ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



宗教って、病気が治るような奇跡って、よく起きるでしょ。正しい宗教だけじゃなくって、ちょっとおかしく見える宗教でも病気が治ったりするって話、聞くよね。なんでなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神秘の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 宗教で、集団で修行していると、霊現象が起きることがあります。大勢で、一生懸命、マントラ(一種の呪文)を唱えたり、お経を読んだり、瞑想をしたりしていると、「霊動現象」といって、体が動きはじめることがあるのです。
 手が動いたり、体が、ピョコピョコ動いたり、グニャグニャしたり、横に揺れたり、縦に揺れたりします。あるいは、跳躍とまでは言えないのですが、ドンドン、ドンドンと跳ねたりしはじめます。
 そういう経験をすると、やはり、ありがたがって、「これは本物だ」と思い、信じてしまうのです。そして、体験者は、なかなか、そこから離れないわけです。
 この世の人は、あまりにも霊について無知であるために、霊的な現象が起きれば、即、「これは、神様、仏様の力だ」というように思ってしまうことが多いのです。しかし、この世、地上界で、ポピュラーというか、よくあるのは、いわゆる不成仏霊による現象のほうです。成仏していない霊が、この世にはたくさんいるので、最初にかかってくるのは、そちらだと思ってよいのです。
 大した修行もしていないし、心の状態もそれほどよくないのに、すぐ霊がかかってくるようであれば、それが不成仏霊の仲間であることは、だいたい間違いないわけです。
 そういう霊現象が集団でたくさん起きる場合であれば、それほどよいものは来ていないと見てよいでしょう。長く修行を積んだ人であれば、よいものが来ていることもありうるかもしれませんが、集団で、すぐに起きるような霊現象の場合は、だいたい、邪(よこしま)な霊によるものであることが多いのです。
 それらの霊は、ほんとうは、迷っていて、救われたくて来ています。その宗教のなかで救われたいのです。人間のほうも、救われたくて来ているし、霊のほうも、救われたくて来ているわけです。
 そこでは、いろいろな人が拝んでいるので、霊は、そういう人にパッと取り憑きます。いわゆる憑依です。そうすると、憑依された信者のほうは、「神様が降りてきたらしい」と、ありがたがっていますし、霊のほうは、尊敬されているので、救われたような気がします。
 そのように、憑いているほうも、よいことをして功徳を積んでいるような気がしますし、憑かれているほうも、人間ではなくスーパーマンになったような気がするので、両方とも、うれしい興奮状態になります。こんな場合に、「救われた」と誤解するのです。
 それから、それまで憑いていた霊とは違う霊が入ってきて、元いた霊を追い出して憑くことがあり、ときたま、それで病気が治ることもあります。何かの霊が憑いていて病気になっていたところへ、新しく、別の大きい霊が来ると、それまで憑いていた霊が追い出されて外れ、それによって病気が治ったりすることも、たまにあるのです。それで、よけいに信じてしまうわけです。
 邪教団であっても、そのように、病気が治ることもあるのです。
(119~123ページ)

宗教で、集団で修行していると、「霊動現象」が起きることがある。

大した修行もせず、心の状態もよくないのにかかってくる霊は、不成仏霊の仲間であることはほぼ間違いない。

邪教団であっても、それまで憑いていた霊と違う霊が、元の霊を追い出して憑くことで、病気が治ることもある──。

宗教に霊現象はつきものだし、正しい宗教だけじゃなく邪教であっても、病気治しのような奇跡が起きることはあるが、その奇跡が起きるメカニズムは、かなり違っているわけです。

要は、霊現象だけに惑わされてはいけないのであって、「正しい教えとは何か」を見なくてはならないのだと思います。

その点検基準については、一度ご紹介したことがありましたので、改めて参考にしていただけたらと私は思うのです。

 

『神秘の法』

大川隆法著

 

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親子って、似てることが多いよね。やっぱり遺伝子なんだよね? スピリチュアルな理由って、あったりするのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福へのヒント』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 親子には、「親子の緑」というものがあります。親子の関係は偶然にはでき上がらないのが普通です。「事情が変わって親子になる」ということもありますが、たいていの場合は、親子の緑によって子供が生まれてきます。親子の縁は父母のどちらかにあります。もちろん、両方に縁がある場合が多いでしょう。
 どのようなときに子供として生まれることができるのでしょうか。
 親子の緑を持つ場合は主として三つあります。
 一番目は、過去世でも肉親だった場合です。これが全体の六、七割を占めます。
 それから、地上で仕事をなしていくにあたって、親から特定の性格や能力を引き継ぐほうが都合がよいときには、そういう家庭環境のところに生まれる場合があります。これが二番目です。
 三番目は、「親子になることを他の人が決めてくれた」という場合です。もちろん、一定の縁はあるわけですが、あまり主体性のない魂だと、「おまえは、だいたい、この辺が相当である」という割り当てを受け、生まれてくることもあるのです。
 これらのうちで、二番目の、親の持っている才能や傾向性などを欲して生まれてくる場合を考えると、やはり、「優秀な魂は親を選ぶ」と言えるでしょう。
 ただ、「波長同通の法則」というものが働いているので、ある程度、波長の似た人でないと親子になれません。そのため、優秀な魂は、自分とよく似た波長を持ち、特定の能力などのある人を、親に選ぶ傾向があるわけです。
 人間は、この世に生まれてくる前は、魂の世界において、それぞれの村や町に住んでいるわけですが、一つの集落に住む人たちには一定の傾向性があります。そして、近くに住んでいる人たちとは波長が似ているのですが、まったく違う所に住んでいる人たちとは、波長はかなり違っています。
 このように、魂の波長が合うと、互いに引き寄せられますが、魂の波長が合わないと、同じ所に長くいることは難しいのです。
(187~189頁)

