ゆーぱの部屋 ~幸福の科学の教えから~
幸福の科学の教え(大川隆法先生の書籍)で、みなさまの人生の悩みや疑問などを解決するお手伝いをします。
 



映画「君のまなざし」って、見たんだけど、なんであんな感じで終わったの、どうしてなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『女優 水月ゆうこのスピリチュアルメッセージ』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように述べておられます。

 霊能力、転生輪廻、神と悪魔、善と悪、憎しみと許し、天国と地獄、不成仏霊、運命の修正、様々な宗教的用語が脳裏をかすめる。
 しかし「君のまなざし」という映画は、「真なる宗教入門」の要素を秘めつつも、高度な新感覚スピリチュアル・ミステリーとして、エンターテインメント性を保っている。全部は解けない謎を残しながら、多次元宇宙がそこに厳として存在していることを示している。
 女優水月ゆうこさんの、ひかえ目ながら凜とした演技は、現代女性から失われた何かを伝えてくれるだろう。
 あなた方が忘れてしまった世界への光のナビゲーター。過去と未来の門を開く鍵。それこそが、女優水月ゆうこの天命であるにちがいあるまい。
(128~129ページ)

全部は解けない謎を残しながら、多次元宇宙がそこに厳として存在していることを示している──。

死んでたはずの主人公も、幽霊の女性も元気に生きていて。

あれ?

という疑問も、「多次元宇宙」という言葉がキーワードだったと考えると、解けていく気がします。

それにしても、「君のまなざし」の「まなざし」は、やっぱり水月ゆうこさんのまなざしだったのかなあ、それとも…?

などなど、いろいろ考えさせられる映画であることは間違いありません。

そして、本書もまた、この映画を百倍おもしろく見るための1冊であると私は思うのです。

『水月ゆうこのスピリチュアルメッセージ』

大川隆法著



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昨日から、映画「君のまなざし」って、公開されてるでしょ。主演の3人がみんな新人だなんていうけど、どうやって映画にできたのかね? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、最新刊『演技する「心」「技」「体」と監督の目 赤羽博監督守護霊メッセージ』(幸福の科学出版)のあとがきで、次のように述べておられます。

 私が製作総指揮を務める第十一作目の映画「君のまなざし」の製作の裏事情に迫った本である。
 ベテラン監督の赤羽さんの新人スターたちを育てていく過程と、演技する「心」「技」「体」を見つめる目がよくうかがえる内容となっている。
 本作品は、日本映画の壁を乗り越えて、ハリウッドの映画関係者に「参った!」と言わせようとする隠れた意図を持った野心作である。さあ、日本映画の限界を超えられるか。私にとっても、今後の作品群を連射していけるかどうかの試金石でもある。
 この新感覚のミステリー作品は、目に見えない世界を実写演技で見せようとする試みでもある。そして本書は、総合芸術としての映画をクリエイトしていく責任者の役割を雄弁に解説する一書ともなるだろう。
(131~132ページ)

この新感覚のミステリー作品は、ハリウッドを降参させようとする野心作である。

目に見えない世界を実写演技で見せようとする試みでもある。

日本映画の限界を超えられるか──。

いやあ、「君のまなざし」、さっそく見にいきましたが、新人の3人はがんばってて、これはたしかに名作ですよね。

生身の赤羽博監督のインタビューは、他の書籍でも出ていますが、本書はその守護霊のインタビューですから、本音を知るならもちろんこちら。

というわけで、語られる裏話は、どれも深く考えさせられるものになっているように感じられます。

本書は、映画「君のまなざし」を百倍おもしろく見るための1冊であると私は思うのです。

『赤羽博監督守護霊メッセージ』

大川隆法著


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新聞を開けば、毎日のように、いろいろな発明のことが書かれてます。ちょっと前なら信じられないような技術が、日々出てきていますよね。そういう時代、宗教は、科学技術をどう考えていけばいいのかなあ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『奇跡の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 第一に、宗教は科学や技術の進歩、発展を阻害するようなものであってはいけません。かつて教会は地動説を認めませんでしたが、そのような宗教であってはいけないのです。
 どんどん変化していく科学的な進歩が、たとえ宗教思想と矛盾するものであったとしても、ある程度、それに耐えられるだけの寛容性は必要です。また、「当然ながら、時代は変わっていくものだ」という認識は要るのです。
 一方、科学技術思想が、霊界や宗教的神秘性を完全に否定するところまで踏み込んだ場合には、それに対して、やはりノーと言う思想を持っていなければいけません。一定の線を越えてはいけないということです。(中略)
 明治以降、宗教は、この近代科学技術の流れに負けそうになっており、宗教学そのものにおいても、論理性や合理性などを中心にするような学者が増えてきました。(中略)科学技術のほうは常に進歩していきますが、宗教は何千年も前から内容が変わらないので、当然ながら、そのままだと敗れていくのです。(中略)
 「私は、あの世など、ほんとうは信じていないのです。霊魂なんて古臭いですね」などと言いながら、お墓を守っているお坊さんがいます。
 しかし、それは事実とは違うのです。現にあの世はありますし、人間は霊的存在として転生輪廻しており、魂が肉体に宿って存在しているのです。これを知らなければいけません。
 ここは譲れない一線です。たとえ、迷信と言われようと、神話と言われようと、断固、この部分は守らなければいけません。そのうえで、この世の発展を許容する原理も持っていなければいけないということです。
(170~173ページ)

