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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

太平洋沿岸を飛ぶ (52) - 愛媛県愛南町

2010-03-21 | 四国


明治元年、万次郎は高知藩に新地百石の禄高で登用された。この年、彼は開成学校中博士六等出仕に任ぜられ英語教授を担当していたが、翌年、病気で辞任して本所砂町の土州藩下屋敷で静養した。その翌年九月、彼は普仏戦争実地視察を命ぜられ大山巌等に従って欧州に出張し、病気のため戦地には行かないでロンドンに滞在した。帰途、アメリカに立ち寄ってハヘイブン町のホイットフィールド家を訪れた。ホイットフィールド氏は万次郎の大恩人である。互いに懐旧の涙を禁じ得ないのであった。なお彼はハワイにも立ち寄って旧知を訪問した。
明治五年、再び病を発し、以来幽居して専らその志を養った。ただ一つ思い出すだに胸の高鳴る願望は、捕鯨船を仕立て遠洋に乗り出して鯨を追いまわすことであった。それは万次郎の見果てぬ夢であった。
明治三十一年十一月十二日死亡、享年七十二。その墓は谷中仏心寺の境内にある。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)



咸臨丸の太平洋横断は、鎖国の終わりを告げる出来事であり、そして万次郎も大きな役割を果たした。

帰国後も万次郎は、小笠原の開拓調査、捕鯨活動、薩摩藩開成所の教授就任、上海渡航、明治政府の開成学校(東京大学の前身)教授就任、アメリカ・ヨーロッパ渡航とめまぐるしく働き続けた。

1870(明治3)年、普仏戦争実地視察団としてヨーロッパへ派遣されるが、帰路、ニューヨークに立ち寄り、フェアヘーブンに足を運んだ万次郎は約20年ぶりに恩人であるホイットフィールド船長に再会を果たした。

しかし帰国後、万次郎は病に倒れる。
そして1898(明治31)年、72歳で万次郎はその生涯を終えた。




万次郎の功績は、日本に新しい知識や技術をもたらしただけではなく、アメリカ人を通して学んだ人道主義や民主主義を、坂本龍馬をはじめ新しい道を求めて模索していた多くの若者たちに影響を与えたことであった。
そしてそれが開国に向けた大きなうねりの中で、やがて明治初期の自由民権運動へとつながっていく。


万次郎自身が歴史の表舞台に出ることはほとんどなかったという。
万次郎に野心や野望はなく、常に名誉栄達から離れたところにいたからだ。
国家や体制とは関係なく、一人の人間として万次郎は懸命に生きた。

足摺岬を洗う黒潮は、日本の太平洋沿岸を北東に流れ、ついには北アメリカ北西海岸に達する。土佐の中浜村に生まれたジョン万次郎の一生は、まさにこの雄大な黒潮そのものといえるだろう。


足摺岬の入り口に、ジョン万次郎の銅像がある。
この銅像は、彼を息子のようにかわいがってくれた船長の故郷、マサチューセッツ州フェアーへブンを向いて立っている。


太平洋沿岸を飛ぶ (51) - 土佐清水市

2010-03-20 | 四国

翌年の嘉永6年、突如として、ペルリの率いる日本遠征隊が浦賀に来航した。幕府はもとより諸国各藩も大いに打ち驚き、国を挙げての大騒ぎとなった。尊王攘夷の論も火の手をあげて来た。幕府では土佐の漂民万次郎が幸い米国の情事に明るくメリケン語にも通暁しているというところから万次郎を江戸に迎え、十一月六日付をもって二十俵二人扶持の御普請役格に登用した。土佐の領地以外には住居を禁じられていた日かげ者が、一躍して旗本に取りたてられたのである。時勢の波に乗ったとはいえ、当時の官界では珍しい任官沙汰である。これは概ね閣老伊勢守の方寸によるもので、伊勢守一派はメリケン仕込みの万次郎に、よほど期待するところがあったにちがいない。
(井伏鱒二「ジョン万次郎漂流記」より)