子供はたいていの場合、親子の緑によって生まれてくる。

親子の緑は、主に、過去世でも肉親だった場合、親から特定の性格や能力を引き継ぐほうが都合がよい場合、親子になることを他の人が決めてくれる場合、がある。

ただし、「波長同通の法則」があるので、ある程度、波長の似た人でないと親子にはなれない──。

要するに「波長同通の法則」で親子は似ている、と考えればよいのだと思います。

大川隆法先生のお教えによれば、ほとんどどんな疑問にも納得できる答えが導かれます。

これは何度考えても凄いことではないかと改めて私は思っているのです。

 

『幸福へのヒント』

 大川隆法著

 

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人間って、なんで尊いんだろう。憲法で「個人の尊厳」が保障されてるからだって、教えてもらったことがあるんだけど、ほんとにそうなのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ダイナマイト思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私たちは、神の子であるということを知ることによって、初めて本当の幸福に到る道を歩み始めるのです。(中略)
 私たちは、もっと奥なるものを求めます。もっと高貴なるものを求めます。もっと高邁なるものを求めます。人間の精神がもっともっと偉大なるものであることを信じます。私たちは、物質的な欲望やこの世的な名利のためだけに生きることは断じてできません。私たちの望むものは、その高邁なる理想を現実のものとして生きることです。それ以外に、幸福なるものはあろうはずがありません。それ以外のこの世的なる幸福とは、私たちにとっては、まさしく一時の蜃気楼にしかすぎないのです。
 みなさんは蜃気楼を見ているのです。陽炎を見ているのです。実体のないものを実体のあるものだと取り違え、本来の実体のあるものを実体のないものと取り違えているのです。こんな錯誤があるでしょうか。こんな混乱があるでしょうか。こんな恥ずかしい事態がありましょうか。
 私たちは本来の世界をめざさなくてはなりません。(中略)自分自身をがらくた同然に扱うような思想に染まっていながら、他の人の価値とか、人権とかを言ったところで、その意味など少しもわかっていないのです。
 日本人の大多数の考え方の基礎には、この世的なる生命の存続を最高の価値と思う考えがあるようです。笑止千万です。もし、その生命なるものが肉体と共に滅びていくようなものであるならば、それを最高価値として行動をしている政府だとか、国の選良だとか、あるいは言論人、文化人、作家、社長、先生といった人たちのやっていることは、笑止千万であると言ってよいことです。(中略)
 みなさんが生きているのは、地上に生命を得てから後のことだけではありません。地上に生命があるということは、地上に生まれる前の世界において、あなた方が人間の魂として生きていたという証拠なのです。そして今世の数十年の魂修行を、この時代──私と同じ時代に終え、また元なる世界に還るのです。
 この世は、あなた方の永遠の生命の歴史のなかで、一点なのです。それは、あなた方が自らの魂を鍛えんとして、修行せんとして、教育せんとして選びとった地上での修行なのです。このわが言葉は百パーセントの真実です。髪の毛ほども、あるいは、ほんの小さなゴミほどの疑いも入れる余地がありません。これは過去・現在・未来を貫く永遠の真理なのです。みなさんは、いま人間として生きているわけですが、その前も後もあるのです。そういう世界に生きているのです。
 それを解き明かしているのが幸福の科学なのです。
(26~30ページ)

この世で持っている肉体というのは、仮のものであって、この人生での魂修行が終われば、あの世と呼ばれる、元なる世界に還って行くのだ。

人間は、過去・現在・未来を通じて永遠の生命をもっている魂が、その本質なのだ。

神の子、仏の子なのであって、だからこそ尊いのだ──。

この真理を詳細に説き明かし、この魂の真の幸福への道がどういうものなのかを教えているのが、幸福の科学なのであり、大川隆法先生である。

そのお教えが、立宗から30年を大きく超えても日々出し続けられることで、もう質量ともに超絶的とも言うべきレベルに達していることに、改めて私は感じ入っているのです。

 

『ダイナマイト思考』

 大川隆法著

 

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わたしって不器用で、なんだか損ばかりしてる気がするんだ。人生、うまく生きる秘訣みたいなのって、あるんじゃないのかなあ? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

  人生には、ひとつの秘訣があります。それは、自分が死ぬときのことを瞑想してみるということです。自分が死ぬとき、なにを考え、なにを感じるだろうかということを、つねづね瞑想してみることです。そのときに、「ああ、生きていてよかった」「人生ってほんとうにすばらしいな」と思える人は、幸福な人生を生きた人だといえます。
 その反対に、自分が死ぬときのことを考えると、後悔ばかりが、つぎからつぎへとわいてくる人たちもおります。(中略)
 死ぬときに、いまのような生き方であなたは、恥ずかしくはありませんか。悔いは残りませんか。自分の良心に照らしてみて、どうでしょうか。
 人生の時間をダイヤモンドのように輝かすためには、こういった意識と発想の転換が必要だといえます。すなわち、自分の死の瞬間を想定して、現在までの自分の生き方を反省してみることです。これは、善意なる第三者の立場に立って反省するということと、同じだといえます。そして、これが、ダイヤモンドの時間を生きる秘訣なのです。密度の高い、煌めきのある人生を生きる秘訣なのです。
(319~322ページ)