科学技術思想が、霊界や宗教的神秘性を完全に否定する場合には、それは違うと言わなければならない。

事実として、現にあの世はあるし、人間は霊的存在として転生輪廻しており、魂が肉体に宿って存在しているというのは、断固として譲れない一線である。

そのうえで宗教は、科学や技術の進歩、発展を阻害するのではなく、この世の発展を許容する原理も持っていなければいけない──。

21世紀の現代日本は、すでに到来した未来社会なんだろうと思います。

そして、この未来社会に適合する力強い「先進宗教」こそが、大川隆法先生の説かれる幸福の科学の教えなのだと、改めて私は確認できた気がしているのです。

 

『奇跡の法』

 大川隆法著

 

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どうして私にはお父さんがいないの? どうしてボクにはお母さんがいないの? どうして、こんな両親の家に生まれたの? ・・・なーんて、両親への不満を持ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『信仰告白の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 両親に対しての不満もあるでしょう。しかし、その両親を知っていて生まれてきたのは、みなさん自身なのです。「親が勝手に産んだ」というのは根本的な間違いであり、必ず自分で親を選んで生まれてきています。生まれる前に、自分の親が誰かということを知っているのです。
 たとえ、それが正規の生まれ方でない場合、要するに正常な夫婦のあいだに生まれなかった場合であっても、それを承知のうえで生まれてきています。その人の魂経験に必要なために、そのような計画をして、そこに生まれているのです。そこに自分にとって必要な学びがあるからです。
 自分が何者であって、いかなる人生計画を持っている人間であるかということは、過去を振り返ってみればよくわかります。あなたの両親は、どのような仕事をしていましたか。あなたは、どのような家に生まれましたか。それはどの地域ですか。どの時代ですか。家族はどうでしたか。近所はどうでしたか。兄弟のなかで、あなたは他の人とどのように違っていましたか。その人生の歩みを、数十年間ずっと振り返ってみると、あなたの人生の目的と使命というものが、非常にはっきりと見えてきます。それが、あなたの魂の、今回の課題なのです。それを、まず見抜かなければなりません。
 そして、いかなる使命であるかがよくわかったならば、いま与えられているものに最大の感謝をしながら生き、また、日々みずからが過ちを犯さないように心して、もし間違いを犯したならば反省をすることです。
(177~179ページ)

そう、この人生の環境は、生まれる前に自分で決めてきたのだ、と知ることが出発点。

そして、自分の人生をしっかりと振り返って、他の人と異なるところに着目して、自分の人生の特徴をつかむこと。

そうすることで、今世の自分の人生の課題が何かを発見すること。

与えられているものに最大の感謝をしながら生き、間違いを犯したら素直に反省していくこと──。

つまり、自分の人生を、自分で主体的に生きることなんですね。

なにしろ、「人生は一冊の問題集」、なんですから!

 

『信仰告白の時代』

大川隆法著

 

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なんだか暗い気分だなあ。明るくした方がいいって、よく言われるけど、何の意味があるんだろ。いいじゃん、暗かったって。・・・とか思ったりしてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『発展思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 私は、もっとも簡単で、素朴で、そして宗教嫌いの現代人にとっても受け入れやすい信仰形態が、すなわち「光明的人生を生きる」という考え方だろうと思います。それは、明るく物事を見、考えていくことが素晴らしい人生を拓くという考えです。
 この単純な真実を信じてくださりさえすれば、大仰な信仰というものを振りかざさなくても、結果的には八十パーセントぐらいの成功を収めることができるのではないか、というように思うのです。
 たとえば、「神を信じよ」という場合に哲学的な神の概念のようなものを、抽象的に説明して鵜呑みにさせようとしても、それは喉にひっかかった薬のカプセルのようで、なかなか簡単に飲み込めるものではありません。
 しかし、神に至るための道はその他にもあるわけです。もし、神の持っておられる属性を身につけることが、いちばん神の側近くに行きやすいということになるならば、そうした思考のための思考、学問のための学問、抽象性のための抽象化というようなこととは無縁に、実際、神そのものを受け入れることとほとんど同じような効果が得られるのではないかと思うのです。
「神の本質は光である」と言われます。それは違った説明をするならば、私は「明るい」ということだと思うのです。すなわち人間が、あの太陽の光のように底抜けに明るく、真実、明るい思想を持ちながら生きる、ということが幸福への道であり、神に至るための道であると単純化して割り切ってもよいと思うのです。
 ですから、みなさん方の頭が、いろいろな考え方で複雑になりすぎているならば、いったんその頭のなかのしがらみを断ち切ってみてください。複雑に考えすぎている物事を、ちょうど蜘蜂の巣を掃除でもするように、サッと箒(ほうき)ではらってください。そして、単純に「明るく生きる」ことが出発点であるということを知っていただきたいのです。
 そして、「明るく生きよう。明るく見、明るくふるまい、明るく考えよう」と思うこと自体が信仰への道であり、神そのものを自らの内に引き入れる行為であるのだということを知っていただきたいのです。
(78~80ページ)