万次郎らは1851(嘉永4)年、薩摩藩領の琉球国摩文仁間切小渡浜に上陸。番所で尋問後に、薩摩本土に送られ、薩摩藩や長崎奉行所などで長期に渡っての尋問を受けた。

約2年後、土佐への帰国となる。土佐藩主山内豊信公の命により、吉田東洋から70日の取り調べを受けるが、日本語をほとんど忘れていた万次郎は、蘭学の素養がある絵師・河田小龍と寝食を共にし尋問を受ける。後に小龍は、万次郎の漂流から米国などでの生活を経て帰国するまでをまとめ挿絵を入れて『漂巽紀略』としてまとめた。

その後、土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となる。この時、後藤象二郎、岩崎弥太郎等が直接指導を受けている。

万次郎は幕府に招聘され江戸へ。直参旗本となり、その際、故郷である中浜を姓として授かり、中浜万次郎と名乗るようになった。この異例の出世の背景には、ペリー来航によりアメリカの情報を必要としていた幕府があった。

万次郎は翻訳や通訳、造船指揮にと精力的に働き、日米和親条約の締結に向け尽力した。
1860(万延元)年には、日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が派遣した海外使節団の一人として、「咸臨丸」に乗り込むこととなる。この軍艦・咸臨丸には、艦長の勝海舟や福沢諭吉ら歴史的に重要な人物らも乗っていた。諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入したエピソードは有名である。



太平洋沿岸を飛ぶ (50) - 足摺岬

2010-03-18 | 四国


太平洋に浮かぶ無人島「鳥島」に漂着した万次郎らは、そこで過酷な無人島生活をおくる。

漂着から143日後、万次郎は仲間と共にアメリカの捕鯨船ジョン・ホーランド号によって救助されるが、この出会いが万次郎の人生を大きく変えることになるのだ。

当時、日本は鎖国をしており、外国の船は容易に近づける状態ではなかった。万次郎を除く4人はハワイで降ろされるが、船長のホイットフィールドに気に入られた万次郎は、本人の希望で船長と共にアメリカに渡る。この時、船名にちなんだ“ジョン・マン”という愛称をつけられた。

アメリカ本国では、マサチューセッツ州のオックスフォード校に学び、英語のほか、航海術、数学などを修得。ホイットフィールド夫妻を初めとするアメリカ人社会でも愛され、21才のときには、乗船していた捕鯨船フランクリン号船長の病気による降船に伴って、一等航海士に昇格してアメリカへ帰還。

その後、ゴールドラッシュのサンフランシスコに渡り、ここで得た金で自身の船を購入。1850年12月、本人の購入した捕鯨船でハワイへ向かい、共に遭難しハワイに残された日本人仲間を伴って日本への帰国に向かうのである。





太平洋沿岸を飛ぶ (49) - 足摺岬

2010-03-17 | 四国


ジョン万次郎の生れ故郷は、土佐の国幡多郡中の浜という漁村である。文政十(丁亥)年の生れということだが、生れた正確な月日はわからない。父親は悦介といい、万次郎九歳のとき亡くなった。母親の名をシオといい、寡婦になってからは万次郎ら兄妹五人のものを、女ひとりの手で養育した。もちろん赤貧洗うがごとき有様で、子供たちに読み書きを仕込む余裕などあろうわけがない。万次郎は働かなければならなかった。十三四歳の時から漁船に乗り、いわゆる「魚はずし」の役を勤めながらその日その日を凌いでいた。他人の持船に雇われていくらかずつの手当をもらうのである。ところが万次郎十五歳の正月五日、いつものように他人の持船に雇われてその年の初漁に出た。宇佐浦徳之丞というものの持船で、乗組は同国高岡郡西浜の漁師養蔵の伜伝蔵(当年三十八歳)その弟重助(二十五歳)伝蔵の伜五右衛門(十五歳)同じく西浜の漁師平六の伜寅右衛門(二十七歳)とともに五人の乗組であった。伝蔵は船頭ならびに楫取りの役。重助、寅右衛門の二人は縄上げの役。五右衛門は櫓押し、万次郎は魚はずしの役。それぞれ役割を分担し、白米三斗とそれに相応するだけの薪水を積込んで、五日の朝十時ごろ、宇佐浦を出帆した。早春の潮に集まって来る鱸を釣る目的であった。
(井伏鱒二著『ジョン万次郎漂流記』より)





