ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



「幸福の科学は、仏教的精神が基本にある宗教なんです」と話したりすると、、宗教に詳しい人から、「でも仏教って、あの世を認めてないんじゃないの?」 なんて質問が来たりします。

本当に、仏教は、あの世を認めてないんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの挑戦(下)』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 しかし、正確に仏典を読んでいくと、あの世や魂がなかったら、到底ありえないような話ばかりが出ているわけです。あの世がないのに、なぜ成仏ということがあるのでしょうか。あの世がないのに、どうして阿弥陀様がいらっしゃるのでしょうか。あの世がないのに、どうして来世の幸・不幸や、あるいは地獄に堕ちるという話が出てくるのでしょうか。また、魂の転生輪廻というものがないのに、なぜ釈迦が「過去世にも仏陀がいたのだ」という「過去七仏」の話を何度もしたのでしょうか。
 また、釈迦は在家の人を相手に説法する際に、やさしい話から高度な話へとつなげていく「次第説法」をしましたが、その最初に、いわゆる「三論」として「施論」「戒論」「生天論」を話しました。これはよく施しをし、よく戒めを守ったならば、来世、天国に生まれることができるという話です。悟りにおける「妄語」(ウソ)を戒めている釈迦が、方便のためだけに、ウソ話をしたとは考えられません。
 そういうことをつなぎあわせていくと、やはりあの世の存在、魂の存在、その転生輪廻というのは、当然のこととして教えのなかに入っていたわけです。
(166~167ページ)

正確に仏典を読むと、あの世や魂がなかったら、到底ありえないような話ばかりが出ている。

成仏があること、阿弥陀様がいらっしゃること、来世の幸・不幸や地獄に堕ちる話が出てくること、「過去七仏」の話があること、「生天論」の教えがあること。

悟りにおける「妄語」を戒めている釈迦が、方便だけでウソ話をしたとは考えられない──。

お釈迦様は、二千五百数十年前のインドで、苦しみのもとである欲望を断つこと、執着を断つことを教えられました。

これを教えるために説かれた「無我」の教えが、後世、誤解され、ねじ曲げられてしまって、仏教は霊魂がないとかあの世がないと教えているかのように説く人びとが、現われてしまったわけです。

仏教を説いたお釈迦様って、大川隆法先生の過去世の姿なんですから、仏教の教えが、あの世を認めているし、転生輪廻も説いているのは当然のことだったのだと、改めて私は思うのです。

 

『悟りの挑戦(下)』

 大川隆法著


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こんなふうになったのは〇〇さんのせいだなんて、人を恨んじゃうこと、あるよね。でも、こんなことしてて、幸福になれるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『人生の王道を語る』(幸福の科学出版)で、「人生の再建」と題して、こう教えておられます。

 まずいちばん最初に申し上げておきたいことがあります。
 それは、仏教のなかで言われる「恨み心で恨みは解けない」という言葉です。この一行の文句、これがわからない人が数多くいるのです。
 苦しみ、悲しみ、病気、挫折、そういうもののなかに自分があるとき、人はどうしても自分以外の何かのせいにしてみたいという気持ちになります。そして、その気持ちが、単に自分の本来あるべき姿から逃げた姿勢であるだけではなく、もっと積極的に他の人を恨むという感情となっておられる方もいます。(中略)
 ごく自然な感情と言えばそれまでですが、しかし、そのような思いをもってしては、決して幸福になることはできません。成功することもまたできないのです。まず最初に、これを言っておきたいのです。
 なぜであるか、おわかりでしょうか。
 自分の心の傷、自分たちの心の傷をストレートに吐き出しているならば、それで胸の内はすっきりとするように思うかもしれませんが、その実、そういう心でもって生きつづけるということは、自分自身の魂が、知らず識(し)らず、毎日、毎日、砒素(ひそ)の毒とでもいうべき毒素を飲み続けることにほかならないのです。
 正義の観点からいって自分の思いは正義であると思うかもしれませんが、残念ながら、いかなる理由がそこにあるとしても、人を恨むことによって絶対に幸福にはなれないということになっているのです。
 それは、その思いが、その本質をつきつめたならば、相手を不幸にしたいという気持ちだからです。いかなる理由に基づくにせよ、他の者を害したいという思いは、神の心に反した思いなのです。その思いは、単に相手に届くのみならず、必ず自分自身に返ってくるようになっております。それが法則なのです。
(76~79ページ)

