ゆーぱの部屋 〜幸福の科学の教えから〜
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



私って、キャリアウーマンとして成功したいんだよね。どうやっていくのがいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『北条政子の幸福論―嫉妬・愛・女性の帝王学―』(幸福の科学出版)で、日本史上もっとも有名な女性の一人である北条政子の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 ですから、キャリアウーマン型の方には、気をつけないと、敵が二種類出てくるわけですよね。「男性がライバルになり、同時に女性もライバルになる」ということです。
 二種類のライバルが出てきて、場合によっては、二種類のライバルから、足を引っ張られることもあるし、さらに、それに加えて、両親やきょうだい等、家族や親族から、いろいろと、“あるべき道”について意見を言われることが多いと思うんですね。
 高学歴女性には、特に、「自分の自己実現と周りの人の考え方とが合わない」ということは、よくあるだろうと思うので、とても難しいのですが、その人が持っている才能や能力を全部隠すことは、やっぱり無理だと思うのです。
 どうですかね。私の考えですと、やはり、隠すことは無理なんだけれども、女性のたしなみとして、絹のベール一枚でもいいから、少しだけ、心持ち、「尖った才能をオブラートに包む生き方」を心掛けるべきでしょう。(中略)
 また、例えば、男性と同等の能力があるとしても、世の中は、どちらかというと、やはり男性社会ではありますので、できれば、男性を立てようとする傾向性といいますか、そういう言葉遣いや態度等を出していくことが、一つの処世の道になるんじゃないかと思います。
 「自分のほうが、できるんだ、できるんだ」というようなことを、あまりにもPRしすぎる女性だと、敵の数のほうが増えてきて、この世的には、本来はやれるところまで仕事ができないで終わってしまうことが多いかと思います。
 したがって、将棋で言うと、「駒落ち将棋」になってしまうけれども、「歩」を一枚落としたり、「槍(香車)」を落としたりしなくてはなりません。ハンディ戦にはなるのですが、駒を一つ抜いて戦うつもりでいかないと、女性としての成功は、なかなか成り立たないのです。
 女性は、男性と同じだけの成果をあげようと思えば、本当に、男性よりも、一枚、実力が上でなければならず、そうでないと、同じだけの成果はあげられないものだと思います。
 「同じぐらいの能力だから」ということで、同じだけの成果を要求しても、敵のほうが多すぎて、たぶん、それは実現できないでしょう。
 そういう意味で、「一歩を引く心構え」が大事です。(中略)
 それと同時に、もう一つ大事なことがあります。
 「積極的に徳を積む」という意味においては、「才能のある人、能力のある人、よいところのある人に光を当ててあげ、そういう人たちを立ててあげる。持ち上げてあげる。みんなに知らせてあげる」というような努力も積んでいくことが、一種の徳を積む行為になり、自分のキャリアをつくっていく上で、間接的な援助者というか、賛同者を増やしていくことになるんじゃないかと思いますね。
(37〜40ページ)

キャリアウーマン型の女性は、気をつけないと男性も女性もライバルになるので、たしなみとして、尖った才能を少しだけオブラートに包む生き方を心掛け、男性を立てる言葉遣いや態度等を出していくことが、一つの処世の道になる

女性は、男性と同じだけの成果をあげようと思えば、男性よりも一枚、実力が上でないと、敵のほうが多すぎて、同じ成果はあげられないので、その意味で、一歩を引く心構えが大事である。

同時に、才能のある人、能力のある人、よいところのある人に光を当てる努力をしていくことが、一種の徳を積む行為になり、キャリアをつくっていく上での援助者や賛同者を増やしていくことになる――。

鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室であり、頼朝なきあとには幕府の実権を握って、尼将軍とまで称された女性のアドバイスの言葉には、とても重みがあります。

よくよく味わってみると、まだ完全に男女平等とは言えない日本のビジネス社会の現実を背景にして、できる女性が才能だけで突っ走ってしまうことで生じるだろう弊害は、よく分かる気がします。

また、徳を積む行為、つまり「与える愛」の実践でもあると思いますが、これがよい意味で必ず自分にも返ってくることになるというのは、仏法真理にかなった考え方だと思います。

本書は、鎌倉時代に興味がある歴史ファンにとってはもちろんのこと、デキる女性必読の霊言集ではないかと私は思うのです。
 

『北条政子の幸福論―嫉妬・愛・女性の帝王学―』大川隆法著


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最近、奇跡の話をよく聞く気がするけど、病気って、病院に行かなくても治ったりするものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『ザ・ヒーリングパワー』――病気はこうして治る(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 人間というものは、後天的学習や経験でかなり「傾向性」が固まってくるものである。その「心の傾向性」が固定してくると、場合によっては精神的な悩みを超えて肉体的異変が出てくる。これが「病変」と化し、時に難病・奇病となって発症する。現代医学でも、標準値から外れている検査数字を探し出して、病気の原因を推定し、治療にあたるのが常だ。しかし、それは考えてみれば、心が中道・真理から離れていることが、ある種の生活習慣や食習慣の偏りとなったり、仕事上、本人の能力不相応の重荷を背負い続けているということでもある。
 当会のリーディングでも、原因が特定されると病気が即座に「崩壊」し始めることが多い。
 本書の刊行は、少し病院の収入を減らすかもしれないので、その点申しわけないが、政府の福利厚生費の削減にもなるし、何よりも病気が治る本人の喜びはお金にはかえがたいだろう。
(1〜2ページ)

