Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (38) - 高知市

2010-02-27 | 四国


「いごっそう」と「はちきん」

信念を曲げず、反骨で権力にも屈しない精神性とユーモアを併せ持つ、土佐男を“いごっそう”と呼ぶ。
そして、陽気で男勝りで、行動力に富み、さばさばしていて、気性がはげしいが男には献身的、そんな土佐の女性が“はちきん”。

「南国土佐」で知られる高知は、南は太平洋に面し、北1,800m級の四国山脈を背負う。
四国山脈で隔たれた土佐は、四国の孤島といわれた時代があった。平地は非常に少なく河川の流域と海岸地帯に点在するだけ。海岸線は極めて長く、西部は沈降による出入りの多いリアス式海岸であり、東部は逆にほとんど出入りのない隆起海岸で平坦な砂浜がつづく。
このような複雑な地形や明るい陽光にあふれる温暖な気候、毎年襲ってくる台風の猛威などの自然環境、土地柄が「いごっそう」という独特の気質を育んだという。

幕末から明治維新へと土佐が送りだした志士は多い。
十五代藩主・山内容堂を筆頭に、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太と枚挙にいとまがない。
そして、明治維新を迎えて、板垣退助、岩崎弥太郎、後藤象二郎らが歴史の舞台に登場してくる。民権運動に生涯を捧げた中江兆民も土佐の生まれだ。いずれも、「いごっそう」の面々である。


太平洋沿岸を飛ぶ (37) - 高知県安芸市

2010-02-26 | 四国


土佐安芸郡に、井ノ口村という村がある。
村は高知の町から海岸づたいに十里ばかり室戸岬の方角へ行った安芸川の中流にあり、景色のいい所だが、人の気象はおそろしくあらい。
・・・・・
竜馬は高知を発つとき、兄の権平に、
「わしは室戸岬を知りません。こんどはあの景色を賞でながら浜づたいに阿波へ出るつもりです」
というと、
「室戸へ行くなら、途中、井ノ口に寄って岩崎弥次郎、弥太郎親子の様子を見舞ってやれ」
と権平がいった。
井ノ口村の地下浪人岩崎家と竜馬の家とは、薄い縁につながっていたらしい。竜馬は顔をみたことはないが、うわさはきいている。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



NHK大河ドラマ『龍馬伝』は、幕末、長崎などを舞台に活躍した坂本龍馬の生涯を、岩崎弥太郎の視線で描くオリジナル作品である。
第1話「上士と下士」で、岩崎弥太郎が鳥籠を背に担いで売り歩く姿は、強烈であった。

岩崎弥太郎は、三菱財閥の創始者として知られるが、1834年、現在の高知県安芸市に住んでいた地下(じげ)浪人・岩崎彌次郎の長男として生まれた。幼い頃から文才を発揮し、14歳の頃には当時の藩主山内豊熈にも漢詩を披露し才を認められた。貧しい暮らしに耐えて学問に励み、藩の参政・吉田東洋に見出されて出世を遂げる。
藩が長崎につくった土佐商会の実権をにぎり、1870(明治3)年、土佐藩の財政難を救うため、私商社「土佐開成社(九十九商会)」を開設。3年後には、この会社を解散して三菱商会をつくり、海運業を始めた。
政府の援助で、イギリスの汽船会社などとの競争に勝ち、郵便蒸気船会社(日本郵船の前身)を買収するなど仕事の幅を広げ、台湾出兵や西南戦争での物資輸送などを手掛けて、大きな利益を上げた。
弥太郎の死後、現在の日本郵船会社が設立され、三菱財閥の基礎が築かれた。

三菱グループの“スリーダイヤ”の起源は、岩崎家の家紋『三階菱』と山内家の家紋『三ツ柏』を組み合わせたもの。


太平洋沿岸を飛ぶ (36) - 土佐湾

2010-02-24 | 四国

かれが雨露をしのぐべく入りこんでいたと思われる洞窟は、いまも存在している。そのなかに入って洞ロをみると、あたかも窓のようであり、窓いっぱいにうつっている外景といえば水平線に劃された天と水しかない。宇宙はこの、潮が岩をうがってつくった窓によってすべての爽雑するものをすて、ただ空と海とだけの単一な構造になってしまっている。洞窟の奥にひそみ、この単純な外景の構造を日夜凝視すれば精神がどのようになってゆくか、それについてのへんペんとした心理学的想像はここでは触れずにおく。