心静かに瞑想してみて、自分の臨終シーンを、できるだけ具体的に思い浮かべてみる。

長かったようで短かったこの人生を、いま自分は閉じていくのだ。

病院なのかな、自宅のベッドや布団なのかな。

家族がまわりにいてくれたりするのかな、一人さびしくなのかな。

そのとき、自分は、どう感じるんだろう。

いい人生だったなあと思えるだろうか。

それとも、これで人生が終わるのは嫌だって、激しく後悔するんだろうか──。

「これで人生が終わりなんて、ぜったいに嫌だ」って思うならば、これまでの生き方をすぐに変えて、自分の良心に照らして納得できる生き方をしていくようにする。

それこそが、悔いのない人生を生きるための秘訣なのだ、と。

この大川隆法先生のお教えに従って、ときにこんな瞑想で人生を振り返りながら、「ああ、いい人生だったな」と人生を閉じれるような毎日を送っていこうと、改めて私は決意しているのです。

 

『太陽の法』

大川隆法著

 

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毎月、毎月、ほんとに税金って高いよねー。こんなに税金とられるくらいなら、フリーターで、税金とられずにすむ程度しか働かない方がいいんじゃないの? なーんて考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『希望の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 旧い宗教を信じている人は、お金に対する拒否感が極めて強いことが多いのですが、それ以外に、現代では、共産主義や社会主義にかぶれている人たちも、たいてい、「お金儲けは悪」「大企業イコール悪」というような言い方をするので、要注意です。
 そのような言い方は、一定の批判としてはかまいませんし、マスコミも、彼らなりの使命感があって言っているのだとは思います。しかし、そういう批判のなかに、人の努力を正当に認めない心、人が努力して成功することを認めない心があるならば、批判をしている人自身もまた、努力して成功するようにはならないのです。そのことを知らなければいけません。
 「お金持ちイコール悪。大会社イコール悪。企業家として成功した者は悪。お金が集まれば、すべて悪」と言っていたならば、その人自身が豊かになることはまずないと考えてよいのです。
 こういう考え方を、人生のわりあい初期において、すなわち、二十代の前半ぐらいで持っているかどうかによって、人生の道筋は、はっきりと分かれます。
 個人として清貧で生きることは結構です。昔のお坊さんは、みなそうだったので、清くつましく生きること自体はよいことだと思います。
 ただ、そういう人のなかに、(中略)自分は働かずに人の援助で生きようとする人がいるので、それに対しては要注意です。
 何のことはない、親からお金をもらって生きているだけの人がいます。パラサイト・シングルというのでしょうか、「独身のままで親の家に住み、食事付きで楽々と暮らしていて、ときどき、お金が必要なときだけ働いて、それ以外は働かない」という人がいるのです。
 清貧の思想を語る人のなかには、こういう、働く気のない人がかなりいます。
 しかし、それは、結論的には、ほかの勤勉な人から奪っていることになるのです。
 税金も納められずにいながら、「よかった。得をした。もっと稼ぐと税金を払わなければいけなくなるから、これ以上は稼がないようにして、アルバイトで生きていこう」などと考える人もいるでしょうが、こういう思想で豊かになることは決してないのです。やはり、「税金を払わずに生きていくことは、国民として恥ずかしいことだ。税金を払えるようになりたいものだ」と思わなければいけません。
 税金を払おうが払うまいが、公共施設などで、さまざまな便益は得ています。道路は使えますし、公園も学校も使えるでしょう。税金を払っていなくても、そういう公共施設は使えているのですが、それは税金を払っている人のおかげなのです。
 個人であろうと企業であろうと、税金を逃れて得をしたような気持ちになっているようでは駄目なのです。
(131~134頁)

勤勉に働いて、豊かになるのは善なのだ、仏神も喜ばれることなのだ。

だから、税金をきちんと納められるようになりたいものだ、と思って、一生懸命、仕事をすることこそ、成功への道なのだ、と。

大川隆法先生は、消費税の減税を説いておられます。

でもそれは、いわゆる左翼の人たちとまったくの考え方の根本が異なることが、今日のお教えでとてもよく分かるのではないかと私は思うのです。

 

『希望の法』

大川隆法著

 

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「空(くう)」って、仏教の教えで聞くことがあるんだけど、どういうことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊的世界、霊界世界の存在というものを認めると、「空」の説明というのは、実に簡単なものになってしまいます。「要するに、この世的な物なるものは、本質的なるもの、実体のあるもの、かたちを決して変えないもの、常住なるもの、実在なるものではない。霊的世界、あの世の世界にあるものこそが実在であって、この世は仮の存在である」。(中略)
 この世の人、たとえば宗教を知らない人にもわかる「空」の説明とは、次のようになります。
 たとえば、「長良川という川は、本当に有るのか、無いのか」という議論を立ててみます。
 まず、「長良川は有る。それは実在する」と言う人がいます。では、長良川なるものをとって見せてください。どれが長良川ですか。長良川の水を汲んでバケツに入れて、「この水は長良川です」と言っても、それは長良川だと言えるでしょうか。そうは言えないでしょう。それは長良川の水ではあろうけれども、長良川そのものではありません。
 また、長良川のこの砂利をとって「これが長良川だ」と言えるでしょうか。言えないはずです。
 では、地図を見せて、「長良川というのはここから始まって、ここの海で消える、この長きのことだ」と言って、それで長良川というものの実体の本当の説明になっているでしょうか。そうではないはずです。
 では、長良川とはいったい何なのでしょうか。
 その川の流れを止めてしまったらどうなるでしょう。その上流で止め、下流で止めて、水を一滴も出さないようにしてしまって、その土と水をまるごと箱庭のようにドンと出して、「これが長良川です」と言えば、それを説明できたことになるかというと、どうでしょう。川の水を止めることができるでしょうか。止めたときに、それは川でしょうか。おそらく川ではないでしょう。そこにできてくるものは、おそらく池であり、湖であって、もはや川ではありません。
 「すると、長良川なるものは、名前はあるけれども、実際に有るのか無いのか」という議論になってきます。そうしてみると、長良川なるものをとって説明することはできません。しかし、みんなが「それは長良川だ」という名で呼んで、有ると認識しているのです。
 このように、この世の存在というものは、名があって、有るように見えますが、その実体を取り出してみせることができないのです。〝変化しないもの〟というものを取り出して見せることは決してできないのです。
 人間ひとつをとってみてもそうです。毎日、新しい細胞ができ、古い細胞が死んでいます。人間の身体に、生まれたときに持っていた細胞は何ひとつ残っていません。十年前のものも残っていないでしょう。骨だって同じものではありません。脳の細胞さえそうです。毎日毎日、消滅しています。
 そうしてみると、「あなたという人間はいったい何者なのですか。これがあなただというものを取り出せますか」と問うても、それを出そうとする瞬間に、すでに変わっているものなのです。
 そのように、この世においては、「これこそがカッチリとしたあなたである」「あなたの名前で呼ばれている人間はこれである」「長良川とはこれである」と出してみよ、というときに、出せるものは何ひとつないのです。
 すべてのものは変化のなかにあります。すべてのものは変わっていっています。これを「すべてのものは無常である」といいます。この「無常」──変わりつつあること、常ならずということ、これを「空」という言葉で説明しているのです。
(44~48ページ)