人間は「心の傾向性」が固定してくると、場合によっては精神的な悩みを超え、肉体的異変が病変となって発症する。

当会のリーディングでも、原因が特定されると病気が即座に崩壊し始めることが多い。

本書の刊行で病気が治る本人の喜びは、お金にはかえがたいだろう――。

いやあ、心の力と、祈願とで、本当に病気って治るんですよね。私も最近、家族がほんとに奇跡的な回復をしたのを、実体験しました。

実体験してしまうと、大川隆法先生の説かれている教えの正しさが、ほんとに深く腑に落ちる気がします。

病気の問題で苦しんでいる方は、全国に数えきれないほどおられると思います。そうした方に、まさに真の「福音」を述べ伝える書籍が、ついに刊行されたわけです。

まずは本書を手にとって、ここに公開されたその「秘密」を自分のものにして下さることを強く強くお勧めしたいと私は思うのです。
 

『ザ・ヒーリングパワー』大川隆法著


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キリスト教国って、イスラム教国とすごく対立してる気がするんだけど、逆に、イスラム教からはキリスト教って、どう見えてるんだろうね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『ムハンマドの幸福論』(幸福の科学出版)で、そのイスラム教の創始者であるムハンマド(マホメット)の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 キリスト教には、やはり、少し「甘さ」があるような気がするんだな。
 イエスは、最後には、あのようなかたち、要するに、この世的には、「人間の手にかかって殺される」という姿を取った。
 「彼は偉大な預言者である」ということは、もちろん、私も認めておりますけれども、少なくとも。
 彼は、「自分自身の権威」によらずして、「神の権威」で、いろいろな業を起こしました。病気治しもそうですし、言葉を語るときにも、「私が語るのではなく、天なる父が私を通して語っている」というようなことを言っておりますので、彼は、やっぱり、「天なる神のツール、道具」であったことは否めないし、それを自分で認めていますね。
 キリスト教徒は、イエスを偉くしようとして、一生懸命、「神の独り子」にしたり、「神そのもの」に持ち上げようとしたりしているけれども、「キリストの言葉自体」によって、そうではないことが明らかになっているわね。
 そういうことで、人間によって滅ぼされた「神」は実際に存在したわけですよ、二千年前にね。あるいは、「神の独り子」と彼らが言う者が、人間によって滅ぼされた。私から見れば、「預言者の一人」ですけれども、それが人間によって滅ぼされたわけです。(中略)
 ところが、私のほうは、人間によって滅ぼされてはいません。私に従わない人々、要するに、雑教といいますか、いろいろなものが混じり合っていて、まだ整理されていない、「前近代的な宗教である多神教」を信じ、偶像崇拝するクライシュ族に対して、「近代的な一神教」を開いたわけですね。
 戦いも起きましたけれども、その戦いに勝利し、教えにおいても勝利して、彼らを呑み込んでいきました。
 その意味において、イエスの最期に比べれば、「完成者たるにふさわしい」と言えるのではないかと思う。
 だから、「最後にして最大の預言者かどうか」というようなところはあるかと思いますが、それでも、「神の僕であり、一預言者であって、自らは神ではない」ということであり、これは、仏教的に言えば、「仏ではない」という位置づけです。
 自らが人間であることを認め、「神の使徒である」という立場だけど、「最後にして最大の預言者」という位置づけでもあり、それは「謙虚さ」と「神の偉大さ」を同時に表していると考えられます。
 その意味では、イスラム教は、やはり、「世界宗教」にふさわしいんじゃないかなあ。
(41〜44ページ)

イエスは、この世的には、人間によって滅ぼされたのであって、キリスト教には、少し「甘さ」がある。

ところが、ムハンマドは、人間によって滅ぼされてはいない。戦いに勝利し、教えにおいても勝利したのであって、イエスの最期に比べれば、完成者たるにふさわしい。

ムハンマドは、自らが人間であることを認め、「神の使徒」の立場ではあるが、「最後にして最大の預言者」という位置づけでもあり、それは「謙虚さ」と「神の偉大さ」を同時に表している――。

日本のマスコミを通じて日々の国際ニュースを見ているだけだと、欧米のキリスト教国を通じたニュースが大半ですから、知らず知らずのうちにキリスト教的な見方で海外を見ているのが、じつは日本人の普通の姿ではないでしょうか。

その感覚から、イスラム教国やイスラム教徒の習慣や行動について、しばしば不思議な人たちという感じで見ている気がします。

ところが、今日のムハンマドの言葉に従って、イスラム教の側からキリスト教や欧米社会を見てみると、ぜんぜん見え方が違ってくることに気がつきます。

いずれにしても、なぜにイスラム教が世界宗教になっているのかについては、もっともっと学びを深めてみる必要があるのではないかと私は思うのです。
 

『ムハンマドの幸福論』大川隆法著


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転生輪廻っていうけど、人間は人間にしか生まれ変わらないんでしょ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間として生きていることのありがたみが、どうしても分からない人は、死後、畜生道という所に堕ち、霊界の地獄界で、動物のような姿をして生活してみることもあります。
 それでまだ分からなければ、地上の動物の肉体のなかに、一時期、魂として宿る修行まであります。そういうコースも、ほんとうにあるのです。
 牛であろうが、豚であろうが、馬であろうが、猫であろうが、何でもよいのですが、「もし自分の魂が人間以外の動物に宿ったら、どうなるか。そこで何年か生きたら、何をどう感じるか」ということを、みなさん、想像してみてください。
 人間として生きていて、不平不満や愚痴を言い、人のことを悪く言い、親を恨み、社会を恨み、会社を恨み、出世させてもらえないことを恨み、お金が少ないことを恨み、ものが自由に食べられないことを恨んでいるとしても、たとえば、「野良猫になって二年を送り、その目で人間を見たら、どう見えるか」ということを考えてみてください。
 そうすると、人間というものは、それはそれは“王様”です。誰もが王様や女王様に見えるほどの暮らしをしています。「よく、それで不満を言うものだな」ということです。
 最終的には、そのくらいの訓練までやらないと分からない人もいます。そういう人だっているのです。霊体は自由自在なので、ほんとうに、何に宿ることも可能なのです。(ただし、人間霊は人間に生まれ変わるのが原則です。)
 本章のなかで、霊が自分の死を知らせるときの話をしましたが、「自分が、直接、幽霊になって知らせることができないときに、動物を通じて知らせる場合もある」ということが、昔から報告されています。
 たとえば、カラスは、人が死んだときに、よく反応します。「カラスが朝からずいぶん騒いでいる」というときには、「誰か死んだのかな」と言われたりします。そういうときは、「死んだ人の魂が、直接、語りかけることができないので、生きている動物に憑き、急に騒がせたりして、教えようとしている」ということであったりします。あるいは、家畜やペットが盛んに鳴いたりすることもあり、そういうかたちで霊が自分の死を教えに来ることもあります。(中略)
 このように、自分の死を知らせるために動物や昆虫を使うことは、現実にあります。そういうことをして知らせることもあるのです。
 人間の尊厳というものを考え直し、この世の修行の意味を知り、「死後の生命というものが、ほんとうにあるのだ」と知った上で人生を生きることが、どれほど大事であるかということに気がついていただければ幸いです。
(81〜84ページ)

人間として生きていることのありがたみが、どうしても分からない人は、死後、畜生道という所に堕ち、霊界の地獄界で、動物のような姿をして生活してみることもある。

人間霊は人間に生まれ変わるのが原則であるが、それでまだ分からなければ、地上の動物の肉体のなかに、一時期、魂として宿る修行もある。

人間の尊厳を考え直し、この世の修行の意味を知り、死後の生命がほんとうにあると知った上で、人生を生きることがどれほど大事であるか、ということに気がついてほしい――。