太平洋に突き出した足摺岬、その西の付け根あたりに、小さな漁村がある。
「中ノ浜」と言う。

ジョン万次郎こと中浜万次郎は、1827(文政10)年、漁師の次男としてここで生まれた。
15歳の時、高岡郡宇佐浦の漁師に雇われて出漁、足摺岬沖で遭難、7日間の漂流のち鳥島に漂着、143日に及ぶ無人島生活のすえ、米国の捕鯨船に救助される。



太平洋沿岸を飛ぶ (48) - 四万十川

2010-03-16 | 四国

四万十川は、高知県の西部を流れる川で、吉野川に次ぐ四国第2の川。
本流に大規模なダムが建設されていないことから「日本最後の清流」、あるいは柿田川・長良川とともに「日本三大清流の一」と呼ばれることがある。

高知県高岡郡津野町の不入山(いらずやま)を源流とし、高知県中西部を、S字を描くように蛇行しながら多くの支流を集め、四万十市(旧中村市)で太平洋に注ぐ。河口附近では「渡川」という名前がある。

「四万十川」という名前の由来には、いくつかの説がある。
アイヌ語で「大きく、美しい」を表す言葉、「シ・マムタ」からきているという説。
また、「四万川」という支流の名前と、中流にある「十川」という地名が合体したのだと言う説。
さらに、四万十川が非常に多くの支流をもっているため、「四万十川」と名づけられたという説もある。

流長196kmを誇る四万十川は、水質も良く日本有数の清流で、古くから漁が盛んに行われてきた。
高知県の清流を代表する魚、鮎。船上で火を振り、鮎を網へと追い込む「火振り漁」が行われ、その光景は、四万十川の風物詩となっている。
また、唐揚げや佃煮など高知県の郷土料理にもよく用いられているゴリ。ゴリの伝統漁法として代表的なのが、「ガラ曳き漁」。ロープにサザエの殻をつけ、ガラガラという音で仕掛けておいた四つ手網の中にゴリを誘い込む漁法である。
そして、四万十川を代表するエビがテナガエビ。テナガエビの漁法は「柴漬け漁」といい、枝を束にして水に沈め、その中に入り込んだものをすくうという伝統的な漁法。
その他、天然ウナギ、青海苔の産地としても知られている。

四万十川は、川漁で生計を立てている人が多いことでも、日本有数の河川といえる。



四万十川には支流も含めて47の沈下橋があり、高知県では生活文化遺産として保存する方針を1993年に決定している。


太平洋沿岸を飛ぶ (47) - 須崎港

2010-03-15 | 四国


その夜、紀淡海峡をすぎてから風浪はげしく、船は大いにゆれた。翌朝室戸岬をまわるころには海がようやく凪ぎ、夕刻、須崎港に入った。
須崎は高知の西方四十キロにある土佐藩きっての良港で、港のふところは四面、山と島でかこんでいるため、外洋の風浪はまったく遮断されている。
幸い、まだ英国軍艦も幕府軍艦も入っておらず、彼らよりも一足さきに高知に入って下準備をととのえたいという佐佐木らの希望どおりの状態になった。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)




