翌年の嘉永6年、突如として、ペルリの率いる日本遠征隊が浦賀に来航した。幕府はもとより諸国各藩も大いに打ち驚き、国を挙げての大騒ぎとなった。尊王攘夷の論も火の手をあげて来た。幕府では土佐の漂民万次郎が幸い米国の情事に明るくメリケン語にも通暁しているというところから万次郎を江戸に迎え、十一月六日付をもって二十俵二人扶持の御普請役格に登用した。土佐の領地以外には住居を禁じられていた日かげ者が、一躍して旗本に取りたてられたのである。時勢の波に乗ったとはいえ、当時の官界では珍しい任官沙汰である。これは概ね閣老伊勢守の方寸によるもので、伊勢守一派はメリケン仕込みの万次郎に、よほど期待するところがあったにちがいない。
(井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」より)
万次郎らは1851(嘉永4)年、薩摩藩領の琉球国摩文仁間切小渡浜に上陸。番所で尋問後に、薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた。
約2年後、土佐への帰国となる。土佐藩主山内豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受けるが、日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍と寝食を共にし尋問を受ける。後に小龍は、万次郎の漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめ挿絵を入れて『漂巽紀略』としてまとめた。
その後、土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。
万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となり、その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになった。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府があった。
万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、日米和親条約の締結に向け尽力した。
1860(万延元)年には、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、「咸臨丸」に乗り込むこととなる。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていた。諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。