Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

五島列島を飛ぶ (9) - 中通島

2010-07-30 | 九州

鉄川与助

1879(明治12)年、五島列島、中通島・青方村に、大工の棟梁・鉄川与四郎の長男として生まれた。

幼くして父のもとで大工修業を積んだ与助は、17歳になる頃には一般の家屋を建てられるほどの技術を身につけていた。

やがて、フランス人のペルー神父が監督・設計にあたった五島・曾根天主堂の建築を手伝うことになる。与助21歳。西洋建築を見たことがない与助は、神父から西洋建築の手ほどきを受けて、「リブ・ヴォ-ルト天井(コウモリ天井)」の建築方法を学んだという。
与助には、すべてのことが驚きであり、新鮮であった。

力量を認められた与助は、次に、鯛ノ浦天主堂、堂崎天主堂の建造に携わる。そして翌年には五島冷水に天主堂を建設する。これは与助が棟梁として設計・施工した記念すべき最初の木造の天主堂であった。内部にはペルー神父から学んだ「リブ・ヴォ-ルト天井」が広がる。

内装はまだ装飾が少なくシンプルな造りだが、ここから日本で唯一の教会建築家となる鉄川与助の本格的な仕事がスタートする。





Yosuke Tetukawa was born in a traditional carpenter's family in Nakadori Island, Goto Retto (archipelago) in 1879 (Meiji 12).

Yosuke constructed many Catholic church buildings, supported and guided by the missionaries.

Yosuke received a strong influence from foreign missionaries.

Around the 1890s, he constructed church buildings like Sone, Tainoura and Dozaki, under the direction of the French missionary priest Albert Charle Arsene Pelu .


五島列島を飛ぶ (8) - 中通島

2010-07-28 | 九州


明治新政府によるキリスト教弾圧は諸外国からの度重なる非難や抗議を招くことになり、内政干渉であると突っぱね続けていた政府も、1873(明治6)年3月、ついに屈服し江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれることとなる。

禁教政策から解放され、信仰の自由を許されて、潜伏生活から教会へ復帰した信者たちの切なる願いは、天主堂を建てることであった。

潜伏していたキリシタンたちが、教会に復帰し、信者が増えていくにしたがい、多くの信者を収容できる建物が必要となった。

日本に派遣された神父たちの多くは、神学以外のさまざまな分野においても、高度の教育を受けてきた者たちであり、彼らの手により次々と天主堂が建設されていった。

明治の終わりから大正初期にかけて、九州各地は天主堂建設のラッシュを迎え、信者たちは天主堂完成の喜びにわいた。

その声を嬉しそうに聞いているひとりの男がいた。
その男こそ、天主堂の多くを手がけた棟梁その人であった。

名は、鉄川与助。

1879(明治12)年、五島列島、中通島・青方村に、大工の棟梁・鉄川与四郎の長男として生まれた。




五島列島を飛ぶ (7) - 奈留島

2010-07-25 | 九州

五島列島のほぼ中央、人口4600余りの奈留島。

入り江の岸壁につながれた巻き網漁船が十数隻、柔らかな日差しを浴びてゆったりと波間に揺れている。

そこから椿の花が咲く緩い坂道を20分ほど上がり詰めたところに、長崎県立奈留高がある。
校門を入ると、高さ2.5メートル、高さ2メートルの御影石製の碑が建っていて、こんな歌詞が刻まれている。


風がやんだら 沖まで船を出そう
手紙を入れたガラスびんを持って
遠いところへ行った友達に
潮騒の音がもう一度届くように
今 海に流そう


そう、あのユーミン、松任谷由実さんの「瞳を閉じて 」だ。
デビュー間もない22年前、ひとりの女生徒の手紙をきっかけにプレゼント。
奈留高の愛唱歌として、今も歌い継がれている。

「ほんの気まぐれ、遊び心だったんです。なのに有名になってしまって、だから照れ臭い思いです」
1975年卒業で、今は東京・葛飾区に住む二児の母、Aさん(39)は、懐かしそうに振り返った。

当時の奈留高は、南側の福江島にある県立五島高の分校。
本校の校歌は奈留島とは縁遠かった。
2年生の冬、Aさんはラジオの深夜番組に投稿した。
思いがけず、願いはかなった。
曲は校内放送で何度か流れた。