須崎港は、高知市の西方約30km、土佐湾のほぼ中央に位置し、天然の良港として、古くから地域の生産、消費物資を取り扱い、現在ではセメント、石灰石、木材等を取り扱う県下最大の貿易港として大きな役割を果たしている。

港の入り口(画面左の白い部分)には、日鉄鉱業の須崎事業所があり、石灰石の積出港となっている。
仁淀川町の鳥形山から、この積出港まで約23kmの距離を専用ベルトコンベアで運ばれた石灰石は、ここから阪神・京葉地区など国内のほか,オーストラリア・シンガポール,香港などに出荷されている。


一方で、須崎港沿岸は、リアス式海岸のため、津波の被害を受けやすく、古くから幾多の津波によって尊い人命と財産が奪われてきたところでもある。


また、須崎市の西部を流れる清流としても有名な新荘川は、1974年にニホンカワウソの生息が確認されたが、その後、1979年に新荘川で確認されたのが最後となった。



幕末、1867(慶応3)年7月6日、長崎で起きた「イカルス号事件」の補償交渉のために、英国人パークスが須崎まで押し掛けてきたことがあった。

イカルス号事件というのは、長崎で英国人水夫が斬殺され、その嫌疑が「海援隊」にかかった事件である。
のちに犯人は海援隊士ではなかったことが明らかになったが、英国と土佐の談判という国際事件の舞台となったのがここ須崎港だった。


太平洋沿岸を飛ぶ (46) - 鳥形山

2010-03-14 | 四国
高知県仁淀村、四国山地の一角に、頂上が雪のように白く平らな山(画面右)が目を引く。
日本一の採掘量を誇る石灰鉱山、「鳥形山」である。

鳥形山は東から眺めると鳥が翼を広げたようなシルエットを持つところからこう呼ばれたが、現在、石灰の採掘が進む鳥形山にその面影はない。昭和46年の開山以来、山の形が徐々に変わってきていることでも有名である。

標高1,000mを越える山頂にある採鉱現場では、日鉄鉱業(株)によって、推定埋蔵量10数億t以上の良質な石灰石が東西4,400m、南北400~900mにわたる広大な現場で採掘されている。
採掘は、山を階段状に切り取るベンチカット方式を採っており、ダンプでではなく、鳥形山から須崎港まで約23km敷設された長距離ベルトコンベアーで直接運搬されている。

鳥形山に代表されるように、四国カルストの石灰岩は、約2億5千万年前~3億7千万年前に形成されたものといわれ、世界的にも高純度の石灰岩が産出されている。このことは、カルストを形成する石灰岩が古生代末に、太平洋の遙か赤道付近にあった珊瑚礁であり、それがプレートテクトニクスによって移動したものと考えられている。

一方、全山が石灰岩という地質や、四国有数の雨の多い地域であることが高山性、北地性の珍しい植物を多く残してきた。
牧野富太郎博士が「鳥形ハンショウゾル」を発見以来有名となり、イワギク、キンキマメザクラ、フキヤツツバ、ユキワリソウ等幾多の高山植物が繁茂していて、高山植物の宝庫とされている。



太平洋沿岸を飛ぶ (45) - 四国カルスト

2010-03-13 | 四国

檮原は、どこか童話的な里でもある。
私どもは檮原を辞すべく、午後四時ごろには、北の町境い(すなわち県境)の台地にのぼりきっていた。地芳峠(標高1084メートル)だった。そのあたりは、一面のカルスト高原である。北方は、荒海を見るように山波がかさなっており、かすかながら石鎚山も見ることができた。
そのまま、石灰岩の台上を尾根づたいに東へゆくと、姫鶴平という広闊な高原に出た。
「四国カルストです」
町長さんがいったが、私には愛媛県(伊予国)にいる牛がぜんぶ黒牛で、高知県(土佐国)にいる牛がすべて赤牛であることがおかしかった。
(司馬遼太郎著『街道をゆく- 檮原街道』より)