うーん、私にも、この説明は、とてもよく分かる気がします。

ただ、大川隆法先生は、この説明に続いて、「ただ、この「空」の説明は、あくまでも、この世の人にわかるように言った三次元的な説明のなかでの「空」です。したがって、間違った方向にいくと唯物論的に流れていくことがあることも、充分警戒してください」とも述べておられます。

その他の仏教の中核理論を、本当はどう理解すればいいのかについても、大川隆法先生は論理的かつ合理的で、しかもとても分かりやすく教えておられます。

興味を持った方は、ぜひ本書をひもといてみられることを強くお勧めしたいと私は思うのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著

 

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なんだか、うちのお父さんって、酒乱で死んだおじいちゃんにそっくりになってきたんだけど、もしかして、おじいちゃんの霊が・・・? なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 それから、生きている人に先祖と同じ特徴が出てきたら、それは、「先祖の霊が来ている」ということです。
 たとえば、「生前、酒乱で、アルコールが入るとおかしくなり、よく大暴れをして、家のものを壊したり、刃物を持って人を追いかけたりしていた人がいた。その人の子供は、以前は、そうではなかったのに、父が死んで、しばらくすると、お酒を飲んでは、父と同じようなことを言ったり、暴れたりするようになった」という場合、死んだ父の霊が迷って来ているのは、ほぼ間違いないのです。
 それから、父母や祖父母に色情面で非常に大きな問題があった場合、すなわち、男女の愛憎劇で、いろいろと地獄をつくり、家族に迷惑をかけたような場合には、その人が亡くなって、しばらくすると、その人の子供や孫たちが、同じような色情問題をたくさん起こし、家庭を崩壊させ、愛憎劇を繰り返すことがあります。
 この場合には、よく言われるとおり、障(さわ)りがあるのです。成仏していない先祖の霊が障っているのは間違いありません。
 そのような障りは、どうしたら取れるのでしょうか。
 やはり、生きている人間のほうが人生を立て直さないと、どうにもなりません。真理を学び、それを手掛かりにして、人間としての正しいあり方、正しき心を探究し、人生を立て直して生きていくことが必要です。
 そういうことをしながら、一方で、亡くなった父母や祖父母について、「この人は迷っているな」ということが分かれば、その人に対し、幸福の科学の経文を読誦(どくじゅ)するなどして供養をすることは可能です。
 その際、最初は一人では危険なので、できれば、幸福の科学の精舎や支部など、導師がいる所、あるいは、光の仲間がたくさん集まっている所で、導師や仲間と一緒に供養したほうがよいでしょう。
 そのうちに、だんだん自分にも力がついてきたら、直接、そういう霊たちを救う力も湧いてくると思いますが、まずは、うっすらとでもよいから後光が出る状態になり、法力が出てこないと、救うことはできないのです。
 たとえば、「遊園地などへ行って池でボートを漕いでいると、一緒にボートに乗っていた人が池に落ちたため、その人を助けようとしたところ、手を引っ張られてボートが転覆し、自分も水のなかに落ちてしまった」ということがあります。
 先祖供養においても、それと似たようなことが起こります。「自分もボートから落ちてしまう」というかたちになることが、けっこう多いのです。
(63~66頁)

〝なにもかもがご先祖のせい″なんていうのは正しくない。

でも、先祖の障(さわ)りとか祟(たた)りって、場合によっては、やはりあり得るんだってこと。

それを取るためには、まず生きている人間が、人生を立て直すこと。

そして、できれば幸福の科学の精舎や支部など、導師がいるところ、光の仲間がたくさん集まっている所で、一緒に供養すること──。

思い当たることがある人は、ぜひお近くの幸福の科学の支部や精舎に、相談してみることをお勧めしたいと私は思うのです。

 

『復活の法』

大川隆法著

 

