幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
日々の活動や、イベントのお知らせをいたします。

暗黒の「無神論科学万能時代」の解放者となろう!

2021-04-23 23:54:03 | 命の不思議

丹光とは?丹光が見える人の特徴や、スピリチュアルな意味について色 ...

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本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しくださり、本当にありがとうございます。
 
さて、私たちは、多くの生き物の中で暮らしております。
それは自然の大きなバランスの中で、生かしあって存在しています。
 
最も原始的であるとされているアメーバーたちでさえ、実際には、かなり高度な生き物であって、「勝手に出来た偶然の産物」として扱うことはできないです。
 
私は、多くの方々の協力を得ながら、このブログ記事を通して、生き物が創られた存在であることの証拠を提示することで、唯物的な科学に負けない、信仰心の一片でもお示しできたらなぁと考えてます。
 
さて、このブログらしく、さっそく話は変わりますが、たとえば、顕微鏡でコレラ菌を観察していて、その途中で彼(?)の寿命が来て、目の前で死んでしまったとしますね。
先程まで、尻尾をクルクルと回して動いていたコレラ菌と、死んで動かなくなったコレラ菌。

これはいったい、何がどう違うのでしょうか?
見た目は、ほとんど変わりませんよね。

解剖しても (できるかどうか知りませんけど・・・)、その違いはないはずです。
それなりの電気を与えれば、まだしばらくは動くはずですが、神経細胞が死んでしまえば、どうやっても動きません。

そう、生きていたコレラ菌と、死んだコレラ菌とは、見た目、つまり肉の眼で見る限り、違いは全くないんですね。
命が尽きただけなんです。

では、その「命」とはいったいなんなのでしょうか?
 
インターネットの光回線・光ファイバー | So-net

過去にも、単細胞生物が地球に現われたとき、この命が宿ったはずです。
そして寿命ある限り生き続け、連綿とそれを繋いで来たはずです。
 
実はこの、命の始まりの始まりが、生物学者には分りません。
また、驚かれるかも知れませんが、命そのものも、お医者さまにはわかりません。

驚くべきことに、この、高度な蛋白質の化合物が、自主的に動き始めた事実を、現代科学では説明できないのです。

結局、その命の本性が、生物学者や医学者をはじめ、現代科学では分っていないということです。 
なのになぜ、「科学万能の現代文明」と、大口を叩けるのでしょうか?
 
私には、現代人の多くが持っている、そのカッコつきの常識、そしてそういう価値観を持つ方の精神構造が、どうしても理解できないのです。
 

確かに、医師は、生きているか死んでいるかを、判定することができます。
生態反応を見る基準に、照らし合わせて判定しています。

しかしそれは、法律上の問題であり、生体モニター上の、ある意味での統計の問題です。
実際には、肝心の命そのものの正体は、彼らは知らないのです。
 
彼ら・・・というのは酷な話ですね。
現代人のすべてが、「命とは何か」がわからないのです。

これは、厳粛な事実です。

進化論信奉の生物学者たちは言うでしょう。
「私たちは、生物の歴史上の過程を研究しているのであって、命そのものは研究対象外だ」と・・・。

「だったら、大口叩くのはお止めなさい。」と、私は言いたいのです。
偉そうに何でも知っているが如く、振舞う態度を改めるべきだと思うのです。
 
真実の前に謙虚になことが、探求者としての姿勢です。
それこそ、科学者としてのあるべき姿だと思うのです。
 
その、大いなる創造神に対する謙虚さがなければ、人はただ、ちょっとだけずる賢い獣でしかないと思うのです。


私たち信仰者は、現代社会に対して、それを言わねばならない立場なのかも知れません。
少なくとも、私たちは心の中で、そういった強い思いを持っていないといけません。
 
それが、神仏を信ずる者の気概であり、誇りです。
信仰者は、命の探求者であり、神仏とつながっている「心」の探求者だからです。 
 
 
未来の人々は、現代社会のことを、『暗黒の科学の時代』と呼ぶでしょう。

私たち神様を信じる者は、人類にとっての、暗黒の科学からの解放者となろうではありませんか。
その誇りこそ、未来を切り開く鍵だと思うのです。
 
なぜならば、信仰者とは、神仏の手足だからです。
神仏が行きたいところに行き、神仏の願いをかなえていくのは、神仏を信ずる人々の力によるからです。

その誇りに、幸福の科学も、仏教も、日本神道も、キリスト教も、イスラム教も、違いはないはずです。
なぜならば、共に神仏を信じ、人間が神仏の子であることを信じているのですから。
 