「恨み心で恨みは解けない」。

そのような思いでは、決して幸福になることはできないし、成功することもできない。

恨み心の本質は、相手を不幸にしたい、他の者を害したいという、神の心に反した思いであって、必ず自分自身に返ってくるのが法則である──。

幸福になりたいのであれば、不幸の再生産をしないこと。

マイナスの思いを出さないようにして、プラスの思いを出すこと、なんだろうと思います。

以前、ご紹介したことがありますが、その具体的なやり方についても、大川隆法先生は教えておられます。

大川隆法先生のお教えによって、一人でも多くの方が幸福への道を歩んで下さることを私は願っているのです。

 

『人生の王道を語る』

 大川隆法著

 

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幸福の科学の大川隆法先生は、すでに2100冊を超える書物を、次々に世に発表しておられると言います。なんで、そんなにたくさんの本を出す必要があるんだろうって、思ってる人、いませんか?

大川隆法先生は、もう四半世紀前になりますが、1990年に刊行された『悟りの原理』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 悟りというものは、まず第一に、「知る」というところから入っていくのであります。(中略)何を知らねばならないのか。それは神を知り、神の心を知り、神の心から流れでてきた教えを知るということであります。(中略)
 「知る」ということは、真理の縁にまず触れるということ、これであります。真理の縁に触れるとはいったい何であるか。一つには、真理の書物を読むという方法もあるでしょう。あるいは講演会というようなものを通して、何らかのきっかけをつかむということでもあるでしょう。(中略)
 矢継ぎ早に次つぎと書物が出されている、この理由はいったいどこにあるのか。私たちが出している書物は、これは神の世界から発射された銃弾であります。私たちは、次から次へとこの銃弾を打ちこんでいるわけであります。この世の中の価値基準を転換するためには、真理の書を一冊でも多く、一人でも多くの人の目に触れさせる必要があるわけであります。気づく気づかないは各人の自由でありますが、少なくとも悟りのよすがを与えることが、光の天使たちの仕事であるからであります。
 法はいつの時代にも説かれるわけではありません。しかし、法が説かれるときには、その時代の人びとだけではなく、千年後、二千年後、三千年後の後代の人びとをも、悟らしめるだけのものを残してゆかねばならないのです。数々の書物を世に問うておりますが、私が予想している読者はみなさんがただけではないのです。百年後、私の生命は地上にはありません。しかし、百年後の人たちを悟らしめることも私の仕事なのです。五百年後には、どのような世界が展開しているでしょうか。しかし、世の中がどのように変わっても、心の法則だけは不変であります。真理は不変であります。私たちは、変わりゆくものを伝えることが仕事ではないのであります。変わりゆく世界のなかにおいて、変わらざるもの、不変なるものを知らせることが、これが私たちの使命なのです。
(29~30ページ)

二千五百数十年前にお釈迦様は、八万四千の法門を説かれたと言われます。

この「八万四千」という数字は、数限りない教えを説かれたことをあらわしているとよく言われます。

そして、再誕の仏陀(お釈迦様が生まれ変わったかた)として、大川隆法先生は、この日本の地においても、インドに生まれられたときと同様に、まさに数限りない教えを説き続けておられます。