ただ空海をその後の空海たらしめるために重大であるのは、明星であった。天にあって明星がたしかに動いた。みるみる洞窟に近づき、洞内にとびこみ、やがてすさまじい衝撃とともに空海のロ中に入ってしまった。この一大衝撃とともに空海の儒教的事実主義はこなごなにくだかれ、その肉体を地上に残したまま、その精神は抽象的世界に棲むようになるのである。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)


「わが心空の如く、わが心海の如く」
“空海”の名は、虚空蔵求聞持法の修行をしていた時、彼がこの洞窟から眺めた風景に始まるといわれる。

今、室戸岬の高台の上には、山の緑を背景に、旅姿の青年空海、「室戸青年大師像」が、太平洋を見つめるように立っている。






室戸岬から高知市へと土佐湾を抱くようにして、弓形を描く海岸線。
東の東洋町甲浦(かんのうら)から西の宿毛(すくも)市までは,直線距離で約170km,道路里程では約270kmに達するという。

現在の高知県は,かつての土佐国全域にあたり,明治維新まで土佐藩(高知藩)24万石
の藩政が続いた。

室戸岬の先端近く、もうひとつの像が太平洋を見据えるように建っている。
中岡慎太郎の像である。

中岡慎太郎は、幕末期に、陸援隊隊長として、海援隊隊長の坂本龍馬と共に、脱藩して倒幕・開国運動を繰り広げていた。しかし、志半ばの1867年(慶応3)11月15日に、京都河原町の近江屋で暗殺され、30歳にしてこの世を去った。生誕地は、この地より20kmほど北にある安芸郡北川村で、その大庄屋の家に生まれた。海を隔てて高知桂浜にある坂本龍馬の像と対峙している。

太平洋沿岸を飛ぶ (35) - 室戸岬

2010-02-22 | 四国


かれが室戸の尖端にせまり、ついに最御埼の岩盤に立ったときは、もはや天空にいる思いがしたであろう。この海底から隆起している鉄さび色の大岩盤は風にさらされてまろやかな背をもち、わずかに矮小な樹木のむれが岩を装飾しているにしてもそれらは逆毛立つように地を這っているにすぎず、まわりは天と水であり、それに配するに地の骨といったふうに、天地の三要素が純粋に露呈している抽象的世界のようでもある。かれの思念から夾雑物をはらって宇宙の法則性のみをとりだそうとする作業にはこのほつの場所ほど格好なところはないであろう。
この巌頭に立てば風は岩肌をえぐるようにして吹き、それからのがれるためには後方の亜熱帯性の樹林の中に入りこみ、樹々にすがり、岩陰にみをかくさねばならない。やがて空海は風雨から身をまもるための洞窟を発見するにいたった。洞窟は断崖に左右二つうがたれており、奥は深い。むかって左は洞の天井から地下水の滲み出ることがややしげく、むかって右は洞内が乾いている。空海がこの洞窟をみつけたとき、
「何者かが、自分を手厚くもてなしている」という実感があったのではないか。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)



室戸岬の先端にほど近いところに「御厨人窟(みくろど)」はある。
荒波打ち寄せる海岸から、国道55号をはさんですぐのところにある洞窟である。
洞窟は二つあり、空海が修行をしたという右の「神明窟」と住居とした左の「御厨人窟」。

青年時代の空海が虚空蔵菩薩求聞持法(こくうぞうぼさつぐもんじほう)の修行を行った場所だ。

「心に観ずるとき、明星口に入り、虚空蔵の光明照らして来りて、菩薩の威を顕わし、仏法の無二を現ず」(『御遺告』)