とっても不思議な話です。

でも、なぜ昔から「畜生道」という地獄の話があるのか。

また、犬とかネコとかウサギとか、なぜ、あまりに人間くさい感じがする動物を見ることがあるのか、です。

転生輪廻といっても、インドなどでよく言われるような、人間が魚に生まれたりすることは原則としてないのが前提の話で、とてもまれなことだ、というのはほんとうに救われる思いです。

にもかかわらず、いかにまれではあっても、やはりそういう転生もあり得るというのは、わがままいっぱいの私たち人間に対して、「人間の尊厳」をなんとか教えるための仏の慈悲の一つであるのだろうと私は思うのです。
 

『神秘の法』大川隆法著


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原始キリスト教で最大の伝道者だったパウロって、そもそもキリスト教を迫害してたのに、イエスの弟子から、見えなくなった目を見えるようにしてもらって回心して、伝道者に変身したんでしょ。そんなのって、天上界の計画だったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『パウロの信仰論・伝道論・幸福論』(幸福の科学出版)で、そのパウロ本人の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 うーん、まあ、おそらく、「計画」と言えば「計画」ではありましょうけれども、ただ、「後れを取った」ということについては、否めないものがあります。
 やはり、イエスご生前にお会いして、その説法を聴いてみたかったですねえ。同時代に生きていて、「イエス生前には迫害する側にいた」ということは残念なことです。
 私も、いわゆる今のユダヤ教を学問としてやっていたため、それに照らして考えれば、当時のイエスの教えは、とても異端だったのです。あなたがたの時代で言えば、いわゆる新興宗教にすぎないわけですから、伝統的なユダヤ教の考えから見れば、みな、当然異端と思って、迷うことなく弾圧の側に入っていました。
 まあ、人は、旧いものを信じるし、学問的に学んだものは、なかなか捨てられないっていうところがありますよね。
 でも、「イエス死後、二、三年もたってから回心して、クリスチャンになった」っていうことに対しては、「大きな機会を取り逃がした」という気持ちがとても強いです。
 まあ、私のように迫害の主役的存在であった者が、「天上界のイエスの声を聞き、光を見、盲目になり、それが奇跡的に治癒される」というような体験を通すことによって、キリスト教が真なる宗教であることの証を立てる役ができたということは、そういう運命であったのかもしれません。
 しかし、「イエスご自身が私に啓示を送られた」ということから見れば、私は、もともとイエスの弟子になるべく生まれたのであるのに、罪深い何年かを送ったのだと思われます。
(31〜33ページ)

天上界のパウロ自身は、イエスの死後何年もたつまでクリスチャンにならなかったことに対して、大きな機会を取り逃がした気持ちがとても強い。

イエスご自身が直接、啓示を送られたことから見れば、パウロはもともとイエスの弟子になるべく生まれたのであるのに、罪深い何年かを送ったのだと思われる――。

伝道者パウロの「ダマスコの回心」というのは、少しでもキリスト教を勉強した人にとっては、誰もが知る有名なエピソードですが、最近、私たちは同様の事例として、有名なジャーナリスト・筑紫哲也の大回心のケースを見聞きしています。

今日の天上界のパウロの霊言は、「ダマスコの回心」について、計画とか運命といえばそうだったかもしれないと述べつつも、当初からの計画ではなく、遅れをとってしまった自分をイエスさまが天上界から指導されて、その道を修正されたと考えておられるようです。

要は、何が運命であり、何がそうでなかったのかというのは、それぞれの人の立場からさまざまな見方が可能なのものであって、人生計画というのはただひとつしかないような単純なものではない、ということをパウロは述べておられるように私は思うのです。

 

『パウロの信仰論・伝道論・幸福論』大川隆法著


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幸福の科学って、世界宗教になるって言ってるんでしょ。そのキーになるものって、やっぱり教えの凄さだよね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛、無限〔改装版〕』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 今から二千年ほど前、イスラエルでイエスが福音を宣べ伝えていました。当時、イエスが語っていた言葉は、アラム語といって、ユダヤの一種の方言です。また、イエスの十二弟子たちもアラム語を話していました。
 したがって、イエスが亡くなったあと、弟子たちがユダヤの地を離れて、異郷の地に伝道しようとしたとき、最初に言葉の障害がありました。
 筆頭弟子のペテロという人も、アラム語以外は話せませんでした。そのため、マルコという青年を通訳に使い、通訳つきで伝道して歩いていたのです。しかし、通訳つきではなかなかうまくいかず、言葉が十分に通じないところが迫害の原因にもなりました。
 一方、十二弟子のころにはまだ活躍していませんでしたが、のちにパウロという名で活躍する、パリサイ派の若者がいました。彼は、最初、サウロと呼ばれていました。(中略)パリサイ派は、厳格な律法主義に立つユダヤ教徒たちであって、当時の主流です。
 このサウロは、「私は一度も戒律を破ったことがない」ということを自慢にするほど厳格な人でした。そして、イエスの弟子たちが新しい教えを伝道しているのを見て、「これは律法を踏みにじるものだ」と非常に憤慨し(中略)、イエスの弟子たちを迫害していた中心人物の一人だったのです。(中略)
 サウロは、エルサレムから徒歩で二日ほどの距離がある、ダマスコという所に、イエスの弟子たちが逃げていることを知ります。そこで、「これを持っている者は、イエスの弟子を捕まえてよい」という逮捕状をもらい、街道を通ってダマスコに向かいました。
 ところが、その途中で、白昼、突如として頭上に白く強い光が射してきました。その光のあまりの強さによって、サウロの目は見えなくなってしまったのです。
 そのとき、上から、「サウロよ、サウロよ、なぜ私を迫害するのか」という声が聞こえてきました。サウロが「あなたは誰ですか」と問うと、「おまえが迫害しているイエスである。おまえは私を迫害しているのだ」という答えが返ってきたのです。(中略)
 しかし、そのあと、ダマスコにおいて、イエスの弟子の一人が、サウロの上に手を置き、イエスの御名において治療すると、三日ほど見えなかった目が、突如、見えるようになったのです。(中略)そして、サウロは回心し、以後、福音を宣べ伝え始めたのです。
 これが有名な「ダマスコの回心」です。ダマスコという町で、サウロが回心をしたのです。心を入れ替え、別人のようになりました。(中略)非常な悔恨にかられて、(中略)いかに疑われようとも、どのような迫害を受けようとも、断固として、信念を持って伝道を始めました。これがキリスト教の世界伝道の始まりです。
 サウロ、のちのパウロは三カ国語が自由自在に話せ、非常に教養のあった人です。「語学ができる」ということが、彼の伝道をずいぶん助けました。いろいろな土地に伝道に行っては、その土地の人が分かる言葉で話すものですから、石をぶつける手が止まってしまうのです。また、彼はローマの市民権も持っていました。こうしてパウロは熱心に伝道していき、最後には殉教しました。
(68〜75ページ)