その教えが活字に起こされ、書籍にまとめられて行った結果として、2100冊を超える書物群となって刊行され続けているわけです。

当然、簡単なことではありません。とてつもなく大変なことだと思います。

それは、今の時代の人びとだけでなく、後世の人びとをも救うため。

一つでも多く、さまざまな角度から、魂の糧となる教えを遺していくため。

大川隆法先生のこの高い志(こころざし)に惹かれて、数えきれないほど多くの人びとが、幸福の科学に集っているのです。
 

『悟りの原理』

大川隆法著


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拒食症や過食症って、なにが原因なの。心の病気なんて話も聞くけど、なにか霊的原因があるのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『復活の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 いま、若い女性のなかには、スタイルが気になるということもあるのでしょうが、拒食症で食べ物を拒否し、がりがりにやせてしまう人や、過食症で食べすぎ、ぶくぶくと太ったり、またやせたりを繰り返している人が大勢います。なかには、「食べ物を一度にたくさん食べては、一生懸命、それを吐き出す」ということを繰り返している人もいます。
 これも、ほとんど霊障と見て間違いないと思います。来ているものは「餓鬼霊」です。飢えて死んだ人や動物の霊が多いでしょう。(中略)
 そのような障りは、どうしたら取れるのでしょうか。
 やはり、生きている人間のほうが人生を立て直さないと、どうにもなりません。真理を学び、それを手掛かりにして、人間としての正しいあり方、正しい心を探究し、人生を立て直して生きていくことが必要です。
 そういうことをしながら、一方で、(中略)その人に対し、幸福の科学の経文を読誦するなどして供養することは可能です。
 最初は一人では危険なので、できれば、幸福の科学の精舎や支部など、導師がいる所、あるいは、光の仲間がたくさん集まっている所で、導師や仲間と一緒に供養したほうがよいでしょう。
(62~65ページ)

ほとんどが「餓鬼霊」による霊障と見て間違いない。

霊障を取るためには、真理を学んで、人間としての正しいあり方、正しい心を探究し、人生を立て直して生きていくことが必要である。

同時に、その人に対し、幸福の科学の経文を読誦するなどして供養することは可能である──。

まずは幸福の科学の精舎や支部で、「悪霊撃退祈願」などをお願いすることで、やってきている悪霊を、一応はとることができると思います。

でも、憑依されている自分の人生を立て直さないままで祈願に頼るだけでは、くさいものにハエがたかってくるように悪霊も戻ってきますから、根本解決にはならないわけです。

最終的に霊障をとるには、幸福の科学の書籍を少しずつ読むところからはじめて、仏法真理を学ぶこと。

そして、その豊富な教えを手掛かりにして、人生を立て直していけばよいわけです。

具体的にどうすれば? と興味を持った人は、ぜひ、幸福の科学の精舎や支部に相談してみることをお勧めしたいと私は思うのです。

 

『復活の法』

大川隆法著


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あーあ、なんだか不幸なんだよね。なんでなんだろ、どうしたらいいんだろ? なーんて悩みかかえてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

己れの心に厳しくありなさい。
己れの人生に対して責任を持ちなさい。
そこからすべてが始まってゆくのである。
あなた方が、現在不幸であるのは、
神のせいでも、
あなた方の守護霊のせいでも、
親や兄弟や友人のせいでもない。
その心の状態をつくっているのは、
日々一瞬一瞬に自分が選択している、
その思いにあるのである。
その思いの積み重ねにこそあったのである。
思いを積み重ね、積み重ねして、
現在の心境というものはできてきたのである。
それがあなたであるのだ。
あなた自身であるのだ。
あなた自身が何者であるかを知りたくば、
過去の事実を見る必要はない。
過去の思いを見れば、それがすべてであるのだ。
(35~36ページ)

いま不幸であるのだとしたら、それは誰のせいでもない。

自分のひとつひとつの「思い」の積み重ねが、いまの自分をつくっている。

自分が何者であるかは、過去の「思い」がすべてを示している──。

大講演会での仏陀(ほとけ)の獅子吼(ししく)が、活字に起こされたお教えの一節です。

厳しい言魂ですけれども、心に響きます。

しっかりと受け止め、よくよく味わってみると、そうすれば、不幸でなくなるためには、これから自分の「思い」をただして行きさえすればいいんだ、と気がつきます。

じゃあ、どうやってその「思い」をコントロールすればいいのか、というのは、これまでこのブログでけっこう何度も取り上げてきたテーマではありますし、また折々に取り上げて行きたいと思います。

でも今日はともかく、「人は自分で自分を不幸から脱出させることができる」という大事な真理を、まずはお伝えできればと私は思うのです。

 

 