四国カルストは、愛媛県と高知県との県境にある標高約1,400m、東西に約25kmに広がるカルスト台地である。
山口県秋吉台、福岡県平尾台と並び日本三大カルスト台地の一つに数えられている。

大野ヶ原、五段高原、姫鶴平(めづるだいら)、天狗高原(標高1485m)へと、なだらかにつらなる山肌には、白い石灰石と擂り鉢状の窪み(ドリーネ)が、広大なカルスト地形を構成している。

「四万十川」は、四国カルストの東端に位置する不入山(いらずやま=1,336m)の1200m付近の南面に源を発する。

1964(昭和39)年、四国カルスト県立自然公園に指定された。


太平洋沿岸を飛ぶ (44) - 四万十川河口 ・ 旧中村市

2010-03-09 | 四国


中村市は高知県の西南部、幡多郡の中央を流れる「四万十川」とその支流、後川及び中筋川の流域に発達し、県西南地域の文化、経済、交通の中心地である。

今から約500年前、前関白一条教房公が、応仁の乱を避けてこの地に下向し、京都に擬して造られた町で、街並みも碁盤の目状に広がり、祇園、京町、鴨川、東山、などの地名があり、「土佐の小京都」と呼ばれている。また「大文字送り火」など、小京都にふさわしい行事が連綿と今日に続いている。

一条家は教房のあと房家、房冬、房基、兼定とつづき、兼定が天正2年(1574)長宗我部元親によって豊後に追われるまで106年間栄えた。



中村市の中心部を流れる四万十川は、高知県東津野村不入山(標高1336m)に源を発し、蛇行しながら梼原川、広見川等の支流を合わせ、太平洋に注ぐ流域面積2,270㎞2(四国第2位、全国第27位)流路延長196㎞(四国第1位、全国第11位)の四国西南地域の母なる川である。

平成17年4月10日より中村市と幡多郡西土佐村が合併し「四万十市」となった。



太平洋沿岸を飛ぶ (43) - 横浪半島・浦ノ内湾

2010-03-07 | 四国
横浪半島に抱かれた半島北側の浦ノ内湾は、約12km(3里)に渡って深い入江が続く風光明媚なリアス式海岸。波がおだやかで、横方向に波紋を描くところから「横浪三里」とも呼ばれる。
土佐市宇佐と須崎市浦の内を結ぶ「横浪黒潮ライン」(横浪半島を内海と太平洋の両方を展望し横断する18.8kmのドライブコース)が走る。

横浪半島の東突端にある宇都賀山の中腹にたっている「青龍寺」は、寺伝によれば、804年、唐に渡った空海が唐の青龍寺で恵果和尚から真言密教の奥義を伝授され、帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海はその独鈷杵がこの山中の松の木に発見し、815年に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。本尊の波切不動は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海がその姿を刻んだものであると伝える。

寺の近くには、高校野球の甲子園出場常連校で、 先日引退した横綱 “朝青龍” (四股名の「青龍」の由来となっている)や、プロゴルファー 横峯さくら 選手など、多くの有名アスリートの母校 明徳義塾高校 がある。