二千年ほど前、イスラエルでイエスが福音を宣べ伝えていた当時、イエスや十二弟子たちが語っていた言葉は、ユダヤの一種の方言であるアラム語だった。

そして、イエスの死後、弟子たちが異郷の地に伝道しようとしたときには、最初に言葉の障害があって、筆頭弟子のペテロもアラム語以外は話せず、通訳つきで伝道していたが、この言葉が十分に通じないところが迫害の原因にもなった。

「ダマスコの回心」で有名なパウロは、回心したあとは信念を持って世界伝道を始めたが、非常に教養があり、三カ国語を自由自在に話せたことが、その伝道をずいぶん助けた――。

教えの凄さはもちろんですが、世界伝道をしようとしたとき、やはりキーとなるのは語学であった、ということが、このペテロとパウロの例で理解できる気がします。

そこで、なぜに大川隆法先生が、英語の学習の大切さをあれほど強く打ち出されるのか、なぜに、海外での説法(「ご巡錫」)を日本語ではなくあえて英語でしておられるのか、です。

キリスト教の過去に学んで、幸福の科学を本当の「世界宗教」にしようと真剣に努力しておられる大川隆法先生の本気度を、今日のお教えで改めて学ぶことができた気が私はするのです。
 

『愛、無限〔改装版〕』大川隆法著


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中国が、いま孔子の思想を復活させる運動、やってるでしょ。あれって、どうなのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『孔子の幸福論』(幸福の科学出版)で、その孔子本人の霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 私には、中国や朝鮮半島、日本についての関心がありますよ。まだ、私の教えが、部分的にでも遺っている所ではあるのでね。
 最近、中国では文化大革命が起きて、私の教えはかなり捨てられましたが、今、孔子の復活運動が起きてはおります。
 それ自体は悪いことではないと思いますが、中国政府は、「孔子の思想は宗教性が比較的低い。これなら統治の原理に使える」と思っているのでしょう。「儒教には、『秩序を守る』という教えが入っているので、国民に勉強させても、うまく押さえ込める」という考え方を持っていらっしゃるのかなとは思いますがね。(中略)
 うーん……、そうだねえ。中国の統治者の心を読めば、「人民全体の意識は、それほど高くないと思っている」というところだろうかね。
 「欧米の人たちは、高い教育水準と生活水準を持っていて、かなり意識が高いから、彼らには、自由に意見を言わせたり行動させたりして、民主主義政治をやらせることもよいのかもしれない。しかし、中国の場合、一部の人たちは、そうした階層には入っており、判断できる人が一割程度はいるかもしれないが、おそらく、九割ぐらいの人たちは、何も分からないだろう」と見ているのだと思うんですね。
 要するに、彼らは、理論としてはすでに理解はできているんだけど、「啓蒙されていない九割の人たちに欧米型の自由を与えると、国の乱れにしかならない。必ずしも自由が善に向かうとは言えず、乱暴や暴動など、破壊に向かっていく傾向が強い」と考えているんでしょう。
 確かに、暴力や人殺し、略奪、盗み、こんなものだって、「自由」といえば「自由」だからね。自由の裏に倫理規範がなければ、必ずそのようになるよね。(中略)中国は、そのジレンマを抱えているよ。指導部も分かっている。
 中国の指導部には、海外留学をした人も多いので、彼らも、他の国の進んだ面はよく分かってはいるけれども、「自国民に同じような自由を与えることは難しい。民度が上がるには、もう少し時間がかかるのかな」と考えているね。
 彼らは、「中国には圧政的なものも残っているけれども、今、南部を中心にして経済的なレベルが上がってきている。香港ぐらいのレベルになれば、ある程度の自由を与えても、議論ができて、自分たちで統治していけるが、今は全体的には難しい。まだ、強い政府というか、時によっては専制的な政府があるほうがよい。要するに、国民が個人の無力感を感じ、自由を得ることを諦めて政府に従っていくほうが、秩序を守れる。そのほうが大きい」と見ているというところかねえ。
(79〜82ページ)

中国や朝鮮半島、日本に関心があって、最近、中国において、文化大革命で捨てさられた孔子の復活運動が起きているのを知ってはいる。

それ自体は悪いことではないが、中国政府は、孔子の思想は宗教性が比較的低く、秩序を守るという教えを統治の原理に使えると思っている。

中国の統治者は、欧米の高い教育・生活水準を持っている国民と違って、中国の人民全体の意識はそれほど高くなく、欧米型の自由を与えると暴動などの破壊に向かっていく傾向が強い、国民が強い政府に従っていくほうが秩序を守れると考えている――。

孔子ご本人は、中国にかなり興味をもって見ておられ、かなり冷静にその動きや政府の本音の部分をウォッチングしておられることが分かります。

そして、ここまで把握しておられる以上、中国のその先の見通しについても透徹したお考えがあるわけですが、そのあたりについては、またの機会にご紹介することにしたいと思います。
 

『孔子の幸福論』大川隆法著


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宗教っていろいろあって、何がなんだか分からないよね。幸福の科学は「世界宗教」になるって言ってるけど、他の宗教の教義、何がどう違うのかって、どこから勉強したらいいの?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『宗教社会学概論』――人生と死後の幸福学(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように教えておられます。

 幸福の科学大学では、宗教としての「幸福の科学」の基礎教学も学ぶことになると思う。その際に、宗教教養といえるためには、他の世界宗教らとの教義の異同を、簡潔に整理しておく必要があるだろう。
 本書では、一般に考えられている、世界宗教としての「仏教」・「キリスト教」・「イスラム教」を比較しつつも、社会学者マックス・ウェーバーがその『宗教社会学』で「儒教」「ヒンドゥー教」をも含めて、五つを世界宗教と分類しているので、この二つも考察の対象とした。さらに、「キリスト教」「イスラム教」を理解する上で必須な宗教教養として「ユダヤ教」に言及し、「日本神道」と「ユダヤ教」「イスラム教」「仏教」「儒教」との共通項や特徴も比較してみた。また、中国の宗教を理解する上で、「儒教」と補完関係になっている「道教」の霊的な特質に言及した。
 本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになると思う。
(1〜2ページ)

