幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
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ノルウェーのフィヨルドは、アトランティス大陸があった証拠 ⁉(更新)

2020-08-24 23:47:16 | 古代文明

ソチオリンピック スピードスケートノルウェー代表 へゲ・ボッコ選手

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本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しくださり、本当にありがとうございます。

最近暑いし、仕事が忙しくって、ちょっとばて気味の、高知布教所代表編集長でございます。

私はちっとも信仰者らしくない、れっきとした由緒正しき俗物(笑)ですので、こんな暑い日は、ブログを書く前に、「くゎぁ~!」とビールでも飲んで、気分を盛り上げたいところですが、ここ、布教ブログなもので、さすがに飲酒投稿はできないですね。(爆笑)

ということで、2017年8月に投降して、 とても評判の良かった記事を修正してお届けいたします。

さて私、お越しいただいた読者の皆様からは、宗教ヲタクのように思われているかも知れませんけれども、実は宗教はよくわからんところがあるんです。恥ずかしながら。。。(苦笑)

誤解なきよう。

私、「宗教は大事だ。」ということはわかるし、神様も死後の世界も信じていますよ。

でも実は私、地図ヲタクでございまして、地図を眺めていると、時間を忘れちゃうんですね。

何時間でも見ていられて、あーでもない、こーでもないと、思いを巡らすのが大好きなんです。

 そして若い頃、ヨーロッパの地図を眺めていて、あることに気づいてしまったんですね。

「オレって、ひょっとして、地理学上の大発見・・・をしちゃったのかも?」と。

ただその頃は、働きながら看護学校に通う身分でしたので、あまり深くは考えられなかったのですが、「地学の大学に行きたいなぁ。」と、結構真剣に考えたことです。

そしてその時、私は思ったのですね。

「子供のころ、学校の図書館で読んだ、アトランティス大陸。これは、絶対にあったに違いない。」と。。。

さて上の画像が、その問題の大発見を示しているんですね。

場所は北欧、ノルウェーのフィヨルドです。

約一万年前の氷河期が終わり、それまで形成されていた氷河が融けて、地面を削ってできたものと言われています。

ここは冬のノルウェーの画像ですが、この画像で見ていただくとわかるように、海のすぐ近くの山には雪があって、かなり気温の低い地域であることが伺い知れますね。

さあ問題は「海」なんです。

このノルウェーのフィヨルドの海、実は、冬でも凍らないのですね。

おかしくないですか?

すぐ近くの山には、氷河が残っています。

ノルウェーは北極圏近くの高緯度地域で、冬の気温は相当低いにもかかわらず、海だけは凍らないのです。

なぜかと申しますと、ノルウェー沖には、メキシコ湾流という、世界最大の暖流が流れているからなんですね。

冬、気温が低くて凍ろうとする海水を、せっせとメキシコ湾流が融かしているわけです。

ここに、現在定説となっている、「氷河期が終わったことで氷河が融けた」という理論との、大きな矛盾があるわけなんですね。

つまり、ノルウェーの海岸は、いくら気温が下がっても、氷河形成が絶対にできない環境なのです。

くり返しますが、メキシコ湾流が、全て溶かしてしまうからです。

つまり、氷河期だからと言って、メキシコ湾流がある限り、氷河は融けますから、そもそも、氷河があってはいけない地域なんです。ここは。

しかしフィヨルドは、かつて氷河があった、絶対的な証拠ですよね。

フィヨルドは、氷河がなければ、絶対に形成されません。

スカンジナビア半島全域がフィヨルドですから、北欧全域が氷河で覆いつくされていたのは間違いありません。

だとすれば、「かつて北欧ノルウェーの沖には、メキシコ湾流が流れていなかった。」ということ以外、ノルウェーのフィヨルドを説明できないのですね。

海流の影響を盛る限り、1万年前に、大規模な氷河が形成されていたスカンジナビア半島に、突然、暖流が流れ始めた以外、ノルウェーのフィヨルドを説明できないのです。

「最北の不凍港」といわれるハンメルフェスト(ノルウェー)

では、どうやったら、現在のように、世界最大の暖流が、北欧まで流れ込むことができるでしょうか?

巨大大陸が沈没すれば、海流の流れは変わりますよね。 

かつて大西洋上に、大きな大陸があって、それまではメキシコ湾流は、別の方向に流れていたとすれば、ノルゥエー一帯は、ほぼ同緯度の、アメリカ東海岸やグリーンランド南岸のように、氷河に覆われた、緯度通りの気候であったはずです。

その、メキシコ湾流をふさいでいたものこそ、アトランティス大陸ではなかったでしょうか?

つまり「アトランティス大陸が沈没し、メキシコ湾流が流れを北に変え、急速に、スカンジナビア半島全域で氷河が融けた。」との仮説が成立するわけです。

 私は、1万年前に終わった氷河期というのは、「ヨーロッパ限定の氷河期終焉」であったと思うのです。

それは、アトランティス大陸が、海中に没したことによることで、突然に終わったのだと思います。

その証拠は、実はまだまだあって、地図を見れば、それは今でも、あちらこちらに存在するんですね。

そういった「アトランティス大陸があれば、その地域の気候や歴史が説ける謎」は、私が知る限り、世界に3つあるのですが、お時間がございましたら、後にご紹介する関連記事を、お読みいただければと存じます。

私は地図ヲタクですので、こういう話は大好きなんですが、一応ここ、宗教布教ブログなんで、今日のところはこの辺で。(笑)

しかしその後、涅槃経に仏陀再誕にまつわる仏説があることを知り、「仏陀だったら、三世を見通せるから、アトランティスはあったと仰るんじゃぁないかな?」と、密かに思っていました。

ということで本日は、経典『太陽の法』(幸福の科学出版)より、アトランティス文明に関する記述部分をお届けいたします。

           (ばく)

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太陽の法・アトランティス文明

 

 

太陽の法 / 幸福の科学出版公式サイト https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=153

現在の大西洋のなかほど、バミューダ海域と呼ばれるところを中心に、アトランティスという大陸がありました。(中略)

アトランティス大陸に大きな変化があらわれるのは、一万五千三百年前にムー大陸が沈み、その末裔が、アトランティスに落ちのびてきたときです。彼らのなかには、科学者もおりました。科学者たちは、ムー文明のビラミッド・パワーを、アトランティス人にさずけたのです。(中略)

このピラミッド・パワーは、やがて航空技術、航海技術にも取り入れられていきます。 そして、アトランティス文明は、いまから一万二千年ほど前には、全知全能の主・トスという大導師、大指導者を得て最盛期を迎えました。トスは、宗教家、政治家、哲学者、科学者、芸術家を一人で兼ね備えていた超天才でした。

この大指導者は、アトランティスに総合文化とでもいうものを創り出しました。科学的見識は特に優れ、やがてアトランティスは、ムー文明になかったような科学文明を築いてゆきました。(中略)

アトランティスは、大導師、トスのあとをうけて、科学万能の時代に入ってきておりました。しかし、トスの本物の「万能」をうけつぐ人が出なかったので、科学偏重に傾いてゆきました。(中略)

アトランティスが沈没しはじめたのはこのころで、いまから一万一千年ほど前です。まず最初に、大陸の東の三分の一が海中に没しました。さらに、一万七百年ほど前になると、西の三分の一が沈みました。(中略)

そして、いまから一万四百年ぐらい前、紀元前の八千四百数十年に、この地に、アガシャーという方が生まれます。(中略)アガシャー大王は、ラ・ムー同様、政治家兼宗教家でした。(中略)

やがて、理神論派は反乱を起こし、アガシャーをはじめとする王族たちをとらえ、広場で、生き埋めにするという暴挙に出ました。このころは、ちょうど二十世紀末の現代同様、真理が説かれると同時に、魔が競い立っていたのです。

こうした暴挙のなかで、ただひとり、理神論派の追撃の手を逃れ、飛行船で王宮から飛び立った者がおりました。アガシャーの長男・アモン二世です。

このアモン二世は、エジプトに逃れ、アモン・ラー伝説の起源となります。この地で、太陽信仰をはじめることになるのです。エジプトのピラミッドの原型は、アモン二世が伝えた知識にその源を発するものです。

反乱軍の暴挙によって、地上に肉をもっていた数多くの光の天使たちは処刑され、アトランティスでは、悪魔が勝利を得たかに見えました。しかし、彼らがつくり出した暗い想念のくもりが、全アトランティスをおおったため、地球意識に反作用が起こり、全アトランティス帝国が、一昼夜にして、海底に陥没するという信じられない現象が眼前に生じたのです。(中略)

しかし、一部の人々は、やはり飛行船によって逃れ、アフリカ、スペイン、南米のアンデスの方面へと逃れ、それぞれの地で、新しい文明の種をまいていったのです。

経典『太陽の法」(幸福の科学出版)P269~280

新しき繁栄の時代へ』如是我聞レポート - 幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

大川隆法 幸福の科学グループ創始者 兼 総裁。

1956(昭和31)年7月7日、徳島県に生まれる。東京大学法学部卒業後、大手総合商社に入社し、ニューヨーク本社に勤務するかたわら、ニューヨーク市立大学大学院で国際金融論を学ぶ。

81年、大悟し、人類救済の大いなる使命を持つ「エル・カンターレ」であることを自覚する。

86年、「幸福の科学」を設立。信者は世界100カ国以上に広がっており、全国・全世界に精舎・支部精舎等を700カ所以上、布教所を約1万カ所展開している。

説法回数は3,150回を超え(うち英語説法150回以上、公開霊言・リーディング1000回以上)、また著作は31言語以上に翻訳され、発刊点数は全世界で2,650書を超える。『太陽の法』(幸福の科学出版刊)をはじめとする著作の多くはベストセラー、ミリオンセラーとなっている。

また、映画「宇宙の法-黎明編-」(アニメ・2018年10月公開) 「僕の彼女は魔法使い」(実写・2019年2月公開) 「心霊喫茶『エクストラ』の秘密 -The Real Exorcist-」(実写・2020年5月公開) 、「奇跡との出会い。―心に寄り添う。3―」(ドキュメンタリー・同年8月公開予定)、「夜明けを信じて。」(実写・同年秋公開) など、20作の劇場用映画の製作総指揮・原作・企画のほか、映画の主題歌・挿入歌等、100曲を超える作詞・作曲を手掛けている

ハッピー・サイエンス・ユニバーシティと学校法人 幸福の科学学園(中学校・高等学校)の創立者、幸福実現党創立者兼総裁、HS政経塾創立者兼名誉塾長、幸福の科学出版(株)創立者、ニュースター・プロダクション(株)会長、ARI Production(株)会長でもある。

映画『奇跡との出会い』公開は、8月28日から! | 朗らかに生きて、幸福になろ~ぜよ~!

(祝)あたご劇場開催決定!8月28日(金)公開 映画『心に寄り添う 3 奇跡との出会い』 https://aripro.co.jp/products/kiseki/

 

あたご劇場ホームページ  http://neconote.jp/atago/  

 

映画『夜明けを信じて。』公式サイト

(祝)あたご劇場開催決定!10月16日(金)公開 映画『夜明けを信じて』 https://yoake-shinjite.jp/

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なぜ「大和」と書いて、「ヤマト」と読むのでしょうか?

