Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (43) - 横浪半島・浦ノ内湾

2010-03-07 | 四国
横浪半島に抱かれた半島北側の浦ノ内湾は、約12km(3里)に渡って深い入江が続く風光明媚なリアス式海岸。波がおだやかで、横方向に波紋を描くところから「横浪三里」とも呼ばれる。
土佐市宇佐と須崎市浦の内を結ぶ「横浪黒潮ライン」(横浪半島を内海と太平洋の両方を展望し横断する18.8kmのドライブコース)が走る。

横浪半島の東突端にある宇都賀山の中腹にたっている「青龍寺」は、寺伝によれば、804年、唐に渡った空海が唐の青龍寺で恵果和尚から真言密教の奥義を伝授され、帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木に発見し、815年に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。

寺の近くには、高校野球の甲子園出場常連校で、 先日引退した横綱 “朝青龍” (四股名の「青龍」の由来となっている)や、プロゴルファー 横峯さくら 選手など、多くの有名アスリートの母校 明徳義塾高校 がある。


また、横浪黒潮ライン途中には、土佐勤王党盟主 “武市半平太” (戯曲「月形半平太」のモデルとされる)の銅像が建っている。

龍馬は桂浜、そして中岡慎太郎は室戸岬から、三者三様に、その目線は今も「日本の夜明け」を見極めるように太平洋に注がれている。



太平洋沿岸を飛ぶ (42) - 高知市・桂浜

2010-03-05 | 四国



砂浜が長く、白い。
長い渚のむこうに竜王岬が海にむかって伸び、岬の脚の岩に波が間断なくくだけているのがみえる。
(桂浜じゃな)
竜馬は一歩々々、足あとを印するのを楽しむようにして歩いた。歩くにつけ、こみあげてくる感傷に堪えきれなかった。この国にうまれた者にとって、この浜ほど故郷を象徴するものはないであろう。
月の名所は桂浜
と里謡にもあるように、高知城下の人は中秋の明月の夜にはこの浜に集い、月を肴に夜あかしの酒を飲むのが年中行事になっていた。
のち、この浜に竜馬の像が立つ。「スエズ以東最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動がおこされた。当時早稲田大学の学生だった入交好保、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、浅田盛の諸氏である。彼等は全国の青年組織からわずかずつの寄附をあつめ、途中、岩崎弥太郎がおこした岩崎男爵家から五千円の寄附申し出があったが、零細な寄附を集めてつくるという建前から、かれらはこれをことわり、ついに資金をつくり、彫刻家本山白雲氏に制作を依頼した。
銅像は、昭和三年の春にできた。その台座の背面に建設者の名を刻むのが普通だがかれらはいっさい名を出さず、
「高知県青年建立」とのみ刻んだ。五月二十七日の除幕式の日、当時の日本海軍は駆逐艦浜風を桂浜に派遣し、その礼砲とともに幕を切りおとした。
が、このときの竜馬は、まさか自分がこの浜で銅像になって残るとはゆめにも思わなかったであろう。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



桂浜は高知市の浦戸湾口、龍頭岬と龍王岬にはさまれた弓状の浜。
背後の山は、1591年(天正19年)長宋我部元親が浦戸城を築き拠点を置いた場所。一時この地が土佐の中心地になった時期もあったが、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。

土佐民謡「よさこい節」の一節にもなっているように、桂浜は月の名所としてもよく知られており、明治期の詩人・随筆家、大町桂月(「桂月」の名は桂浜月下漁郎の号を縮めたもの)は、
「みよや見よみな月のみの桂浜、海のおもよりいづる月かげ」 と詠んだ。


龍頭岬には、右腕を懐に、革靴を履いた坂本龍馬像が建ち、太平洋の彼方を見据えている。




太平洋沿岸を飛ぶ (41) - 高知龍馬空港

2010-03-03 | 四国


竜馬は世界のことが知りたい。万里の波濤を蹴ってこの極東の列島帝国まで黒船を派遣してくる「西洋」というものがふしぎでならなかった。それは子供のように無邪気な好奇心であった。この好奇心があるために武市半平太のように、頑固な、--- 天皇好きの洋夷ぎらい。
にはなれなかったのである。
「されば、たれに就くのじゃ。この城下には蘭学者など居やせぬぞ」
「一人いる。蓮池町の小竜老人じゃ」
「小竜。あれはお前、絵師ではないか」
・・・・・
河田小竜は、狩野派の画家で、藩のお抱え絵師であり、士格の待遇をうけている。屋敷は塾を兼ねているが、門弟はさほど多くない。小竜は、ちょっと変わっている。警世家であった。攘夷論者をあざけり、日本は開国してどんどん外国の文物をとり入れねばならぬ、といっている。その点急進的な勤王派と肌が合わなかった。武市がきらっているのは、この点である。
小竜は、一見識がある。
というのは、この老人は、大そうな著書があるのだ。
「漂巽紀略」という。巽とはタツミの方角(南東)のことで、日本からその方角には、アメリカがある。書名の意味は「アメリカ漂流記」ということである。
小竜がアメリカに行ったのではなく、漂流したのは、土佐の漁師万次郎で、十一年間アメリカを流浪して帰国した。
この万次郎から小竜がきいて書いたのが、右の本である。この小竜の著書によって竜馬ら土佐人は、おぼろげながらアメリカというものを知った。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



河田小龍(しょうりゅう)は、1824(文政7)年10月25日、高知高知城東、浦戸片町水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれる。
幼少のころより神童の誉れ高く、島本蘭渓に画を学び、16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。
1844年、吉田東洋に従い京に遊学、狩野永岳に師事する。二条城襖絵修復の際には師とともに従事する。