空海がこの空間で体現した現象とは、天空に輝いていた明星(金星)が口の中に飛び込んできたことだった。

「虚空蔵菩薩求聞持法」とは、平たく言えば記憶力をアップさせるための修行。虚空蔵菩薩の化身である朝日や夕日、明星の光を迎えるために、ひたすら虚空蔵菩薩の真言を唱え続ける。途中で止めれば命を落とすといわれるほどの荒行だ。空海は見事に明けの明星を呑み込むという神秘体験をして成満し、8万4千の教典をすべて理解したのと同じだけの智慧を授けられたという。



太平洋沿岸を飛ぶ (34) - 室戸岬

2010-02-21 | 四国


「土佐は鬼国に候」
といわれたのは空海よりもあとのことだが、おそらく阿波人が、自分の国の南に横たわるという室戸のおそろしさを想像していったことなのだろう。
「その先端はどうなっている」
と、空海は阿波人にきいたにちがいない。
「最御崎(ほつみさき)と申します」
・・・・・
室戸の三角錐がしだいに狭くなってその尖端のほつともなればはや地骨が風浪にさらされて断崖になりはるかに海中に突き出ている。大地はそこで終わり、あとは水と天空があるのみである、と阿波人がいった。
「地の涯(はて)か」
空海がもとめていたのはそこであったようにおもえる。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)



『三教指帰』の中で空海は、世俗の栄達の道を捨て大学を自主退学した後、山野を流浪する修行を積んだ場所として二つの地名を特定している。
「阿国」(徳島)の「大瀧の嶽」であり「土州」(高知)の「室戸の崎」である。

この二つの地は、彼にとって、生涯忘れられない修行の地となる。




太平洋沿岸を飛ぶ (33) - 室戸・阿南海岸

2010-02-20 | 四国


四国の地勢は、四国山脈をもって東西の背骨としている。南は翼をひろげたように太平洋を抱きこみ、その東の一翼が室戸である。室戸は無数の山嶺が巻貝の殻の起伏のように息せき切ってかさなり、しかも全体が巨大な三角の錘状をなし、その三方が急傾斜をなして海へ落ちこんでゆくさまはおそろしいばかりであり、とても人の棲むところとはおもえない。しかも、阿波と土佐とは隣国でありながら阿波から入る真ぐな道はなかった。
「浜づたいで行くわけには参らないか」
と、空海は土地の者にきいたにちがいない。土地の者はあきれて、
「鳥ならでは、とても」
と、答えたであろう。海岸はほとんどが断崖か岩礁でたえず激浪がとどろき、とても人の通過をゆるさない。結局は山路になるが、谷のほとんどが東西に走っているために谷伝いもできず、尾根をえらんでゆくにも密林でおおわれているためにいちいち斧をふるって葛を断ち、鎌をもって枝を払いつつゆかねばならず、一丁をゆくにも一日以上もかかる日があるかもしれない。
(司馬遼太郎著『空海の風景』より)



「弘法大師」空海は、774(宝亀5)年、讃岐国多度郡屏風浦(現:香川県多度津町)で生まれた。父は郡司・佐伯直田公、母は阿刀大足の娘。俗名は、佐伯 眞魚(さえき の まお)。

日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)とともに、旧来のいわゆる奈良仏教から新しい平安仏教へと日本仏教が転換していく流れの劈頭に位置し、中国から真言密教をもたらした。書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。

789(延暦8)年、15歳で桓武天皇の皇子伊予親王の家庭教師であった母方の舅である阿刀大足について論語、孝経、史伝、文章等を学んだ。
18歳で京の大学に入るが大学での勉学(専攻は明経道)に飽き足らず、19歳を過ぎた頃から山林での修行に入ったという。
この時期より入唐までの空海の足取りは資料が少なく断片的で不明な点が多い。吉野の金峰山や紀州熊野の山岳地帯などで山林修行を重ねると共に、幅広く仏教思想を学んだといわれる。
のちに「高野山」を最後の修行の地としたのは、この若い時期に高野の地を見定めていたためともいわれる。