2018-12-03 00:15:48 | 古代文明

「巫女舞」の画像検索結果

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本日も、「幸福の科学高知なかまのぶろぐ」にお越しいただき、本当にありがとうございます。

私は、看護師として働く高知の在家信者ですが、様々なことに興味を持っておりまして、宗教のみならず歴史や産業や科学などに対して、オープンな知的スタンスを持つ幸福の科学の教えをもとに、色々な分野に関して、意見を発表させていただいております。

必ずしも、現時点において、幸福の科学の大川隆法総裁が語っていない分野もあるのですが、そういうことに対しても、一信者であっても、様々な意見が言えるという事実を知っていただくことで、現代日本に渦巻く、宗教への偏見に対して、少しでも瓦解させていく一助になればと思っております。

さて、時折古代日本の歴史に対しての記事を出す関係でしょうか、当ブログに、たくさんの歴史ファンの方も、お越しいただいているようで、ありがたいことですし、日本を愛する心の根源は、日本の根源を知るということだと思いますので、できうる限り、語らせていただければと存じます。

さて、邪馬台国に関しての、なかまのぶろぐでは、様々な突拍子もない仮説(笑)をたくさん提示してまいりました。

まとめると、
・邪馬台国(ヤマト国の中国読み)は2つあった。
 (九州のヤマトと、近畿のヤマトです。)


・卑弥呼の邪馬台国(九州のヤマト国)は、シナ(現中国)&朝鮮半島国家群から見た、国外に向けてのの対外的なヤマト。

・ヤマトの正規軍は九州に残し、万一の朝鮮半島からの侵略に備えた、囮(おとり)の機能を兼ね備えていた。(侵略されるのは、日本列島のみならず、朝鮮半島南部の任那=みなまを含みます。)

ということになります。

毎度毎度、突拍子もない説でございます。(笑)

わかっちゃいるけどやめられないのが、私の性分でございます。(爆笑)

「古代日本 奈良巻向」の画像検索結果

まぁ、日本のこの時期には、神話しかございません。史実はなく、謎だけが存在している現状でございます。

ここまで来たら、とりあえず、この説を機軸に、今後も話を進めてまいりたいと思います。

まず、近畿ヤマトの最終拠点は奈良盆地です。

魏志倭人伝以降に、日本の歴史の表舞台に立つ、大和朝廷の最終拠点である奈良。

ここはどう見ても、対アジア勢力に対する要塞としての地形をしています。

海外から船を使って来る軍隊に対して、これほど防衛力のある地はありません。

しかし裏を返せば、防衛に適しているということは、流通や統治には適さないということです。

つまり奈良は、決して首都機能優先、外交優先の地形をしておりません。

そして普通は、軍事的な常識から言えば、盆地を対外勢力が占領しようとはしません。
なぜなら盆地は、完全な地元有利の地形であるので、攻め取るのに難儀するからです。

盆地は山々に囲まれています。
ということは、大軍は進入路が極端に制限されますね。
大軍で攻めても、山に阻まれるので、少数の兵しか進めず、相手が少数でも防衛されてしまいます。

そして山岳部は、無数の抜け道など存在しますから、地元民でならば防衛は容易です。
「盆地は守りは堅い」ということは、「攻め取るのにとても苦労する、侵略リスクの高い地形」なのですね。

桶狭間の戦いでは、今川義元の大軍を、少数の織田軍が破りますが、こういう山岳地帯では、地元勢力の方が圧倒的に有利で、攻め入る大軍を山が無力化するのです。

ですから、ヤマトという外部勢力が、この地に最終拠点を築いたのが確かならば、ヤマト軍は奈良盆地を、攻め取っていないはずです。

そうなんです。

実に不思議なのですが、九州のヤマトは、この奈良を侵略していないというか、できない土地なんです。

関連画像 

天然の要塞 奈良盆地

ということは、ヤマトの国軍が奈良に入るには、「元々奈良盆地には、先住人がいなかった。」か、「ヤマトの人々がここに定住するのに、地元の協力があった。」の、2つの可能性しかないんですね。

この2つのいずれかか、または、この両方の条件しか、外地のヤマト人は、奈良に入れないのです。

もともとヤマト勢力は、地元近畿の出であったという歴史学者もいますが、神武東征伝説もありますし、何より、初期の遺跡と言われる”纏向遺跡(まきむくいせき)”は、完全な計画都市です。

計画都市ということは、自然発生した人口集落ではない・・・ということです。

交通の要所でもなく、川の流れも急で、山野に囲まれた盆地の奥の奥に、わざわざ計画的に、大規模な都市を建設していることは、専門の研究者でもその理由がわからず、まだ意見が分かれているところです。

私は、「極少数の側近たちに囲まれた形で、現在の天皇一族につながる方々が、地元や、西国の豪族たちにお膳立てをしてもらいながら、この奈良盆地の奥に移り住んだのではないだろうか。」と、考えています。

それは、後の飛鳥・奈良時代の天皇一族や、天皇側近の氏姓(うじかばね)たちが、全国を支配していた勢力とはとても思えないくらい、わずかな面積の所領しか持っていないことから伺えることです。

天皇一族ですら、奈良盆地の一角しか、直轄地を持っていません。

これで全国を統治できたとは、とても考えられない少なさです。

この天皇の少ない直轄地問題は、その後の大化の改新まで続くのですね。


ということは、奈良盆地入城は、極少数で行われた可能性が高いことになりますね。
「直轄地が少ない。」ということは、「養える直属の部下が少ない。」ということだからです。

また、盆地は山岳地形なので、よそ者であるはずのヤマトの国の軍では、防衛ができません。(笑)

そう、地元民が圧倒的に有利ということは、よそ者では守れない地でもあるわけです。
ですから、ヤマトの国の人々を守っていたのは、元々奈良盆地に暮らしていた人々のはずなのです。

こうなると、以前に記事に書いた、通称『卑弥呼の鏡』の謎も解けます。
日本各地で出土する卑弥呼の鏡が、近畿地方で最も多く出土する謎ですね。



つまり、奈良入城に到るまでの一連の神武東征(米と酒外交)で、近畿ヤマト国勢力への配慮や護衛に対する、各豪族たちへのお礼の品が、卑弥呼の鏡だったのではないでしょうか?

そう、ヤマトの国との、同盟関係の印が、『卑弥呼の鏡』なのではないでしょうか?

魏志倭人伝では、「邪馬台国からの朝貢の礼に、鏡を100枚贈呈した。」とあります。
しかし、実際の卑弥呼の鏡は、既に140枚ほど出土しています。

卑弥呼の鏡に記されている年代や文字などに、相当怪しい物も多数存在しますので、純粋に、”魏国製”とは言えないと思います。
恐らく、後の時代の複製品も、多数混じっていると思われます。

ということは、複製品を作る技術が、当時のヤマトの国には、既にあったということですが、それはさておき、これはあくまで、『考古学的な価値の問題』であって、当時の、『政治的価値』には関係はありません。

もらった方からすれば、本物の”魏国製”であろうが、コピーであろうが全く関係はないからです。

そう、「見たこともない銅製のきれいな鏡を、ヤマトの国の方々からいただいた。」と、ありがたがったことでしょうね。

つまり、この『卑弥呼の鏡』こそ、大倭(大和)=ヤマト連邦の証だったということではないでしょうか?

すなわち、「大和」と書いて、「やまと」と読みますが、それは、大きな倭、倭連邦のことではないでしょうか?

この「倭連邦」こそ、「大和」のことではないかと私は思うのです。

大和朝廷は、天皇の奈良入城、つまり、九州からの遷都に協力した、地元の人々との、天皇を中心とした共同体が、その根源にあると思うのです。

つまりこの、大倭(大和)=ヤマト連邦こそ、後の我々が知る、『近畿を中心とした、大和の国の原型』であると、考えることができると思うのです。

そうであるならば、教科書で随所に出てくる、大和朝廷の不可解さの意味が理解できるからです。

そして重要なことは、「そこまでして奈良に移住してこなければならないほどの危機感」が、当時の古代日本にはあったということで、これはやはり、「当時のシナ大陸で急速に発展してきた、国家が持つ軍事力への脅威」というもをの前提にしない限り、日本の古代の謎を解くことができないと思うのです。

本日は、かなり時期はずれますが、元寇のあった鎌倉時代の執権、『北条時宗の霊言──新・元寇にどう立ち向かうか』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。

       (ばく)

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大川隆法総裁 エル・カンターレ祭大講演会 「愛を広げる力」抜粋版(幕張メッセ)

 

「大川隆法 エルカンターレ祭」の画像検索結果   

大川隆法講演会特別サイト https://ryuho-okawa.org/info/2018/4360/

 

北条時宗の霊言 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=945

すでに、元はスーパー大国で、世界一の超大国だったわね。
ヨーロッパとイスラム圏が、「十字軍」で戦って決着がつかず、何百年も戦い続けていたけど、その彼らを、丸ごと侵略してしまうぐらいの力があったわけですからね。(中略)だけども、私は、単に拒否していただけではなく、攻めてきたときのための備えもやっておりました。

例えば、北九州などに防塁を何重にも築いて、攻めてきたときの戦い方を考えていましたが、実際に、あれは大きな役目を果たしています。そういう“防波堤”をつくっておいたために、彼らは、すぐに日本が占領できなかった。(中略)

鎌倉は、少し遠かったかもしれないけども、ヨーロッパを支配できたぐらいですから、とりあえず、九州を起点にして東征し、足の速い馬を使った騎兵で日本を占領する計画は持っていたと思うんです。ヨーロッパへ行くまでの距離を考えれば、日本列島の主要都市を押さえるぐらい、わけがないことですよね。

ただ、海の戦いがあるので、造船しなければならず、それに何年か、かかっているわね。だから、その間に、こちらのほうは、防衛の準備をしていて、防塁を築き、九州の兵たちも鍛錬し、鎌倉武士たちも、西のほうに続々集結させつつあったわけです。(中略)

「国家意識」が芽生えてはきていたわね。つまり、「国を守らなければ危ない」ということに対しては、九州の人も鎌倉の人も、意見は変わらなかったわけだ。(中略)
やはり、「武士社会があった」ということが、最大の強みだったね。

日本の武士道が根づいたのは「鎌倉時代」だと思いますけれども、うまいこと、日本の神様がたは、武家社会をつくる時代に入られたわけです。まあ、(元寇を)予知されていたのだとは思うけども、そうした「武士の精神」ですよね。

たとえ、武器性能は向こうより劣っていたとしても、日本刀をつくる技術もあれば、甲冑をつくる技術もあり、また、弓矢をつくる技術も、槍をつくる技術もあったわけだし、向こうの馬には劣るかもしれないけれども、日本の馬もいたわけではあるのでね。そういう意味で、「侍社会があった」ということは、基本的には、「防衛体制を敷いていた」ということです。

今あるような“平和主義”で言えば、「海を越えて攻めてくるわけがないから、平安時代のまま、貴族社会をやっておればいい」ということになるだろうが、平安時代を滅ぼし、もともと武士だったにもかかわらず貴族化しかかった平家まで滅ぼして、源氏の世に変えた。

やはり、日本の神々のお考えは、「次に来る国難から、この国を救う」ということだったわけだ。それを考えると、京都に近い所にいたら堕落して貴族化するので、鎌倉から幕府を移さなかったのは、頼朝以下、鎌倉幕府の将軍および執権たちの見識の賜物であったかなと思う。
そういう意味で、時代的要請に合っていたし、運がよかった。でも、運だけではなくて、「自力の部分があった」ということですね。
『北条時宗の霊言──新・元寇にどう立ち向かうか』(幸福の科学出版)P41~45

https://happy-science.jp/info/2018/41633/ 

「宇宙の法」の画像検索結果     

※高知県内映画『宇宙の法・黎明編』外部会場上映予定※  

・12/9(日)野市中央公民館 第1大研修室
  (時間)①13時 ②15時


卑弥呼の邪馬台国と、ミステリアスな古代日本のロマン。

2018-11-27 00:27:56 | 古代文明

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本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。

さて、時折お届けしている古代日本の話題、とてもご好評をいただいております。

私は別に国粋主義的な人間ではないのですが、先入観を抜きにした、仏教的視点、そう、原因結果のみの視点でみたときに、「古代の日本ってすごいな。」と率直におもってしまいます。

古代朝鮮からは、縄文土器や古墳が発見されます。

これは古代日本と朝鮮とに、深い交流があった証です。

 

特に古墳は、死生観の共有の証であり、古代日本の歴史書と言われる古事記や日本書紀を読み解くに当たっては、こういう、当時の社会情勢を無視した、古代人=原始人というレッテルははずすべきだと思います。

それは、真に真実を探求する姿勢ではないです。
ヤマトの国の前文明である縄文日本は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。

また、縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明です。

その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。

弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡です。

このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかったという証拠とも言えます。

それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。

さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交。

その裏で、初代天皇と言われている、「カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の東征」と言われる、近畿地方への遷都が、卑弥呼とは対照的に、ひっそりと採り行われたのではないでしょうか?