また、横浪黒潮ライン途中には、土佐勤王党盟主 “武市半平太” (戯曲「月形半平太」のモデルとされる)の銅像が建っている。

龍馬は桂浜、そして中岡慎太郎は室戸岬から、三者三様に、その目線は今も「日本の夜明け」を見極めるように太平洋に注がれている。



太平洋沿岸を飛ぶ (42) - 高知市・桂浜

2010-03-05 | 四国



砂浜が長く、白い。
長い渚のむこうに竜王岬が海にむかって伸び、岬の脚の岩に波が間断なくくだけているのがみえる。
(桂浜じゃな)
竜馬は一歩々々、足あとを印するのを楽しむようにして歩いた。歩くにつけ、こみあげてくる感傷に堪えきれなかった。この国にうまれた者にとって、この浜ほど故郷を象徴するものはないであろう。
月の名所は桂浜
と里謡にもあるように、高知城下の人は中秋の明月の夜にはこの浜に集い、月を肴に夜あかしの酒を飲むのが年中行事になっていた。
のち、この浜に竜馬の像が立つ。「スエズ以東最大の銅像」といわれるこの像の建設は、大正十五年、数人の青年によって運動がおこされた。当時早稲田大学の学生だった入交好保、京都大学在学中の信清浩男、土居清美、浅田盛の諸氏である。彼等は全国の青年組織からわずかずつの寄附をあつめ、途中、岩崎弥太郎がおこした岩崎男爵家から五千円の寄附申し出があったが、零細な寄附を集めてつくるという建前から、かれらはこれをことわり、ついに資金をつくり、彫刻家本山白雲氏に制作を依頼した。
銅像は、昭和三年の春にできた。その台座の背面に建設者の名を刻むのが普通だがかれらはいっさい名を出さず、
「高知県青年建立」とのみ刻んだ。五月二十七日の除幕式の日、当時の日本海軍は駆逐艦浜風を桂浜に派遣し、その礼砲とともに幕を切りおとした。
が、このときの竜馬は、まさか自分がこの浜で銅像になって残るとはゆめにも思わなかったであろう。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



桂浜は高知市の浦戸湾口、龍頭岬と龍王岬にはさまれた弓状の浜。
背後の山は、1591年(天正19年)長宋我部元親が浦戸城を築き拠点を置いた場所。一時この地が土佐の中心地になった時期もあったが、初代土佐藩主として土佐入りした山内一豊がこの地では手狭であると感じ、1603年(慶長8年)高知城を築いて移ったため浦戸城は廃城となった。

土佐民謡「よさこい節」の一節にもなっているように、桂浜は月の名所としてもよく知られており、明治期の詩人・随筆家、大町桂月(「桂月」の名は桂浜月下漁郎の号を縮めたもの)は、
「みよや見よみな月のみの桂浜、海のおもよりいづる月かげ」 と詠んだ。


龍頭岬には、右腕を懐に、革靴を履いた坂本龍馬像が建ち、太平洋の彼方を見据えている。




太平洋沿岸を飛ぶ (41) - 高知龍馬空港

2010-03-03 | 四国


竜馬は世界のことが知りたい。万里の波濤を蹴ってこの極東の列島帝国まで黒船を派遣してくる「西洋」というものがふしぎでならなかった。それは子供のように無邪気な好奇心であった。この好奇心があるために武市半平太のように、頑固な、--- 天皇好きの洋夷ぎらい。
にはなれなかったのである。
「されば、たれに就くのじゃ。この城下には蘭学者など居やせぬぞ」
「一人いる。蓮池町の小竜老人じゃ」
「小竜。あれはお前、絵師ではないか」
・・・・・
河田小竜は、狩野派の画家で、藩のお抱え絵師であり、士格の待遇をうけている。屋敷は塾を兼ねているが、門弟はさほど多くない。小竜は、ちょっと変わっている。警世家であった。攘夷論者をあざけり、日本は開国してどんどん外国の文物をとり入れねばならぬ、といっている。その点急進的な勤王派と肌が合わなかった。武市がきらっているのは、この点である。
小竜は、一見識がある。
というのは、この老人は、大そうな著書があるのだ。
「漂巽紀略」という。巽とはタツミの方角(南東)のことで、日本からその方角には、アメリカがある。書名の意味は「アメリカ漂流記」ということである。
小竜がアメリカに行ったのではなく、漂流したのは、土佐の漁師万次郎で、十一年間アメリカを流浪して帰国した。
この万次郎から小竜がきいて書いたのが、右の本である。この小竜の著書によって竜馬ら土佐人は、おぼろげながらアメリカというものを知った。
(司馬遼太郎著『竜馬がゆく』より)



