日本全体の霧の子孫たちが手をつないで、自然を守る運動を起こさないと日本の自然はほんとうに亡びてしまうかもしれないわね」

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)




有料道路反対運動に立ち上がったのは、「諏訪の自然と文化を守る会」を主催している考古学者の藤森英一氏、産科婦人科医青木正博氏、諏訪清陵高校理科教師牛山正雄氏であった。

この反対運動は日増しに拡がり、やがて全国的な注目を集めた運動が展開された。

結局、建設自体は覆らなかったが、八島ヶ原湿原と旧御射山遺跡を避ける「南回りルート」に変更された。

遺跡も湿原も一応は守られた。



当時自然破壊の問題は日本各地に起こっており、日に日に日本の自然と文化遺産が観光開発の名のもとに失われて行く中にあって、諏訪市における、この反対運動の成功はたいへん珍しいことであったという。


霧ヶ峰の麓の村、諏訪市角間新田に生まれ育った新田次郎氏は、1970(昭和45)年に、この事件を題材とした小説『霧の子孫たち』を書いた。

氏は、この小説のあとがきで、「霧ケ峰に有料道路が出来、なだらかな起伏が続く大草原が、コンクリートの道路によって分断されたのみならず、その延長路線が、旧御射山遺跡と七島八島の高層湿原地帯を通る予定だと聞かされたときは、身体が震えるほどの怒りを覚えた。なぜ貴重な自然や遺跡を破壊してまで、観光目的の有料道路を造らなければならないのだろうか。私は長野県の方針に疑問を持った」と述べている。

小説『霧の子孫たち』は、自然保護運動の記念碑的作品として読みつがれている。





晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (11) - 霧ヶ峰

2010-05-20 | 中部

「草原の植物は連帯して生存しているものです。特に霧ヶ峰草原の植物はその連帯性が強く、群生しているところに特徴があります。連帯共存している植物群落に有料道路というメスを入れれば、植物は必ず死にます。このビーナスラインの延長には、キリガミネヒオウギアヤメのほか数十種類の貴重な植物の群落があります。有料道路を造れば、それらの群落は分断され、死滅することは確実です。植物を分類すると、門-網-目-科-属-種に分かれます。キリガミネと頭につく植物はこの種に当たります。あらゆる科学的根拠から四千年ないし五千年前に交雑して出来た種類と考えられます。その霧ヶ峰にしかいないという植物が、二十種近くあるのです。亡びたら、二度と帰らない自然なのです。有料道路を取りやめることはできないものでしょうか」
牛島春雄は、小林に向かって哀願するように言った。

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)




1964(昭和39)年5月10日に、中信高原スカイライン、愛称「ビーナスライン」が、長野県企業局により茅野-蓼科-白樺湖間が開通した。
さらに1968)(昭和43)年7月21日には、白樺湖-霧ヶ峰強清水間、11.7kmが竣工。

引き続き、八島線が旧御射山遺跡を通って、八島ヶ原湿原のへりをかすめて建設されようとしたとき、道路建設計画が自然や文化などの破壊になるとして、この有料道路建設に疑問の目を向けていた「諏訪の自然と文化をまもる会」を中心とした県下の学者や文化人・住民などによる、猛烈な反対運動が起こった。


晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (10) - 霧ヶ峰

2010-05-19 | 中部


沢渡りを越えたところの斜面はレンゲツツジに覆われていた。冬の姿がそのまま残されている枯草を下敷きにして、赤い花は空に向かって開いていた。高原の春の花がすべてそうであるように、レンゲツツジも花がまず咲き、葉はそのあとを追いかけるように緑の面積を拡げて行くように見えた。ここでは花の存在が大きく、その葉はすべて隠れて見えた。斜面を覆い尽くしている強烈な赤い色は平面的なつながりを持って、稜線を乗り越えようとしている一方、赤い色のなだれが音を立てて、沢を埋め尽くそうとしているようであった。
沢には清冽な水の囁きがあり、沢を形成する背の低い樹叢は萌黄色に包まれていた。

(新田次郎著『霧の子孫たち』より)





「霧ヶ峰」は、フォッサマグナ地溝帯の中に、八ヶ岳連峰とほぼ同時代に噴出した霧ヶ峰火山の溶岩流によって形成された。その後さらに火山灰をかぶり、現在のような主峰・車山(1925m)を中心とする標高1500~1900m、東西10km、南北15kmに広がる緩やか高原状台地を形成した。