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お金はたまんないし、ほんと貧乏なんだよね。でも、お金が欲しいなんて思うのは、欲望なんだから、いけないことなんだよね? なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『「幸福になれない」症候群』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 精神的貧乏性、受難を好む性格、「借金取りに追いかけられたくてしかたがない」という性格を解消し、克服するために、「豊かさは決して罪ではない」と、しっかり心に刻むことです。
 「豊かであることは罪だ。ぜいたくは敵である」と思い、たとえば、優雅な遊びをする人を見ると、「あれはブルジョアである」と非常に反感を持つ人もいます。しかし、豊かな人が、より大いなる仕事をして人びとに貢献していくのは大事なことです。
 「経済的に力がある」ということは、「影響力がある」ということでもあり、その影響力を用いて、より多くの人のために生きようとするのは、価値のあることなのです。
 借金、貧乏にあえいでいる人が、どうして、世の中を動かすほどの力を持つことができましょうか。そうした人が「世の中が悪い」と言ったところで、どうにもなりません。貧乏な人より、経済的に豊かな人のほうが、世を動かす力を持つ可能性は高いのです。
 結局、大切なのは、「自分がどのような理想を抱いているか」ということです。「自分を苦しめて、不幸のどん底にいるほうが、精神的に安定感がある」ということならば、やむをえないかもしれませんが、「世に立って、多くの人を指導したい」と思っているのならば、精神的貧乏性を早く脱却し、より大きな仕事をするよう、心を切りかえていくことです。
 貧乏の原因は心の貧しさにある場合が多いのです。貧乏な人は、小さなところでは一生懸命に倹約するにもかかわらず、大きなところで無駄遣いをしてしまうことがよくあります。これは、「自分を豊かにしないように、潜在意識が働いている」としか言いようがありません。そうした傾向のある人は、どうか、自分自身をよく振り返っていただきたいと思います。
(255~257ページ)

貧乏の原因は心の貧しさにある場合が多い。

しかし、豊かな人が、大いなる仕事をして人びとに貢献していくのは大事なことであるから、「豊かさは決して罪ではない」と、しっかり心に刻むことである。

精神的貧乏性を早く脱却し、より大きな仕事をするよう、心を切りかえていくことである──。

経済的な影響力を用いて、より多くの人のために生きようとするのは、価値があるんだってこと。

豊かさは罪であるどころか、理想を実現するための豊かさは善なのだってこと。

この豊かさの大切なお教えを心に刻んで、また明日から多くの人に愛をさしあげることができたらと私は思っているのです。

 

『「幸福になれない」症候群』

 大川隆法著



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受験の失敗とか、就職の失敗、大病で仕事ができなくなった、大好きな彼にふられた、結婚生活がうまくいかなくなったなどなど、人生の苦難とか困難っていろいろあるけど、どうしてそんな体験しなきゃいけないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の原点』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、幼いころより、釈尊の仏像を見たり、十字架上のイエスの姿を描いた絵などを見たりして、いろいろと宗教的なものに接したことはあっても、それらはすべて、自分の外にあるもの、窓の外、カーテンの外にあるものといった感じが強かったであろうと思います。
 しかし、人間は、ある時点で仏神と出会うように仕組まれているのです。
 仏神との出会いの契機として、一つには、この世で人間として成長していく途中における、大きな失敗、挫折ということがあるでしょう。大きな病、受験や就職の失敗、恋愛や結婚の失敗など、さまざまなかたちでの失敗、挫折が、人間を仏神のほうへと深く深く向き直らせる契機となっているのです。
 苦難や困難、失敗、挫折というものは、世間では悪いことの象徴のように言われていますが、必ずしもそうとは言い切れない面もあるわけです。「失敗のなかに成功の因があり、また、悲しみのなかに喜びの種がある」という、ものの見方が非常に大事だと思います。
 世の中を非常に単純に、二元論的に見る人は、「仏神が存在するなら、世の中には、なぜ不幸があるのだろうか。なぜ辛酸をなめるような経験があるのだろうか。なぜ死というものに出会う悲しみがあるのだろうか。なぜ別離という悲しみがあるのだろうか。なぜ貧乏という名の苦しみがあるのだろうか」ということを感じます。
 しかし、そのような苦しみや悲しみは、単なる苦しみのための苦しみであったり、悲しみのための悲しみであったりすることはありません。苦しみや悲しみと見えるものは、実は、姿を変えた、仏神の大いなる愛であることが多いのです。
 仏教では、さまざまな試練を観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)の方便であると言うこともあります。いろいろな試練と見えるもの、砥石(といし)と見えるもののなかに、実は、仏神との出会いがあるのです。
(115~117ページ)

人生は、ある時点で仏神と出会うように仕組まれている。

人間として成長していく過程の大きな失敗、挫折が、仏神との出会いの契機となっている。

「失敗のなかに成功の因があり、また、悲しみのなかに喜びの種がある」という、ものの見方が非常に大事である──。

苦難・困難は、実は、姿を変えた仏神の大いなる愛であり、観世音菩薩(観音さま)の方便であると考えるべきだということです。

だから、苦難や困難に負けてちゃいけないのはもちろんですし、それだけじゃなくって、もっと前向きに積極的に受け止めて、これを学びの材料としていかなくてはならない、と教えていただいたのだと私は思っているのです。 

 