だが、さして話題になることもなく、校歌にするのも「フォーク調なので」と職員会議で見送られた。
Aさんも、ユーミンから届いた楽譜とテープを自宅の机にしまい込んだまま、卒業と同時に上京した。
「こんなちっぽけな島から早く飛び出したい、自由に振る舞える都会で暮らしたい、とばかり考えていたんです」

レストランのウエートレスをしながら夜間の短大へ。就職、そして結婚。
里帰りするのは2、3年に一度ほどになり、国訛りもいつしか消えた。
あれほど大はしゃぎした「瞳を閉じて」だったのに、口ずさむことさえ少なくなった。

そんなある日、電話があった。
島に残って、郵便局の配達員をしている同級生のBさん(39)からだった。
「あの歌、全国の音楽の教科書に載ることになったで。歌碑ば造って、ユーミンも呼ぼうで」

Bさんの呼び掛けに、同級生ら600人から100万円を超すお金が寄せられた。
碑の除幕式は、88年8月14日に行われた。
Aさんら島を離れた卒業生も久しぶりに集まった。

ブラスバンドの演奏に迎えられたユーミンは、碑を見て、教室から海を眺めて、
「あ、私の字。えっ、詞と同じ風景じゃないの」とつぶやき大粒の涙をこぼした。
「あの時のユーミンの感激ぶり、B君らの輝いた顔、忘れません。

今も思い出すたび、ふるさとっていいなって気持ちになるんです」
Aさんは、時折、目をつむり、しみじみと話した。

その後、奈留高では卒業式や終業式、記念行事で、「瞳を閉じて」をみんなで合唱するのが恒例となった。

今年は3月1日、60人が学び舎を巣立つ。
島に残るのは、地元の銀行や病院に勤める3人だけ。
進学に就職に、57人は桜がほころびかけるころ、島を後にする。
親しんだメロディーを心の糧に-。



霧が晴れたら 小高い丘に立とう
名もない島が見えるかもしれない
小さな子供にたずねられたら
海の碧さをもう一度伝えるために
今 瞳を閉じて


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取材の終わりに会ったユーミンは、奈留島をしっかり覚えていた。
「手紙からイメージを膨らませ、遠くに行った友達へメッセージを送るつもりで作ったんです。
時々、奈留島の風景がフラッシュバックします。
あんなにきれいなふるさとがあるのは幸せ。
都会に出ても、『あの美しさを残したい』という思いを大切にしてほしいですね」

(以上 読売新聞より)


Naru Island is a small island of the Goto Islands (archipelago) in the Nagasaki prefecture.
In 1974, one school girl of this island wrote a letter to Yumi Arai (her nickname: "Yuming" ), a famous Japanese singer and song writer. The letter said that this high school had no original school song and that she wanted Yuming to write a school song.

“Hitomi wo Tojite” which means “close your eyes”, was written by Yuming for this school students.

It’s such a beautiful song!







五島列島を飛ぶ (6) - 久賀島

2010-07-19 | 九州

六坪の広さに二百余命ものキリシタンが押し込められた猿ヶ浦の牢は、悲惨を極めていた。最初の数日間は、ただ押しあって立ちつづけていたが、ともすると子供は眠ってずり落ち、親は引き上げようと苦労した。大人たちも立ちづめで脚が腫れ上がり、精根尽きて窒息死する者もでてきたため、板で仕切られた男女の牢にそれぞれ丸太を差し入れてもらって更に二つに仕切り、一方に隙なくぎっしりと人を詰め込み、もう一方の側に交代で座って休むことにした。しかし、便所すらない牢内の不潔さは一方で、衣服や髪には蚤虱がわき、土間には蛆がひろがって、体を伝いのぼって来る有様だった。拷問でうけて傷口に蛆がわき、生きながら肉を喰い破られる者も少なくなかった。老人や体の弱い者は次つぎに倒れ、稚いマリア・タキも熱病にかかって髪が抜け落ち、すっかり痩せ細っていた。もう立つことも出来ず、まるで影のように板壁にぐったりと寄りかかっていた。
(森禮子著『五島崩れ』より)