空海は、十九歳になる。妙な青年だったにちがいない。
頭髪はよもぎのようで、乞食のなりをしている。
彼が大学をとびだし『三教指帰(さんごうしいき)』を著してから入唐までの七年間ほどが空白にちかい。
この時期については晩年の空海はほとんど沈黙している。いったいこの七年間、彼は何をしていたのであろう。(同前)

太平洋沿岸を飛ぶ (32) - 吉野川河口

2010-02-17 | 四国


“四国三郎” ― 四国第一の大河「吉野川」の別名である。


吉野川は、流域の人々にとっては命を育む恵みの川であると同時に、天下の暴れ川としても知られ、大雨のたびに数え切れないほどの大洪水を起こしてきた。

本州の利根川、九州の筑後川、そして四国の吉野川。
昔の人々はこの3つの暴れ川を、それぞれ“坂東太郎”、“筑紫次郎”、“四国三郎”と、手に負えない“わんぱく3兄弟”に例えた。


吉野川の源流は、高知県北部の本川村、石鎚山系の高峰-瓶ケ森山麓(高知県土佐郡本川村)。これが始まりとなって四国一の大河吉野川となる。小さな小川はいくつもの支流と合流して水量を増やし、四国4県に豊かな恵みを与えながら徳島平野を貫いて紀伊水道へ注いでいる。

河口付近の平野は、吉野川の流れによって運ばれた土砂が河口付近に堆積してできたもので、太古の昔からこの平野にはヨシが生い繁っていたことから、“ヨシのはえている川”-「ヨシの川」と呼ばれるようになったと言われている。




画面右上は、徳島飛行場(通称は徳島空港)。2010年春の完成を目指し、2500mへの滑走路延長や新ターミナルビル建設が行われており、完成後には愛称が「徳島阿波おどり空港」となる。海上自衛隊徳島航空基地を併設する。



太平洋沿岸を飛ぶ (31) - 田辺湾 ・ 神島(かしま)

2010-02-15 | 近畿
1909年(42歳)、熊楠は『神社合祀反対運動』を開始する。明治政府は国家神道の権威を高めるために、各集落毎にある数々の神社を、1町村1神社にまとめるという「神社合祀令」を出した。廃却された境内の森は容赦なく伐採され、ことごとく金に換えられた。

熊楠は激怒した。神社林が伐採されることで自然風景と貴重な解明されていない苔・粘菌が絶滅するのなどを心配したのである。
「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と警鐘を鳴らした。
熊楠は、“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて使い、生物は互いに繋がっており、目に見えない部分で全生命が結ばれていると訴え、生態系を守るという立場から、政府のやり方を糾弾した。

熊楠はまた、民俗学、宗教学を通して人間と自然の関わりを探究しており、人々の生活に密着した神社の森は、子どもの頃に遊んだり、祭りの思い出があったり、ただの木々ではない、「鎮守の森の破壊は、心の破壊だ」と憤慨した。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。そして彼は国内の環境保護活動の祖となった。

合祀反対運動に中央から協力したのが、当時内閣法制局参事官で、後の民俗学を起こす柳田国男だった。
その後、熊楠のひたむきな情熱が次第に世論を動かし、合祀令は発令10年にして貴族院決議で廃止となった。
その後も、熊楠は田辺湾の神島をはじめ、貴重な天然自然を保護するため、様々な反対運動や天然記念物の指定に働きかけをした。この戦いは晩年まで続き、熊楠が今日、エコロジ-の先駆者といわれる所以である。このような一連の活動は、2004年に世界遺産にも登録された熊野古道が今に残る端緒ともなっている。

1929年(62歳)、昭和天皇が田辺湾沖合の神島(画面左上、天然記念物に指定)に訪問した際、熊楠は粘菌や海中生物についての御前講義を行ない、最後に粘菌標本を天皇に献上した。戦前の天皇は神であったから、献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、なんと熊楠は“森永ミルクキャラメル”の空箱に入れて献上した。後年、熊楠が他界した時、昭和天皇は「あのキャラメル箱のインパクトは忘れられない」と語ったという。