私の説では、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。
ですから東征という軍事的行動を現す表記が、むしろ物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。

恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と、産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得ていたはずです。
ヤマト国の長の遷都に、協力しない方がむしろ理に適いません。

陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
しかし恐らく、大部分は海路ではないかと思います。

この頃の古墳遺跡が、日本各地で見つかります。

しかし近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しています。
ですから、陸路からキチキチと弥生化していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?



九州ヤマトの国との、言わば連立共存関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできたと考えれば、恐らくその後の天皇へとつながるであろう日本神道の神々が、五穀豊穣の神としてあがめられたのもつじつまが合います。
つまり「日本各地に、今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させた。」ということが、その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?

そしてこれだと、「九州に正規軍を残しての東征」という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思いますね。

平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。

西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。

なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。

西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。

幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。

まとめると、国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受ける。

そして、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が、防人として立ち向かう。

当時の国際的には九州の、卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。

つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、新しい日ノ本(ひのもと)の、国づくりや国家形成は、大陸の影響を受けにくい近畿のヤマト(後の大和朝廷)が、静かにじっくりと行う。

こういう体制作りが、この卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?
つまり、卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであったと、私は考えているのです。「浦安の舞」の画像検索結果

卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。

むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。

激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。

しかしたくさんの英雄が輩出した幕末でも、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。

弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、「戦いそのものがなかったから」というのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
「東征という名の交渉だった。」のだと思います。

「古代日本 神武東征」の画像検索結果

神武天皇の近畿入りの際の戦いは、最後の抵抗勢力との戦いとも見て取れます。

また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのです。

その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。

ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった。

そのようなロマンを、私はこの時代に感じるのです。

本日は日本神道の主催神、天照大神の御神示『最大幸福社会の実現─天照大神の緊急神示』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。

何度読み直しても、心身が引き締まります。

       (ばく)

 

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信仰に生きる幸福 天使のモーニングコール 1414回 (2018.11.3,4)

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もっと強くなりなさい。ただただ、「もっと強くならなければ駄目である」ということです。
今の日本の状態は、たとえて言えば、学校でいじめられた子が、「他の子に悪口を言われた」と言って、勉強に集中できず、すごすごと家に帰ってくるような状況に近いと思います。

もっと強くならなくてはなりません。もっと、自分自身に対して厳しく修行を積み、強い国家になっていただきたいと思います。

われわれは、断じて、侵略国家ではありません。「われわれは、むしろ、侵略的な国家に被害を受けた国家であるのだ」ということを忘れてはならないのです。
アジアの人たちを解放しようとしたことは、正しい行為です。日本が戦わなければ、アジア全部が欧米の植民地になっていたのです。
われらは、世界から植民地をなくしました。大きな犠牲を払いましたけれども、尊い仕事を成し遂げたのです。

何百万もの人の命が失われたかもしれないけれども、彼らは犬死にしたのではありません。「世界から植民地をなくす」という大きな使命を果たしたのです。

また、日本は、「日清」「日露」という大きな戦いにおいても、世界の大国としての力量を示しました。神の国としての力量を示したと思います。

今は、アメリカという国とも仲良くしておりますので、その関係は大事にしなければならないとは思いますけれども、日本の国の独自のよさというものを、しっかりと護り、打ち出していくことが大事です。

そういう、自覚の面における「強さ」が必要だと思います。
自分の国に自信を持てないような子供を育てないようにしていただきたい。自虐的な大人をつくらないようにしていただきたい。
また、そうした人間をつくることでもって生業としているマスコミ稼業の人たちに対して、深い反省を迫るものです。(中略)

先の戦争で日本は敗れましたけれども、それでもって、すべてが消し去られたわけではありません。
日本が敗れて五年後、朝鮮戦争が起き、マッカーサーは朝鮮半島を攻撃しようとしました。そのとき、彼は、日本の国がしようとしていたことの意味が、やっと分かったのです。「日本は、自国の防衛のために、さまざまな備えをしていた」ということが、やっと分かりました。

結局、日本が敗れたために、その後、米ソの長い冷戦時代と核開発競争が起き、また、中国では、共産主義革命が起きて、何千万人もの中国人民が殺されることになりました。さらに、ポル・ポト革命では、二百万人もの知識人が骸骨にされるようなことも起きました。

日本が負けていなければ、このようなことは起きなかったのです。このようなことは断じて許してはならない。「無神論・唯物論思想の国を、勝つ側にしてしまった」ということは、先の大戦の大いなる過ちであり、この過ちは歴史において正されねばなりません。
『最大幸福社会の実現─天照大神の緊急神示』(幸福の科学出版)P72~77

 

「宇宙の法」の画像検索結果     

 

※高知県内映画『宇宙の法・黎明編』外部会場上映予定※  

・12/1(土)本山町プラチナホール 2F研修室
  (時間)①13時 ②15時

・12/9(日)野市中央公民館 第1大研修室
  (時間)①13時 ②15時


卑弥呼の邪馬台国の謎解きの、チャレンジに挑戦(笑)してみた。。。

2018-11-14 00:27:53 | 古代文明

稚児行列

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拙ブログは、高知の幸福の科学信者による布教ブログですが、多くの方に教えに触れていただくために、様々な事柄について記事をお届けしようと、日夜努力しております。

先般、日本の古代の歴史にスポットを当てて記事をお届けしたところ、大変ご好評いただきまして、編集長である私は、とてもうれしく思っております。

ただ私は、職業は看護師であり、ただの歴史の一ファンであって、専門家ではありません。
また、一般常識を余り考慮せず、「つじつまが合うか否か。」ということだけ(笑)を重視した、実況見分的な見方しか、私はいたしませんので、一応ご注意を。(笑)

そして、「ばくさ~ん、ここは違うでェ~。」というご意見などございましたら、遠慮なく、コメント等でお教え願えればと存じます。m(_)m

さて、今回の話題は、日本の古代史最大のミステリー邪馬台国(やまたいこく)についてです。
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)出てくる、『倭(わ)』の女王とされる、卑弥呼(ひみこ)にまつわる国家ですね。

江戸時代に、福岡県の志賀半島で見つかった金印、有名な 漢倭奴国王印 (かんのわのなのこくおういん)も謎が謎を呼ぶキーワードをたくさん持っております。

”魏”から贈られたとされるのに、その前政権である”漢”の国号ですが、当時の魏王朝は、漢王朝から玉座を禅譲された形式で発足しておりますので、魏は対外的には、漢を、名乗っていたかも知れません。
劉備の蜀(しょく)も、正式国号は蜀漢(しょくかん)ですので。

倭というのは、当時の中国から見た、日本地域の俗称ではあるでしょうけれども、他民族の国名に対しては、必ず『けものへん』を使う、昔から俺様国家だった中国ですが、当時の日本に対してだけは、珍しく『にんべん』を使っていますので、これから推測するに、当時の日本(倭)は、結構文化的に高かったという証拠だと思います。

イメージ 1

倭という国名から推測するに、卑弥呼の時代以前から、人間の暮らす国らしい、秩序だった形態をしていたことが伺われ、日本は、一目おかれる存在だったのではないでしょうか?

しかし漢倭奴国王印から、中国人の俺様ぶりは、【奴・な】という文字に込められています。(笑)
北方の蛮族のことを、匈奴(きょうど=モンゴル人のやつら)と言ったように、倭奴と扱ったんでしょうな。

通説では奴という地域があったともされていますが、そうではないのではないか思います。
つまりこの、奴という文字は、いわゆる、蔑称ですね。

また、「国王」というのは、”中国が任命した代表者”と言う意味ですね。

皇帝とか帝(みかど)というのと、王というのでは意味が違い、古来中国では、王は属国の代表者なんですね。
つまり、このまま読み取るとしたならば、卑弥呼の邪馬台国は、当時の中国、魏の属国となったことになると思います。

さて、この邪馬台国の場所が、最大の問題です。

つまり、「邪馬台国はどこにあったのか?」です。

魏志倭人伝には、邪馬台国の場所が記載されているのですが、これが読みようによって、場所が数箇所出てくるように読めるのが、とても難儀なところですね。

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通常ですと、遺跡などからわかることは、当時の日本の文化程度の最も進んだ地域は九州地方ですから、邪馬台国九州説が、最もスンナリくるのです。
しかし、当時の魏からの贈り物であるとされるものが、実は九州のみならず、中国四国地方、そして東海~東北まで出土いたします。

いわゆる、”卑弥呼の鏡”です。
そしてその卑弥呼の鏡は、実は近畿地方から、最も大量に出土するのですね。

三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう・さんかくえんしんじゅうきょう)というのですが、これは銅鏡の形式の一種で、縁部の断面形状が三角形状となった大型神獣鏡です。

名前は音読みで、中国製っポイですけど、これは近年学者がつけたものでしょうね。
当時日本は、”大和言葉”オンリーでしょうから、このような名前では呼んでいなかったでしょう。
ただ、様式は完全な大陸ものです。

この俗称”卑弥呼の鏡”と、その後この地に大和朝廷樹立されたことが、邪馬台国近畿説の有力な根拠になっています。



卑弥呼の出自は、正確にはわかっていないのですが、”魏志倭人伝の時期”と、その後の、”大和朝廷の原型が近畿にできている時期”とでは、実はそれほど、期間が開いていません。

せいぜい100年位しか、期間がないのです。
古代の時間軸から言えば、これはほぼ同時期と言えますね。
ですから、邪馬台国近畿説にも、説得力は十分にあるのです。

以上のこと、そしてこれまで綴ってきた記事を踏まえて、私なりの邪馬台国の見解を述べさせていただくとするならば、ずばり、
『邪馬台国は2つ存在した』ということになります。

そして、もう一つ付け加えるとするならば、「卑弥呼の邪馬台国は、囮(おとり)であった」ということも、言えるのではないかと思います。

おぉぉぉぉ、またまたミステリアスなことを言ってしまいました。(笑)
このように古代日本は、謎が謎を呼ぶ、大変面白い時代なのです。

素人歴史家ばくの、「卑弥呼の邪馬台国は囮(おとり)である。」は、皆様どうお思いですか?あはは、ミステリアスな響きがありますでしょう?(笑)そんな突拍子もないことを、平気で言えるところが、幸福の科学の自由なところなんですね。(爆笑)