1867(慶応3)年に起きた「浦上四番崩れ」の後も、明治政府は、キリシタン禁制を続行。五島では翌年の明治元年1868(明治元)年9月、久賀島でキリシタン迫害が始まる。いわゆる「五島崩れ」である。
フランス人宣教師であるプティジャンの書簡には、この時の様子が次のように記されている。

「只今、数名の信者が腸を断つばかりの報告を齎して五島から参りました。南五島の小さな久賀島では、男女合わせて百九十名ほど一軒の牢屋に閉じ籠められ、背教を肯じない為に一ヶ月前から酸鼻見るに忍び難き責め苦を加えられています。すでに九名は非命の死を遂げ、他は長い長い死苦のうちに消え失すべき運命に置かれているのです」


牢内に囚われること8ケ月,一般信者はすぐ解放された が,指導的立場の信者が解放されたのは,それから2年余 後だった。
その間牢内で死亡した者39人,出牢後死亡した 者4人を数えた。
 

1969(昭和44)年,九州電力発電所の建物を利用し,殉教 者顕彰のための聖堂が創設された。その後1984(昭和59)年 記念聖堂が建立され,牢跡には殉教記念碑が建てられてい る。







About 100 kilometers west of Nagasaki Prefecture, Western coast of Kyushu, more than100 islands are floating in the eastern end of East China Sea. The group of these islands is called the Goto (five islands) Islands. It’s five main islands are Fukue , Hisaka , Naru , Wakamatsu , and Nakadori Island.

The Islands were a historically important center for transportation between Japan and mainland China, and served as the last stop for a ship carrying a Japanese envoy that crossed the sea on its way to Tang Dynasty China in 804.

The Goto Islands are also known as a place many inhabitants converted to Christianity before and during the Edo period (1603-1867) as a result of the efforts of European missionaries, so we can see numerous Catholic churches everywhere on the islands.




五島列島を飛ぶ (5) - 久賀島

2010-07-15 | 九州


日本人たちはもっと近くまでやってきたようだ。間ぢかで祭壇や祭壇の上の金色の十字架、燭台をしかと見ようというわけか、そして教会の外でこわごわ待っている仲間に得意気に報告するわけか。
「こがんごと、おかしか物の並んどったばい、ありゃ、なんて言うとじゃろね」
その会話までがプチジャンには耳に聞えるようだった。その時、
「異人さま・・・。うちらはみな・・・異人さまと同じ心にござります」
女の声だった。中年の女の声だった。女がすぐ背後で重大な秘密をうちあけるように、小さくささやいた。
「異人さま。うちらはみな・・・異人さまと同じ心にござります」

その言葉の意味さえわからぬほど彼は茫然としていた。そしてその意味が摑めた瞬間、彼は太い棒で頭を撲られたような衝撃をうけた。
「彼ら」なのだ。「彼ら」が今、遂にあらわれたのだ。女はたずねた。
「異人さま。サンタ・マリアさまの御像は、どこ」
プチジャンは立ちあがろうとしたが立ちあがれなかった。あまりの烈しい感動に彼は身動きをすることさえできず、
「サンタ・マリアの・・・像・・・」彼は呻くように言った。
「来なされ」

(遠藤周作著『女の一生』より)




黒船来航(1853年7月)以来、次々と西洋の列強と和親条約が結ばれ、長崎の「踏み絵」は廃止されたり、フランスとの慰留民のために、大浦天主堂'(フランス寺)が創建されたりした。
およそ250年ぶりに、隠れキリシタンが日の目を見ることになるのだが、この時、幕府時代の禁教政策は続いていたのである。神道国教主義の政治方針で進もうとしている明治政府は、キリシタンを認めなかったのだ。

「四番崩れ」は、浦上の信徒たちが大浦のフランス寺に プティジャン神父を訪ね、自分達の信仰を明らかにした後、寺での葬儀を拒んだために、キリシタンであることが明るみに出て、1868(慶応4)年から、1873(明治6)年までの5年間、名古屋以西の十万石以上の大名20藩 22ヵ所に浦上の信徒が分散して流された。
「旅」とよばれるその間、流刑地では、飢えと、改宗をせまるはげしい拷問の言語に絶する悲惨な生活を強いられたのである。