河田小龍(しょうりゅう)は、1824(文政7)年10月25日、高知高知城東、浦戸片町水天宮下、御船方の軽格の藩士、土生玉助維恒の長男に生まれる。
幼少のころより神童の誉れ高く、島本蘭渓に画を学び、16歳のころ藩儒学者岡本寧浦の門下に入る。
1844年、吉田東洋に従い京に遊学、狩野永岳に師事する。二条城襖絵修復の際には師とともに従事する。

1852(嘉永5)年、米国より10年ぶりに帰国した漁師、ジョン万次郎の取り調べに当たった。万次郎と寝食を共にし、万次郎に読み書きを教えつつ小龍自身も英語を学んだ。彼との交流を通じて海外事情にめざめた小龍は、アメリカの産業や文化などを聞きとり、小龍の挿絵を加えて「漂巽紀略」五巻として上梓し、藩主に献上。そして同書が江戸に持ち込まれると、諸大名間で評判になり、万次郎が幕府直参として取り立てられることとなった。

また、かねて親交のあった藩御用格医師、岡上樹庵の妻が、坂本龍馬の姉、乙女であったことから、龍馬は、この小龍を訪ねることとなる。
小龍は、龍馬に、攘夷一辺倒ではこれからこの国は生き残っていけないと、「海防」と「貿易」の重要性を説き聞かせる。

後に出逢う勝海舟とともに、河田小龍は、龍馬の思想に大きな影響を与えることになるのだ。







画面、高知空港は高知市の東方約18km、高知県の穀倉地帯と呼ばれる香長平野の南端物部川の河口に開けた田園地帯にあり、愛称を「高知龍馬空港」という。

「高知龍馬空港」のように人名を冠した空港は米国のジョン・F・ケネディ国際空港、イタリアのレオナルド・ダビンチ国際空港、英国のリバプール・ジョン・レノン空港などがあるが、日本では初めて。

昭和19年の旧海軍航空隊基地に始まり、終戦とともに連合軍に接収されたが、昭和27年の接収解除により民間飛行場として再開した。





太平洋沿岸を飛ぶ (40) - 高知市

2010-03-02 | 四国

伊右衛門という男が現在の高知市をつくったわけだが、それはまったく土地を造成した、といえばいえるほどの土木工事だった。なにしろ、城に予定している大高坂山や海抜百五十尺で城郭をつくるにはなるほど手ごろだったが、ふもと一帯は、歩けば腰のなかに沈むほどの大湿地帯だった。
宿命的な地相なのである。奥地から流れてきている巨大な川が、この岡にぶつかって一つは江の口川、一つは潮江川となってそれぞれ浦戸湾にそそぐ。この二つの川のつくるデルタ地帯が伊右衛門の城下になるはずであった。その川がくせものであった。川といっても堤防がなく、大雨がふるごとにはんらんし流れがかわり、いちめんが湖のようになり、やがて干上がると池と湿地をのこす。
「はたしてできるかしら」
と千代もうたがわしくなっていた。一代の英雄といわれた旧国主長曾我部元親もここに築城することにきめたことがあるが、中途で断念せざるをえなくなった。それほどの工事を伊右衛門がやろうというのである
(司馬遼太郎著『功名が辻』より)


山内一豊は、「関ヶ原の戦い」の功績で、掛川(現在の静岡県掛川市付近)六万石から、土佐二十四万石を与えられこの地を治めることとなった。土佐は元来、長曾我部氏の本拠地だった。長曾我部氏は「関ヶ原の戦い」で西軍についたため、領地を没収され、その後に一豊が乗り込む。桂浜に近い浦戸に城があったが、一豊は長曾我部氏の家臣(一領具足)の反乱に悩みながらも、高知城と城下町を建設。以後幕末まで続く土佐山内家の基礎を築いた。