『悟りの極致とは何か』

 大川隆法著


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今のままで幸福なんだけど、なんで他人のこと、考えなきゃいけないの。いいじゃん、人それぞれで、とか思ってる人、いませんか? 幸福って、なぜ広げていかなきゃいけないんでしょうか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰と愛』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 幸福というものは、自分ひとりのものにしてしまうと、腐って死んでゆくのです。そんなものなのです。食べようと思ってたくさん食べ物を持っていても、長い間置いておくと腐ってゆくように、幸福というものは自分だけ幸福になってそれで終わったらだめなのです。
 自分が幸福になったならば、「こんな幸福をいただいたということは、本当にありがたいことだ」と、その幸福をまず惜しむことが大事です。「自分に力があるからこうなったんだ。自分が偉いからこうなったんだ」、このようにうぬぼれるのではなく、「こんな幸福をいただいたということは、非常にありがたいことです。自分のように修行が十分でない者にも、こんな幸福が与えられたということはありがたいことです」と謙虚に受けとめる。これは「惜福」です。福を惜しむということです。
 そして、その幸福を他の人に分けてあげる。これは「分福」です。福を分けてあげるということです。
 さらに「植福」、福を植えるというのがあります。将来のために福を植えてゆくことです。それは、今はまだその途次にない方、まだそういう状態にない方のためにも、将来のためにも、何か自分のできることを今のうちからしておくということにもなりましょう。
(175~176ページ)

「惜福・分福・植福」というのは、幸福の科学で、お布施のことを「植福」と呼ぶようになった、そのもとになったお教えですね。

幸福は、愛と同じで与えて広げて循環していかないと、死んでしまう。

幸福を分け与えることは、けっして損になるどころか、自分に返ってくる、自分のための行為でもあるんだってこと。

今日はとっても腑に落ちた気が私はするのです。

 

『信仰と愛』

大川隆法著


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守護・指導霊なんて、ほんとにいるの? ほんとにいるのなら、こんな大きな問題で苦しんでるのに、なんで助けてくれないの? なーんて疑問もってる人、いませんか。守護・指導霊って、どんなときに私たちを助けてくれて、どんなときには助けてくれないんでしょうか。

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学原論①』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 守護・指導霊が助けない場合に、二通りあります。ひとつはその苦しみが、本当にその人にとってどうしても通らねばならない過程であるときです。そういう人生計画で出ている方もいるので、その場合に助けるわけにはいかないのです。悲しいけれど見ているだけです。それは、助けたらランニングの途中で背負って走ったのと同じことになってしまうので許されないのです。
 もうひとつの場合は、神への感謝を忘れていないか、守護・指導霊への感謝を忘れていないか、人の心を本当にまともに受け取っているかどうか、一人相撲をしていないか、自分で勝手にいろいろなことをあてはめて考えすぎていないか、そのようなことを感じる必要のあるときです。
 能力があっても運命が開けない理由は、たいていこの素直さの欠如にあります。これほど能力が高いのに、なぜこの人が出世しないのかとか、この人が商売繁盛しないのだろうかと思うと、たいてい欠けているのがこの素直さです。
(58~59ページ)

胸をつかれるお言葉ですねー。

人生のシナリオだからしょうがなくって、助けてくれないこともある。

それ以外にも、感謝の心がないから、天上界から助けられなくって、守護・指導霊も困っていることがあるってことですよね。

自我力になっていなかったか。

素直であったか。

感謝の心を忘れてなかったか・・・。

今晩、私は、深く深く反省したのであります。

 