仏とか神とか、信仰といか言われても、自分にはちょっと、という人も、この「明るく生きる」こと、という教えは、受け入れることができるんじゃないかな。

そして、一定限度ではあるけど、確実に幸福になれる。

まず、やさしいところから受け入れてみるって、とても大切なことだと私は思うのです。

 

『発展思考』

大川隆法著

 

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幸福の科学って宗教なんだから、神さまとか仏さまとか、信仰してるんでしょ。でもそもそも、信仰って何なのよ。なんで、そんなもの信じられるの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『無限の愛とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 神という存在への思いなくして生きているということは、子供たちが、自らの親が誰であるかということを考えることなく、人生を過ごしてゆくことと同じなのです。
 子供は、生まれ落ちるとすぐに、自分の母親が誰なのか、父親が誰なのか知ろうとするでしょう。それだけではなく、知ってさらに、求めようとするでしょう。抱きしめてほしいと願うでしょう。一歩でも二歩でも、親に向かって進んでくるでしょう。それがほんとうの姿なのです。それなのに、親子の関係で言えば子にあたる人間が、親なる神を見向きもせず、求めもせず、己れひとりでこの世に生まれてきたかのごとく振る舞っている現在の姿は、まことに恥ずべき状態であると言わざるを得ません。(中略)
 信仰と言われているものを一言でわかりやすく言い換えるとするならば、この「神を愛する」ということに尽きるのです。神を愛するがゆえに、親なる神の持っておられるすばらしい思いを、性格を、性質を、受け継ごうとするわけです。それは単なる惑わかしや思い込みといったようなものではありません。厳然たる事実のもとに、行なわれて当然のことを行なうという、ごくごく合理的と言ってもよい考え方のもとにある行為が、この信仰なのです。
 この世界の成り立ち、人間の生命の成り立ち、こうしたことを知ろうとし、知ったうえで、その本来の成り立ちに基づいた生き方をしようとすること。これはまことに筋の通った生き方なのです。これは、このうえなく合理的な生き方でもあるのです。
(160~164ページ)

人間はどこから始まったのか。

その元には人間を作った存在があるはずだ。

それが神と呼ばれる存在である。

だから、人間にとって神は、魂の親である。

魂の子が魂の親を愛するのは、ごくごく当然のことであり、それが信仰という行為なのだ。

信仰とは、親なる神を愛するということに尽きるのだ──。

ここで大川隆法先生は、そう説いておられるのではないでしょうか。

そして、ここでの「神」は、「仏」と言い換えることもできるのだと私は思うのです。

 

『無限の愛とは何か』

 大川隆法著

 

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子供が素直でなきゃいかんのはよく分かるけど、でも大人は違うよね。世間で生きていくためには、大人の態度というのが必要なことが多くて、子供みたいに素直なだけじゃ、生きていけないしね。・・・なーんてこと考えてる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福への方法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 イエスも、「心清き人は神を見るであろう」(「マタイ福音書」5・8)ということを聖書のなかで言っています。しかし、クリスチャンたちは、その聖句を長いあいだ見つづけながら、なかなか神を見ることができないでいます。それは、その言葉のほんとうの意味をよくつかみとっていないからだと思います。
 「心が清くあれば神を見ることができる」というのは、ほんとうにそのとおりです。「幼子のごとくでなければ天国には入れない」(「マタイ福音書」18・3)という言葉もありますが、まったく同じです。
 私は現在、高級諸霊と話をすることができます。なぜそれができるのか、他の人とどこが違うのかを考えてみると、結局、「素直な心」があるということだと思うのです。別の言葉でいうと、「純粋さ」でもあるでしょう。
 それは、「この世のいろいろな思い、しがらみに染まらずに、純粋な理想のようなものを持っている。あるいは、透明度の高いガラスのような心を持っている」ということなのだと思います。
 要するに、このガラスの透明度が低いと、仏神の声は聞こえないのです。
 普通の人でも、四歳ぐらいまでの小さい子供のときには、ほんとうに天使のような心を持って純粋に生きています。
 しかし、だんだん物心がついてくると、反抗期に入ったり、友達といっしょに悪いことを考えたり、いじめをしたりされたりと、いろいろなことがあって、心がしだいに歪んでいくのです。
 実社会に出てからは、それがもっと激しくなります。(中略)この世的なやり方にいろいろと染まって、本来の純粋な心を忘れていくようになるのです。
 もちろん、この世の中で身を処していくためには、処世術というか、いろいろなことを知らなければいけません。(中略)
 ただ、そうしたものを学んでいくときに、それらが自分の心を覆う鎧のようになってはいけないのです。この世的な知識が、自分の心をまったく覆ってしまう鎧のような役割を果たして、仏神の御心が分からない自分になってはいけないということです。
 仕事がらどうしても、この世的な知識をわきまえなくてはいけないこともあるでしょうが、「純粋な心を忘れまい。素直な心を忘れまい」という気持ちを、常に持っていることが大事なのです。
 そして、いったん仕事を離れたならば、とらわれのない、明るく透明度の高い心を、すぐに取り戻せるようにすることです。
 心というものは、きれいなガラスの容器に入ったダイヤモンドである──そうしたイメージを持っていなくてはいけません。
(96~101ページ)