1941年12月29日、朝6時30分、「天井に紫の花が咲いている」という言葉を最後に、世界が認めた、巨大な在野の学者は、波瀾に富んだ生涯を閉じた。享年74歳。
田辺市郊外、神島を望む真言宗「高山寺」に眠っている。この寺の一角にあった日吉神社の境内の森を熊楠は生前よく訪れ、数多くの隠花植物を採集した。この神社の合祀と神木の伐採が、熊楠の神社合祀反対運動のきっかけとなったといわれる。

学歴もなく、どの研究所にも属さず、特定の師もおらず、ただの民間の一研究者。何もかもが独学で肩書きもない。国家の支援も全く受けずに、これほど偉大な業績を残した人間が実在した。


「肩書きがなくては己れが何なのかもわからんような阿呆共の仲間になることはない」 -南方熊楠-


太平洋沿岸を飛ぶ (30) - 和歌山・田辺市

2010-02-14 | 近畿


ミナカタ・クマグス ― それは近代日本が生んだ超人。

「歩くエンサイクロペディア」といわれ、民俗学の先達である柳田国男からは「日本人の可能性の極限」と讃えられた男である。


坂本龍馬や西郷、新選組が活躍し、翌年からは明治という1867(慶応3)年、南方熊楠は、和歌山市の金物商の家に生まれた。熊楠の「熊」は熊野本宮大社、「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名という。
6人兄妹の次男。子どもの頃から好奇心が旺盛で、植物採集に熱中するあまり山中で数日行方不明になり、天狗にさらわれたと噂され、「てんぎゃん(天狗さん)」と呼ばれていた。

7歳の頃から国語辞典や図鑑の解説を書き写し始めた。1879年(12歳)、中学に入学。知識欲はさらに増大し、町内の蔵書家を訪ねては『和漢三才図会』という百科事典を見せてもい、内容を記憶して家で筆写し、5年がかりで105冊を図入りで写本したといわれる。 
その抜群の記憶力は後に英語、ドイツ語、フランス語など19もの言語を操る力となった。

和歌山中学校を卒業し上京。神田の共立学校(現、開成高校)入学。高橋是清からも英語を習った。この頃に世界的な植物学者バ-クレイが菌類6,000点を集めたと知り、それ以上の標品を採集し、図譜を作ろうと思い立った。その後、東京大学予備門に入学。
同期には、幸田露伴、芳賀矢一、正岡子規、山田美妙、秋山真之、夏目漱石などがいたという。
しかし地方から出てきた熊楠は、ここでは学問への欲求が満たされず程なく退学。

父を説得し20才で渡米。サンフランシスコ、シカゴ、フロリダ、さらにはキューバ、ハイチ、ジャマイカ、そして中南米と各地を巡り、頻繁に山野へ出かけては、植物採集など独学でフィールドワークを続けた。この過程で熊楠は粘菌の魅力にとりつかれていく。

米国滞在の6年間で標本データが充実したので、植物学会での研究発表が盛んな英国に渡ることを決意する。
26才でロンドンへ渡り、科学雑誌「ネイチャー」に「東洋の星座」という論文が掲載されたことにより、その名が知られ、大英博物館の嘱託職員に迎えられた。大英博物館では、仕事をしつつ、読書と筆写に明け暮れ、その中で作り上げた「ロンドン抜書」は、民俗学や博物学等について、52冊・1万800ページにわたり丁寧に書きつけている。また当時亡命中の“中国革命の父”孫文とも親交を結んでいる。

34才で帰国し、3年あまり植物の宝庫である熊野の山々を踏破調査し、37才から和歌山・田辺市に家を借り、居を定める。熊楠は田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛し、亡くなるまでこの町で過ごした。


太平洋沿岸を飛ぶ (29) - 枯木灘海岸

2010-02-13 | 近畿
風が吹く。それはまったく体が感じやすい草のようになった秋幸には突発した事件のようなものだった。現場の渓流の下手から、風は這い上がり、流れを伝い日で焼け始めた石の上を走る。道路脇の草をゆすり、人夫たちの体を舐める。山の梢が一斉に葉裏を見せ、音をたて、身もだえる。
木々の梢、葉の一枚一枚にくっついた光がばらばらとこぼれ落ち、秋幸はそれに体をまぶされたと思った。汗が黄金と銀に光って見えた。
(『枯木灘』より)