移送された村人3394名。そのうち最後まで苦しみに耐えた者1900名。帰村を許された時には613名の殉教者、実に5分の1の村人が命を失った。


この歴史事実を題材にしたのが、遠藤周作の『女の一生』である。

冒頭の一節は、1865年3月17日、プティジャン神父が日本のキリシタンと初めて出遭った『信徒発見』と呼ばれる場面である。






五島列島を飛ぶ (4) - 久賀島・奈留瀬戸

2010-07-13 | 九州


日本に初めてキリスト教が伝えられたのは、1549年、カトリックの修道会である「イエズス会」の創設メンバーであったフランシスコ・ザビエルが来日したことが最初とされている。

信長、秀吉による天下統一の過程で一時容認された時期もあり、その教えを広めて行く。

1587年、秀吉が伴天連(バテレン)追放令を出した後、1596年「日本二十六聖人殉教」等の苦難の中でも、伝導は続けられた。

しかし1614年、家康は、増えるキリスト教の信者の力をおそれ、キリスト教の信仰の一切を禁止する「禁教令」を発令する。
以来1626年からは踏絵による「宗門改め」が行われるなど、厳しい迫害は、1873年(明治6年)に解禁されるまで続いた。


この激しいキリスト教徒への迫害と探索の結果、キリスト教徒は日本から姿を消したと言われたが、長崎では秘かに信仰を続ける「隠れキリシタン」の存在があった。表向きには仏教徒を装い、潜伏したのである。



隠れキリシタンが見つけられ処刑されたできごとを「崩れ」と言う。

中でも長崎浦上村で起きたものが、浦上一番崩れ(1790)、浦上二番崩れ(1842)、浦上三番崩れ(1856)と呼ばれているが、浦上四番崩れ(1867)の弾圧はとりわけ悲惨なものであった。



五島列島を飛ぶ (3) - 久賀島

2010-07-10 | 九州


5つの島を中心に大小140あまりの美しい島々からなる五島列島。
五島列島はまた、「隠れキリシタンの里」としても知られる。
島々には50ものキリスト教会が点在している。

五島のキリスト教徒の大半は、江戸期に九州本土・西彼杵郡および外海地方から開拓農民として集団移住してきた隠れキリシタンをその祖としている。
禁教時代の末期にはキリスト教信者に対し、数百人の信者が殉教したといわれるほどの激しい迫害が行われた。それは後に「五島崩れ」と呼ばれる。
明治に入り禁教令が解除されると、次々と多くの教会が建てられた。

画面の久賀島(ひさかじま)は、五島列島の中では福江島・中通島に次いで3番目に大きい島で、福江島の北東、奈留島の南西に位置する。福江島とは田ノ浦瀬戸、奈留島とは奈留瀬戸が隔てる。海岸線はリアス式海岸になっていて、島の北側から中央にかけて久賀湾が大きく侵入し、島はU字形をなし、湾奥に中心集落の久賀がある。島の南西には田ノ浦港があり、古くは遣唐使の寄泊地ともいわれている。

島内の集落は江戸時代に大村藩から移住したキリシタンの集落が多い。1868年(慶応4)キリシタン弾圧による「五島崩れ」があり、大開(おおびらき)付近の牢屋で残酷な責めにあったことにちなむ「牢屋の窄(さこ)」とよばれるキリシタン史跡がある。
また、日本の建築技術の粋が結晶化した木造の「旧五輪教会」(明治14年)の内観は、見事な木造ゴシック様式で圧巻。国の重要文化財に指定されている。


五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年冬、初めてここを訪れ、海の見える丘の上の墓地にたたずんで、先祖の苦難の歴史をしのびながら、過去から現在、現在から未来へと続く自分の血の流れを意識して、名曲『時の流れにー鳥になれ 』を生み出した。

