Tenkuu Cafe - a view from above

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-空から見るからこそ見えてくるものがある-

輝く大地、水鏡の頃 (8) - 大潟村

2010-06-14 | 東北

政府や県から、
米づくりは、できるだけおさえて。
という、歴史からみればおよそ矛盾した--であればこそ悲痛な--指導がたえずおこなわれているが、作り手からみれば米ほどうまみのある作物はない。

米の国家管理(食糧管理法)は、後世昭和史が書かれる場合の一大特徴としてとらえられるだろう。最初は社会不安を解消するためであり、ついで戦時下の流通米を国家が管理するという思想からうまれた。

戦後も、米は不足した。
大きくかわるのは、昭和三十年の大豊作以後らしい。ともかくも米の需給関係の緊張が、大豊作によってゆるんだのである。別な要素として、戦後型のインフレも、この年に終息した。米という面でいえば、戦後がおわったのはこのとしだったのではないか。皮肉なことに、八郎潟の干拓工事が開始されるのはこのあとである。

世間が、この干拓にくびをかしげはじめたのも、このころからだろう。
しかし、法もでき、予算もついている。実施はゆるぎなくすすんだ。
干拓は、浮世ばなれの印象を年とともに濃くした。

決定的だったのは、昭和三十八年ごろから、米生産が大きくふえたことだった。逆に需要がへってきた。このため米はだぶつき、政府は古米の在庫にあたまをいためはじめた。食糧管理制度はすこしずつ変わらざるをえなかった。

昭和四十年代になると、政府も米をもてあますようになった。
大潟村という大農場は、米がだぶつき、買手である政府が、食管赤字になやむ時代になって完成され、その後五次にわたる入植者を迎えつづけたのである。

このあと、農場の一端を見た。
はるかにつづく大地は、ちょうど小麦の刈りとりがおこなわれている最中だった。
すべてそれらの労働は、コンバインその他の機械がやっていて、私どもの子供のころの農村風景から見れば、外国としか言いようがない。

昭和初年の小学生のなれのはてである私は、ついこの光景を見ると、理非曲直を超えて、頼もしく思い、誇らしく思う気持ちをおさえきれない。
「もうこれで日本は、大丈夫だ」
という。理性をこえた気持ちといっていい。

この感動は、過去のなにかの情景と似ている。たとえば、むかし建造中の戦艦「大和」を見た人も、私が大潟村で感じたような感動をもったのではないか。

(司馬遼太郎著『街道をゆく- 秋田県散歩』より)





輝く大地、水鏡の頃 (7) - 大潟村

2010-06-12 | 東北


1964(昭和39)年に干陸し、大潟村が誕生。
1966(昭和41)年、大潟村への入植が募集され、定員58名に対して全国から10倍以上の応募があったという。


当初、八郎潟干拓の目的は「食糧増産」であった。
皮肉にも、工事の間に、食糧事情が改善したことなどを受けて「新農村建設(機械化農業を可能にするための基盤整備)」に変わっていた。

60年代に入り高度経済成長の下、農業人口が商工業に移行し始め、農業を取り巻く情勢が大きく変化したのだ。

1970(昭和45)年、国は米の大量在庫を抱え、生産調整のため農家に「減反」を迫った。
農家は大豆や麦などへの転作を余儀なくされた。

そして、大潟村への入植は第五次で打ち切られる。

最終的に工事が終了したのは1977(昭和52)年で、期間20年、総工費852億円の大事業であった。

大潟村は現在では約1,000世帯、人口約3,300人の村へと成長した。
営農は1戸あたり15ha。日本の平均農地面積の10倍を超す大型農業が営まれている。




輝く大地、水鏡の頃 (6) - 大潟村

2010-06-09 | 東北

漁業関係者たちにとって八郎潟干拓計画は死活問題であった。

国や県と保障交渉を繰り返した。
その結果、1957(昭和32)年には国が漁民側に補償額を提示。反対派もこれ受け入れたため、漁業保障問題は解決した。

こうして1958(昭和33)年8月20日、世紀の大事業、八郎潟干拓事業の起工式が盛大に行われた。


八郎潟干拓工事は、周囲52kmもある堤防を築いて中央干拓予定地を囲み、中の水をポンプで汲み出すというもの。

しかし、八郎潟干拓への道は厳しいものであった。
超軟弱地盤の出現、青森県西方沖地震、新潟地震、十勝沖地震、そして「砂の流動化現象」など、オランダ人技師をはじめ誰も予期しなかった。