信じるとは、理性を去ることではありません。
信じるとは、「命」の本質である「心」でつかみ取ることなのです。
 
本日は、幸福の科学の経典『愛無限』(大川隆法著 幸福の科学出版)抜粋をお届けいたします。

           (ばく)

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あなたはなぜ尊いのか 天使のモーニングコール1372回 (2018.1.13,14)

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「あの世は存在する。そして、数多くの魂が、この地上に生命を持って生まれ変わってきている」ということを認めることができない人たちは、気の毒ではありますが、人生というものを「非常につまらないものだ」と思っているのではないかと私は思うのです。

自分自身の人生がつまらなく思えるだけではなく、おそらく他の人の人生もつまらなく見えることでしょう。

なぜならば、そうした人たちは、「人間は、何年か何十年かのちには、死んで土に還る存在、二酸化炭素と水に変わってしまう存在だ」と思っているからです。

二酸化炭素の成分は炭素と酸素です。炭素は炭と同じ要素でできていますが、それがそれほど尊いものでしょうか。

「そうではない」と私は言いたいのです。

唯物論的に「物質のみが存在する」と言い張るのは結構ですが、それは、自分自身に対しても、他の人に対しても、親切なことではありません。

なぜなら、その考え方には、「愛」という言葉の生まれてくる余地がどこにもないからです。

愛が生まれてくる原点には、生きているものの尊さに対する無限の信頼があります。

「生きているもののすべてが尊い」と思わずに、どうして愛の気持ちが湧き起こってくるでしょうか。

地球や、そこに生きている人間が、宇宙の塵にも等しい、つまらない存在であるならば、どうして愛が生まれてくるでしょうか。

人間が、そうしたつまらない存在であるならば、この二、三千年、あるいは、それ以上の長きにわたる、文明・文化という名の営み自体が、わずか数十年だけ地上に生きる人間の慰み事にしかすぎないことになってしまいます。

すべての宗教や道徳は、また、おそらくは哲学も、虚妄、世迷い言となってしまうでしょう。

みなさんは、自分自身や他人を、そして、生きているものすべてを卑しめる、そのような思想に、心の底から共鳴できるのでしょうか。私は、それを問いたいのです。

「いや、そうではありません。私は、人間の尊さ、生き物の尊さを信じます。その生命が無限なるものから分かれてきていることを信じます。人間は、一時の仮の世である、この世だけの存在ではなく、はるかなる世界に永遠のすみかを持つ存在であり、この地上に幾度も生まれ変わってきては、また去っていき、また来たる存在なのです。」

このように考えることができる人にとっては、他の人には苦悩に満ちた地上界が、きっとユートピアのごとく見え、まったく違った世界が展開していくでしょう。

そのときに初めて、人生というものは、虚しいものではなく、積極的なる意味を持ったものになると思うのです。

したがって、真実の人生を生きるためには、その出発点として、「霊的なる人生観」を打ち立てる必要があります。

これなくしては、いくら議論を積み重ねたとしても、すべてが虚しくなるのです。

それは、ちょうど、砂浜で子供が砂の城をつくるようなものです。

子供の目には、その砂の城は堅固な要塞のように見えるかもしれません。

しかし、やがて沖から波が寄せてきて、その上を通り過ぎたとき、砂の城は、はかなくも消え去ってしまうのです。
『愛無限(新装版)』(大川隆法著 幸福の科学出版)P14~17

 

エンタメール】高知あたご劇場(高知市愛宕町) 高知あたご劇場 ☆ 公式ページ ☆

 高知あたご劇場 ★ 公式ページ ★ (neconote.jp)

・映画『美しき誘惑ー現代の画皮―』あたご劇場映画上映期間

〇5/14(金)~6/11(金)

・上映時間

〇5/14(金)~ 5/28(金) 4回上映

①11時 ②13時20分 ③15時40分 ④18時30分

〇5/29(土)~ 6/11(金) 2回上映 

①14時 ②18時30分 


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