 “鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ“





五島列島を飛ぶ (2) - 久賀島

2010-07-07 | 九州

列島の最南端に、福江島がある。北方の久賀島と田ノ浦瀬戸をもって接している。船団はこの瀬戸に入り、久賀島と田ノ浦に入った。田ノ浦は、釣針のようにまがった長い岬が、水溜りほどの入り江をふかくかこんでいて、風浪をふせいでいる。
この浦で水と食糧を積み、船体の修理をしつつ、風を待つのである。
風を待つといっても、順風はよほどでなければとらえられない。なぜなら、夏には風は唐から日本へ吹いている。が、五島から東シナ海航路をとる遣唐使船は、六、七月という真夏をえらぶ。わざわざ逆風の季節をえらぶのである。信じがたいほどのことだが、この当時の日本の遠洋航海術は幼稚という以上に、無知であった。逆風に遭遇すれば船は覆らざるをえないのだが、ほとんど迷信のように真夏をえらび、しばしば遭難した。秋になれば、風は日本から唐土に吹き、この航路にとって順風になる。その簡単な事実に気づかず、何度も遭難をかさね、なお懲りることなく、この第十六次遣唐使船もこの季節に田ノ浦に待機している。

(司馬遼太郎著『空海の風景』より)



遣唐使の航路としては、一般的に北路、南島路、南路の3ルートがあるとされている。

北路は、前期遣唐使の時代に用いられたもので、博多を出てから壱岐、対馬を経由し、朝鮮半島の西岸沿いを北上、途中から高句麗領を避けるために黄海を横断して山東半島に上陸するというルートで、7世紀の遣唐使のほとんどは、陸づたいで、時間はかかるが最も安全と思われるこのルートをとっていた。
しかし、676年新羅が朝鮮半島を統一して以後は、新羅との関係が悪化したので、他のルートがとられるようになっていく。

南島路は、8世紀初頭から中頃までの遣唐使がとったと考えられていたルートで、九州鹿児島の坊の津より出航し、南西諸島伝いに屋久島、奄美大島、沖縄、石垣島などの島々を経由して南下し、そこから東シナ海を横断して揚子江の河口地帯の蘇州に向かうというものだった。このルートは従来の北路と所要時間としてはほぼ同じだったが、外海を突っ切っていることから、この頃から遣唐使船の遭難率は上昇し始めている。
 
そして、最終的に後期の遣唐使がとったのが「南路」である。
このルートは、博多を出た後に、五島列島、福江島の三井楽に寄港し、そこから一気に東シナ海を突っ切るルートであり、上手く行けば航海期間をかなり短縮できるルートだった。

遣唐使船は難波津(大阪)を出て、瀬戸内海を通り、筑紫の大津(博多)、唐津、平戸と泊まり重ね、最後に五島に来て風待ちをした。そしてここで船を修理し、薪や水や塩を積み込み、一気に東シナ海を押し渡ったのである。

ただ、それだけ危険性が最も高いルートで、遭難率が後期になって急増しているのは、このルートをとったことが一つの要因であった。




五島列島を飛ぶ (1) - 田ノ浦瀬戸

2010-07-04 | 九州


船団は肥前の海岸を用心深くつたい、平戸島に至った。さらに津に入り、津を出、少しずつ南西にくだってゆき、五島列島の海域に入った。この群島をもって、日本の国土は尽きるのである。この東シナ海に突き出た群島の島影をみたとき、ひとびとの疲労と緊張は尋常でなくなったであろう。狂うものも出た、と他の時代の遣唐使船の例にあるから、このときも発狂者が出て不思議ではない。

五島列島は五つの主島より成り、岩礁が多く、また島々をめぐっている潮流が早い。島陰を縫ってゆくのに操船が困難であったが、しかしこの島をもって、最終準備地にせざるをえなかった。この島を離れれば、あとは蒼茫たる大海がひろがるのみであり、四船ともどもいちずに神仏を祈念しつつ、突っ切ってゆかねばならない。運を得た船のみが、唐土の浜に漂着できるであろう。

〈司馬遼太郎著『空海の風景』より)



遣唐使は、630年から894年までの約260年間に、20回ほど計画され、そのうち15回、唐に渡ることができた。
遣唐使の目的は唐への朝貢と唐の文化の輸入であった。当時世界で最も繁栄していた唐から、最先端の知識や技術、文化などを取り入れるため、幾多の秀才や名僧が海を渡った。

『肥前国風土記』によれば、804年、第16次遣唐使船4隻が、五島列島の久賀島、田之浦港に寄泊後、唐に出発したと伝えられる。

そして、この船団の中には、当時31才の空海、38才の最澄が乗船していたのだという。

二人は大変な苦労をしながらも入唐し、帰国後、それぞれが五島各地を巡り、数多くの伝説を残した。