『幸福の科学原論①』

 大川隆法著


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“先祖の因縁があなたを不幸にするから、その因縁を断たねばならない”っていうような話を聞いたことある人? 行法をしてもらったり、壺とか塔とかを買ったり、高い供養料が必要だったりするって、ほんとなのかな? 先祖供養って、“因縁”なんてのを切るためのものなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『心の挑戦』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 考えてみますと、この因縁話の場合に、ありえることも一つあります。
 確かに、身内のなかに──父母、祖父母、あるいはその前の先祖に──不成仏の霊がいるということは現実にあると思いますし、ずっと手繰っていけば、不成仏霊がいないような家系というのはないでしょう。ですから、そういう方が子孫に影響を与えているということは、理論的にはありえることです。(中略)
 ただ、幸福の科学では、「そうした悪霊の霊障があれば、確かに体調の不調や、さまざまな間違った判断による苦しみが生まれることはありえるけれども、自分自身の心を磨いて、行ないを修めていくことによって、あるいは心自体を調えていくことによって、そうした悪霊の波動を断ち切ることができる」ということを、お教えしています。そして、「地上に生きている人が正しい生活を送ることによって、間違った生き方をして苦しんでいる先祖たちも、その姿を見て救われることがある」という話もしています。
 これは、たとえ話でいえば、こういうことです。父親が多大な借金を背負っていて、また息子は息子でまったく別に同じような借金を背負っているとしましょう。その借金を背負っている息子が父親の借金を返すことができるでしょうか。そういう問題を提起してみると、「できない」というのが答えです。ところが、「事業に成功して大きなお金を持っている息子が、父親の借金を返すことができるか」という設問の場合には、「できる」ということになります。これが先祖と子孫の関係であるわけです。(中略)
 豊かであればこそ、他人の借金を払うことができるのです。
 この「豊かである」ということは何かというと、今世において徳を積んでいるということなのです。それは、仏法真理に基づいて日々修行をしているということです。光の徳を積んでいること。光を蓄積していること。天の蔵に富を積んでいること。それがあってこそ、苦しんでいる人に対して、その光を廻向(えこう)することができるのです。光を手向(たむ)けることができるわけです。これが、先祖を供養する場合の正しいものの考え方なのです。
(251~254ページ)

先祖供養は、年に1回とか2回、お彼岸とかにやっていいんだけれど。

でも、大事なのは、生きている私たちが、日々、光の徳を積んで、天の蔵に富を積んでいることですよ、と。

そうであって初めて、私たちが蓄えている光をご先祖にたむけることができる。

これが、正しい先祖供養の考え方だ、ということなんだと思います。

“先祖の因縁”というような怪しげな霊話で脅して、高額な供養を強要してくる、おかしな宗教には、ほんとうに気をつけたいものだと私は思うのです。 

 

『心の挑戦』

大川隆法著


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どうしてこんなに、悲しいことが多いんだろう? 信仰を持ってても、悲しみはどうしてもなくならないのは、なぜなんだろう? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『愛から祈りへ』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 生まれ落ちてより、人間は両親の愛に恵まれて、すくすくと育っていくものですが、やがて、片親が亡くなったり、身内に不幸があったり、家庭が経済的に傾いたりして、悲しみに打たれることがあります。
 成人してからも、たとえば受験や就職に失敗したり、恋愛に失敗したりと、さまざまな失敗を通して、心に傷をつくっていきます。社会人として働くなかにおいても、自己実現の難しさ、多くの人びととの調和の難しさを感じます。
 家庭においても、苦しみや悲しみがつきまといます。子供のできない悲しみ。子供ができても、満足に育てられない悲しみ。家庭内の不調和。やがて老いるにしたがって、老いのさみしさというものも、ひたひたと押し寄せてきます。
 しかし、悲しみの時というのは、魂を光らせるべき時として、あえて用意されているのです。
 たとえば、刀が真っ赤に焼かれ、たたかれ、水に入れられて、焼きを入れられるように、みなさんの魂も、悲しみという名の水のなかを、いくたびか、かいくぐることによって、鋼(はがね)の剣(つるぎ)となっていくのです。
 したがって、悲しみの時は、みなさんの魂が試されている時であり、みなさんの勇気が試されている時であり、みなさんの人生が一編の詩となるかどうかが試されている時なのです。
 人生の悲しみのなかを、いかにほがらかに生きていくか。いかに美しく生きていくか。いかに芸術的に生き抜いていくか。そこに、人間としての真実の姿があるのです。
(65~66ページ)

そうか。

悲しいときほど、自分は成長しているんだ。

そう知ったとき、また立ち上がる勇気がわいてくる。

改めて私も、この真理の言魂に触れて、力がわいてきた気がするのです。

 

『愛から祈りへ』

大川隆法著


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どうすれば神さまに会えるんだろう? 長く信仰してるんだけど、姿は見えないし、会うこともできないのは、なんでなの? なーんて思ってる人はいませんか?