「幸福の科学」の基礎教学を学ぶに際しては、教養として、他の世界宗教との教義の異同を整理しておく必要がある。

本書では、一般に世界宗教と言われる「仏教」「キリスト教」「イスラム教」だけでなく、「儒教」「ヒンドゥー教」、さらに「ユダヤ教」「日本神道」「道教」も考察した。

本書により、「幸福の科学」の比較宗教学、宗教社会学における座標が明らかになる――。

幸福の科学の教えを本当に知りたいのであれば、他の巨大宗教の教えがどんなものなのか、宗教の違いによって人々の考え方や行動様式にどう違いが出てきてるのかを知ることが必要になるのは、当然のことなんだろうと思います。

でも、世界宗教クラスになると、その文献といっても膨大すぎて、その教えの影響なんて言っても、入門書から読むにしても何がなにやらで、途方に暮れてしまいます。

そこを、大川隆法先生は、わずか一冊で世界の主要宗教を比較しつつ、その特徴や特質、そしてその宗教がどういう文化や歴史をつくってきたのかまで、手短に教えて下さっているわけです。

本書は、世界宗教とは何かを、宗教全体を見渡しながらまずは手軽に学びたい方、幸福の科学の宗教全体のなかでの位置づけを学びたい方、特に日本神道の世界の中での位置づけを知りたい方などに、強くお勧めできる必読の1冊だと私は思うのです。
 

『宗教社会学概論』大川隆法著


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幸福の科学っていうけど、「科学」って「幸福」に関係あるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『アランの語る幸福論』(幸福の科学出版)で、「幸福論」で有名な哲学者・アランの霊の言葉(「霊言」)を、次のように紹介しておられます。

 「幸福」とは、実は両面からできていて、人は、体調がよければ機嫌がよく、幸福になれますが、病人は、どうしても不幸を語ることが多いものです。
 例えば、栄養が足りないために病気になっているのであれば、まず、栄養を取り入れることも大事でしょう。
 もちろん、強い精神の持ち主であれば、断食していても、心が平静である方が、なかにはいらっしゃるかもしれませんけれども、それは、万人に通じる哲学とは思えませんね。
 私は、その意味で、現代的なかたちでの哲学のあり方を探究した結果、「一つの考え方の括りとして、『幸福論』というテーマで出してみることがよいのではないか」と考えたのです。
 その幸福の原因は、要するに、自分の幸福を妨げているもの、つまり、“ピンの発見”ですね。
 「私は、何をもって不機嫌になっているのか」「何をもって、不幸感覚が強くなっているのか」「何をもって、怒っているのか」ということを、そのまま放置するのではなく、自己分析していく態度を身につけることが、やはり、哲学ではないかと思ったわけです。
 「人間は、自分で幸福になることができる。原因を分析し、それに対処していこうとする態度を身につけることによって、その決意にふさわしい分だけ幸福になることができるのだ」ということですね。それを、「『思えば幸福になる』ということだ」って、簡単に言うことも可能ですけど。
 ただ、あまり情緒的なほうに持っていきすぎると、肝心なものを見失うことがございますのでね。
 例えば、脚気という病気が流行ったとき、最初は、「ビタミン不足が原因だ」と分からないでやっておりましたが、脚気がビタミン不足で起きるのであれば、ビタミンを供給することで解決されますよね。(中略)
 実際は、「戦争の死者よりも、脚気による死者のほうが多かった」とも言われておりますけれども、 これなんかは、歩けなくなったことについて、上官が、「精神が弛んどるからだ!」と怒るだけで解決する問題ではありません。
 海軍では病気があまり発生せず、陸軍で多く発生したならば、それには必ず原因があるはずですよね。だから、そのへんを勉強しなければいけなかったと思うんです。要するに、脚気が出なかったのは、サラダや、パン食が原因であったわけですよね。
 こういう、科学的態度も入れなければ、「現代的な幸福論」は説けないのではないかなあという感じを、私は持っています。
(38〜42ページ)

人は、体調がよければ機嫌がよく、幸福になれるが、病人はどうしても不幸を語ることが多いものである。

人間は、自分の幸福を妨げている原因(“ピン”)を分析し、それに対処していこうとする態度を身につけることによって、その決意にふさわしい分だけ、自分で幸福になることができる。

例えば、脚気という病気がビタミン不足が原因だと分かれば、ビタミンを供給することで解決される。そういう科学的態度も入れなければ、「現代的な幸福論」は説けないのではないか――。

大川隆法先生は、以前、有名なアランの「幸福論」の内容を紹介しながら、その教えを現代的に分かりやすく説いておられたことがあったと思います。

それがきっかけで、アランの「幸福論」を読む努力をしてみたことがありますが、もう百年近い昔の作品ですし、原典のフランス語からの翻訳も十分なものでなかったのか、すっとわかる感じがぜんぜんしなかった記憶です。

ところが本書では、そのアランがみずから、現代日本語で、自分の考えそのものをストレートに分かりやすく講義してくれているわけで、その分かりやすさ、そして内容の深さはそれこそ感動ものです。

何度も繰り返しになりますが、誰が何と言おうと、この霊言集というのはやはり「現代の奇跡」であると私は思うのです。
 

『アランの語る幸福論』大川隆法著


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幸福の科学が、大学を創って、学問を創るって言ってるんでしょ。そんなことできるものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ(概論)』――普遍的真理への終わりなき探究(幸福の科学出版)のまえがきで、次のように説いておられます。

 幸福の科学大学創立者としての私の精神を理解してもらうための序論・総論を『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ機奮杵澄法戮世箸垢譴弌△海痢岾杵性供廚蓮大きくは三つの質問で創立者がどのような考え方、精神的バックボーン、「エートス」をもって開学しようとしているかが、さらに詳しく、熱意に満ちて語られている。ある意味で、開学の精神として、後世にまで遺さなければならない、大川隆法版『後世への最大遺物』である。
 第一の問いは、私自身の学問への姿勢や探究心を問うものだ。学生時代から、分析し、幅を狭くしていくだけの学問に飽き足らず、多様化した諸学問を統合し、再構築し、「大川隆法学」を四十年近い歳月をかけてつくり上げてきた過程がよく分かる。さらに「仕事学」としての「知的生産の技術」を述べているところは、「職業としての学問」を志す人間や、創造的仕事をやり遂げようとしている人たちにとっては、とても重要な内容になっている。
 第二問の「幸福とは何か」に答えた箇所は、大学設置・学校法人審議会が、「『人間幸福学』とか言っているが『幸福の定義』を言ってくれ」という意見を出してきたことへの答えにもなっている。「(概論)機廚痢嵜瓦猟蟲繊彳瑛諭既存の大学の教授たちに分からなかった内容に、新しい切り口から答えている。ソクラテス、プラトン、アリストテレス、仏陀、キリスト、吉田松陰、内村鑑三などを集めて、「幸福の科学大学側審議会」が、文科省やその附属機関に答えたような内容となっている。
 第三問の「普遍的なるもの」についての質問は、私の宗教者としての本質と、学問に求める厳しさを端的に述べている。日本の大学の学長で、この問いに答えられる人が一体何人いるであろうか。
 とまれ、本書は、標題から離れつも、『ソクラテスの弁明』や、吉田松陰の『留魂録』に匹敵するような、永遠なるものの影を宿した一書として、独立して読むに足りるものだと考える。
(3〜5ページ)