卑弥呼の魏国への外交の謎は、実にいろいろありまして、その代表が、「動機がわからない」ということなのですね。

つまり、当時の卑弥呼の国(邪馬台国)にとって、魏に接することのメリットが、ほとんど見つけられないのです。

つまり、わざわざ使者を使わせて、卑弥呼の邪馬台国は、遠い魏まで行くのは、そりゃ莫大な費用でしょうし、遠い航海は、危険極まりない行動です。そして、そうした努力をして、属国にまでなってまで、”魏”という大陸の大国の後ろ盾が必要という根拠は、どこにも見あたらないのです。

よく言われるのは、「邪馬台国周辺国との軍事的対立を、魏の後ろ盾を得ることで解決しようとした。」ですけれども、これは果たして現実的な判断でしょうか?
現実的に考えれば、ヤマトの国の国内で騒動があって、それを魏の援軍が来て解決はできないです。

なぜならば、魏は遠いですので、魏の使者や軍隊が来るのに時間がかかりすぎて、問題解決には間に合わないです。

また、魏が当時の超大国であることを、邪馬台国周囲の人たちが知らなければ、そもそも効果はありません。

もし知っていたら、遠すぎる国であることも知っているので、こちらも効果はありません。

つまり、卑弥呼外交は、当時の邪馬台国周辺国には、全く効果がないわけです。

日本国内に内戦があったとして、インドに援軍を求めても、効果がありませんよね。

しかし、これには前提条件があります。それは、「日本国内に限定すれば」という条件です。

でも、卑弥呼を研究している方たちには、恐らく当時の周辺諸国事情というものが見えていないか、もしくは、外交の鉄則を知らないと思われます。

研究者というものは、どうしても視野が狭くなりがちです。
専門的な研究者は、どうしても膨大な専門的な研究資料を読まなければなりません。
人間が使える時間は、皆一日24時間ですから、専門領域だけに時間を奪われていたら、他のことがわかりません。

その点私は、ズブの素人(爆笑)ですので、その分、歴史や考古学以外の領域で、自由に遊ぶことができるんですね。

当然、卑弥呼研究家と、専門知識ではかないませんが、しかし、他の分野のことはわかるのです。

つまり、その点を絡めての自由な推測ができるのですね。
しかも、固定観念にとらわれずに、それを行うことができるのです。

だって、素人ですから。(爆笑)
情報化社会においては、専門的な研究者の方より、自由な愛好家の方が、知識量では上かも知れないです。

たとえば、専門的な研究者が、外交の鉄則という政治学や、海流の流れをご存知ではないかも知れません。また、「卑弥呼の時代など、原始人の時代だから、高度な外交判断などするはずがない。」という、古代人=原始人という思い込み=進化論的歴史観にとらわれていたら、この卑弥呼外交の効果は見えて来ません。

さて外交の鉄則とは、遠交近攻(えんこうきんこう)です。
つまり、「たとえ近くの国とは争ったとしても、遠くの国とは仲良くする。」ということですね。

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普通はこの逆を、発想し勝ちなんですね。
自虐史観を演出している方々も、つい発想しがちなこの、鉄則とは逆の外交の大切さ(笑)を演出しているように、私には思えますね。

「遠くの国とは距離が離れているから、仲良くする必要ないじゃん。」
「でも、近くの国は、ケンカしたら、何かとメンドイよね。」

という感覚です。
この気持ちは、まぁわからないでもありません。
近くの国と、仲良くできるに越したことはありません。
しかし外交の鉄則は、この逆なのです。

現実、自国に攻め入ってくるのは、大部分は近くの国ですよね。
はっきり言えば、普通は隣の国です。

ですから外交は、この ”近くの国(隣の国)の動きを封じることが重要” なのです。
よく考えれば、本当に隣の国と仲が良いのなら、別の国である必要はないわけです。
そもそも何らかの理由で、一緒の国になることが出来ないから、別の国なわけですから。 (笑)

ですから隣の国とは、色々と懸念事項があるものです。

歴史的にもいろいろあるものですし、大抵は隣の国どうしは、大概どこに行っても仲が悪いものなのです。
これはある意味で、もう仕方のないことです。
世界中、どこに行ってもそうですし、いつの時代もそうですからね。(笑)

実は、隣の国と仲良くするためにこそ、遠交近攻外交が必要なのです。
つまり、隣の国のすぐ後ろにある国と仲良くしておけば、隣の国が、自国に攻め入ろうとした時に怯む訳ですね。

「挟み撃ちにされるかも知れない。」

こう、思わせることが、外交では重要なのです。

これは鉄則ですので、今も昔も変わりませんので、今なら、中国の軍事的な動きを封じたかったら、インドやロシアやウクライナが、日本にとって重要な相手国となります。

卑弥呼の”魏”への外交は、まさしくこの、朝鮮半島国家群を対象とした、遠交近攻外交の効果を狙ったものだと思います。
つまり、朝鮮半島諸国の、日本に対する軍事行動をさせないために、魏に使者を送り、国王の称号をもらったと思われます。

「巫女の舞」の画像検索結果

漢の倭の奴の国王の金印を、発行したのが”魏”だとすれば、それは、魏国が存続する限り有効のはずです。
朝鮮半島諸国からすれば、魏はすぐ隣の超大国ですので、ウカツには、卑弥呼の邪馬台国に手出しは出来ませんね。

卑弥呼の邪馬台国に攻め入ったら、大国魏が、後ろから攻め入る大義名分を与えてしまうからです。
当時朝鮮半島南部にあった、任那(みなま)日本府も安泰です。
また任那が安泰なら、日本列島は安泰です。

この朝鮮半島における国防の観点の重要度は、古代も現代も変わりありません。

そして重要なことがもう一つあります。
それは魏や、当時の朝鮮半島諸国は、九州にいる卑弥呼こそ、倭=邪馬台国の女王であると思ったはずなのです。

普通に魏志倭人伝を読む限り、大陸からの使者は九州に立ち寄ります。
そこには、ヤマトの国の軍の本体があり、それなりの国らしきたたずまいがあります。
使者の目には、邪馬台国=九州がインプットされるはずです。
そして何より古来より、ヤマトの国は九州にありましたので、そう思われて当然です。

卑弥呼が魏に使者を送り、記録を取らせ、国王の称号を得たことは、国際的対外的に、卑弥呼こそ倭=邪馬台国の王であり、その場所は九州にあると、周辺諸国での認知は確定し、決定的になったはずです。

実はこの、対外的な九州邪馬台国の認知こそ、卑弥呼外交の真の目的なのではないのか?
この仮説から、卑弥呼の邪馬台国囮(おとり)説を、私は思いつきました。

なぜかというと、そうであるならば、その後の出来事が、全てつじつまがあうからなんです。 (笑)

あらら、最後まで行き着いていませんね。謎が謎を呼ぶ、歴史のミステリー、また書いてみたいと思います。

では本日は、経典『黄金の法』(幸福の科学出版)より、大川隆法幸福の科学グループ総裁が、日本神話の成り立ちについて語った一節をご紹介いたします。

       (ばく)

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幸福実現党・大川隆法総裁「日本の進む道」抜粋②【国家社会主義への警鐘】

 

 

【2014年 幸福実現党CM】もし消費税が10%に増税されたら?逆に5%に減税したら?

 

 

黄金の法 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=154

日本列島の歴史自体はけっこう古く、現在の形がほぼできあがったのは、今からおよそ三万年ぐらい前のことでした。

日本の文化程度が急速に高まってきたのは、約一万五千年ほど前に、ムー大陸が沈下し、ムーの住民のなかの約数百人が、海路、現在の九州地方に上陸したとき以来です。日本の先住民族の人たちから見ると、近代的な科学の原理に通じていたムーの人々は、まさしく神の降臨に近かったと言えます。そして、この頃の伝承が、後の日本の神話の土台となったのです。

さて、現在に至る日本文化の最初の土台をつくったのは、今からほぼ二千八百年ほど前に地上に降りた高級霊たちでした。紀元前八三○年頃、まず、天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)が、現在の九州は高千穂峰に出生。八次元最上段階の如来が、日本の国づくりのために肉体を持ったのです。これは、釈迦出誕の二百年前、孔子生誕の三百年前、ソクラテス降下の三百数十年前のことでした。

天御中主命を天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)ともいい、宇宙神とか、根本神というように考える人も多いようです。

しかし、人類の実際の歴史が、歴史学の射程距離をはるかに超える四億年もの歩みであることを考えると、約三千年もの昔に生まれた方だからといって、宇宙神や根本神だというわけではありません。天御中主命は、やはり人格神、すなわち、高級霊であって、日本の基礎づくりに励んだ方なのです。この日本古代の「神」という言葉は、「上」に等しく、傑出したカリスマ性のある人物に対してよく使われました。

天御中主命は、現在の宮崎県を中心とした南九州に、一大勢力圏を築いた政治家であり、しかも、宗教家でもありました。もちろん、彼以前にも、国王的な方たちはおりましたし、それは、連綿と続いてはいたのですが、神の言葉を伝える者が国を治めるという姿勢をはっきりと打ち出したのは、天御中主命からなのです

その意味において、天御中主命は、日本の宗教的中心であり政治的にも中心であることが多かった天皇の草分け的存在だったと言えるでしょう。(中略)

御中主がつくった南九州政府は、高千穂国(たかちほのくに)と呼ばれました。ここの第二代の国王に選ばれたのが、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)です。(中略)

そして、次に出て来た三代目の国王が、神産巣日神(かむむすひのかみ)です。(中略)ここに挙げた三人とも、八次元如来界の方であり、日本神道の格を高めた方です。(中略)

天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。
『黄金の法』(幸福の科学出版)P194~200

 

映画『黄金の法』特番③

 


スサノオ追放伝説と、出雲の国譲り伝説は、ヤマト・出雲の軍事同盟か⁉

2018-11-10 23:25:12 | 古代文明

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本日もご訪問、本当にありがとうございます。 

拙ブログでは、ちょっと変わった視点から、日本の古代、今の日本の原型ができた大和朝廷発足の謎を探ることがあります。

幸福の科学も大川隆法総裁が、超がつく人類の歴史、そして古代の歴史を霊的な視点から解き明かしておりますが、私も地理、そして考古学ヲタク的な視点から見ておりますが、神話の探求からも見てみたいと思います。

私が、勝手に唱えている(笑)神武東征伝説は、当時急速に軍事力を増強させていた朝鮮半島国家群に備えて、天皇を安全な場所=奈良盆地に移動させるための遷都と位置づけております。 

その根幹は、「神武東征の大部分は交渉であり、その交渉のアイテムとして、米や酒の技術が全国に伝播し、交渉成立のお祝いが祭りだった。」というものです。 

こう見ると、日本神道の儀式の大部分が説明がつくのですね。

私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?と考えています。

今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、非難されるものかも知れません。(笑)

卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也と、お怒りになるやも知れません。

しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。

たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その代表的な例です。
イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありませんね。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。
これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのです。

イエス様の誕生日が、12月25日というのも、か・・・な・・・り・・・怪しいです。
恐らく、冬至=イエス様ご生誕日と、キリスト教伝道者が、勝手に決めちゃったんじゃないでしょうかね。(笑)

仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムです。

これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。

お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が、一堂に集まるとさすがに臭いです。(笑)

それで香を焚く工夫が、お釈迦様当時からなされていたはずです。

ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道や、普及過程での背景などにも、かなり影響されているはずなのです。

私はこの期間における、九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の、日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?と考えています。

さて、日本神道と言えば、宗教建築物は神社です。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。 

森の中に宗教施設を作るのは、世界では日本の神社だけなのではないでしょうか?