「心が清くあれば神を見ることができる」というのは、ほんとうにそのとおりである。

この世的な知識をわきまえなくてはいけないことがあっても、純粋な心、素直な心を忘れまいという気持ちを、常に持っていることが大事である。

心というものは、きれいなガラスの容器に入ったダイヤモンドである、というイメージを持っていなくてはならない──。

うーん、だからこそ、毎日毎日、きちんと反省して、この輝くダイヤモンドが見えるように、ガラス容器を磨かなきゃいけないってことだったのだと、改めて私は思うのです。

 

『幸福への方法』

 大川隆法著

 

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アトランティス大陸とならんで、ムー大陸って名前、よく聞くよね。ほんとにあったのかな。あったんだったら、いつ頃、どこになの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『太陽の法』(幸福の科学出版)で、こう説いておられます。

 ムーは、太平洋上に浮かぶ大陸でした。その出現自体は、ラムディア大陸よりも古く、いまから三十七万年前ごろ、海上に姿をあらわしました。それ以後、大陸の形は、さまぎまにかわりましたが、ラムディアの末期ごろには、現在のインドネシアあたりを中心にして、オーストラリアの二倍ぐらいの面積をもつ大陸でした。(中略)
 ラムディアの人々は、大きな帆船の大軍団を組み、いまから二万八千年ぐらい前から、ムー大陸の諸都市を植民地化しはじめました。(中略)
 植民都市ではあったとはいうものの、ムー大陸にも、ラムディアの文化は浸透してきておりました。そして、ラムディア文明が滅失したあと、静かにではありましたが、ムー大陸にも、文明のきざしが見えてきました。
 いまから約二万年のむかし、このムーの地に、ゾロアスターの前身が出ました。この方のそのときの名を、エスカレントといいます。(中略)この大聖エスカレントは、太陽の科学的なエネルギーを重視しました。(中略)
 都市の中心には、一辺の長さが三十メートルの正三角でできたピラミッドがあり、それが銀色に輝いています。ここで吸収、増幅された太陽エネルギーが、各町の中心にある山辺の長さ十メートルのピラミッドに放射され、そこからさらに各家庭の屋上にある一辺の長さ十メートルの小ピラミッドに供給されていたのです。
 このピラミッド・パワーは、のちのアトランティスにもひきつがれます。この太陽エネルギーの巨大増幅装置は、現在ピラミッド・パワーなどといわれているしくみにとてもよく似ています。
 ムー大陸が、その最盛期を迎えるのは、ラ・ムーの時代でした。すなわち、いまからおよそ一万七千年近く前のことです。そのころ、ムーは、太陽信仰と太陽科学万能の時代を迎えておりました。この時期に、ラ・ムーが、肉体をもって生まれたのです。ラ・ムーとは、何代か前の釈迦の過去世です。また、ラ・ムーとは、「ムーの光大王」という意味をもっています。ラ・ムーの時代に、ムー大陸は、巨大な大帝国となったのです。(中略)
  しかし、やがてラ・ムーが没し、その偉大なる教えが形骸化してくると、ムーの全盛にもかげりが出てきました。しかも、悟りの力を否定し、あやしげな動物霊信仰の邪教がはびこりはじめました。悪しき霊能力信仰が、「愛と慈悲」の教えを嘲笑し、大陸全体に大きな想念のくもりがかかってきたのです。
 こうして、このムー大陸は、いまからおよそ一万五千三百年前、三段階にわたる大陸の沈下によって、海中に没しました。ラ・ムーの名前からとった巨大な近代都市ラムーも、この大陸の沈下によって、当然のことながら、太平洋中に沈没してしまいます。
 しかし、ムー人たちの一部は、なんとか逃げることができました。そのなかのある人々は、船で北上して、ベトナム人、日本人、中国人の源流になりました。また、ある人々は、東へと進み、太平洋をわたって、南米アンデスの山に住みつきました。さらには、大西洋へと逃れ、大西洋上のアトランティス大陸へと、新天地を求めて行った人々もおります。
(261~269ページ)