幸福の科学大学の創立者である大川隆法先生の学問への姿勢や探究心、宗教者としての本質、学問に求める厳しさ等々が、熱意に満ちて語られている。

本書は、開学の精神として、後世にまで遺さなければならない、大川隆法版『後世への最大遺物』である。

また本書は、『ソクラテスの弁明』や、吉田松陰の『留魂録』に匹敵するような、永遠なるものの影を宿した一書である――。

帯には、「知識量の増大と専門分化が劇的に進む現代において 今、本質を見抜く『智慧』を探究する新しい学問が要請されている」と大きく書かれています。

「幸福の科学大学」シリーズの書籍は、あっと言う間に58冊も刊行されてしまいましたが、どれから読もうかと悩んでいる方はもちろん、幸福の科学大学、そしてその創立者である大川隆法先生に興味・関心がある方、必読必携の書籍であると私は思うのです。
 

『幸福の科学大学創立者の精神を学ぶ(概論)』大川隆法著


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ね、人生で成功するための秘訣って、ないのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『ヒルティの語る幸福論』において、有名な「幸福論」で名を残した哲学者、カール・ヒルティの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 私は七十七歳ぐらいで死んだかと思うので、まあ、数十年の人生でございます。
 みなさん、わずか数十年であっても、考え方と毎日の過ごし方で、ずいぶん違ってくるものなんですよね。
 スイスには、過去、多くの人が生まれ、生き、死んでいったし、また、若いころには、優秀な方を、私はたくさん見てきました。私ぐらいの方は、ほかにもたくさんいたのではないかと思います。大学時代や若い社会訓練の時代等を見ると、優秀な方は、ほかにもたくさんいたと思うんですよ。
 ただ、七十七年の人生を終わってみると、私への社会的評価は、ある程度、定まってはいたのかなと思います。
 これは、ほとんど「勤勉な習慣の確立」の賜物なんですよ。
 それは、「『時間というものは、結局、神様からの最大の賜りものだ』ということを自覚しているかどうか」ということだと思うんですね。
 「自分の時間だ」と思っているからこそ、時間の“無駄遣い”をするんです。「神様からの授かりものだ」と思ったら、「今日一日において、何かを一歩前進させなければ、一日を終われない」という気持ちにかられるんじゃないかと思うんですね。
 明日、命があると思うな。
 これは、「明日もあるとは限らないですよ。だから、その日その日に積み重ねていくことが大事で、その積み重ねが、同じく平凡に出発した人たちの人生に差をつけていくものだ」と思うんですね。(中略)
 各人の一日の時間は、どのように使うことも許されているのですけれども、「その許された時間を、いったい、どのようにして、毎日、『建設的な方向』に積み立てていくか」ということが大きいのではないかと思うのです。
 私は、先ほど、「体系的な書物を書くほどの時間はなかった」ということを申し上げました。それはそうなのですけれども、そこまでは行かなくてもいいと思うんですね。「毎日毎日、煉瓦を一個積んでいく」ということを考えることが、結局、大きな仕事を成し遂げていくのではないかと思うんですよ。
 私のみならず、ほかの方々も、その多くは平凡な方々だと思います。
 「あるとき、神の偉大なるインスピレーションが下りてきて、ものすごい着想を得、それが世界的な大事業になる」という人もいるかもしれませんけれども、そういうことを願うより、「『毎日毎日、煉瓦を一個ずつ積んでいく』という堅実な仕事を、一定の年数続けていくと、それが、あるとき、大きな仕事に変じていくことがあるのだ」ということを信じたほうがいいと思います。
 私は、「成功の本質は勤勉にある」と思うし、「勤勉は習慣からできるものだ」と思います。だから、やはり、「努力して自分をしつけなければいけない」と思いますね。
(108〜109、111〜112ページ)

人生は、考え方と毎日の過ごし方でずいぶん違ってくる。自由に使うことを許されている一日の時間を、どのようにして毎日、建設的な方向に積み立てていくかが大きい。

偉大なるインスピレーションが下りて来ることを願うよりも、毎日毎日、煉瓦(れんが)を一個ずつ積んでいくような堅実な仕事を一定の年数続けていくと、それがあるとき大きな仕事に変じていくことがある。

成功の本質は勤勉にあるし、勤勉は習慣からできるものであって、勤勉な習慣の確立は、時間を神様からの最大の賜りものだと自覚しているかどうかである――。

カール・ヒルティは、当時、著名だった法律家や大学教授や政治家などの本業よりも、いわば副業としての著作によって、哲学者として名を残している方だと聞きます。

何かを生み出して行くことを志すとき、今回のヒルティの語るところは、ものすごく心に響きますし、先人の生き方として、忙しい現代人の私たちにもとても参考になる教えではないでしょうか。

このブログの記事が残念なことに煉瓦の1個にもなっていないのは、「時間を神様からの最大の賜りものだ」とまで捉え切れていなかった自分に原因があることに、気がつくことができたりしています。

いずれにしても、わかりやすい日本語で、あのヒルティ本人の言葉を直接、学ぶことができる本書を、一人でも多くの現代人に強くお勧めしたいと私は思うのです。
 

『ヒルティの語る幸福論』大川隆法著


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マイケル・ジャクソン、光の世界に還ってるって話があったでしょ。それからだいぶ時間たったと思うけど、いまどうしてるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『マイケル・イズ・ヒア!』――マイケル・ジャクソン 天国からのメッセージ(幸福の科学出版)のPreface(はじめに)で、マイケル・ジャクソンの霊の言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

Hello! Hello! Hello! I’m Saint Michael “J”.
Long long ago, I was made to create Fantasyland on Earth. That was a plan of God “EL”.
Beyond this world, I still sing songs and dance.(omitted below)