八郎潟干拓への道は厳しいものであった。
その度に、日本独自の改良を加え、この難局を乗り切った。


最新の技術を駆使し、543億円の国費を投じて着工から7年、昭和39年9月に完了。

干陸式を迎え、かつて湖だった一帯は、全国公募により「大潟村」と名づけられた。



輝く大地、水鏡の頃 (5) - 大潟村

2010-06-07 | 東北

「世界は神が作ったが、オランダはオランダ人が作った」


オランダ人たちは、干拓や治水により国土を広げ、管理してきた。



1952年、農林省の「食糧増産5カ年計画」の一貫として八郎潟干拓調査事務所が設置、農林省からは多くの技術者がオランダへ留学し、またオランダの技術者も訪日が始まり、本格的な調査が始まった。

その2年後、オランダの干拓専門家で“八郎潟干拓の父”ともいわれたピーター・フィリップス・ヤンセン教授とアドリアン・フォルカー技師が招聘された。

そして1956年、農林省は、オランダ対外技術援助機関と技術援助計画を結び、 翌年に「八郎潟干拓事業計画書」を完成させた。


しかし、この計画は湖面の大部分が干拓され、従来通りの漁業の存続は不可能となってしまう。国が漁業権の補償を行ったが、交渉は難航した。


輝く大地、水鏡の頃 (4) - 大潟村

2010-06-06 | 東北

1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和条約が結ばれ、日本の独立が回復された。
そして、経済的自立とともに食糧増産が急務となった。

農林省は、八郎潟干拓を実施するため、翌年7月、八郎潟干拓調査事務所を設置した。
“八郎潟干拓”は、まさに「不死鳥」のごとく蘇ったのである。


ところで、日本の敗戦処理に際しては、西側諸国のほとんどの国が日本からの賠償を求めなかったのに対し、オランダだけは、ジャワ・スマトラなどでの日本の占領中の仕打ちがもとで、無償平和条約に強硬な反対があった。

講和条約の取りまとめに当たったアメリカ政府が、度重なるオランダへの説得を試みた結果、賠償の代わりに技術援助 (それ相応の技術料の支払い)に応じるならオランダも講和会議に参加する旨の感触が得られたとの報告が当時の吉田茂首相に伝えられた。

直ちに首相は、建設大臣に技術援助を受けるプロジェクトを考えるように指示した。
そして、浮かび上がった妙案が「農林省の八郎潟干拓」であったのだ。

いわば、八郎潟の干拓が、戦後の講和条約の推進に一役買ったということなのである。


輝く大地、水鏡の頃 (3) - 大潟村

2010-06-04 | 東北


渡部斧松。

一介の鍛冶屋から秋田藩の全土木事業を掌握する藩吏にまで登りつめ、水路の開削と新田開発で新しい村・渡部村を誕生させた。後年、「渡部神社」の神として奉られ、同時代の二宮尊徳とも並び称せらた。

しかし、その斧松とても遂に果たせなかった夢が「八郎潟の干拓」であった。


その後、明治5年、秋田県令の八郎潟開発構想、大正13年、農商務省の八郎潟土地利用計画、昭和16年に内務、農林両省の八郎潟利用開発計画・八郎潟干拓計画等が作成されたがいずれも実施には至らなかった。


そして戦後。

戦争終結によって、復員兵、戦災者の帰村、海外移民の引き揚げがあいつぎ、人口が増加し、深刻な食糧危機に見舞われた。

何とか食料不足を解消させたい。八郎潟干拓と食料増産は、国民的な課題を背負って再び動き出した。