冒頭に登場する「ラムディア」というのは、いまから8万6000年前にインド洋上にあったラムディア大陸で発展したものの、2万7000年前に突如沈んでしまった、ムー文明のもう一つ前の文明のこと。

アトランティス文明で発達したピラミッド・パワーというのは、実は、ムー文明に淵源があったってこと、なんですね! 
 

『太陽の法』

大川隆法著

 

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大学まで行けなかったし、とか、自分が出た大学、偏差値が低いから出世の見込みがないとかいって、それがコンプレックスになってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『常勝思考』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 たまたま何十年か前に、大学や高校に進学できなかったことがコンプレックスになって、そのまま二十年も三十年も生きている人が多いのです。
 しかし、二十年も三十年も経っているのに、現時点でもそのコンプレックスを思いつづけている人というのは、学歴不足として他の人から扱われてもしかたがないと思います。それほどまでに囚(とら)われているというのは、ずっと自分でレッテルを貼りつづけているということなのです。
 中学卒の学歴であっても偉くなった方は、世の中にいくらでもいます。その方がたは、「自分は中学卒の学歴で、その程度の頭だから、その程度の仕事しかできない」と思ってきてはいないはずです。(中略)
 現代社会では、特に知的な面に対するコンプレックスというものが強烈にあります。
 しかし、何十年か前の事実そのものが自己弁解のすべてになっているならば、現在、不利に扱われてもしかたがありません。その後、どれだけのことをできたのかが勝負だと思います。
 大学で学んだとしても、通常の場合、就学期間は四年です。いくらよく勉強したとしても、わずか四年間で学べることというのは、大したことはありません。他人が四年間で学んだことぐらい、頭が悪くても、十年がんばれば必ずマスターできるはずです。もし十年でできなかったとしても、二十年かければ絶対に大丈夫なはずです。いくら頭が悪くても、二十年やってできないことはありません。
 したがって、「その後どう生きたか。自信をつけるだけの実績をつくったかどうか」が大事です。たいていの場合は、そうした学歴不足を言い訳にしています。しかし、その人の念いがそこで止まっているということが、いちばん指摘されなければいけないことだと思います。
 もし学歴の不足が悔しいならば、それを埋めるための努力をすべきです。そして、それだけの時間をかけるべきです。他人の三倍ぐらいやれば、たいていの場合はできます。他人が二年や三年でやれることを、十年かけてできないはずは絶対にありません。できないのは、努力と信念の不足だと思います。自分の持つマイナス以上のことをやることです。
(65~67ページ)

20年も30年も経るのに、学歴のコンプレックスを思いつづけている人は、学歴不足として扱われてもしかたがない。

他人が大学4年間で学んだことぐらい、頭が悪くても10年あるいは20年かければマスターできるはずである。

その後、どれだけのことをできたのかが勝負であって、できないのは努力と信念の不足である──。

この教えが説かれてずいぶんたつはずですが、時間がたてばたつほど、この教えの深みが実感として感じられます。

ほんとうの人生の達人、つまり悟った方だからこそ説くことのできる教えが、この「常勝思考」だったのだと、しみじみと私は感じているのです。

 

 

『常勝思考』

大川隆法著

 