普通ですと、宗教施設は、もっと人が集まりやすい場所や、目立つ場所に作るはずです。

さて、縄文時代の集落は、主食である ”栗” の林に囲まれていました。

縄文後期が発祥と思われる日本神道ですので、その宗教施設である神社が、木々の蔽い茂る中に作られたのは、こういった歴史的背景があると思われます。

また、九州ヤマトの国の使者と、縄文系代表とが、秘密の交渉をするには、木々の蔽い茂る森林は、もってこいの条件だからです。

神社といえば、祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。

例えば柏手(かしわで)は、一種の「合言葉」的な要素や、もしくは、「会議の開始の合図」というものではなかったでしょうか?

その様子は、このようなものと思うのです。

ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠(ほこら)を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?

交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。

今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。

4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く 【お手まき】 5月下旬に【お田植え】、そして、10月上旬に【お稲刈り】をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の【新嘗祭】という、収穫を感謝する祭儀で使われます。

また今でも、お祝い事の際には、赤飯(せきはん)が炊く習慣がありますよね。
めでたいから赤い色を着けるのかと、私も最近まで思っていましたが、しかしどうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのです。

その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。

それが、日本神道における最高の司祭としての天皇という位置付けの原型につながると思います。

世界遺産・下鴨神社の鎮守の森。二千年の歴史に抱かれる邸宅。

さて、遺跡等を見る限り大和朝廷発足以前の日本で、もっとも軍事力の強い地域は、どう見ても九州です。

それは遺跡からみて、国内では圧倒的な軍事力を、九州が保持していたことは確実で、鉄器など日本唯一のスーパー軍事力を有する当時の九州であれば、兵器の出土しない縄文的牧歌的な当時の日本国内を、軍事力で平定するのは容易だったに違いありません。

しかし困ったことに、当時の朝鮮半島国家群を、日本列島に引き入れないようにするためには、九州から軍備を移動できないのです。

ですから軍隊を九州から動かさず、また、天皇が近畿に移動していることも、朝鮮半島側に悟られないように行う必要性があったはずで、九州のヤマトの国と、他の地域との交渉は、朝鮮半島側に見えないように工夫される必要があり、そのために、うっそうとした森林で、拍手(かしわで)や鈴といった、神社で行う作法を合言葉にして、秘密裏に行われていた可能性が高いと思います。

神社と言えば、必ず「鎮守の森」にありますけれども、宗教施設が周囲から見えないように立っているのは、世界の中で日本の神社くらいではないかと思うのですが、これは日本神道発祥の時点において、「秘密の交渉」をしていたのではないかと思うのです。

しかしここで、ひとつの疑問点が出てまいります。現在の島根県にある出雲大社です。 

出雲大社だけは、日本神道の特徴的儀式である拍手(かしわで)の数が、他の神社とは違っていて、通常ですと二拍手ですが、出雲だけは四拍手なのです。

 

そして10月のことを、神無月(かんなづき)と言いますが、出雲地方だけは、10月に全国の神様が出雲に集結するので、神在月(かみありつき)と言います。 

明らかに、出雲は別格で、「どういうことなのか?」と思うのですが、この日本神話の謎を、私流に解き明かしてまいるならば、出雲地方、現在の島根県の地理的な特徴から迫って見たいと思います。

出雲地方に面する海は日本海です。

実は出雲地方沖には、対馬海流という暖流が、西から東へと流れていて、当時の船ならば、朝鮮南端から最も早く付くのは、出雲地方なのですね。

北九州地方が、直線距離的には近いのですが、海流を使って移動することを考えれば、出雲の方が便利な地域なのです。

 

つまり出雲の国は、朝鮮半島国家群と、九州にあるヤマトと同等以上に、つながりが深かった可能性が高いのです。 

そして出雲だけが、四拍手。 

これらを総括して、神代の時代のヤマトと出雲の関係を探り、出雲の国譲り伝説を推測すると、ヤマトと出雲は、同盟関係だったのではないでしょうか?

以前の記事では、奈良盆地の地形的条件から、神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にあるということを述べましたけれども、要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られたということです。

奈良要塞都市説と言っても良いですね。

つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。

奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
攻め込めば被害は甚大となるので、私ならば、さっさと諦めます。(笑)

地元での、何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと考えます。 

盆地には、大軍は入れませんから、あったとしても、ごく小規模のものだったはずです。

matsuri_eye 

そして交渉成立が成れば、酒と米とでお祭りが始まる・・・。

だから日本人は、お祭り好きなのかもです。(笑)

また、今でも神社での行事では、身を清めるということを重視します。

体を洗い、清潔にし、口を水ですすぐ。

これらは、日本人の清潔好きから来たとも言えますが、ひょっとしたら、縄文系の代表が、ヤマトの使者との会見の時に、体を拭かされたのではないでしょうか? 

体を拭くには、衣服を脱がなければなりません。

そうすると当然、武具を身に着けているわけにはいきませんからね。 

ということで、神代の時代=弥生時代が、いつの間にか、米作が広がり、いつの間にか、都が奈良になり、いつの間にか、日本神道が普及しているのは、それらを、九州ヤマトの国、今の天皇一族に関係する人たちが、平和的交渉を機軸にして、日本の東方に押し広げたからではないでしょうか? 

こう見ることで、解ける謎があります。 

出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の、有名な国譲り伝説と、日本古代最大のミステりーと言われる、卑弥呼の邪馬台国です。

つまり、出雲が四拍手、また他のヤマトを宗主国とする、ヤマトの傘下に入る地域が二拍手なのは、交渉を別にすることが目的だったのではないでしょうか? 

なぜなら、傘下に入る地域に、同盟の内容を知られては困るからです。

それは今であれば、傘下に入る企業が、提携関係を模索している企業との交渉に同席できないのと同じです。 

また出雲の国が、朝鮮と親密であれば、近畿への遷都をしていたヤマトの動きを、出雲の国側に知られても困るはずなのですね。

ですから、出雲と他の地域とでは、接点がないようにしないといけないはずなので、「出雲だけが四拍手」なのではないでしょうか?

  

そして最終的に、出雲は今の日本列島の支配権をヤマトに譲ります。

しかし重要なのは、出雲地方の支配権は譲らなかったことです。

「出雲は、我々が支配する。」

この言葉は、一見、意味不明言語です。「出雲」というのが、今の島根県北部地域の名称とは限らない可能性があります。

この場合の「出雲」の言葉がもたらすのはどういう意味でしょうか?

それは、今の島根県地方に加え、朝鮮半島にあった交易権のことも、含んでのことではないでしょうか?

つまり、「日本列島は、あんたらヤマトが支配すれば良い。」「しかし代わりに、朝鮮半島との交易権は、出雲の国が独占させてもらうよ。」

これが、出雲の国譲り伝説の本質ではなかったかと思うのです。

なぜならば、天照大神の弟の荒神スサノオノミコトは、高天原から人間界に追放されますが、その後、出雲に赴くのですね。

スサノオノミコトは、出雲の根源神でもあるんです。

当時の感覚や言い方で、人間界とは朝鮮半島であり、任那(みまな)など今の朝鮮半島南端と、現在の島根県周辺を合わせたものが、広義の「出雲」と言われていたのではないでしょうか?

そして高天原とは、日本列島諸国のことだったとすれば、出雲の国譲り伝説の意味が、つじつまがあってくると思います。 

つまり、朝鮮に日本の支配権があったことは、縄文遺跡やその後の任那日本府などから明らかですが、任那を実質的に支配し、交易の権益を持っていたのは、出雲の国なのではないかということです。 

そして、ヤマトが日本列島を統治権を持ち、出雲が大陸との交易圏を持つことは、両者にとって、最もWinWinな交渉でもあるのです。

日本の支配権以外の、武装化した朝鮮半島国家群から見れば、九州の強国ヤマトと、朝鮮半島に権益を持つ出雲とが同盟を結べば、そうやすやすと侵攻できませんし、ヤマトと出雲は、お互いの取り分を確認できますから。

出雲大社は、伝説の高層建築の神社を、海に向かって建っていたというのも、最近の考古学的な発見ですが、これはつまり、朝鮮半島国家群の、海からの進出を見張るためと考えれば、つじつまが合うのです。

まとめると、ヤマトと出雲の同盟こそ、出雲の国譲り伝説の本質であり、スサノオの追放先は、当時の朝鮮半島ということになると思うのです。

本日は、幸福の科学の時間論であり、神の歴史書でもある経典『黄金の法』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。

       (ばく) 

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【2014年 幸福実現党CM】もし消費税が10%に増税されたら?逆に5%に減税したら?

【釈量子の未来対談】第1回 首都直下型地震「日本の防災を考える」~幸福実現党~

 

 

黄金の法 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=154

 

天照大神は、日本神道系では、最高神、あるいは、主宰神のように言われております。というのは、天照大神は、女性でありながらも、初めての女帝の地位、すなわち、高千穂国の女王となったことに起因しているのです。天御中主命から数えて五代目ぐらいの国王にあたります。

天照大神が初めて女王となったのは、高天原、すなわち、八次元如来界から天御中主命の神示が下ったからです。「我が国を、美しく、麗しき国となすために、女性に統治させるときがきた。伊邪那岐命という高徳の人がおられるから捜し出せ。その娘が、我が国を取り仕切る方である」と命令されました。

このように、神代の時代は、天上界からの神示を受けて、次期政権担当者が選ばれたのです。しかも、国王の地位も終身制ではなく、その人の心に邪心や欲心が出てきた場合には、天上界から神示が下って交代させられました。

祭政一致とよく言いますが、当時は、霊能者の数も多く、また、人々から大変な尊敬を受けていたのです。普通は、最高の霊能者が統治者となり、神示を仰ぎつつ、国政を取り仕切っておりました。

高級霊からの神示は的確で、だれひとりとして異論をはさめず、そのため、政治に秩序があったと言えます。

その時代にくらべると、現代の政治家たちは、知名度によって選出され、数のカで支配しており、やはり無秩序の感を免れえません。

真理に対して盲目の人々、権勢欲のみに目がくらんでいる人々による衆愚政治の観があります。一日も早く、徳治政治への切り換えが、また、人徳ある人の出現による政治の向上が望まれます。
『黄金の法』(幸福の科学出版)P199~201


朝鮮半島問題を安易にとらえると、日本は危機に陥ります。

2018-04-02 00:16:17 | 古代文明

 

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今月末に予定されている南北朝鮮首脳会談に向けての、日本政府の対応が見えてきません。

国会では相変わらず、森友加計問題、それに伴う、公文書改ざん問題ばかりで、「こういう場合はどうする。」「基本的な日本国家の立ち位置はこうだ。」という基軸が伝わってこないのです。

https://the-liberty.com/article.php?item_id=14298 https://the-liberty.com/article.php?item_id=14292

日本は歴史を学んでいるのでしょうか?

日本開闢以来、朝鮮問題=国難という図式だったのを忘れてしまっていないでしょうか。

南北朝鮮が、もしも、反日で統合されるようなことがあれば、人口7000万人以上、核兵器を有した100万人以上の軍人を持つ国家が、すぐ隣に出現することになりますが、さあそうなったとき、日本の国防は絶望的になります。

かつて、古代の日本において、九州で後の大和朝廷の元となる勢力ができたのも、その九州ヤマトの国が、近畿に勢力を移したのも、当時大陸で発足した『国家』というものからの脅威を防ぐためであったと、私は個人的に考えています。

奈良盆地に遠征したカムヤマトイワレビコ(神倭伊波礼毘古命。初代神武天皇)は、近畿の奈良盆地を制圧したとありますが、なぜ奈良盆地であったかは、「奈良盆地が鉄壁の要塞だったから」と何度か述べましたけれども、ではどうやって、「鉄壁の要塞奈良」を制圧できたのでしょうか?