高知の名の由来は、山内一豊が高知城を大高坂山に築いた時、南北を川に挟まれているので「河中山」(こうちやま)と名付けられたが、よく水害に悩まされ、そこで竹林寺の和尚、空鏡の意見で智を積むようにと『高智』に改名された。現在は「高知」になっている。

幕末の土佐藩の特異な風土を考えるうえで、「上士と郷士(下士)」という身分制度が及ぼした影響を見落とすことはできない。
長宗我部の家臣達は新たに入ってきた山内家に強硬に対抗した。そうした抵抗に手を焼いた山内一豊は、長宗我部の家臣を郷士とし、後から来た山内家の家臣が上士として区別して藩政に組み込んだ。

上士に徹底して虐げられていた郷士達は、世の中の不条理を正すべく幕藩体制を打ち倒し、新しい世界を築こうと考えた。 武市半平太は、土佐勤王党を結成し、徳川幕府から天皇を中心とした国家に変えようという運動に発展していく。
そんな中、坂本龍馬は、江戸や長州で多くの志士たちに出会い、土佐勤王党とは別の方法で日本を変える方策を求めて脱藩する。



太平洋沿岸を飛ぶ (39) - 高知市・浦戸湾

2010-03-01 | 四国


高知市は、浦戸湾奥に位置し、市域のほぼ中央を南北に浦戸湾が湾入、東から国分川、西から鏡川が流入し、市街地は鏡川によって形成された沖積低地に立地する。
古代、現在の中心市街の辺りは、浦戸湾の浅海で、『土佐日記』にも、紀貫之が現市城東部の、いまは陸地化している大津ノ泊から船出したことが記されている。

1601(慶長六)年、土佐に入国した山内一豊が大高坂山に高知城を築いて以来、県の中心地となっている。以来約270年間、山内氏が代々治めて明治維新を迎えた。

十五代藩主・山内豊信(容堂)は、将軍慶喜に大政奉還を建白して、幕府の幕を引かせるきっかけをつくったことでも有名な人物である。
そして、その献策をしたのが、土佐藩の後藤象二郎であり、この建白書の基本は、同じ土佐藩の坂本龍馬から出ていた。有名な「舩中八策」である。この坂本龍馬の新国家構想には、大政奉還をはじめ、議会の設置や金銀交換率の均一化など、その後明治政府が発布する五箇条の御誓文の条項がほとんど盛りこまれている。

近代日本の夜明けは、土佐・高知から始まったといっても過言ではないだろう。



太平洋沿岸を飛ぶ (38) - 高知市

2010-02-27 | 四国


「いごっそう」と「はちきん」

信念を曲げず、反骨で権力にも屈しない精神性とユーモアを併せ持つ、土佐男を“いごっそう”と呼ぶ。
そして、陽気で男勝りで、行動力に富み、さばさばしていて、気性がはげしいが男には献身的、そんな土佐の女性が“はちきん”。

「南国土佐」で知られる高知は、南は太平洋に面し、北1,800m級の四国山脈を背負う。
四国山脈で隔たれた土佐は、四国の孤島といわれた時代があった。平地は非常に少なく河川の流域と海岸地帯に点在するだけ。海岸線は極めて長く、西部は沈降による出入りの多いリアス式海岸であり、東部は逆にほとんど出入りのない隆起海岸で平坦な砂浜がつづく。
このような複雑な地形や明るい陽光にあふれる温暖な気候、毎年襲ってくる台風の猛威などの自然環境、土地柄が「いごっそう」という独特の気質を育んだという。

幕末から明治維新へと土佐が送りだした志士は多い。
十五代藩主・山内容堂を筆頭に、坂本龍馬、中岡慎太郎、武市半平太と枚挙にいとまがない。
そして、明治維新を迎えて、板垣退助、岩崎弥太郎、後藤象二郎らが歴史の舞台に登場してくる。民権運動に生涯を捧げた中江兆民も土佐の生まれだ。いずれも、「いごっそう」の面々である。