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寝てるときにみる夢って、リアルなのはものすごくリアルでしょ。そもそも夢ってなんなのよ? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『説法自由自在③ 真理の発見』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 ここではかんたんにふれておきますが、夢にも二種類あります。ひとつは人間の表面意識がつくり出している夢です。もうひとつは、霊界とのかかわりがある夢です。
 霊界とのかかわり合いがある夢かどうかの判断ですが、空間移動が出始めたらだいたいそうだと思ってください。この場合は、魂が遊離していくのです。“レム睡眠”といわれる狭い眠りの期間があるのですが、これは二時間か三時間周期で回ってくるものです。この深い眠りのときに、魂が霊子線とのつながりだけを残して肉体から出ているのです。こういうことを経験しているわけです。これは、人間が死んだのちに困らないように、魂をあの世の世界に現わす期間を多少設けてあるわけです。これがないと死んだあと、ほんとうに意識のギャップが大きすぎて、天上界に戻ってこれないのです。その意味で、睡眠というものにも、霊的記憶をつないでいくという積極的意味があるわけです。
 夢を見ていて続きを見ることがあるでしょう。それはつい先ほど見ていたというものではなくて、一カ月前に見た夢、二年前に見た夢、こういう昔見た夢の続きを見ることが、おそらくあると思います。そういう夢の場合は、たいてい霊界で経験していることなのです。それで、久しぶりに行くと、いやこの前はああだったね、こうだったね、今度はどうだったね、というような話をしているのです。ただ、帰ってきたときに頭のなかで翻訳されて、ちょっとちがったかたちになりますが、じっさいはそういうことです。
 ですから、続きがあるような夢、それから空間を急に移動する夢、空を飛んだり、あるいは地面に潜ったり、場面が急にサッと変わったり、いろいろなところに場面が次つぎと変わってゆく夢、こういう夢は、だいたい霊界の体験をしていると思ってください。
 ただ、それに対する反論として、その夢のなかに、地上に生きている人が出てくるのはおかしいのではないかと言う人もいるでしょうが、この場合にふたつの回答があります。
 ひとつは、その生きている人自体の魂が抜け出していることがあります。地上の友人も夜中に抜け出して、あちらで会って話していることがあるのです。
 もうひとつは霊界にいる別の人なのだけれども、友人の姿をとって現われている場合です。地上の人にわかるように話をするために、その人の記憶のなかから知っている人の姿を借りて出てきて、話しかけている霊人がいるのです。そうすると、友人と会っていたという記憶になります。こういうかたちで夢を見るわけです。
 夢について話すと長くなるのですけれど、参考文献として『新・心の探究』がありますので、読んでみてください。
(42~44ページ)

いやあ、夢について、学者さんとかがいろいろ説明してるのをいくら読んでも、よく分からなかったと思いませんか。

大川隆法先生が、ほんとにクリアに説明して下さってるのには、改めて感動です。

ちなみに、ここで紹介されている『新・心の探究』は、こちらでどうぞ。

 

『説法自由自在③ 真理の発見』

 大川隆法著

 

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宗教では、座禅とか瞑想とか、反省とかを勧められることが多いんだけど、何でなんだろう。心が穏やかにはなるんだろうけど、それって意味があるのかな? なーんて、疑問に思ってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『悟りに到る道』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 真の幸福感を感じるためには、どうしても心の平静というものを経験することが大事である、と私は思います。
 心の平静とは何でしょうか。それは、心が波立っていないことです。心が波立っていないとどうなるでしょうか。イライラしたり、いろいろな悪い思いが心のなかを駆けめぐったりということがなくなるわけです。その穏やかな心、澄みきった水面のような心をいったん経験した方は、幸福の本質をかなり垣間見たと言ってよいでしょう。
 自分の心というものを探究したことがない方は、そのような穏やかな心というものが実に幸福に近いものであるということを、知らないで生きています。みなさんのまわりにいる人をよく見てください。いつもいつもまわりを忙しく動いている人、いつも怒鳴りちらしている人、いつも他人の悪口を言う人、いつも不平不満、愚痴を言う人、こういう人たちは、幸福からなんと遠いことでしょう。幸福にいかに遠いところにいることでしょう。心が滑(なめ)らかであるということ、穏やかであるということ、平静であるということの幸福を、彼らは捨て去っているのです。いや、捨て去っているというよりも、それが幸福感にきわめて近いものであるということを、知らないままに生きているのです。
 この心の穏やかさというものは、とてもとても大切なものであり、神の光という、私たちの目には見えないけれども、実在世界の高級霊たちを通して投げかけられる光は、この穏やかな心というものなくして受けることができないのです。心が穏やかであるときに、幸せな感覚、幸福感というものが降ってくることがあります。それはある意味において、光が入ってきているのです。神の光というものが入ってきているのです。そのときに、穏やかな光が入ってきて、心がまあるくなって、自分が生かされていることの感謝のようなものが、ふつふつと込み上げてきます。
(142~144ページ)

実際に体験してみるとわかるんですけど、心の平静を保つことができれば、ほんとに毎日が幸福なんですよね。

だったら、この「心の平静」を維持するためには、どうすればいいのか。

それについては、・・・まずは、この書籍で学んでみてくださいね!

 

『悟りに到る道』

大川隆法著

 

