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太平洋沿岸を飛ぶ (40) - 高知市

2010-03-02 | 四国

伊右衛門という男が現在の高知市をつくったわけだが、それはまったく土地を造成した、といえばいえるほどの土木工事だった。なにしろ、城に予定している大高坂山や海抜百五十尺で城郭をつくるにはなるほど手ごろだったが、ふもと一帯は、歩けば腰のなかに沈むほどの大湿地帯だった。
宿命的な地相なのである。奥地から流れてきている巨大な川が、この岡にぶつかって一つは江の口川、一つは潮江川となってそれぞれ浦戸湾にそそぐ。この二つの川のつくるデルタ地帯が伊右衛門の城下になるはずであった。その川がくせものであった。川といっても堤防がなく、大雨がふるごとにはんらんし流れがかわり、いちめんが湖のようになり、やがて干上がると池と湿地をのこす。
「はたしてできるかしら」
と千代もうたがわしくなっていた。一代の英雄といわれた旧国主長曾我部元親もここに築城することにきめたことがあるが、中途で断念せざるをえなくなった。それほどの工事を伊右衛門がやろうというのである
(司馬遼太郎著『功名が辻』より)


山内一豊は、「関ヶ原の戦い」の功績で、掛川(現在の静岡県掛川市付近)六万石から、土佐二十四万石を与えられこの地を治めることとなった。土佐は元来、長曾我部氏の本拠地だった。長曾我部氏は「関ヶ原の戦い」で西軍についたため、領地を没収され、その後に一豊が乗り込む。桂浜に近い浦戸に城があったが、一豊は長曾我部氏の家臣(一領具足)の反乱に悩みながらも、高知城と城下町を建設。以後幕末まで続く土佐山内家の基礎を築いた。


高知の名の由来は、山内一豊が高知城を大高坂山に築いた時、南北を川に挟まれているので「河中山」(こうちやま)と名付けられたが、よく水害に悩まされ、そこで竹林寺の和尚、空鏡の意見で智を積むようにと『高智』に改名された。現在は「高知」になっている。

幕末の土佐藩の特異な風土を考えるうえで、「上士と郷士(下士)」という身分制度が及ぼした影響を見落とすことはできない。
長宗我部の家臣達は新たに入ってきた山内家に強硬に対抗した。そうした抵抗に手を焼いた山内一豊は、長宗我部の家臣を郷士とし、後から来た山内家の家臣が上士として区別して藩政に組み込んだ。

上士に徹底して虐げられていた郷士達は、世の中の不条理を正すべく幕藩体制を打ち倒し、新しい世界を築こうと考えた。 武市半平太は、土佐勤王党を結成し、徳川幕府から天皇を中心とした国家に変えようという運動に発展していく。
そんな中、坂本龍馬は、江戸や長州で多くの志士たちに出会い、土佐勤王党とは別の方法で日本を変える方策を求めて脱藩する。