盆地は山に囲まれ、大軍の侵入を阻みますし、川も途中では激流になるので、大きな船も入れません。

また、山の抜け道を知る地元の人物なら、ゲリラ的に、また一方的に侵入者を攻撃できます。

そのように、防御に長けた盆地ですが、たったひとつだけ攻略する方法があります。

それは、全方位囲い込みです。

すると盆地は、物流が入らなくなり、特に海に出る道が塞がると、塩の道がなくなるので、盆地の人々は生きていけないのです。

塩というのは、最近では高血圧の原因のように言われますが、水の次に重要なミネラルです。

カリウムは細胞が壊れるたびに血中に出てきますが、ナトリウムは体内で生産できないので、摂取しない限り、身体から減る一方です。

ですので身体は、水とナトリウムによって、細胞の形を維持していますので、塩などのミネラル不足は、長期間の生存を危うくしてしまうのです。

古事記によれば、一度カムヤマトイワレビコ(後の神武天皇)は、奈良盆地制圧に失敗し、その後「我々は日の神の御子だから、日に向かって(東を向いて)戦うのは良くない。廻り込んで日を背にして(西を向いて)戦おう」と、部下の進言を聞き入れて、東側から奈良盆地に踏み入り、神武東征を成したとあります。

これが意味するものは、第1回目の戦いの時には、奈良の東側、つまり「今の三重県側は、奈良勢力側を唯一応援していたが、第2回目にはカムヤマトイワレビコ側についたので、奈良勢力は塩の道が断たれたと判断し、短期間で降参した。」ということを象徴的に語っているのではないでしょうか。

いくら太陽を背に戦うのが兵法にかなうと言っても、太陽は東から南、そして西に移動しますので、「太陽を背に戦って勝利した。」ならば、極めて短時間で決着をつけないといけません。

奈良勢力には、盆地の東側から攻め入るカムヤマトイワレビコ軍を見るだけで「三重県側の国は、カムヤマトイワレビコ側についた。」と判断できたはずです。

では、どうすれば、今の三重県側を攻略できるでしょうか。

こういう視点ならば、伊勢神宮の位置が、とても妙なる場所にあるように思えてなりません。

伊勢神宮のある場所が、三重県を攻略するのに、とても適している地域であるからです。

これまで何度か書きましたが、神代の時代と思われる弥生時代の前の縄文時代は、優れた海洋文明でした。

伊勢神宮のある志摩半島の入り江は、軍港を造るのにとても適した地域だと思っても、何ら不思議ではありません。

つまり、優れた海軍力があれば、大きな戦いなく、三重県側を攻略できるのです。

幕末、薩摩の西郷隆盛や徳川幕府の勝海舟らの尽力により、260年続いた江戸幕府の居城江戸城は無血開城となり、最小限の戦いで明治維新革命は成りました。

これと同じようなことが、神代の時代にもあり、それが神武東征伝説として残って、古事記や日本書紀に記されているのではないでしょうか。

つまり、今でも日本神道の重要な聖地である伊勢神宮は、奈良の大和朝廷発足時における、とても重要な拠点でもあり、伊勢神宮があったからこそ、大和朝廷は平和裏に発足できたのではないでしょうか。

問題は、そこまでして、攻めにくい盆地に攻め入ってまで、奈良盆地に都を構えた歴史を、日本は経験しているという事実です。

それは、「よほどの危機感があった。」と見るべきです。

こういう風に日本の歴史を見るならば、神武東征伝説は、単に伝説やおとぎ話ではなく、「神話」は、重要な教訓を含んだ「逸話」となって、現在起こっている諸問題に対しても、とても重要なヒントを提示してくれるものに見えてきます。

そこから見えてくるのは、日本が神に愛された国であると同時に、今の日本がとても危険な状況で、甘い判断をしたり、判断を誤るようなら、未来の国家や民族の存続は、極めて極めて厳しいものとなりうるということなのです。

日本は真の意味で歴史を教訓とし、そして、真実の国の在り方と誇りを思い出して、世界に善き影響を与える使命があることを自覚するべきだと思います。

本日は幸福の科学の経典『救世の法』(幸福の科学出版)より、聖徳太子以降、日本神道と仏教の融和から始まった、奇跡の宗教立国日本の誇るべき歴史と、今後日本が世界に提示するべき方向性について、大川隆法幸福の科学グループ総裁が述べられた部分をご紹介いたします。

           (ばく)

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救世の法 あとがき ver

 

「アンサー」vol.23.~憲法9条の適用除外とは何か?~【幸福実現党】

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=51

昔、仏教が日本に伝わってきたときには、「仏教を入れよう」と主張する蘇我氏と、「日本古来の神が怒るから駄目だ」と主張する物部氏との間で戦いが起き、多くの血が流れましたが、聖徳太子が仏教を入れました。

通常、外来の宗教を入れると国産の宗教は滅びるものですが、聖徳太子は、日本神道を滅ぼさずに仏教と融和させました。

神道という枠組みのなかに仏教の教義を取り入れて、日本の国の基礎をつくったのです。

日本神道そのものには、形式としての儀式はありますが、教えがなかったので、この“中空状態”の部分を仏教の教義で埋めることによって、日本を先進国にしようとしたわけです。

その意味で、聖徳太子は偉かったと思います。

ユダヤ・キリスト教圏においては、「千年王国」という理想があります。

これは、私が説いている「仏国土・ユートピア」のような世界です。

「メシアが現れて理想の国を築き、その王国が千年間続く」という、「千年王国」の思想があるのです。(中略)

ところが、日本を見てみると、聖徳太子も偉大でしたが、そのあと平安京をつくった桓武天皇も偉大です。
桓武天皇は、奈良の平城京から京都の平安京に都を移しました。平安京は唐の都をまねたと言われていますが、京都盆地に碁盤目状のきれいな街路をつくり、宗教都市を築いたのです。

そこには、神道と仏教、さらに道教の思想まで入っていました。もちろん、神道は、もともと孔孟の儒教思想も内に秘めているので、儒教とも関係があります。

そのような宗教の融和のなかで、新しい宗教国家を目指したのが桓武天皇であったと思います。

その平安京、すなわち京の都は、「鳴くよ(七九四)ウグイス平安京」という、年号の覚え方で有名な七九四年から、明治維新で東京に首都が移るまで、一千百年ほど続いています。

したがって、「千年王国」の理想は、実は日本では現実に成立したことなのです。宗教都市がつくられて、その都が千年以上栄えたわけです。

その都には、「宗教的寛容性のなかで、多様な思想を受け入れつつも、信仰心をきちんと立てて政を行う」という姿勢がありました。(中略)

京都という、日本の宗教都市で起きたことを、次は国際レベルで考えてみる必要があると思います。(中略)

私は、幸福の科学を私一代で終わるような宗教にはしたくありません。

そして、「幸福の科学の教えは、二千年、三千年と続いていってほしい」と思いますが、その前段階として、まずは千年王国を目指します。

すなわち、千年は繁栄が続くような宗教の基盤をつくり、立派な宗教国家を建設したいと思っています。

宗教立国をなし、日本をほかの国の模範としたいのです。

「日本を見習いなさい。日本のようにすれば、宗教戦争も終わるのだ」ということを示したいと考えています。

諸宗教のよいところを取り入れ、諸宗教が仲良く融和する、「宗教を尊重する国家」をつくりたいのです。
『救世の法』(幸福の科学出版)P141~146

 

映画「さらば青春、されど青春。」予告編


少なくとも、卑弥呼の時代から、朝鮮問題はあったはずです。

2018-03-20 00:46:10 | 古代文明

幸福の科学の映画「君のまなざし」のワンシーン(2017年)

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今国会では、森友公文書改ざん問題ばかりが注目されています。

今日本は、コップの中での争いをしている暇があるのでしょうか?

まるで日本に、国難であるとか、国亡の危機などないが如き、政治における時間の使い方ですね。

もしもとある人が、お医者さまの言うことを聞かず、花粉アレルギーが不愉快だから、免疫抑制剤を大量に飲んで、肺炎になったとしたら、どういう対応をしますでしょうか?

それが今の日本の姿なのです。

日本は、常に朝鮮半島からの、永続的な侵攻を恐れていたというのが、歴史を振り返って見える真実です。

不思議なことに、そういう視点があれば、日本の歴史のほとんどが理解できるのです。

歴史というのは、「過去」という亜空間の物語ではなく、「その時折に起きた日常」なのです。

そして、過去の人が、今の人たちと比べて、特別に劣っていたわけでもなく、その時折において、精一杯の判断こそが「歴史」なのです。

そういう視点でもって、有名な卑弥呼の物語を、中国の魏の時代の外交資料、「魏志倭人伝」から読み取ってみたいと思います。



さて古代日本の邪馬台国の卑弥呼外交は、一般的な説としては、「大国魏(ぎ)の後ろ盾を得て、邪馬台国国内をまとめるために使ったのではないか?」と言われることが多いですが、しかし私は、対朝鮮半島国家群向けの外交だと思います。

これは、「遠交近攻」と言って、外交戦略の鉄則中の鉄則で、とてもよい見本と呼べるものです。

そう思うのは、当時の邪馬台国(ヤマトの国の音読み)にとって、遠国「魏」との同盟は、日本国内向けの演出としてはほとんど効果はないのですが、眼を転ずるに、朝鮮半島国家群に対しての効果は絶大だからです。

一般説はあまりにも、「当時の日本は、占いで政治をしていたくらいだから、レベルが低いに決まっている。」という先入観を元に、日本の歴史を見過ぎていると思います。

魏志倭人伝を読むと、邪馬台国の北の国境は、狗邪韓国(くやかんこく)とあります。
ということはつまり・・・、邪馬台国は、その時既に、朝鮮半島に領土を持つ大国だった”可能性”があります。

”可能性”と言うのは、相当弱気な発言ですね。(笑)
字面をそのまま読むと、そういうことになります。(爆笑)

つまり少なくとも、朝鮮半島情勢に合わせて外交をするという、高度な外交価値判断が必要な状況に、当時の邪馬台国は十分に達していたということです。

魏国の公式外交文書である「魏志倭人伝」を、素直な心で読む限りは・・・。



ただ、当時の日本には、”国家”という概念が十分でなかったかも知れませんし、もしくは、機能としての国家が、存在しなかったかも知れません。

当時大陸では、既に”国家”が形成されていました。

ですから日本でも、きちんと国家を形成しない限り、時の流れにおいては危うかったのだと考えます。

パパママストアーが、長い眼で見れば、大手スーパーやショッピングモールにかなわないみたいな感じと、表現すればいいでしょうかね。

ただ、文化圏とすれば、当時の日本は、十分なものはあったはずです。

また恐らく、海洋文明である縄文時代に、既に日本人は、朝鮮半島諸国と交易などの人的交流を、既に相当行っていたからだろうと思われます。

そして、領土かもしれないし、はたまた文化圏なのかも知れませんが、任那(みなま)という日本人居留地も朝鮮半島内あり、朝鮮半島国家群とは、実際には相当密接な関係にあったはずです。

その証拠に、縄文土器や古墳など、日本古来の製品や文化を思わせるものは、古代朝鮮の地層から、結構たくさん出土します。

しかし教科書的には、飛鳥時代にあったと言われる朝鮮半島南部の任那は、今や「日本人の妄想説によるもの」とまで言われ始めています。

しかし縄文時代遺跡を素直な心で見る限り、当時の日本は、沈まぬ舟による高度な海洋文明でしたので、朝鮮半島南部くらいは、当時の日本人にとっては、”向こう岸感覚”だったと思います。