『幸福の原点』

大川隆法著



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この世は神仏が作られていて、神仏は全知全能だと思うんだけど、そしたらなんで、この世には「悪」なんて存在するの。最初からユートピアとしてこの世を作れば、戦争も犯罪もなくって、人々はもっと幸せに暮らせるんじゃないの。なんで悪なんかが、存在を許されてるんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悪とは何なのか。悪は何ゆえに起きるのか。悪に対してどうすべきなのか──。これについては、さまざまな宗教で、非常に大きなテーマとして、現代まで語り継がれています。もちろん、宗教以外の、政治や法律、哲学など、いろいろな分野においても、この悪の問題は論じられています。しかし、最も根源的な議論は、やはり宗教においてなされるべきであると思います。
 では、悪とはいったい何なのでしょうか。それは、人類の起源からあるのでしょうか。言葉を換えて言うならば、仏みずからが悪を創られたのでしょうか。こうした問題があります。
 これに関して、明確に言っておかねばならないことがあります。それは、「善悪は、人間の活動に関して起きることである」ということです。
 仏そのものが、あるものを善とし、あるものを悪とし、この世界のなかに善悪の両者を送り込み、戦わせているわけではありません。もし仏が、悪なるものを、「この世に存在するもの」として見ているとするならば、それは必ずや、「より大いなる善のために、悪の存在を許容している」ということです。
 では、より大いなる善とは何でしょうか。それは、三次元世界を超えた世界における善である、と考えてよいと思います。すなわち、「この世に存在するかのように見える悪は、すべて、地上の人間の魂修行の目的においてのみ存在している」と考えるべきであると思います。
 砥石(といし)はザラザラとしたものですが、その砥石によって研がれた結果、石や金属などは、美しく光る滑らかな面が現われてきます。それは、砥石をかける以前よりも、はるかに美しいものです。石や金属などは、自然のままにあるよりも、砥石やサンドペーパーをかけたあとのほうが、はるかに光沢のある美しいものとなるのです。このように、より大いなる善のために、一見、不愉快にも見える、デコボコでギザギザした砥石の役割として、悪なるものも現われてくるということです。
(64~66ページ)

今日のお教えに私は、「なるほど!」と、とても腑に落ちてしまうんですが、みなさんは、いかがでしょうか?

「この世に存在するかのように見える悪は」という、ちょっと回りくどく感じる言い方をしておられるのは、今日ご紹介した部分のあとに、「悪とは、自由と自由の相剋である」「人間関係のひずみが悪である」「悪とは、人・時・所の三つの視点から生じてくる」といった内容が続いていて、悪は実在のものではない、という視点があるからなんだと思います。

このあたりの問題に興味がある方は、ぜひ、本書第3章「悪とは何か」で、この続きを読んでみていただけたらと私は思っているのです。
 

『宗教選択の時代』

大川隆法著

 

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会社で仕事していると、上司が間違った判断することって、とっても多いんだよね。のびのびと自分の意見を言うようにしないと、この動きの早い時代、会社のためにならないし、自分も生きがい感じられないから、ガンガン意見するようにしてるんだけど、なんだか嫌われちゃってるみたいなんだよねー。 なーんて悩みもってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『感化力』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 職場では、自分の上司の判断を間違いだと思うこともあるでしょう。しかし、立場をわきまえずに、ずけずけと意見を言ったりすると、すぐクビになります。
 そこで、一つの「人間関係調整の原理」が必要になります。それは、「他の人との距離の取り方に気をつける」ということです。これが大事です。
 別の言葉で言うと、「立場の違いを認める」ということです。この原理がなければ、職場における秩序は保てません。
 特に、正義感で行動するタイプの人には、相手と同じ土俵に上がりたがる傾向があります。誰に対しても同じ距離を取り、相手が横綱であろうが大関であろうが、「裸でぶつかれば一緒だ」と考えて、同じ土俵に上がり、相手と取っ組み合いを始めるのです。
 しかし、それでは絶対に出世しません。立場の違いを考え、相手に応じて距離の取り方を変える必要があります。これは職場における〝長生き″の秘訣でもあります。
 「あの人は間違っている」と思って意見を言う場合でも、その人との距離をしっかりと見極めて行動することが必要です。それをせずに、同じ土俵で戦ったならば、失敗の原因になります。
 相手に近寄ってよい範囲というものがあるのです。たとえば、相手が部長で自分が課長ならば、両者の立場の違いをわきまえた上で、ものを言わなくてはなりません。ところが、部下が上司と同じ土俵に立ったりすれば、組織の論理によって、部下はその職場にいられなくなるのです。
 相手が上司であれ部下であれ、他の人を批判する場合には、自分の位置を確かめ、相手との距離に応じて、ものを言うことが必要です。そうでなければ、その職場で長くはもたないのです。
(18~20頁)

この「人間関係調整の原理」を知って、これに沿って動いていくのが、職場で出世する秘訣だし、〝長生き″していく秘訣でもある。

それが、仕事上の成功の道だ、と。

この「人間関係調整の原理」に配慮するのは、ビジネス社会における大事な「智恵」の一つであるわけです。

それはすなわち、上司に対する部下としての「愛」でもあるってことなんだと私は思っているのです。

『感化力』

大川隆法著

 

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インフルエンザが流行(はや)ったりするけど、ものすごくたくさんの人が亡くなる伝染病ってあるよね。ペストとか、エイズとか、サーズ(SARS)とか。なんで、伝染病って、こういうふうに突然、流行るのかな? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『フランクリー・スピーキング』(幸福の科学出版)で、こう解説しておられます。