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わたしって、男性で大失敗してて、もうだめなの。友だちに裏切られて、人生はかなんでるの。仕事で大失敗しちゃって、もうやってけないの。・・・なーんて気持ち抱えて苦しんでる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『大悟の法』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 自分を許せないために、十年も二十年も苦しんでいる人はたくさんいます。
 「人間関係で失敗した」「会社で失敗した」「事業で失敗した」「異性関係で失敗した」など、過去の失敗の経験はいろいろあるでしょう。大勢の人が、さまざまな苦しみのなかで生きているわけであり、この世には、人間の数だけの苦しみと失敗、挫折があるのです。
 残念ながら、全員が成功することはできません。ある人にとっての成功は、ほかの人にとっての失敗であることも多いからです。
 そのときに、いつまでも苦しみつづけるのは愚かだと思います。反省すべきことは反省し、今後はしないようにすることです。詫びるべきことは詫び、認めるべき間違いは認めることです。しかし、一定の期間を超えて長く苦しみつづけることは、愚の骨頂であると思わなければいけません。
 法律の世界では、民法でも刑法でも、時効という制度があります。その理由のなかには、「年数がたつと、債権・債務関係がよく分からなくなる」「証拠がよく分からなくなる」というような技術的なこともありますが、もう一つには、民事であろうと刑事であろうと、「人の記憶が薄れていく」「怒りが薄れていく」ということもあるのです。(中略)
 法律にも、そういうものがあるならば、人間の心、自分自身の心においても、一定の時効があってよいと思います。
 「この間題については、自分は充分に苦しんだ。もう三年もたったのだから、自分を許そう」というように思うことです。
(115~118ページ)

法律の世界でも、「時効」って制度があるんだから、自分自身の心にも時効があってよい。

そう、仏がおっしゃってるんですよね。

自分はすでに充分に苦しんだことを、自分自身に認めてあげて、自分を許すこと。

これは、すごく大事な考え方だと、改めて私は思うのです。

 

『大悟の法』

大川隆法著

 

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神さまって、1人のはずでしょ。だったら、イエスさまが信じた神がほんとの神さまなら、ほかの宗教で信じてる神さまって、偽物じゃないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『宗教選択の時代』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 「神が一つであるかどうか。一人であるかどうか。唯一の神であるかどうか」という問題があります。
 神が唯一であるならば、自分のところに降りた神が本物であれば、ほかのところに降りる神は本物ではない、ということになります。たとえば、古代のユダヤ人のところに降りた神が本物であるならば、アラブのほうに降りた神は本物のはずがない。あるいは、イランのほうに出た神が本物のはずがない。日本や中国やエジプトに降りた神が本物のはずはない。「神は一つであり、自分たちの民族だけのものである」と考えると、他のものは全部間違いということになります。これも歴史上、人類の大きな憎しみと闘争を生んだ考え方です。
 一つの宗教が起きる時に、そのなかで中心的な指導霊となる、神格を持った魂が一人であることは、確かによくあることです。特定の人が中心的に指導していることがあります。ですから、「私の教えにもとづいて行動しなさい」と言うことはあります。
 しかし、それは、その人以外に他の神がいない、ということを意味してはいません。ほかにもいるのです。人類がこれだけの人口を持っているところから見てもわかるように、多くの神がいなければ、大勢の人たちを幸福にすることはできないのです。数多くの方がたがいて、役割分担をしているのです。そして、それを取りまとめている人たちもいます。
 そのようになっていて、その時代において、その地域において、誰が担当してその宗教を起こすか、ということが決まることがありますが、それは同時に、他の地域、他の国、他の民族に出た神が偽物であったということではないのです。(中略)
 その時に熱心に指導した神が、「自分のみを神とせよ」と言い、あるいは、邪教を信じている人に対して、そう言ったことはあるかもしれません。しかし、それは、「自分以外の神の存在を許さない」という意味ではなかったわけです。
 もし、ほんとうに間違った宗教を信じている人がいたら、「その邪神を崇めるのはやめなさい。われのみを信ぜよ」と言うことは、方便としてはもちろん正しいことではあります。しかし、その教えが「他の宗教は全部間違いである」「他の神がすべて間違いである」というなら、これは大変な混乱を生みます。(中略)
 ですから、一神教といっても、ほんとうの一神ではないのです。たとえ主たる担当者が一つの霊存在であるとしても、指導霊はその霊だけではありません。
(198~202ページ)

ここで「中心的な指導霊となる、神格を持った魂」と説明されているのが、それぞれの宗教の「神さま」なんであって、神さまというのは、世界中にたくさんいるってこと。

そして、その神さまにも実は、レベルの違いがあったりして、この大宇宙を創った根本神(根本仏)というのは、その「神格を持った魂」の中でも最高レベルの高次な存在としてある。

普通に宗教で「神さま」というときは、そのレベルの存在ではなくって、もっと人間に近い、個性をもった指導霊を「神さま」として呼んでいる、と理解すればいいんですよね。

なーんだ、「一神教」と「多神教」の対立、みたいに言われる問題は、実は理解のレベルの違いにすぎないんだってことなんだと、改めて分かった気が私はするのです。

 

『宗教選択の時代』

大川隆法著

 