なだらかな稜線の美しさは、植物の豊かさとともに霧ヶ峰の魅力のひとつとなっている。

霧ヶ峰台地には、ニッコウキスゲで有名な草原が広がり、その中に天然記念物に指定されている「八島ヶ原湿原」「車山湿原」「踊場湿原」の三つの高層湿原がある。

霧ヶ峰の高層湿原は、本州の南限に当り、特に八島ヶ原湿原は尾瀬ヶ原よりも泥炭層が発達しており、約8.1m、およそ1万年以上かかり現在のような湿原になったといわれている。


霧ヶ峰には、踊場湿原近くの「ジャコッパラ遺跡」、「池のくるみ遺跡」、旧御射山神社近くの「八島遺跡」、その他、「物見岩遺跡」や「雪不知遺跡」など、今から約3万年~1万年前の旧石器時代の遺跡が点在しており、全国屈指の黒曜石産地としても有名である。

また、八島ヶ原湿原のそばにある「旧御射山(もとみさやま)遺跡」は、中世に諏訪神社下社の狩猟神事が行われた祭祀遺跡で、中央の祭場と競技場を取り囲んで階段状の桟敷が設けられており、鎌倉時代には全国の武士達が集まり盛大に流鏑馬などの奉納射技が行われたという。



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (9) - “北八ッ”

2010-05-18 | 中部

八ヶ岳の細長い主稜線は、普通夏沢峠によって二分され、それ以北が「北八ッ」という名で登山者に親しまれるようになったのは、近年のことである。北八ッの彷徨者山口耀久君の美しい文章の影響もあるだろう。八ヶ岳プロパーがあまりに繁昌して通俗化したので、それと対照的な気分を持つ北八ッへ逃れる人がふえてきたのかもしれない。

四十年前、私が初めて登った時は、八ヶ岳はまだ静かな山であった。赤岳鉱泉と本沢温泉をのければ、山には小屋など一つもなかった。五月中旬であったが登山者には一人も出会わなかった。もちろん山麓のバスもなかった。

建って二、三年目の赤岳鉱泉に泊り、翌日中岳を経て赤岳の項上に立った。横岳の岩尾根を伝って、広やかな草地の硫黄岳に着き、これで登山が終ったとホッとしたが、それが終りではなかった。そのすぐあとに友の墜落死というカタストロフィーがあった。

今でも海ノ口あたりから眺めると友の最後の場であった硫黄岳北面の岩壁が、痛ましく私の眼を打ってくる。

(深田久弥 著『日本百名山』より)

晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (8) - 八ヶ岳高原

2010-05-16 | 中部


八ヶ岳のいいところは、その高山地帯についで、層の厚い森林地帯があり、その下が豊かな裾野となって四方に展開していることである。五万分の一「八ヶ岳」図幅は全体この裾野で覆われている。頂稜から始まる等高線が、規則正しく、次第に目を粗くしながら、思う存分伸び伸びと拡がっている見事な縞模様は、孔雀が羽を拡げたように美しい。そしてその羽の末端を、山村が綴り、街道が通り、汽車が走っている。

その広大な斜面は、野辺山原、念場原、井出原、三里原、広原、爼(まないた)原などに区分されて、一様のようでありながら、それぞれの個性的な風景を持っている。風景というより、むしろ雰囲気と言おうか。例えば高原鉄道小海線の走る南側の、広濶な未開地めいた素朴な風景と、富士見あたりの人親しげな摺曲の多い風景とは、どこやら気分が異なる。高原を愛する逍遙者にとって、八ヶ岳が無限の魅力を持っているのは、こういう変化が至る所に待っているからだろう。

昔は信仰登山が行われていたというが、現在ではそういう抹香臭い気分は微塵もない。むしろ明るく近代的である。阿弥陀とか権現とかいう名前さえも、私たちに宗教を思いおこさせる前に、ヨーデルの高らかにひびく溌剌とした青年子女の山を思い浮ばせる。

それほど八ヶ岳は若い一般大衆の山になった。広濶な裾野、鬱然とした森林、そして三千米に近い岩の頂――という変化のあるコースは、初心の登山者を堪能させる。しかもその頂上からの放射線状の展望は、天下一品である。
どちらを眺めても、眼の下には豊かな裾が拡がり、その果てを限ってすべての山々が見渡せる。すべての山々? 誇張ではない。本州中部で、この頂上から見落される山は殆んどないと言っていい。