 コレラとかペストとか、そういう病気がずいぶん流行ったときがありましたね。だいぶ弱ってきて根絶してきました。こういう細菌には、やはりそれぞれ小さい魂があるんです。集団でいるんです。これなんかが変化してきて、次にエイズだのヘルペスだの、こんな病気に変わってきているんです。そういう悪役みたいな、パンドラの箱から出てきたような、一定の役割を持っている存在がどうもあるらしくて、医者がそれを根絶してくると、また違った病気に変わって出てくるようなので、ずーっと仕事をやっていますね。これなんかも、やはりその悪性の小さな魂があるのだけれど、これも地上の人間の乱れのようなものがエネルギーの供給源のようになっていて、小さな地獄霊みたいなのです。
 たとえば、風邪、インフルエンザが流行りますね。あれは、普通は病原菌(ウイルス)が移って感染するというふうになっていますけれど、私が見たら、もうあれは完全に憑依ですね。人に会ったら、「あっ、もらったかな」というのがあるでしょう。急にぐっと重くなって、もらったかなというのは、もう完全に憑依なんです。憑依現象と一緒です。
 実際に医学が言うようにウイルスがあるのは事実なんですけれど、それを取り巻いている霊体があるんです。この霊体はいったい何かというと、反応がないから私も長らくわからなかったのですが、よく観察してみると、どうも虫たちの集合霊のようなんです。寒くなると集団でバーッと虫が死ぬでしょう。それが集合霊みたいに漂っていて、まだ成仏していないのが風邪のウイルスと合体して、これがワーッと広がるようなんです。だから、あれも一種の憑依現象なのです。
 たとえば、普通の悪霊も、体力が弱っているときにはなかなか取れないのですが、元気になったら取れます。それと同じで、ああいうものも一種の憑依で、次から次へと憑いてくるみたいですね。
 風邪でそれですから、エイズとかヘルペスにも、もちろん菌がありますけれど、その菌自体がもともと悪性かどうかではなくて、それを悪性にさせる霊的な作用が働いているようです。これは神様がつくったというよりは、地上の人間の乱れのようなものから来る想念エネルギーを受けて増殖する、小さな地獄の使者たちみたいな感じですね。
 だから、あれを治しても、おそらくはまた違うのが出て……。ただ、確実に警告としての役割をしていますね。
(218~220ページ)

伝染病は、ウイルスと合体した天上界に還れていない虫たちの集合霊が、地上の人間たちの想念エネルギーを受けて増殖して、その憑依現象として起きている──。

とても不思議な話ではあります。

でも、風邪をうつされたときに、「もらったかな」と感じることは実際に何度もあったように思いますが、その体験ととても合致しています。

仏の眼から見たら、伝染病というのも、何かの役割があってこの世に存在する、ということなんでしょうか。

いずれにしても、今日は霊的世界の真相を改めてかいまみた気がする、大事なお教えだったと私は思っているのです。

 

『フランクリー・スピーキング』

 大川隆法著

 

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信仰って大事だって、よく説かれてると思うんだけど、なんで大事なのかな? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『繁栄の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間にもいくつかの本能がありますが、そのなかに信仰の本能というものがあると思います。(中略)
 「信仰の本能」という言葉は非常に変わった響きを持っているかもしれません。しかし、人間と動物の大きな違いは、信仰の本能の有無にあるのです。
 動物たちは、人間以上に鋭敏な感覚を持っています。人間は、犬ほどの嗅覚も、コウモリほどの聴力も、ある種の鳥ほどの視力も持っていません。
 感覚の能力だけを比べれば、人間は動物にかなわないでしょう。この世にあるものを感知する機能においては、人間は動物よりも劣っていると言えます。
 しかし、人間が動物よりも明らかに勝っているのは信仰の本能の部分です。
 信仰の本能とは、「目に見えないものを信じ、理解し、それに基づいて行動することができる」という性質のことです。何を信ずるのかといえば、伝統的には、「仏」や「神」という言葉で表わされるもの、すなわち「仏神」です。「仏神を信ずることができる」という点こそ、人間が動物よりも優れている部分なのです。(中略)
 みずからの本能を忘れたならば、動物は本来の使命を果たせません。
 たとえば、ニワトリが卵を産まなくなったならば、どうなるでしょうか。あるいは、サケが自分の生まれた川を遡上できなくなったり、クマがサケをとることができなくなったり、フクロウが夜に目がきかなくなったりしたならば、どうなるでしょうか。大変なことになるでしょう。
 人間も同じです。人間が人間である理由は、「五官で感知できるもの以上の尊いものを理解し、それに基づいて行動できる」という点にあります。この本能が人間を人間たらしめているのです。
 しかし、現代においては、この本能を失った人びとが大量に出現しているのです。彼らは一種の新人類なのかもしれませんが、ある意味では、〝退化した人類〟と呼ぶことも可能でしょう。
 そういう人の数はだんだん増えてきていますが、本質において、人間から猿に向かって退行する〝類人猿化〟のような動きだと思います。
 信仰を持たなければ、人間は動物とあまり変わらなくなってしまいます。人間を動物として見たならば、それほど強い動物とは言えません。(中略)肉体だけをとってみれば、人間は動物よりもはるかに軟弱です。
 しかし、人間は動物と違って、高度なものを信じ、それに基づいて生き、ユートピアという、目に見えない価値をつくり出すことができます。だからこそ、人間は尊いのです。
(128~131ページ)

なにか小手先のとして信仰が大事なんだと言ってるわけじゃなくって、もっともっと根本的な話です。

信仰は人間の本能なのだ。

信仰をなくしてしまったら、人類としては退化しているのだ、と。

だからこそ、この信仰を、人間を動物に優る尊いものとしているこの信仰を、現代人が取り戻すのはとても大切であると腑に落ちる気が私はしているのです。

 

『繁栄の法』

大川隆法著

 