 「やあ!やあ!やあ!俺だよ、聖マイケル『J』だ。
 昔々のその昔、僕は地球に不思議の国を造るために創られたんだ。それが『エル』の神の計画だったのさ。
 あちらに還っても、まだいっぱい歌ったり、踊ったりしてるよ。(以下略)
(2〜3ページ)

いやあ、ついに! です。

4年前に収録され、その映像が一部だけ公開されたものの伝説になっていたマイケル・ジャクソンの霊言が、ついに書籍になりました。

公開された映像では、マイケルったら、ぜんぜん座ってくれなくって、歩きまわったり踊ったりで、これが書籍で読めるようになるのかなあ、と不安に思ってました。

ところが、本書では、その霊言の様子がイラストでわかるように工夫されていて、踊りながら答えるマイケルの天真爛漫さが、実感をもって迫ってきます。

マイケルは基本的に英語で話していますが、インタビューアーは日本語で質問していて、通訳が入ったやりとりをしてますので、本文はとっても分かりやすい。

マイケルみたいな人が突然、帰天してしまったとき、どんなふうになるのか。いまはどこにいて、どんな生活をしているのか。どんなことを考えてるのか? 興味は尽きません。

マイケルを大好きなみなさんには、もちろん絶対オススメですし、マイケルを今までよく知らなかった方も、その音楽を聴いてみたくなること間違いなしの凄い霊言集だと思います。

なお、マイケルは、この「はじめに」で、本書に隠されたものすごい秘密を明かしてくれてますが、今回はちょっと出し惜しみしてみようと私は思うのです。

 

『マイケル・イズ・ヒア!』大川隆法著


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右翼の人たちのいうことを聞くと、天皇って、元首なんですって。でも、学校では、天皇は国の象徴なんであって、元首は総理大臣だって習ったと思うんだ。どっちがほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『猛女対談──腹をくくって国を守れ』(幸福実現党刊)で、次のように述べておられます。

 明治天皇のように、「陸海軍を統帥する」となっていたら、いかにも元首だろうと思いますが、今の天皇が元首かどうかは、議論が分かれるところですよね。元首かもしれないし、元首でないかもしれない。
 それでは、首相が元首なのか、元首でないのか。どちらも、よく分からない状態で、結局、権力の中心がどこにあるかが分からないんですよね。これが、無責任体制が発生する原因の一つですよ。
 今、改憲論が盛り上がっていて、「改憲したほうがいい」という意見が国民の七割ぐらいにまでなってきているので、もし、「天皇が元首である」と言うのであれば、「今上天皇による改憲の詔」というものを出したらいいんですよ。「国会は、速やかに改憲すべし」という「改憲の詔」を出せばよいのです。(中略)
 それで、この詔に従って、国会議員が審議をし、改憲に乗り出すかどうかですが、もし、乗り出さなかった場合、天皇は、以後、一切の法律案に署名しなければいいわけです。
 例えば、国会が内閣総理大臣を指名しても、任命しなければよいのです。天皇の署名がなければ、内閣は成立しないのですから、“ストライキ”をしたらいいんですよ。そのように、「天皇は元首である」ということを、自らお示しになられたらよろしいと思いますね。
 法律論であれこれ言うのも結構ですが、これは、天皇の意志によって、現行の憲法や法律の枠のなかでできることです。
 ぜひ、天皇陛下には、「憲法改正の詔」を発していただきたいと思います。それで、国会が何もしなかった場合、それに対する糾弾が国民のほうから起きてくるかどうかを見れば、この元首制の問題も、はっきりと決着がつくはずです。(中略)
 憲法上、天皇は、「日本国民の総意」に基づいて置かれているわけなので、国民の総意に基づいて置かれている天皇が詔勅を出され、それで、国会が何も動かなかったら、問題があるでしょうね。(中略)
 国民の総意に基づいて天皇制がある一方で、国民主権というものがあります。この部分は、法律論的、憲法論的には、本当はぶつからなければいけないところなのですが、なぜか、訳が分からないまま、うまくくっついています。
 その理由は、実は、「宗教と政治が一体化しているのが日本の政治の本質だから」なんですよ。(中略)この部分を無視して、政教分離だけを言っているわけですから、憲法学者もジャーナリストも、本当はまったく分かっていないのだと私は思います。右翼も分かっていません。(中略)
 右翼も、「皇室を守る」と言っていますが、「天皇は神々の子孫だと分かっているのか」と言えば、それは、全然、分かっていないのです。そもそも神棚が消えていますのでね。
 だから、もう少し根本的に考えなければいけないですね。
(35〜38ページ)

天皇が元首かどうかは議論が分かれるところであるが、元首だというのならば、天皇は、いま国民の7割ぐらいまできている改憲論に従い、「今上天皇による改憲の詔」を出し、国会が改憲に乗り出さなければ、以後一切の法律案に署名せず、国会で指名された内閣総理大臣を任命しなければよい。

この“ストライキ”は、現行の憲法や法律の枠のなかで、天皇の意志でできることであるから、これに対する糾弾が国民から起きてくるかどうかを見れば、この元首制の問題も、はっきりと決着がつくはずである。

天皇制がある一方で国民主権があるが、これは本当は憲法論的にぶつからなければいけないところだが、うまくくっついている理由は、実は、天皇は神々の子孫であり、「宗教と政治が一体化しているのが日本の政治の本質だから」である――。

本書は、現・幸福実現党党首である釈量子さんとの対談集です。

釈さんが聞き上手だからでしょうか、楽しく対談しておられるので、さらっと読み流してしまいそうです。

しかし、立ち止まってよくよく読んでみると、あまりに斬新な大川隆法先生のオピニオンではないでしょうか。

国民主権で、国民は平等のはずなのに、なぜ「天皇」という特別な方が存在するのか。それは、天皇は神々の子孫だとされていて、日本神道の祭祀長だからだ、という話はどこかで教えていただいたことがあったと思います。

そして、法律に詳しい知人によると、この天皇の“ストライキ”というのは、これまで見たことも聞いたこともない先鋭な意見だけれども、考えてみると、たしかに法律的にあり得る話だとのことです。

そういう、おそらくは最先端の法律の議論までさりげなく学べてしまう。大川隆法先生のお教えの凄味は、このあたりにもあるのかもしれないと私は思うのです。

 

『猛女対談』大川隆法著


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イエスさまが十字架にかかったのは、人類の罪をあがなうためって、教えてもらったよ。これって、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『キリストの幸福論』において、この根源的な質問に対して、まさにそのイエス・キリストの霊が直接、率直に答えられたお言葉(「霊言」)を、次のように伝えておられます。