幸福の科学の大川隆法先生が、イエスさまの言葉について初期の頃に解説された、『幸福の原点』(幸福の科学出版)の一節を、今日はご紹介します。

 「心清き者は幸いである。汝らは神を見るであろう」、このイエスの端的な言葉、これがすべてです。
 私は、「反省をして心の曇りを取り除いたならば、天上界の光がさんさんとさし込んできて、四次元以降の世界と同通し、守護・指導霊とも話ができるようになる」ということを説いています。これは理論的にはそのとおりですが、この実際のあり方は、実に二千年の昔にイスラエルの地でイエス・キリストがすでに教えているとおりなのです。(中略)
 では、心を清くするためには、どうすればよいのでしょうか。それは、まず自分の間違った思いを修正していくことではないでしょうか。仏神のよろこばないような思いを持った自分であるならば、それを反省することではないでしょうか。また、間違った行いをしたときには、それを深く詫び、懺悔することではないでしょうか。それが、心清くあるということではないでしょうか。
(121~122ページ)

自分が間違った思いを持ったら、それを反省して修正すること。

間違った行いをしたときには、それを深く詫び懺悔すること。

そうやって、心清くあること。そして心清くあり続けることができたとき、私たちは必ず、神さまに会うことができる。

これはキリスト教においても、仏教においても、そして幸福の科学においてもまったく正しい、霊的真実であるということなんだと思います。

でも、あるときだけ心清くあれたとしても、その清き心境を維持し続けるって、本当に難しいですよね。

結局は、日々の努力しかないんだなあと、心新たに今日私は決意したのであります。
 

『幸福の原点』

大川隆法著


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まだ若いはずなのに、お化粧ののりが悪くなってきたし、徹夜のあと、翌日はなにもできなかったりして。なんだか若い人に負けちゃうなあって思うこと、増えてませんか? スリムな体型が自慢だったのに、ふくよかになっちゃって、髪が薄くなったり、目が見えにくくなってきたなあ、とか? なんでうちの職場は、ボーナスでないんだろうとか? 学校の成績、親に見せられないよ、とか? いやな人ばかりで、外には出たくないよ、とかいう人は?

幸福の科学の大川隆法先生は、『仏陀(ぶっだ)の証明』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分の苦しみの根源をずっとたぐってみると、「他人の目から見て自分がどう見えるか」やプライドなど、すべてこの世的なるものが原因です。ほとんどが、このエゴのところなのです。自我我欲、これが満たされないために苦しんで暴れている、というのがほとんどです。ですから、「エゴを去りなさい」ということを、仏陀はくり返し教えていたのです。そのために無我の教えが説かれたのです。
「人間は、死ぬと肉体はなくなります。しかし、肉体がなくなっても残るものこそが、あなたの本質なのです。霊的世界こそが、ほんとうのあなたの住む場所であり、そうした霊的世界観を持って生きていかなければならないのです。ほんとうの目で見たら、この世的な苦しみのほとんどは断ち切れているのです」ということです。
「実在の世界に還るために、今、修行をしている」という目で見るならば、今のあなたの苦しみは、不当な苦しみではありませんか。肉体や煩悩に執われたり、あるいは、この世の成功こそが最終の成功だと思って求めていたりするところに、苦しみがあるのではありませんか。よく考え直してみて、この世は仮の世界なのだということを知らなければなりません。
(90~91ページ)

大川隆法先生は、霊的な世界こそが本来の世界である、と教えておられます。

そして、ちょっと難しい言葉では、これを本当に知ることが、仏教でいう「空(くう)」の悟りだとも、教えられておられるんだと思います。

この悟りの言葉を、すぐに理解することは、もちろん私たち普通の人間には簡単ではないことです。

でも、ここに仏教の根本があるのだと教えられ、実際にこのお言葉にしたがって日々修行して、本当に人生の苦しみが軽くなっていく体験を数多くの人がしています。

仏の言葉を信じることこそ、人生を確かに生き抜く秘訣であると私は思っているのです。

 

『仏陀の証明』

 大川隆法著

 

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妊娠してしまったんだけど、中絶っていけないの、って考えてる人、いたりしませんか? また、すでに中絶したことがあるんだけど、自分はこれからどうすればいいのか、悩んでる人は?

