Tenkuu Cafe - a view from above

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春の九州を飛ぶ (2) - 切支丹の里・島原半島

2012-04-30 | 九州



小浜から加津佐、口之津、有馬を経て島原をむすぶ海岸線は今こそ人々の訪れぬひなびた漁港と美しい入江しかないが、これは日本の文化史上、重大な地域である。我々日本人がはじめて西欧と接触したあの切支丹時代、ここはその門戸となり、文化の吸収地となり、最も新しい学問や技術が移入され、受け入れられた場所だったのである。
(遠藤周作著『切支丹の里』より)




1563年にポルトガル人アルメイダが口之津で布教活動を始めてから、キリスト教は島原半島全体に広がり、領主有馬義貞がキリシタンに改宗すると領民もこれにならった。

キリスト教が手厚く庇護された有馬晴信(義貞の次男)の治世下、1580(天正八)年、日本で初めてキリスト教の教育機関である、有馬のセミナリヨが設置された。
当時、イエズス会司祭ヴァリニャーノの発案であることは前回ふれた。ヴァリニャーノは、日本人の司祭・修道士を育成することが日本布教の成功の鍵を握るとみていたのだ。


これ以来20年余り、九州のみならず日本におけるキリスト教の指導者育成のための重要拠点となり西欧文化接収の基点となったのである。



セミナリヨ(seminário)とは一般の信者に宗教教育をほどこす初等教育機関であり、およそ現在の中学校に相当する。地理学、天文学、語学(ラテン語)、宗教、美術、音楽など当時最先端の西洋式教育が行われたとされる。
一方コレジヨ(collegio)は、日本に新たに来たキリスト教の聖職者を育成するための高等教育機関であり、現在の大学にあたる。









春の九州を飛ぶ (1) - 切支丹の里・島原半島

2012-04-28 | 九州



島原半島は、有明海に対して拳固(げんこ)をつきだしたようにして、海面から盛りあがっている。
拳固から小指だけが離れ、関節がわずかに まがって水をたたえているのが、古代からの錨地(びょうち)である口之津である。

人間は自然に依存するもろい生きものにすぎない。そのことは、陸(おか)にいるときより海にうかんでいるときにはなはだしい。

船と称されている材木の切れっぱしに帆を立てたものに乗るとき、風浪のままに動き、あるいは風浪が追っかけて来ない海岸線の切れこみのなかに遁(にげ)こむ。

島原半島に入るには、陸路はこの半島の柄 の部分である諫早方面からの道があるにすぎない。しかし外界からくる者は、多くは船に拠った。

船でくる者は、みな口之津をめざした。この図体(ずうたい)の大きな半島にとってただ一つ開いている小さな口ということで、口之津という地名はまことに実感的なものであった。 
(司馬遼太郎著『街道をゆく』より)





島原半島の最南端部に「口之津」はある。

口之津は、日本で最も早くキリシタン文化が花開いたところである。
1550(天文19)年、ザビエルが平戸に入津して4年後には島原で布教が始まり、1563(永禄6)年、領主有馬義貞は宣教師ルイス・アルメイダを口之津に招いていた。

翌年には日本における宣教活動の主要人物であったトーレス神父が口之津へ移ったこともあり、以来この地は日本におけるキリスト教布教の根拠地として栄えていく。

特に天正七年(1579)には、イタリア人イエズス会司祭ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)により、全国宣教師会議が口之津の地で開催された。ヴァリニャーノ司祭は、天正遣欧少年使節の発案や、日本人司祭育成のための教育機関(セミナリヨ及びコレジヨ)の充実に寄与した。


口之津は、ポルトガル船の入港地としては、1567(永禄10)年より1582(天正10)年に至るまで、その役割を果たした。











冬の日本列島を飛ぶ (終) - 日本アルプス

2012-04-22 | 中部

再び、W・ウェストンについて。

1888(明治21)年に来日して富士山や九州の山々、そして槍ヶ岳、穂高岳など数多くの日本の山々を登ったウェストンは、1895年に英国に戻る。
翌1896年、日本での登山を『日本アルプスの登山と探検』にまとめロンドンで発行したことはすでに述べた。

そして1902(明治35)年、再び来日する。今度は新婚の妻、フランシスと一緒であった。
1905年に帰国するまでの3年間は、横浜で牧師をするかたわら、主として南アルプスを中心に登山し
北岳、甲斐駒ケ岳、鳳凰、地蔵ヶ岳、千丈ヶ岳などに登頂した。
日本山岳会設立を小島烏水らに勧め、日本山岳会が生まれたのもこの期間である。

1911(明治44)年、三度来日し、北アルプスの山々や富士山に登り、1915(大正4)年に帰国、これ以後、日本に来ることはなかった。

そして、2度目と3度目の滞日中の記録を中心にした第2の著書『The Playground of the Far East(極東の遊歩場あるいは日本アルプス再訪)』を1918年出版した。

ウェストンの第3の著書『A Wayfarer in Unfamiliar Japan (知られざる日本を旅して)』は、今までの山の紀行文とは異なり、ウェストンの日本論ともいうべきものであるが、これを読むと、彼が日本の山々だけでなく日本人そのものを深く愛し、日本人の国民性や風俗習慣にも深い関心を示していたことがわかる。


渓谷の美しさや鬱蒼とした原生林の光景などヨーロッパとは一味違う日本独自の自然美に魅せられたウェストンであったが、後年ロンドンで、心から愛した上高地に近代的なホテルができる、とある日本人から聞いた時、彼は眼に涙を一杯浮かべて黙ったまま窓から外を見ていたそうである。


1937(昭和12)年、ウェストンの喜寿を記念して、日本山岳会の手で記念碑がつくられ、上高地の梓川のほとりに建立された。




1940年、ウェストンはロンドンで永遠の眠りにつく。享年78歳であった。









冬の日本列島を飛ぶ (10) - 日本アルプス

2012-04-08 | 中部


『一外交官の見た明治維新』は、アーネスト・サトウが、1862(文久2)年に日本に来て、1869(明治2)年にイギリスに帰国するまでの回想録である。

明治維新前後の怒涛のように揺れ動いた時代が「外国人」の目から記されている貴重な史料である。

そのアーネスト・サトウが、日本の近代登山にも足跡を残している。

明治4年から15年までにおよそ31回、日本国内を旅行した。
『日本旅行日記』には、主だった街道の旅行記を含め、南アルプスや奥秩父山系など各地の登山の記録も載っている。

南アルプス登山は、明治14年のことなので、ウェストンの赤石岳登頂よりも11年も早い。
農鳥岳から間ノ岳まで登ったものの、北岳には登らず下山してしまった。外国人としての北岳初登頂は、21年後のウェストンに譲ったわけだが、南アルプス登山の最初の開拓者であることに間違いはない。