1992年8月12日、ひとりの小説家が郷里で死んだ。
中上健次。享年46歳。


羽田空港などで肉体労働に従事したのち執筆に専念。初期は、大江健三郎から文体の影響を受けた。柄谷行人から薦められたウィリアム・フォークナー(『アブサロム、アブサロム!』などのヨクナパトーファ・サーガで知られる米国小説家)に学んだ先鋭的かつ土俗的な方法で数々の小説を描き、自らの出自にまつわる血縁、地縁に取材した『岬』により芥川賞受賞。戦後生まれで初めての受賞者となり話題となる。
以後も、故郷である紀州・熊野を舞台にした小説を多く描き、『枯木灘』、『地の果て 至上の時』など、ある血族を中心にした一連の“紀州サーガ”(秋幸という同一主人公を中心に書かれている)とよばれる独特の土着的な作品世界を作り上げた。

彼は、海と山と川に囲まれた紀伊半島の南部、紀州・新宮に生まれ、被差別出身の小説家として、その場所を「路地」と呼び、生涯を通じてその「路地」を舞台とした小説を書き続けた。



潮岬を中心に、東を「熊野灘」、西はすさみまでの約四十キロを「枯木灘」とよんでいる。
“すさみ”、“枯木灘”とは、なんともすさまじい地名ではないか。
すさみは「荒(すさ)ぶ海」、枯木灘とは「海からの潮風で木がことごとく歪みねじれ枯木のようになる」という意味だ。


中上健次は、人間の中に潜む“枯木灘”を描いたのだ。



太平洋沿岸を飛ぶ (28) - 熊野・古座街道

2010-02-11 | 近畿
熊野というのは大小無数の山塊を寄せかためたようなところで、いかにも隠国(こもりく)という感がふかい。
しかしながら古代では僻地ではなかったらしく、『古事記』、『日本書紀』にしばしば主要舞台として登場する。おそらく古代にあっては独立性の高い政治圏もしくは文化圏であったのかもしれない。
熊野という土地が持つ古代的な、つまり得体の知れぬ一種の充実制が、中世になって天皇家をもふくめて貴賤ともどもにこの僻遠の地を恋い慕う流行をよび、あの熱狂的な「熊野詣」の宗教的習慣ができあがったのであろう。
京都から熊野までは、まことに遠い。しかし熊野を慕う中世の京都人たちは、地の底のような渓谷をつたい、ときに海岸の岩に抱きつくようにして、浜辺をゆき、また大雲取・小雲取のような雲の中をくぐるがような山道を越えて熊野の聖地(本宮、新宮、那智)に詣でた。 
・・・・・
熊野では、浜からわずかに山に入っただけで、海の匂いが絶えてしまう。
古座街道の場合も、そうである。周参見の浜から周参見川の渓流ぞいに、二、三キロも入れば鬱然とした樹叢で、梢にも根方にも太古の気がひそんでいる。杉の木が多いが、若い杉にまでなんだか霊気が湧いているようで、中世の熊野信仰のおこりは、存外こういうことが要素のひとつになっているのかと思われる。(司馬遼太郎著『街道をゆく・熊野古座街道』より)



紀州の森に立ち、「梢にも根方にも太古の気がひそんでいる」と書いたのは、司馬遼太郎である。
氏は、すさみから古座への古座街道を歩き、その歴史にひそむ習俗に南方の島々の匂いをかいだ。「街道をゆく」シリーズ『熊野・古座街道』である。


熊野へ向かう道は高野山から南下する小辺路(こへじ)、田辺から山中に入る中辺路(なかへじ)、海沿いに新宮へ向かう大辺路(おおへじ)がある。一番平坦な大辺路が使われる機会が多かったようであるが、海が荒れた時などは険しい枯木灘海岸沿いの大辺路(現国道42号線)の迂回路として「古座街道」は古くから利用されていたのだろう。