1852(嘉永5)年、米国より10年ぶりに帰国した漁師、ジョン万次郎の取り調べに当たった。万次郎と寝食を共にし、万次郎に読み書きを教えつつ小龍自身も英語を学んだ。彼との交流を通じて海外事情にめざめた小龍は、アメリカの産業や文化などを聞きとり、小龍の挿絵を加えて「漂巽紀略」五巻として上梓し、藩主に献上。そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとなった。

また、かねて親交のあった藩御用格医師、岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉、乙女であったことから、龍馬は、この小龍を訪ねることとなる。
小龍は、龍馬に、攘夷一辺倒ではこれからこの国は生き残っていけないと、「海防」と「貿易」の重要性を説き聞かせる。

後に出逢う勝海舟とともに、河田小龍は、龍馬の思想に大きな影響を与えることになるのだ。







画面、高知空港は高知市の東方約18km、高知県の穀倉地帯と呼ばれる香長平野の南端物部川の河口に開けた田園地帯にあり、愛称を「高知龍馬空港」という。

「高知龍馬空港」のように人名を冠した空港は米国のジョン・F・ケネディ国際空港、イタリアのレオナルド・ダビンチ国際空港、英国のリバプール・ジョン・レノン空港などがあるが、日本では初めて。

昭和19年の旧海軍航空隊基地に始まり、終戦とともに連合軍に接収されたが、昭和27年の接収解除により民間飛行場として再開した。





太平洋沿岸を飛ぶ (40) - 高知市

2010-03-02 | 四国

伊右衛門という男が現在の高知市をつくったわけだが、それはまったく土地を造成した、といえばいえるほどの土木工事だった。なにしろ、城に予定している大高坂山や海抜百五十尺で城郭をつくるにはなるほど手ごろだったが、ふもと一帯は、歩けば腰のなかに沈むほどの大湿地帯だった。
宿命的な地相なのである。奥地から流れてきている巨大な川が、この岡にぶつかって一つは江の口川、一つは潮江川となってそれぞれ浦戸湾にそそぐ。この二つの川のつくるデルタ地帯が伊右衛門の城下になるはずであった。その川がくせものであった。川といっても堤防がなく、大雨がふるごとにはんらんし流れがかわり、いちめんが湖のようになり、やがて干上がると池と湿地をのこす。
「はたしてできるかしら」
と千代もうたがわしくなっていた。一代の英雄といわれた旧国主長曾我部元親もここに築城することにきめたことがあるが、中途で断念せざるをえなくなった。それほどの工事を伊右衛門がやろうというのである
(司馬遼太郎著『功名が辻』より)


山内一豊は、「関ヶ原の戦い」の功績で、掛川(現在の静岡県掛川市付近)六万石から、土佐二十四万石を与えられこの地を治めることとなった。土佐は元来、長曾我部氏の本拠地だった。長曾我部氏は「関ヶ原の戦い」で西軍についたため、領地を没収され、その後に一豊が乗り込む。桂浜に近い浦戸に城があったが、一豊は長曾我部氏の家臣(一領具足)の反乱に悩みながらも、高知城と城下町を建設。以後幕末まで続く土佐山内家の基礎を築いた。


高知の名の由来は、山内一豊が高知城を大高坂山に築いた時、南北を川に挟まれているので「河中山」(こうちやま)と名付けられたが、よく水害に悩まされ、そこで竹林寺の和尚、空鏡の意見で智を積むようにと『高智』に改名された。現在は「高知」になっている。

幕末の土佐藩の特異な風土を考えるうえで、「上士と郷士(下士)」という身分制度が及ぼした影響を見落とすことはできない。
長宗我部の家臣達は新たに入ってきた山内家に強硬に対抗した。そうした抵抗に手を焼いた山内一豊は、長宗我部の家臣を郷士とし、後から来た山内家の家臣が上士として区別して藩政に組み込んだ。

上士に徹底して虐げられていた郷士達は、世の中の不条理を正すべく幕藩体制を打ち倒し、新しい世界を築こうと考えた。 武市半平太は、土佐勤王党を結成し、徳川幕府から天皇を中心とした国家に変えようという運動に発展していく。
そんな中、坂本龍馬は、江戸や長州で多くの志士たちに出会い、土佐勤王党とは別の方法で日本を変える方策を求めて脱藩する。



太平洋沿岸を飛ぶ (39) - 高知市・浦戸湾

2010-03-01 | 四国


高知市は、浦戸湾奥に位置し、市域のほぼ中央を南北に浦戸湾が湾入、東から国分川、西から鏡川が流入し、市街地は鏡川によって形成された沖積低地に立地する。
古代、現在の中心市街の辺りは、浦戸湾の浅海で、『土佐日記』にも、紀貫之が現市城東部の、いまは陸地化している大津ノ泊から船出したことが記されている。

1601(慶長六)年、土佐に入国した山内一豊が大高坂山に高知城を築いて以来、県の中心地となっている。以来約270年間、山内氏が代々治めて明治維新を迎えた。

十五代藩主・山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に大政奉還を建白して、幕府の幕を引かせるきっかけをつくったことでも有名な人物である。
そして、その献策をしたのが、土佐藩の後藤象二郎であり、この建白書の基本は、同じ土佐藩の坂本龍馬から出ていた。有名な「舩中八策」である。この坂本龍馬の新国家構想には、大政奉還をはじめ、議会の設置や金銀交換率の均一化など、その後明治政府が発布する五箇条の御誓文の条項がほとんど盛りこまれている。

近代日本の夜明けは、土佐・高知から始まったといっても過言ではないだろう。