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あーあ、なんであんなことでケンカしちゃったのかな。あのとき、なんだか自分が自分でないみたいな言葉が出てきちゃって、とりかえしつかないくらい怒らせちゃったんだよね。・・・なーんてことで悩んでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『理想国家日本の条件』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 家庭のなかで不和が起きるときは、ほとんど九十九パーセント、悪霊の作用があります。もちろん、この世的に考えて合理的な理由も多々あるわけですが、その背後には必ず悪霊の作用があります。
 ですから、夫婦不和、夫婦喧嘩、離婚騒動が起きるときには、もう一度踏みとどまって、これはほんとうに自分の考えなのかどうかを、よく考えていただきたいのです。そういうときは、相手がものすごく悪く見えてきます。いくら考えても相手が悪いと思えるような状況が、確かにいくらでも出てくるのです。そして、相手にこそ悪霊が入っているに違いないと思うわけですが、そう思うときには、自分自身のほうに悪霊が入っていることのほうが、実ははるかに多いのです。
 他人が悪く見えるときには、悪霊が入っていることが多いのです。それをよく知ってください。「まわりがみんな悪人だと思えるほどの悪人はいない」という言葉がありますが、その通りなのです。家族でも他の人が悪く見えるときは、自分自身が悪いことのほうが多いのです。ですから、その考え方が自分自身のものなのか、それとも、他の世界のもの、はっきりいえば憑依している悪霊から来ているものでないかどうかを、よく考えていただきたいのです。
 きのうまで仲よくしていた夫婦でも、悪霊に憑依されると考え方がコロッと変わってしまいます。そして、結婚してからの相手の欠点、あるいは結婚する前から気がついていた欠点までふり返り、「だから、この結婚は間違っていたのではないか」と思えるようなことをたくさん思い出して、それを合理化したくなります。「あの時も、あの時も、あの時も、あなたはこうであった」、あるいは「おまえはこうであった」と、ふだんは忘れているようなことまで思い出します。
 そして次には、本人だけではなくて、その実家の問題などに思いがいきます。「そもそも実家が悪い」とか、「兄弟が悪い」「友人が悪い」「会社が悪い」といった、その人の家族関係、親族関係などにまで思いが向いていって、全部を否定したくなります。そして、「ああ、この結婚は間違いだった。前世の緑がなかったのに、間違った結婚をした」ということを考えるようになるのです。これは完全に悪霊の作用です。(中略)
 要するに、本人が持っている執着や煩悩、あるいは人を裁く心、悪を見る心、こうしたところに悪霊が感応してきて、その考え方を増幅させていくのです。そうなると、自分が自分でなくなるのです。
(143~146ページ)

家庭のなかで不和が起きるときは、その背後にはほとんど悪霊の作用がある。

そのときは、それがほんとうに自分の考えなのかどうかを、よく考えるべきである。

他人が悪く見えるときには、悪霊が入っていることが多い──。

つまり、家庭で争いが起きて、自分が自分でなくなるような考えがわいてきたときには、「いや、待て。これは悪霊が来てるんじゃないのかな?」と、とりあえず考えてみることが大事だってこと。

でも、だから家庭不和は悪霊のせい、自分は悪くないってわけじゃなくって。

悪霊が来るのは、自分自身が持っている執着や煩悩、人を裁く心、悪を見る心などが原因であるわけで、そこは改めて反省しなきゃいけない、ということだと私は思うのです。

 

『理想国家日本の条件』

 大川隆法著



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「霊子線(れいしせん)」って言葉を聞くことがあるけど、それって何のことなの? って疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『霊界散歩』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 人間の生と死を分かつものは、いったい何でしょうか。
 肉体のなかには、肉体とほぼ同じ形をした、魂というものが入っています。魂は、ぴったりと肉体に入ったままかというと、そうでもなく、夜の睡眠時には、ときどき肉体から離れています。
 夢のなかでは、ときどき、この世の出来事ではなく、空を飛ぶ夢、怖いものに追いかけられる夢など、この世とは違った異質な世界の出来事を天然色で見ることがあります。そういう場合、魂は、たいてい霊界に行っているのです。
 それでは、すでに死んだ人と、生きていて魂が抜け出した人との違いは何でしょうか。それは、生きている人の場合は魂と肉体のあいだに「霊子線」というものがあることです。
 霊子線は、昔の言葉では「魂の緒(たまのお)」といい、英語では「シルバー・コード」(銀線)といいます。それは、実際に銀色に見えますが、光り方によっては少しオレンジ色がかった銀色に見えることもあります。そういう線が魂と肉体を頭の部分でつないでいるのです。これを見た人が古今東西にいて、相互の関連なく、そういうことを報告しています。
 普通は、寝ているときに魂がスッと抜けるのです。
 肉体の近くに霊体があるときには、魂の緒は、みなさんが想像するよりも、わりあい太めです。直径が四、五センチほどの、やや太めのロープぐらいであることが多いのです。なかを見ると、太めの毛糸を四、五本、あるいは五、六本ぐらい縒(よ)ったようなかたちになっています。魂が肉体の近くにあるときは、ちょうど、そのくらいの太さです。
 魂は、肉体を離れて遠くまで行き、霊界で活動したり、地球の成層圏を超えて外へ出たりすることもできますが、そのときに、魂の緒は、ずうっと伸びていって、魂が遠くまで行くと、ちょうどクモの糸のように細くなります。不思議ですが、切れそうで切れずに、遠い所までスーッと伸びていき、どこまででも続いていくのです。
(72~75ページ)

なんとなくぼんやりとした霊子線についての報告というのは、あちこちのスピリチュアルな文献でて、ときに見ることがあります。

でも、これだけ具体的で詳しく説かれているのは、大川隆法先生ならではのことではないでしょうか。

スピリチュアルな世界というのは、なんだかよく分からないから怖い感じがしたりする。

でも、ちゃんと教えていただきさえすれば、けっこう知的に理解できる世界なんじゃないかと私は思っているのです。

 

『霊界散歩』

大川隆法著

 

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