「群青と緑青の風景だ、と私は思った。島々は緑の樹木に蔽われ、急な斜面を段々畑が海ぎわから山の上まで続いていた。小さな村々の家々が、まるで自然の中に溶け込むように点在している。地中海のコバルトやウルトラマリンではなく、日本画の絵の具の色感だった。花崗岩質の島を蔽う松の繁みは、緑青を塗り重ねた色そのものに見えた。空気は爽やかな中に、潤いと甘やかさを持ち、ほっとするような安らかさと、親しさに満ちていた」
-- 東山魁夷著『風景との対話』より
魁夷は、横浜で生まれるが、3歳のとき父の仕事の関係で神戸へ転居。港に出入りする外国船や異人館など異国的なものを見て育ったためか、西洋への憧憬を強めていく。
大正15(1926)年に東京美術学校に入学。洋画科を志望するが、父の意向で日本画科へ入学。
卒業後、25歳のときドイツへ留学。
そして昭和10(1935)年秋のこと、2年間の留学を終え帰国の途、瀬戸内海の風景を目にした魁夷は、ヨーロッパとは異なる“日本の色”を発見し心をうたれる。
後年、魁夷は、「自分の中には“異国的なものに対する憧憬”と“郷土的なものに対する郷愁”が宿命的に存在している」と語っている。
そして、その根源を、祖先の土地、「塩飽諸島」に見いだしていたかもしれない。