(深田久弥著『日本百名山』より)



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (7) - 八ヶ岳・赤岳

2010-05-15 | 中部



最高峰は赤岳、盟主にふさわしい毅然とした見事な円錐峰である。ある年の十一月初めの夕方、私は赤岩(硫黄岳西南の二六八〇米の岩峰)の上から、針葉樹に埋れた柳川の谷を距て、この主峰を眺めたことがあるが、降ったばかりの新雪が斜陽に赤く、まるで燃えているように染まって、そのおごそかな美しさといったらなかった。

  岩崩(く)えの赤岳山に今ぞ照るひかりは粗し眼に沁みにけり  島木赤彦


(深田久弥著『日本百名山』より)



晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (6) - 八ヶ岳連峰

2010-05-13 | 中部


中央線の汽車が甲州の釜無谷を抜け出て、信州の高台に上り着くと、まず私たちの眼を喜ばせるのは、広い裾野を拡げた八ヶ岳である。全く広い。そしてその裾野を引きしぼった頭に、ギザギザした岩の峰が並んでいる。八ヶ岳という名はその頭の八つの峰から釆ているというが、麓から仰いで、そんな八つを正確に数えられる人は誰もあるまい。

芙蓉八朶(富士山)、八甲田山、八重岳(屋久島)などのように、山名に「八」の字をつけた例があるが、いずれも漠然と多数を現わしたものと見なせばいいのだろう。克明にその八つを指摘する人もあるが、強いて員数を合わせた感がないでもない。詮索好きな人のために、その八峰と称せられるものを挙げれば、西岳、網笠岳、権現岳、赤岳、阿弥陀岳、横岳、硫黄岳、峰ノ松目。

そのうち、阿弥陀岳、赤岳、横岳あたりが中枢で、いずれも二千八百米を抜いている。二千八百米という標高は、富士山と日本アルプス以外には、ここにしかない。わが国では貴重な高さである。この高さがきびしい寒気を呼んで、アルピニストの冬季登山の道場となり、この高さが裸の岩稜地帯を生んで、高山植物の宝庫を作っている。

(深田久弥著『日本百名山』より)




晴れ渡る皐月の空を飛ぶ (5) - 八ヶ岳山麓・野辺山

2010-05-12 | 中部

奥多摩湖のダムの犠牲となって清里に来た開拓者たちを熱心に指導した人物がいた。

山梨県耕地課八ヶ岳開墾事務所長・安池興男氏(やすいけ・おきお)である。


氏は営農の経験がなく、不安に駆られる人々に種を与え、農具を与え、作物の作り方を指導した。出来た作物を甲府で売るために、宿泊場所として官舎まで提供した。

山梨県の八ヶ岳開墾事業として、この地に入り、事務所長として清里の開拓者たちを熱心に支援した。入口にむしろをたらすだけの小屋を建て、原野を鍬一丁で開墾し、ともすれば挫けそうになる人々を支え続けた。

寒さのために部屋の中で燃やしている松ヤニの臭いが体に染みつき、子どもたちが学校でいじめられていることを知ると、私財を投じて分教場を建設した。

上司との軋轢の中で、広島への栄転を断り、役人としての出世を投げ打ってまで清里にとどまり、開拓者たちと共に清里の開拓に尽力した。

国からの補助が乏しい中で始まった開拓事業は困難を極めたが、安池氏と彼を強く信頼してきた開拓者たちは必死に清里の荒地を開墾した。


現在清里八ヶ岳地区にある公民館は安池興男氏の「興」の字をとって、八ヶ岳興民館と名付けられた。彼の存在はダムの底となった村から来た清里の開拓者たちにとって大きな存在となった。

清里駅を下り、国道141号に出た所に観光施設「萌木の村」がある。
その奥にある「八ヶ岳霊園」には、この地に入植し開拓された方々が眠っている。

霊園中央には開拓を指導し成功に導いた故安池興男氏夫妻を讃える恩賜の碑がある。
墓石は湖底となった故郷奥多摩湖を向いているという。

碑の背面には氏の言葉が刻まれている。

「感激の至情、楽土を拓く 興男」