古座街道は、熊野参詣道の大辺路から周参見川を東進し、獅子目峠を越えて古座川上流から河口に下るルートである。
街道沿いには国指定の天然記念物「古座川の一枚岩」などの圧倒されるような自然が随所に残されている。






太平洋沿岸を飛ぶ (27) - 古座川

2010-02-10 | 近畿


神野優氏がコカワを話題にしたのは、本流の古座川が上流の多目的ダムのために濁って(私の清濁基準ではとても濁っているとは思えないが)いるために、古座川の以前の清らかさを知ってもらうことができない、せめてコカワの流れをご覧になればかつての古座川の水というものが想像できます、ということなのである。
「それほど古座川の水は美しかったのですか」
「ええ、もう」
神野優氏は、かつては古座川にしか棲んでいない小さなエビがいて、獲って食べると何とも言いがたいあま味があったものだが、ダムが出来てからは絶滅しました、といった。
「その小さなエビがいなくなったのは、水の清濁のせいか、ダムのために川の水温が変わったせいか、その点はよくわかりませんが、ともかく、以前の古座川ではなくなったのです」
神野優氏は、真砂でもそのようなことを言われたが、繰り返し、「ダムを作ったのは川筋の洪水ふせぎのためでわれわれ川沿いの者が陳情してやっとできたのです」と言い、しかしいまは後悔しています、といった。少々の洪水を我慢しても古座川の水の水温と透明度を守るほうが、これは感傷でいっているのではなく、よかったかもしれないと思ったりしています、ということだった。
(司馬遼太郎著 『街道をゆく・熊野古座街道』より)




古座川は、紀伊半島南部に鎮座する霊峰、大塔山(標高1121m)を源流に持ち、緩やかに太平洋へ注ぎ込む全長約60kmの清流である。
とりわけ最大の支川である小川(こかわ)は、水の透明感では日本一の清流と言えるもので、中流の「滝の拝」は川床が全て岩床で、清流のたたずまいを一層引き立てている。

1956(昭和31)年、古座川本流中流部に治水と発電を主な目的とした七川(しちかわ)ダムが完成、供用された。ところが、発電のための水位調節可能幅が狭小な上に、日本一の多雨地帯に近く、台風や集中豪雨に見舞われるため、ダム施設そのものを洪水から守るため、放流を実施してきた。この放流の結果、ダムの下流、特に河口域から串本湾に広がる海の生態系に甚大な影響を及ぼすことになった。流域住民からは、ダム設置やダム放流とそれに伴う水質量の変容が、近年見られる魚貝類や青海苔の漁獲量の減少と関連しているのではないかと噂されて来た。


太平洋沿岸を飛ぶ (26) - 那智湾・那智勝浦

2010-02-09 | 近畿
「那智の浜」(画面中央上)は、那智湾に面した砂浜で、和歌山県下屈指のビーチであるが、かつて観音の信者が補陀落(ふだらく)浄土を目指して船出したという特異な歴史をもつ浜でもある。

補陀落浄土とは南方の彼方にある観音菩薩の住まう浄土のことをいい、「補陀落」とはサンスクリット語の「ポタラカ」の音訳。
補陀落浄土は、日本では、南の海の果てに補陀落浄土はあるとされ、その南海の彼方の補陀落を目指して船出することを「補陀落渡海(ふだらくとかい)」という。

日本国内の補陀落の霊場としては熊野那智の他に、高知の足摺岬、栃木の日光、山形の月山などがあるが、記録に残された40件ほどの補陀落渡海のうち半数以上が那智で行われたという。日本宗教史上における稀有な現象として知られ、チベット仏教伝来の修行信仰の一つとされる。

補陀落渡海の出発点とされた「補陀洛山寺」(世界遺産にも登録)という寺が「那智の浜」の奥手、熊野那智大社方面へ向かう道の角にあり、寺の裏山には渡海者の墓が残されている。補陀洛山寺は、渡海上人を送り出し、また、その上人を祀る寺なのだ。