 ただ、私自身は、うーん、どうでしょうかね。まあ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かったと考えていたか」と問われたならば、率直なところ、「そのようには考えていなかった」と言わざるをえません。
 後世の弟子たちや教会が、どのような議論を立てたかは別といたしまして、私自身は、「インスピレーションの赴くまま、神の命じられるままに行動をなし、そして、御心のままにその身を委ねた結果、私の言葉は、ローマの兵士たち、あるいは、ユダヤの民衆たちをも説得することができず、罪人と共にゴルゴタの丘で十字架に架かった」ということです。
 人間イエスとしての生命は、それで終わっております。
 その重い十字架を背負って丘に登りて、そうして、磔にあったときに、「人類の罪を贖うために自分が死のうとしていたか」といいますと、自分自身は、必ずしも、そのように思っていたとは思いません。むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っていました。
 エルサレム入城については、神よりの使命が下っていたし、予言的には、そこで死するであろうということも伝えられてはおりましたので、「神の言葉であるならば、それは受けねばならん」とは思っておりましたけれども、「なにゆえに、人々を、わが教えに“帰依”させることなく、その前に、十字架にて、この世を去らねばならぬか」ということに関しては、やはり、幾分、残念な気持ちがあったことは否めません。
 さまざまな奇跡を起こしたことが、『聖書』には書かれております。しかし、最期において、あまりにも人間的な死に方をしておりますので、「これの持つ意味が、いったい何であるのか」ということは、その時点の私にもまた、十分には理解できていなかったと思います。
 むしろ、できるだけ、数多くの人々に福音を宣べ伝え、癒やしを与えたけれども、そのことよりも、人々はわが罪を裁く者の勢力のほうに大多数が加勢していき、わが弟子たちもまた、散り散りになっていった。まあ、これは、ある種の教団の壊滅と同時に、わが死が訪れたわけでありますので、そのことに対して、「神の仕組みとして、はたして、これで成功するのかどうか」という気持ちがあったことは否めません。
 「決して、人々の罪を贖うというような気持ちで十字架に上ったわけではなかった」というのが率直な気持ちです。私が十字架に架かったことにおいて、のちの人々が、十字架をキリスト教のシンボルとし、その信仰を広め、伝道をして人々を救済することで、結果的には、「イエスの死は無駄にならなかった」ということを宣べ伝えていたのではないかと考えております。
 だから、「贖罪思想」は、どちらかというと、弟子がつくった思想に近いのかなあというふうに考えてはおりますけれどもね。
(28〜31ページ)

イエスさま自身は、率直なところ、「人類の罪を贖うために自分自身が十字架に架かった」とは考えていなかった。

むしろ、自らの使命が、その時点では果たし終えていなかったことに対する残念な気持ちが残っており、その時点では、その意味が十分には理解できていなかった。

だから、「贖罪(しょくざい)思想」は、どちらかというと弟子がつくった思想に近いと考えている――。

慎重に言葉を選んでおられると思います。

でも、考えてみると、いくら救世主であったにしても、イエスさまはこの世に人間として生まれ、生きておられたわけですから、とても納得できるお言葉ではないでしょうか。

そしてこれが真相であったとしても、そのことによって、弟子たちがその教えを命をかけて述べ伝えキリスト教を世界宗教へと発展させていった、数えきれない貴い努力が否定されるわけではないと私は思うのです。
 

『キリストの幸福論』大川隆法著


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とにかくうまく行かないんだ。いま逆風なんだよね。めげちゃうよね? なーんて悩み抱えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私が、あなたがたに心していただきたいと思うことは、「光の使命を果たせ」ということです。この言葉を、どうか、深く胸に刻んでいただきたいのです。
 世間の情勢を客観的に見るかぎり、できないこと、不可能なことは数多くあります。環境だけを見て、できない理由を探せば、それは数限りなくあるでしょう。「これが原因でできない」「こういうことがあったために駄目だった」という言い訳は幾らでもできるでしょう。おそらく、その言葉のとおりであり、言っていることに嘘はないと思います。
 しかし、「世の中や人生には、いつも追い風ばかりが吹いているわけではない」ということも、また真実なのです。追い風のときにしか前に進めないのであるならば、あまりにも弱々しく、また、あまりにも頼りないと言わざるをえません。
 「追い風であろうと、逆風であろうと、風の止まった凪であろうと、しかれども、わが使命を果たす」という気持ちが大事です。
 まず、自分自身の心に問うてください。「使命感に灯がともっているか」ということを己に問うことから始めてください。
 客観的な事情や条件において、悪いことは数限りなくあるでしょう。しかし、そのときに、まず、自分の内を見て、「己の心のなかに使命感の灯がともっているか。たいまつの炎が燃えているか。ろうそくに炎がともっているか」ということを見ていただきたいのです。
 それが大事です。その炎が、その光が、ともっているかぎり、あなたがたは前進を続けることができるでしょう。どのような日が来ようとも、どのような嵐が来ようとも、雨が降ろうとも、風が吹こうとも、雪が降ろうとも、しかし、その灯がともっているかぎり、あなたがたは、毎日毎日、前進せざるをえないでしょう。
 それは、「世の中を照らす」という使命を自分が知っているからにほかならないのです。
(284〜286ページ)

客観的な事情や条件が悪いことは数限りなくあるが、いつも追い風ばかりが吹いているわけではない。

そんなときは、「己の心のなかに使命感の灯がともっているか」ということを見ていただきたい。その光がともっているかぎり、あなたがたは前進を続けることができる。

「光の使命を果たせ」という言葉を、どうか、深く胸に刻んでいただきたい――。

いまやろうとしてることは、自我我欲なんだろうか。それとも、大事な家族や友だちたちのため、あるいはもっと広く、社会のためとか日本のため、さらには世界のための愛の活動なんだろうか。

自分の利益のためだけに自我我欲で動いていて、天の助けはなく、うまく行かないということは、それは当然あるだろうと思います。

しかし、そうではなくって、仏法真理を学んでいる自分が、ユートピアを創るために一生懸命に活動しているときに、強い逆風で進むことができないのであるならば、です。

そんなときこそ、仏の言葉、つまり「仏言」である、「光の使命を果たせ」というこの言葉を思い起こし、噛みしめるべきなのだと思います。

この仏言に導かれて、必ずやまた私たちは一歩ずつ前に進んでいくことができるのだと強く強く私は思うのです。
 

『希望の法』大川隆法著


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