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霊界って何なの? どこにあるの? 空の上の方にあるんだったら、どうして飛行機がぶつからないの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『幸福の科学とは何か』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 霊界と言ってももちろんいろいろありますが、大きな意味で言うならば、この地上世界を去った世界のこと、すなわち、私たちの肉体が死したあと、私たちの魂とも言うべきものが赴くところということになりましょう。
 ただ、ここでだいじなことは、どうか、目に見えぬ雲の上の世界とか、そういうところに霊界があるように思ってほしくないということなのです。じつは、私たちが生きているこの同じ空間のなかに、霊界もまた存在するのだと知っていただきたいのです。
 もちろん、霊界についての説明をいろいろ読むと、それが何段階にも分かれていて、上下の差があるように言われています。その意味においては、高級霊界と言われるところが、地上何千メートルとか、何万メートルのところにある感じだと言われておりますが、あくまでもそれは、地上にいる私たちがわかるような範囲で説明し、比喩をすればそのようになるということであって、じつは霊界の霊界たるゆえんは、この物質世界と共存しているというところに意味があるのです。ですから、遥かなるかなたにあるものではなくて、私たちが住んでいる世界に、同時にそうした世界があるというふうに考えていただきたいのです。
 それはちょうど、私たちのこの世界に、目に見えない電波が飛び交っているのとよく似ています。たとえば、テレビを置いてそのチャンネルを回せば、一チャンネルから十二チャンネルまでいろんな映像が映りますが、これと同じように、その映像相応の電波が空間を、またこの地上を飛び交っているのです。同じように霊界というのも、言ってみればそうした電波や電磁波の波長のようなものであって、波長が違い、周波数が違うから違う世界を創っているだけであって、実際はまったく別なところにあるわけではないのです。つまり、テレビのチャンネルのように、その波長を受信する装置があれば、あるときは地獄界という世界が映り、あるときは霊界となり、あるときは高級霊界という景色が映るということになりましょう。
(34~36ページ)

霊界は、目に見えぬ雲の上の世界にあるわけではない。

たとえて言えば、テレビのチャンネルごとにいろんな映像が映るのと同じように、波長が違い周波数が違うから違う世界を創っているだけで、まったく別なところにあるわけではない。

じつは、私たちが生きているこの同じ空間のなかに、霊界は存在する──。

「波長」という言葉は、大川隆法先生のお教えの中で、よく登場します。
 
映画『永遠の法』では、あの世の世界(霊界)がものすごくリアルに描かれていましたが、それを言葉で説明すると、じつはこんなふうな理論になるってことなんですね。
 
今日は、霊界の秘密が、よりよく分かるようになった気が私はしているのです。
 
 
 
『幸福の科学とは何か』

 大川隆法著

 

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神さまが世界や人間を創ったって話、聞いたことあるんだけど、科学に反してないの、ほんとなの? なーんて疑問もってる人、いませんか?

幸福の科学の大川隆法先生は、『ユートピアの原理』(幸福の科学出版)で、こう教えておられます。

 神の発明のなかのいちばん大事なものは何かと言うと、念いによってものを創り、世界を創るという、こうした発明なのです。これが最初のいちばん素晴らしい発明です。
 念いということによってものができる。たとえば人霊ができる、地球ができる、星ができる、川ができる、海ができる。あるいは霊界のいろいろな建物ができる、そのなかの景色ができる。これらはすべて念いで創られたものです。念いによっていろいろなものを創ることができるというのが、最初の発明なのです。
 この宇宙の叡智は、まず最初の発明として、念いによって世界を創り、物事を創るということを可能たらしめたのです。これが最初の意思です。
 第二の意思は何かと申しますと、念いによって創った物事を、時間という流れのなかに入れたのです。それが存在です。存在が発展していくためには、時間という発明がどうしても必要であったのです。この時間というものも一つの発明なのです。(中略)
 時間というのは存在が運動していくための形式です。これが時間なのです。存在の運動形式を時間というのです。(中略)
 その次に、いったい何を考えられたかと言うと、これの方向性を考えたのです。(中略)
 幸福あるいは発展という概念の創造なのです。この発展と幸福というのは、うらおもてになっているわけです。あるいは発展、繁栄と言ってもいいでしょう。幸福、発展、繁栄というのはひじょうに近い概念でありますが、この運動形式を与えられた存在に、次は幸福という目的のための発展という方向性を与えられたのです。これが三番目の発明なのです。
 実はこの三つの発明によって、この大宇宙は成り立っているのです。そして、この三つの発明の流れの中に、みなさんの生命もあり、人生もあるのです。
(96~102ページ)

これは「神の三大発明」と題されるお教えです。

大宇宙の成り立ち、つまり私たち人間や動物や、世界の森羅万象のすべてが、どうやって出来上がってきたのか、という壮大な霊的真実を説いて下さってる部分ですね。

そして、なぜ「繁栄」や「発展」を幸福の科学で教えられているのか、という根本部分に関わる教えでもあるんだと思います。

神さま、そして同じ意味合いで言われる仏さま(根本仏)が世界や人間を創られたというのは、やっぱり真実だったんだと、改めて私は感じているのです。

 

『ユートピアの原理』

大川隆法著

 

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