那智での補陀落渡海の多くは11月、北風が吹く日の夕刻に行われた。
渡海僧は当日、補陀洛山寺本尊の千手観音の前で読経などの修法を行い、続いて寺の隣にある三所権現(熊野三所大神社)を拝し、その後、小さな屋形船に乗りこむ。
渡海僧が船の屋形のなかに入りこむと、出て来られないように扉には外から釘が打ちつけられ、渡海船は、白綱で繋がれた伴船とともに沖の綱切島あたりまで行くと、綱を切られ、あとは波間を漂い、風に流され、いずれ沈んでいったものと思われる。



補陀落渡海とは、いわば生きながらの水葬であり、自らの心身を南海にて観音に捧げる捨身行であったのだ。



太平洋沿岸を飛ぶ (25) - 熊野川・熊野本宮大社

2010-02-08 | 近畿

熊野川は、奈良県吉野郡の大峰山系を源とし、熊野本宮大社旧社地の傍らを流れ、紀伊半島の南東、熊野灘に注ぐ近畿最長(183km)の河川である。

熊野三社の信仰の起源はそれぞれ自然崇拝からはじまったものと考えられているが、特に熊野本宮大社と熊野速玉大社は、熊野川に対する深い信仰があったと思われる。熊野本宮大社はもともと大斎原と呼ばれる熊野川、音無川、岩田川の合流地点の中州に鎮座していた。それは、熊野川を神聖な場所として崇め、洪水鎮圧のために祀っていたのではないかと考えられる。 1890(明治22)年の大水害により被害を受けて現在の高台に遷座した。

古くは平安中期より熊野三山を参る「熊野詣」の際、本宮より熊野川を船で下り、新宮(熊野速玉大社)、那智(熊野那智大社)を巡ったとされる。熊野川は単なる水上交通路ではなく、熊野参詣の道であり、他に類のない「川の参詣道」として文化的な意味で貴重なものだと考えられる。

また、熊野川はその昔より「物流」の上で大きな役割を果たしてきた。紀州材や備長炭はよく知られる熊野の特産品であるが、江戸時代より熊野材、熊野炭としてそれぞれ「江戸の木材の三割を賄い、江戸の炭相場を左右した」と云われたほど江戸で重宝されていた。
それを可能にしたのが熊野川である。奥熊野で生産された木材、炭は熊野川を下り、新宮に集められ、そこから帆船で海流黒潮にのって一気に江戸まで運ばれた。

近代に入り物流の中心は陸送へと移り、熊野川に沿った道路が整備された。熊野川は物流の要としての役割を静かに終えた。


太平洋沿岸を飛ぶ (24) - 新宮市

2010-02-07 | 近畿

熊野川を境にして、三重県から、「紀の国」・和歌山県となる。
河口付近の大河・熊野川は、熊野神社(速玉大社)を抱くように、屈曲蛇行しながら流れる。

昨日2月6日夜、春を呼ぶ勇壮な火祭り「お燈(とう)まつり」が、新宮市西端の権現山の中腹にある「神倉神社」で行われ、山上から駆け下りる2461人の男たちがかざした松明の炎が滝のように流れ、夜空を染め上げた。

世界遺産・熊野速玉大社の摂社(本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)、神倉神社に約1400年前から伝わる女人禁制の神事で、「熊野年代記」によると、日本最古の火祭り。「上り子」と呼ぶ祈願者が、白装束にわらじばき、腰に荒縄を巻いたいでたちで、ご神体「ごとびき岩」のある神倉山上に集結。神火から火を移したたいまつを持ち、山門の開門を待った。

古代の熊野の自然崇拝の姿を今日に伝えているものとされる。

熊野三所大神(熊野三山)が、熊野において最初に降臨した聖地が神倉山であり、神倉山は熊野の根本であるとも考えられ、熊野根本大権現とも呼ばれた。 今でこそ速玉大社の摂社であるが、本来は速玉大社の御祖神であったのである。

速玉大社は、神倉神社が元宮であったが、後に現在地に遷宮された社であり、そのため神倉山の「古宮」に対し、ここを「新宮」と呼ぶようになり、地名の由来にも成っているという。