幸福の科学の大川隆法先生は、『運命の発見 説法自由自在②』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 中絶によっていま霊界は大混乱していることは事実です。日本では何百万人も中絶されているようですが、これでは計画にずれが出ますし、しかも魂に傷が残ってしまいます。せっかく人間として何十年か生きようとして出てくるのに、おなかのなかにいるときに中絶されてしまうと、それが傷になって残るのです。次回出ようとするときに、また同じ目にあうのではないかという恐怖心が残るわけです。
 また、いったん出て来て、地上の空気を吸ってしまったり、人間としておなかのなかに宿って、人間の意志を持つ程度にまで成長した場合には、あの世に還ると、もう一回、子供からやり直さなければなりません。すぐ元の姿には戻れないのです。地上的にいうと二十年ぐらいはかかります。本人に縁のある霊たちが来て、その霊的な子供を、赤ん坊から元の大人の自覚に戻るまで、あの世で面倒をみなければいけないわけです。これは魂の進化にとっては、ひじょうにマイナスです。(中略)
 中絶に関していえば、なるべく避けるにこしたことはありません。しかし、どうしてもやむをえない経済的事情、身体的事情もあります。たとえば奥さんのからだが弱くて子供を産めば死ぬかもしれない場合、母体を守るという意味での中絶もあるでしょう。
 そのように、やむをえない場合もあるので、中絶は必ずしも許されないことではありません。けれども、そのときには、出たかったけど出られなかった魂に対して、両親が十分、あの世で間違いなく成熟できるように、そして心に傷が残らないように、思ってやることが大事です。それが人間として、最低限の義務ではないでしょうか。
(69~70ページ)

中絶は、生まれて来ようとしていた魂の傷になるので、なるべく避けること。

でも,どうしてもやむを得ない事情があったような場合には、両親が、生まれてくることができなかった魂に対して、十分に思ってあげること。

幸福の科学の信者に与えられる『祈願文』には、「愛児・水子供養経」というのがあります。

また、幸福の科学の支部精舎では、「水子供養」の祈願をお願いすることができたりします。

興味のある方は、幸福の科学に問い合わせをされますように!

 

『運命の発見 説法自由自在②』

 大川隆法著


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人間って、死んだらどうなるの? 生まれ変わってくるの? 動物に生まれ変わったりしないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『釈迦の本心』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「人間は、人間の魂として、すでに何億年も前から選別されており、人間の魂が動物に生まれ変わることはほとんどない」と言ってよいのです。人間はあくまでも人間として転生輪廻(てんしょうりんね)していきます。(中略)
 転生輪廻の思想をつかむことは非常に革命的です。今世だけだと思うからこそ、悩みや苦しみが数多く生まれてくるのです。「過去世があり、今世があり、未来世があるという流れのなかに、現在の自分がある」と知ることは、「未来において、自分がどのような生活を享受するか」ということを、自らの力によって決定できることを意味しているのです。
 これは「来世において、あるいは未来世において、幸福になろうとする者は、現在ただいまにおいて、その幸福の種をまいておけ」ということであり、自力という修行方法によって、みずからの未来の豊かさを確保できることを意味しているのです。
 すなわち、転生輪廻の思想は、現在において努力したことに対する保証なのです。
(150~152ページ)

生まれ変わりがあるんだから、人生は今世で終わらない。

今世の努力は無駄にならない。

何らかの形で、自分の魂の糧となって、また来世以降の自分の人生へとつながっていく──。

つまり、今世の努力は、来世を幸福にするって意味がある。

ただ、何度もこれから生まれ変わるとしても、この時代のこの国に、この名前と身体で、この立場で生まれてくるのは、やっぱり一度きりなんだよね。

そう考えてみると、この人生を、そして今の時間を大切に、一歩一歩努力して進んで行くことは、やっぱりとっても大切になんだって、改めて腑に落ちた気が私はするのです。

 

『釈迦の本心』

大川隆法著


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もうすぐドナルド・トランプがアメリカ大統領になるのは、マスコミもまさかの話だったんだろうけど、この先、アメリカや世界がどうなっていくかって、言ってることは、けっこうぐちゃぐちゃだよね。どう考えて行ったらいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『繁栄への決断──「トランプ革命」と日本の「新しい選択」』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように述べておられます。

