Tenkuu Cafe - a view from above

ようこそ『天空の喫茶室』へ。

-空から見るからこそ見えてくるものがある-

Cafe belvedere - (45)

2015-05-17 | Cafe 


「群青と緑青の風景だ、と私は思った。島々は緑の樹木に蔽われ、急な斜面を段々畑が海ぎわから山の上まで続いていた。小さな村々の家々が、まるで自然の中に溶け込むように点在している。地中海のコバルトやウルトラマリンではなく、日本画の絵の具の色感だった。花崗岩質の島を蔽う松の繁みは、緑青を塗り重ねた色そのものに見えた。空気は爽やかな中に、潤いと甘やかさを持ち、ほっとするような安らかさと、親しさに満ちていた」
-- 東山魁夷著『風景との対話』より




魁夷は、横浜で生まれるが、3歳のとき父の仕事の関係で神戸へ転居。港に出入りする外国船や異人館など異国的なものを見て育ったためか、西洋への憧憬を強めていく。

大正15(1926)年に東京美術学校に入学。洋画科を志望するが、父の意向で日本画科へ入学。

卒業後、25歳のときドイツへ留学。

そして昭和10(1935)年秋のこと、2年間の留学を終え帰国の途、瀬戸内海の風景を目にした魁夷は、ヨーロッパとは異なる“日本の色”を発見し心をうたれる。

後年、魁夷は、「自分の中には“異国的なものに対する憧憬”と“郷土的なものに対する郷愁”が宿命的に存在している」と語っている。

そして、その根源を、祖先の土地、「塩飽諸島」に見いだしていたかもしれない。








Cafe belvedere - (44)

2015-05-11 | Cafe 


東山魁夷(1908 - 1999年 本名は東山新吉)は、いうまでもなく、わが国を代表する日本画の巨匠であり、皇居新宮殿の壁画や奈良唐招提寺御影堂の障壁画などで有名である。

魁夷は横浜市で生まれるが、祖父・新吉が塩飽諸島の櫃石(ひついし)島の出身であったことから、しばしばこの地を訪れている。

祖父と同じ新吉と名付けられた魁夷は、祖先が暮らした櫃石島や塩飽諸島に特別な思いを抱いていたと思われ、瀬戸大橋のライトグレーの色は、「海と溶け合う柔らかい色を」との魁夷の提案で決まったというエピソードもある。


櫃石島生まれの魁夷の祖父は、幕末のころ江戸に出て、榎本武揚率いる幕府の海軍に身を投じた後、海運業で財をなす。 魁夷が生まれた明治41(1908)年にはすでに亡くなっていたが、魁夷は、祖父を通して、瀬戸内海の風土への愛着を育んでいった。









Cafe belvedere - (43)

2015-05-10 | Cafe 

塩飽諸島(しわく・しょとう)は、瀬戸大橋の周辺の、本島、広島、与島、櫃石島、手島、高見島、牛島のなど大小28島から成り、その名の由来は、坂出などで盛んだった製塩で「塩焼く」とも、激しい潮流の「潮湧く」とも言う。

戦国時代には塩飽水軍が活躍し、江戸時代は人名(にんみょう)による自治が行われたところでもある。

古代から海上交通の要衝で、潮流の速い西備讃瀬戸に浮かぶ塩飽諸島は、操船に長けた島民が住んだと考えられている。











Cafe belvedere - (42)

2015-05-05 | Cafe 




私は人間的な感動が無くて、風景を美しいと見ることは在り得ないと信じている。風景は、いわば人間の心の祈りである。私は清澄な風景を描きたいと思っている。汚染され、荒らされた風景が、人間の心の救いであり得るはずがない。風景は心の鏡である。

- 東山魁夷著『日本の美を求めて』より