最近コメントをいただくことが増えてきまして、ブログ代表管理人といたしましては、本当にありがたいことでございます。
ただ、お返事が遅くなる傾向があって、その点、大変申し訳なく存じます。
そんなコメントのなかに、「宗教に頼ってる奴は、自分の信念がなく弱い人間」と仰る方がいらっしゃって、久しぶりに、宗教に対する、ネガティブな発言を聞けたなぁと、少し懐かしい気持ちがいたしました。
まぁ、思想信条は自由でございますので、何をおっしゃっても自由なんでございましょうが、世間や人物やその他諸々のレッテルを、あまりにも簡単に貼りすぎるのは「どうかな?」と思います。
そのような常識を持っている方は、果たしてご存知なのでしょうか?
世界では、宗教を信じていない人は、「危険人物」というレッテルが貼られるという事実を。
外交官として、海外に初めて赴任する役人には、事前に必ず、レクチャーされることがあるそうなのですね。
それは、もしも「何の宗教を信じていますか?」と、外国人に聞かれても、「私は何も信じていません。」とは、絶対に答えてはいけない。もしお前が、本当に何も信じていなくても、とりあえずは、「仏教徒です。」と答えなさい。
というものです。
中国や北朝鮮以外の外国では、無神論者=共産主義者=無政府主義者=危険人物という認定がされ、それ以降は、公的なこと意外、誰も話しかけて来てくれないからだそうです。
そしてあの、アメリカ大統領選挙でも、自身の信仰を表明しない候補者は、たとえ出馬したとしても、絶対に当選の見込みはありません。有権者であるアメリカ人は、ほぼ全て信仰者であり、「不信仰者は何をするかわからない。」という理由で、全く信用されないからです。
しかし日本では、信仰=非科学的というイメージが、非信仰勢力の人には、どうしてもあるようですが、科学の歴史を振り返っても、近代科学の父ニュートンも、相対性理論のアインシュタイン博士も、ノーベル賞の湯川博士も、神の存在を心から信じていました。
彼ら超大物科学者は、熱心な信仰者なんです。少なくとも、ニュートンやアインシュタイン、湯川秀樹以上の科学者になってから、「信仰者は云々や。」と、言って欲しいものです。(笑)
仏陀、イエスキリス、孔子、ソクラテスら世界4大聖人は、もちろん神仏の存在を信じていましたし、日本でも聖徳太子など、大人物ほど信仰心が強いです。神様仏様を信じない方は、仏陀やイエス、孔子やソクラテス以上の人物でしょうか?
決してそうではないはずですよね。歴史上の偉人などで、神仏を信じていなかった人って、古今東西、ほとんどいないんじゃないでしょうか?
しかしまぁ、理解はします。
それは、現代社会に生きる人々が、普通に抱いている宗教に対する想念、つまり、宗教に対する根本的な恐れがあると思います。
つまり現代文明は、科学万能と言われる社会で、我々は生きているのですけど、その科学万能社会を信任している多くの人々の心に、「かつてのヨーロッパにおける、暗黒の中世に時代には戻りたくない・・・。」とか、戦前の日本のような、窮屈な社会は嫌だ」という、無意識ではありますが、そういう思いは、今を生きる多くの方々が、抱いている事実があるだろうと、私は推測至します。
中世ヨーロッパでは、全く信教の自由はなく、思想信条の自由も存在しませんでした。今の中国などの共産主義国(無神論国家)で行われている思想弾圧が、神の名のもとに行われた歴史的事実は、人類の暗黒史とも言って良いと思います。
中世キリスト教教会も、中国共産党も、支配の行動基盤は同じです。
それは共に、恐怖心というものを人々に感じさせ、ひるませることで支配する形態です。
それほどまでに、あのイエス・キリストの愛の思想から、何故にこれほど、サディスティックなことが生み出されたのか不思議なくらいの、酷い拷問の歴史が、キリスト教会においては日常的に行われていたのです。
その暗黒の中世は、欧米社会にとどまらず、西欧的文明に生きる我々現代人の、宗教に対する恐怖のトラウマとして心に刻印されていると見た方が、むしろ今後の宗教啓蒙に打つ手が見つかるのではないかと思うのですね。
ジャンヌダルクのみならず、地動説の発表したコペルニクスや、ガリレオ・ガリレイらは皆、信仰心を強く持っておりました。
また、ニュートンも信仰心は持っておりました。しかし、当時は相当教会の現実的な力は強く、「たとえ偉大な科学者ニュートンが、神を信じていたとしても、それは教会の迫害を恐れてのポーズに過ぎない・・・。」と、言われてしまえば、それで終わってしまう問題なのですね。
中世以降、科学の勃興、そして啓蒙主義などが隆興いたしましたけど、これなどは、キリスト教会至上主義からの脱却が、当時の歴史的メインテーマであったことでしょう。
これらの歴史的事実から来る人々の心の傷を、ただ単に思想だけで、時代から消し去ることは難しいかもしれません。
しかし、「だからこそ、私たちは、神の本当の姿を知る必要がある」と思うのです。
今、自由主義思想はありますが、これなどはどう見ても、「脱中世キリスト教教会としての自由論」です。
人類はまだ、「脱中世キリスト教的な自由」しか、体系化された自由思想を知らず、「本当に意味での自由論」を知らないのです。
「神の子としての自由論」こそ、今世界で求められている自由論ではないでしょうか?
それが、幸福の科学の思想なんです。
中世キリスト教社会も、イスラム原理主義の世界も、戦前の大政翼賛会の統治下の日本も、中国や北朝鮮ら無神論共産主義社会も、その本質は同じです。思想信条、そしてそのもとにある、信教の自由のない社会です。
これらを打ち砕くには、現代人は本当の自由の精神を知らねばならないと私は考えます。
(ばく)