 本書は、要するに、「トランプ革命」をどう受けとめ、今後の日本の政治や世界の政治経済をどう考えるべきかについて語ったものである。
 アメリカ政治、日本の政治、国際政治などの専門家の意見が混沌としてきている中にあって、考え方の中心軸とは何かをさし示したと言ってもよい。
 本書で説かれているのは、神仏の考えであるので、特定の政治家とか、国会とかについては、全く考慮はしていない。
 対ロシア、対アメリカ、対中国、対イスラム、対EUなどを考えていく際の、二〇一七年以降の指針になるだろう。
 私の考えは、オバマ―ヒラリー型のリベラリズムを排して、トランプ革命に合わせて舵を切れということである。それが今後三百年の繁栄を実現させるだろう。
(156~157ページ)

「トランプ革命」をどう受けとめ、今後の日本の政治や世界の政治経済をどう考えるべきか。

本書で説かれているのは、神仏の考えである。

リベラリズムを排して、トランプ革命に合わせて舵を切れ──。

本書は、昨年2016年12月7日、幕張メッセに1万4000人を集めて行なわれた大講演会の活字起こしを第1章に、その翌日に教団内で行なわれた補足説法の活字起こしを第2章と第3章として、刊行されたものです。

大川隆法先生は、ドナルド・トランプのアメリカ大統領選の当選を、“トランプ・ショック”というレベルではなく、「トランプ革命」と呼ばなければならないと語られます。

そして、この「トランプ革命」によって世界がどう変わるかを見通された上で、その方向を明確に肯定し、この「トランプ革命」に合わせた方向に進むのが日本の「新しい選択」であるべきだと、ハッキリと打ち出しておられます。

その他、本書では、TPP、天皇の生前退位、日米関係、ロシア外交、対中国戦略、イスラム問題、EU危機、カジノ法案等々、数多くの具体的な問題について、誰も語ることができない視点で説いておられます。

とにかく一口に言って、凄い書物です。

「今後の日本の政治や世界の政治経済」に関する「神仏の考え」を知りたい方はもちろん、政治・経済・経営に携わっている方にとっても第一級の必読文献であると私は確信しているのです。
 

『繁栄への決断』大川隆法著


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自分で自分の人生は切り開いていくことができる、運命は変えることができるって、一度、お伝えしました。でも、どうして変えられるの? 予言って、絶対的なものじゃないってことなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『神理文明の流転』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 みなさんは、よく運命論というものを耳にするでしょう。運命は決まっている、あるいは高級霊によれば、このようになることは決まっている。そのように予言されることがありますし、その予言がそのまま的中することもよくあります。
 しかし、その通りにならないこともあります。なぜならないのでしょうか。それは、その人のシナリオが何通りかあるからです。また、変更可能な場所があるのです。これは現実にあるのです。
 たいていの方の場合、このシナリオの一ページ目に書いている自分の姿を見て、その通りに生きていくことが多いということです。ところが、これは変わることがあるのです。このことを認めなければ、そもそも悟りというものは成り立たないのです。これをみなさんに知っていただきたいのです。
 『ノストラダムスの新予言』という本のなかで、ノストラダムスは「運命は変えられない」という観点から語っています。しかし、「運命は変えられる」というのが私の結論です。なぜならばそれは、ノストラダムスを超えた世界において厳としてある事実だからです。
 運命は変えられないというのは、この一枚目のシナリオが変えられないということなのです。あるいは三枚目に書いてあるシナリオの筋書きが変えられないということなのです。
 ところが、シナリオは複数あります。どのシナリオを演じるか、実はここにおいて選択があるのです。ただ、そこに載っている筋書きは変えられないと言っているのです。しかし、これを違うシナリオに替えることができるということです。これを知らなければなりません。
(84~85ページ)

なぜ考え方に運命を変える力があるのか。

それは自分の人生のシナリオを、別のものに変えることができるから、だったんですね!

20世紀末に、なんでノストラダムスの予言が当たらなかったのか。

その答えも、じつは1992年に刊行されたこの書籍で、すでに大川隆法先生は示されていたことに、今ごろになって気がついたりしているのです。 
 

『神理文明の流転』

大川隆法著


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