現実的に朝鮮半島南部からは、古墳が発掘されます。
古墳は、”墓”です。

つまり、「古墳」という、死後の遺体を埋葬する機能を持ったものが発掘されるということは、それがたとえその発祥が、いずれの地域であったとしても、その古墳が発見される地域の当時の人々というのは、少なくとも、「古墳の広がっている地域においては、そこで暮らす人々は、死生観を共有していた。」という、明らかな証拠です。

どちらが主要国で・・・とか、古墳の発祥が、どこの国で・・・というのは、古墳が見つかることではわかりません。
しかし、「共通の死生観を共有する地域であった。」ということは確実なのです。

つまり、古墳から導き出される歴史的真実として、古代日本と朝鮮半島南部は既に、同じ宗教を持つ間柄であったことには間違いがないのです。

これらを総合するに、卑弥呼外交は、朝鮮半島内における邪馬台国の、影響力強化や地位確立に、多大なる影響力を、それも相当長きに渡って持ち続けたはずなのです。

「漢の倭の奴の国王」という称号は、魏が存続する限り有効だからです。

見事です。

倭国(日本)の、一人勝ち外交なんですね。

その影響力が、保てなくなったので、その後の時代に、聖徳太子の遣隋使が始まったのかも知れませんよ。

中国では、王朝がコロコロ変わりますからね。(笑)

魏などの漢民族は、本来、海の外には全く興味を持たない、完全な大陸系民族です。
ですから、当時の超大国魏が、九州邪馬台国に攻めて来る危険性はありません。

しかし漢民族は、陸続きならば進入して来ます。
ですから、朝鮮半島諸国はビビリます。

朝鮮半島国家群が日本列島に、いや半島南部の任那にも攻め入ることができなくなるのです。

さて、「漢の倭の奴の国王」という称号の影響は、それだけにとどまりません。
ここからが本題です。(笑)


「魏や、朝鮮半島諸国から見た”倭=邪馬台国”は、九州にある。」対外的には、そう見えます。

中国(魏)や朝鮮国家群からは、そうとしか見えないのですが、そこがミソなんです。(笑)

卑弥呼外交が成功すれば、朝鮮半島国家群は日本や韓半島南部の任那にも入れないばかりか、「ヤマトの国の正規軍を、九州地方に温存しての、奈良への遷都」という、歴史の離れ業が可能だからです。

つまり、卑弥呼の邪馬台国が、九州にあると中国や朝鮮半島国家群に思わせることが重要で、それが、卑弥呼の邪馬台国の正体だと思います。

つまり、初代神武天皇による、奈良に都を移したヤマトの国の囮(おとり)です。

それができれば、平和裏に、ほとんど軍事的行動を起こさずに、奈良盆地へ遷都することができるからです。

というように、日本には「歴史の重み」があります。

それは誇るべきであるし、それは、「他国への配慮」という観点でゆがめるものでもないです。

本日は経典『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)より、大川隆法幸福の科学グループ総裁が、憲法への考え方に言及した一節をご紹介いたします。

             (ばく)

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「前世と運命の秘密」1-2 幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋

「アンサー」vol.22~学校教科書の歴史観について~【幸福実現党】

『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=113

日本国憲法は、敗戦後の占領下において、日本に主権がない状態のときに、占領軍の人たちが一週間程度で草案をつくり、それを日本語に訳したものに手を入れてできたものです。

草案づくりには、一部、学者も入ってはいましたが、学者ではない人も入っていました。占領下において、外国人が、どさくさに紛れてつくった憲法なのです。

つくった人たちも、「これを日本が六十年以上も守り続ける」とは考えていなかったでしょう。「十年もしたら、国として立ち直り、自分たちの自主憲法をつくるだろう」と思って、とりあえずつくったものだったのに、それが延々と六十年以上も残ってしまったわけです。

なぜかというと、結局、敗戦を契機として、宗教というものが日本から葬り去られ、表の存在から消えたため、日本国憲法を、宗教に代わる“御本尊”か“基本教義”として捧げ奉ってきたからです。

それが、戦後の日本の歴史であったと思われるのです。
そのため、日本国憲法を「不磨の大典」のように考え、決して変えることのできない基本教義のようなかたちにしてしまっています。

「イエスの言葉を改竄したり、仏陀の言葉を改竄したりしてはいけない」ということと同様に、「この憲法は、一字一句、変えては相ならない」というような感じになっているのです。

しかし、「日本国憲法は、そんなに偉い人が書いたものなのか」といえば、そんなことはなくて、雑多な人たちが集まって書いたものであり、内容的にはボロボロで隙だらけの文章なのです。内容には矛盾がたくさんあります。

今流に言えば、六十数年前の敗戦国・日本というものを、現在の北朝鮮のようなものだと思ってつくられた憲法だと思います。あるいは、イラク戦争で敗戦を喫したイラクにおいて、占領軍が憲法をつくるとしたら、こういうものをつくるだろうと思います。

したがって、日本人自らの手によって、憲法を、自分たちの幸福にとってふさわしいものに変えていく必要があるのです。

「硬性憲法だから、なかなか変えることができなかったのだ」という言い方もされますが、それは単なる言い訳にしかすぎません。勇気がなかっただけのことです。自分たちのイニシアチブによって変える勇気がなかったのです。

精神的には、「占領状態のままで、ずっといたかった」という甘えです。「占領状態でいるかぎりは、アメリカが守ってくれる」と考え、「アメリカが言ったとおりにやっているのだから、守ってください」というかたちで、六十数年間、やってきたのです。

しかし、そのアメリカも、今は傾いてきて、唯一の超大国、スーパーパワーから、幾つかある大国の一つになりつつあります。はっきり言えば、「日本のことまで、もう面倒を見切れない」という状況になりつつあるのです。「自分のことぐらいは、自分でどうにかせよ」というのが、アメリカの本音ではないかと思います。

「子供であっても、親よりも大きくなってきたら、自分のことは自分で解決しなさい」ということです。
そういう判断力が日本にないのは悲しむべきことであると、アメリカは見ていると思います。

「占領下において、マッカーサーは日本人の知性を十二歳ぐらいと言った」という話が伝わっていますが、小学生と中学生の境目ぐらいの知性にしか見えなかったのでしょう。しかし、もう大人にならなければいけない時期が来ています。

憲法の内容を分析し、現在の国の状況に適合した新しいスタイルに変えていくべきだと思います。
『幸福実現党宣言』(幸福の科学出版)P31~35


「拍手(かしわで)は、古代日本の合言葉?」と、人との距離の取り方。

2018-02-21 23:31:32 | 古代文明

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韓国平昌で行われている冬季オリンピックでは、日本人選手が大活躍です。

日本のメダル獲得が歴代最高だそうで、とてもすべてをご紹介しきれないと、大変申し訳なく思っております。

500mスピードスケート女子では、小平奈央選手がオリンピックレコードで金メダル獲得で、オリンピック3連覇を狙う、韓国の李相花(イ サンファ)選手を破りました。

小平奈央選手、本当におめでとうございます!

また試合終了後小平選手は、李相花選手の検討と努力を称えるがごとく抱き合い、共に会場を回りましたが、そのことが韓国民にも感動を与えたことが、ブログ『理想国家日本の条件』にも投稿されていました。金メダル・小平奈緒は、涙するライバル李相花を抱きしめた。韓国でも感動の嵐 「これが真のオリンピック精神」

 小平選手も李相花選手も、とてもすがすがしい表情をしていて、「これぞオリンピック精神!」と、北朝鮮のミサイル騒動や、何やら美女軍団やら、韓国大超量の北朝鮮訪問がどうのこうのとか、とかく腹黒い駆け引きばかりが着目されたオリンピックに、爽やかな光と風が吹いた如くですよね。

 

とかく韓国とは関係がぎくしゃくしがちですけれども、これには一定の法則があって、「日本から仕掛けることはない関係」であるということ。

日韓関係の歴史を見ても、いつも日本は、鷹揚としていると言えば聞こえはいいが、ボーっとしているところがあって、対応が遅いところがある。

それは古事記や日本書紀でも書かれているから、昔から日本人は、あまり変わっていないのでしょうね。

そんなのんびり日本ですが、その国家の成り立ちが、対朝鮮半島関係にあるとしたら、今の日本人は、少しは外交であるとか、国益であるとか、国家とは何かとか、そういうことを考えるのではないでしょうか?

それがこの小さな布教ブログが、「古代文明」というカテゴリーを設けているわけなんですね。

さて過去の記事で、私は奈良盆地の地形的条件から、「神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にある」ということを述べました。
要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られたということです。

奈良要塞都市説と言っても良いですね。

今日は、神武東征伝説と、日本神道の宗教儀式の関連に迫ってみたいと考えております。

私はこの神武東征の期間における、「九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?」 と、考えています。

今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、非難されるものかも知れませんし、「卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也。」と、お怒りになるやも知れません。

しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。

たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その代表的な例です。


イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありません。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。

これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのです。

イエス様の誕生日が、12月25日というのも、か・・・な・・・り・・・怪しいです。(笑)
恐らく、「冬至=イエス様ご生誕日」と、キリスト教伝道者が、勝手に決めちゃったんじゃないでしょうかね。

仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムです。

これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。

お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が、一堂に集まるとさすがに臭いです。(笑)

それで香を焚く工夫が、お釈迦様当時からなされていたはずで、それが線香の成り立ちでもあります。



ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道や、普及過程での背景などにも、かなり影響されているはずなのです。

さて、日本神道と言えば、宗教建築物は神社です。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。

森の中に宗教施設を作るのは、世界では日本の神社だけなのではないでしょうか?

普通ですと、もっと人が集まりやすい場所に作るはずです。



縄文時代の集落は、主食である ”栗” の林に囲まれていましたので、神社が木々の蔽い茂る中に作られたのは、こういった歴史的背景があるのではないでしょうか?

また、ヤマトの国の使者と、縄文系代表とが、秘密の交渉をするには、木々の蔽い茂る森林は、もってこいの条件だからです。

そして祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。
一般的な神社では、柏手は2回で、出雲大社だけは拍手4回です。

この一連の、神道の儀式、建築文化は、神武東征という名の、ヤマト国の使者と他の国々の代表者との、”極秘の打ち合わせや交渉で使われた儀式”なのではないでしょうか?

つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。

奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
私ならリスクの高すぎる盆地は、軍事的侵攻をさっさと諦めます。(笑)

盆地は、地元での何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと考えられ、あったとしても、ごく小規模のものだったはずです。

なぜならば、盆地には、大軍は入れませんから。つまり、「東征」という軍事行動ではなく、大部分は「交渉」だったはずなのですね。

そして、交渉の場所や打ち合わせ方法、交渉成立の後の打ち上げの宴が、日本神道における宗教儀式に繋がったのではないでしょうか?

その様子は、このようなものではなかったでしょうか?



ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠(ほこら)を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?
それが、『日本神道における最高の司祭としての天皇』という位置付けの原型につながると思います。

そしてそこに、縄文系の代表者が、ヤマト国の使者に会いに来た時の”合言葉”的なものが、まず鈴を鳴らし、拍手2回(出雲国の使者には4回)だったのではないでしょうか?

交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。

今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。

4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く『お手まき』、5月下旬に『お田植え』、そして、10月上旬に『お稲刈り』をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の『新嘗祭』という、収穫を感謝する祭儀で使われます。



また今でも、お祝い事の際には、赤飯(せきはん)が炊く習慣がありますよね。
めでたいから赤い色を着けるのかと、僕も最近まで思っていましが、しかしどうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのです。

その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。

そして交渉成立が成れば、酒と米とでお祭りが始まる・・・と。

だから日本人は、お祭り好きなのかもです。(笑)

また、今でも神社での行事では、体を洗い、清潔にし、口を水ですすぐなど、「身を清める」ということを重視します。

これらは、日本人の清潔好きから来たとも言えますが、ひょっとしたら、縄文系の代表が、ヤマトの使者との会見の時に、体を拭かされたのではないでしょうか?

なぜならば、体を拭くには、衣服を脱がなければなりませんので、当然、武具を身に着けているわけにはいきませんからね。

ということで、神代の時代=弥生時代が、いつの間にか、米作が広がり、いつの間にか、都が奈良になり、いつの間にか、日本神道が普及しているのは、それらを、九州ヤマトの国、今の天皇一族に関係する人たちが、平和的交渉を機軸にして、日本の東方に押し広げたからではないでしょうか?

こう見ることで、解ける謎があります。

出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の、有名な国譲り伝説と、日本古代最大のミステりーと言われる、卑弥呼の邪馬台国です。

それはまた、後日改めて。

本日は、経典『人を愛し人を生かし人を許せ』(幸福の科学出版)より、人間関係における距離の取り方の重要性について、大川隆法幸福の科学グループ総裁が語った一節をご紹介いたします。

           (ばく)

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福を育てる考え方 天使のモーニングコール1377回(2018.2.17.18)

【NHK】小平奈緒 強敵下して金! スピードスケート女子500m<ピョンチャン>

 

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人との付き合い方で、もう一つ難しいのは、相手の侵入をどこまで許すかということです。

心の扉を開くと入ってくる。こちらが一歩さがると、もう一歩入ってくる。さらに一歩さがると、また一歩入ってくる。このように、どんどん入り込んでくる人がいるのです。このタイプの友達に困っている人はかなり多いと思います。

これは、友達付き合いを始めたが最後、家のなかに上がり、お米の数まで数えてしまいそうなタイプです。

一言でいうと厚かましいわけですが、こうしたタイプであるため、他の人から疎(うと)まれる人もいるのです。

したがって、オール・オア・ナッシング、つまり、友人なら全部受け入れ、友人でなければまったく受け入れないという考え方をとるのではなく、距離のとり方を常に考えておく必要があります。

「親しくとも、ここまで」という距離のとり方があるのです。

一定の距離をとっておくと、長く付き合えるのですが、その距離が短すぎると、お互いに干渉し合って、長く付き合えなくなることがあるので、距離のとり方を大事にすることです。

この辺を間違えると、相手にどんどん入ってこられて、いやになり、パシッと切ってしまうことになります。そうすると、相手は 「あれほど自分に好意的だったのに、てのひらを返すような反応をされた。納得がいかない」と考えます。

こうしたタイプの人は、「自分が入りすぎた」ということがなかなか分からないので、最初から少し距離をとっておいてあげることです。(中略)

相手によっては、空間的な距離だけではなく、心理的な距離をとることが必要なのです。心の部分においても、少し距離をとったほうがよいのです。

また、ある程度、魂の修行を深めている人の場合は、そうでない人とは少し距離のあるほうがよいのです。

心の修行を深めている人の場合、他の人と意見がピタッと一致することは少ないものなのです。

魂修行の段階に差があると、意見がなかなか一致しないのですが、そうしたものだと思って、心の部分では少し距離をとっておくことです。それが多くの人と長く付き合っていく秘訣です。(中略)

心理的な距離のとり方が上手だと、いろいろな人と付き合えるようになります。

ところが、たいていの場合は、深く付き合いすぎるか、まったく付き合わないかのどちらかになって、相手から学ぶものが少なくなっているのです。
『人を愛し人を生かし人を許せ』(幸福の科学出版)P131~134


【珍説】邪馬台国は2つあったのでは⁉

2018-02-10 23:54:31 | 古代文明

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平昌(ピョンチャン)オリンピックが始まりました。

日本勢の活躍が楽しみで、是非にとも頑張っていただきたいです。

しかしスポーツの祭典の裏で、北朝鮮では、同時期に軍事パレードを行うというのですから、こやつら日本的な感覚で読み取ろうとすれば見間違うこと間違いなしです。

まるで、「近くの平昌という町に、世界中から人質が集められたぜ。ふふふ。」と考えているかの如き行動です。

しかも同時に、韓国大統領に金正恩の妹を韓国政府に送り、「韓国大統領、北朝鮮に訪問なされよ。」と親書を送ったのだとか。

金正恩が本気で韓国と友好を結びたいと願うなら、それこそ全世界からマスメディアが集まっている韓国に来てみれば良い訳で、それを呼びつける形で、北に表敬訪問のスタイルを取ろうとしていると思いますね。

しかし、こういう言い方は韓国国民には申し訳ないのだけれど、私から見て、「かなり前頭葉が欠落しているのでは?」と思えて仕方ない文韓国大統領は、のほほんと「点数稼ぎのチャンス」とばかりに訪北しそうで怖い。

こういう朝鮮半島国家の危うい外交は今に始まったことではなく、古事記や日本書紀には書かれてあるので、少なくとも1300年前にはあったのですね。

千数百年経っても同じことを繰り返しているのだから、きちんと歴史を学ばないということは、本当に危ういです。

このブログでは、まぁブログ代表管理人が歴史好き、ひょっとしたら宗教より歴史が好きですので(爆笑)、「幸福の科学布教ブログとしてはいかがなものか?」と言われながらも、時折書かせていただいておりますが、今回は古代日本最大の謎に、チャレンジに挑戦でございます。

それは、邪馬台国(やまたいこく)の場所です。

邪馬台国には、九州説と近畿説がありますが、私はこの2ヶ所に邪馬台国があったと思います。

つまり、「邪馬台国は2つあった」ということです。

当時の北部中国大陸の国家(魏)の魏志倭人伝にでてくる邪馬台国はヤマトの国の中国読みで、九州ヤマトの国は対外的なヤマトの国で、つまりは朝鮮半島国家群向けの仮の国家、つまり囮(おとり)ではなかったかと思うのです。

さすれば、朝鮮半島国家群からの、強力な抑止力となるからです。

さて古代朝鮮からは、縄文土器や古墳が発見されまして、これは古代日本と朝鮮とに、深い交流があった証です。

 特に古墳は、死生観の共有の証であり、古代日本の歴史書と言われる古事記や日本書紀を読み解くに当たっては、こういう、当時の社会情勢を無視した、古代人=原始人といレッテルははずすべきだと思います。

レッテルは先入観ですから、真実を探求する姿勢ではないです。

縄文土器や黒曜石などの遺跡から読み取れる、ヤマトの国の前文明=縄文日本は、高度な海洋国家です。
かなり広範囲の朝鮮半島と交流し、文化圏や居留地があったはずです。

また、縄文文明には武具の発展した形跡が全くなく、完全な平和の文明です。

その後の中国の国家成立を受け、それに伴って発展した武具を手にした朝鮮半島国家群に押される形で、朝鮮半島南部の任那(みなま)まで撤退したのが、九州ヤマトの国の脱縄文のきっかけかも知れません。



弥生初期の遺跡、九州の吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)は、物々しい櫓(やくら)があり、警戒色の強い遺跡です。

このような明らかな軍事的緊張を表現した遺跡は、現在のところ九州でのみ発見されます。
これは、九州の人々は高い軍事的緊張を感じていたが、他の地域はそれほどでもなかったという証拠とも言えます。

それらの点を考慮しての、この時代の動きに着目して参ります。

さて、この九州を表舞台で、国際的にはとても目立つ形で行われた卑弥呼外交。

その裏で、初代天皇と言われている、カムヤマトイワレヒコノミコト(神武天皇)の「東征」と言われる、近畿地方への遷都が、卑弥呼とは対照的に、ひっそりと採り行われたのではないでしょうか?


私の考えでは、米と酒外交で、縄文系の東国の日ノ本の国々への段取りは、もう全て済んでおります。

栗を中心とした縄文JAPANを、米作中心の社会にしたのが、天皇を中心としたヤマトの国だったと思うのです。

ですから「東征」という軍事的行動を現す表記が、むしろ物々しすぎるのであって、実際は交渉だったと推測します。

恐らく、米と酒という新たなエネルギー源と、産業テクノロジーを引っさげたヤマト国の人々は、五穀豊穣の神、子孫繁栄の神として、縄文系の九州以東の日ノ本の民たちに、篤い信任(信仰)を得たのではないでしょうか?

東国縄文JAPANは、九州ヤマト国の長の遷都に、協力しない方がむしろ理に適いません。

陸路を通ったのか、海路を通ったのかは、はっきりとは私にはわかりません。
しかし恐らく、大部分は海路ではないかと思います。

この頃の古墳遺跡が、西日本各地で見つかりますが、近畿以外は、なぜだか各地に点在して存在しているからです。

ですから、陸路からキチキチと弥生化(コメ文明化)していたのではなく、海路で移動し、拠点拠点を弥生化していたのではないでしょうか?

そして九州ヤマトの国との、言わば連立共存関係を結ぶことで、他の地域は米の生産が可能となり、豊かさを手にできた、つまり日本各地に、今の天皇家の先祖の方々が米を普及し、同時に勢力を拡大させたということが、その後の、天皇を中心とした国つくり伝説として、日本神道の神事や、日本の神々の伝説として、後の世に語られていったのではないでしょうか?

そしてこれだと、九州に正規軍を残しての東征という、平和裏の遷都と勢力の東国への拡大、そしてその後の、近畿での大和朝廷発足という、歴史のウルトラCが可能なのです。
私には、それ以外の方法は無理だと思うのですね。

佐賀県神埼市吉野ヶ里町吉野ケ里遺跡

平和裏の東征というモデルは、その後の日本の歴史にも登場いたします。
明治維新のヒーロー、西郷隆盛の実例です。

西郷隆盛は、京都での鳥羽伏見の戦いの後、江戸無血開城に至るまで一戦も交えてはいません。
道中は、東海道も中山道も、徳川方の大名の領地ばかりです。
普通なら、戦を繰り返し、敵をなぎ倒し続けて、本拠地江戸に向かうのが常です。

なぜ新政府軍と幕府軍には戦がなかったか。
西郷が江戸に向かう前に、段取りは全て済んでいたからです。

西郷が主に戦ったのは、江戸城無血開城後の徳川勢力の残党との戦いです。
この時には、敵をなぎ倒し続けて、西郷ら新政府軍は北進しました。

幕末と同じことが、実際の神武東征でも行われたのではないでしょうか?
大和朝廷の戦いの史実やそれらを記した伝説は、日本武尊伝説など、近畿で大和朝廷ができて以降のものしか存在しないからです。

まとめると、国際的、対外的には、卑弥呼の邪馬台国(ヤマトの国の中国読み)が引き受ける、そして、いざ朝鮮諸国との戦になれば、九州の”卑弥呼の邪馬台国”が、防人として立ち向かう。

当時の国際的には、九州の卑弥呼の邪馬台国がどうしても目立つので、その裏でひっそりと行われている、近畿への政治拠点移しは、国の外からは見えないのです。

つまり、外交上の窓口と囮(おとり)としての役割も、卑弥呼の邪馬台国が兼ねる訳です。
そして、 新しい日ノ本(ひのもと)の、国づくりや国家形成は、大陸の影響を受けにくい近畿のヤマト(後の大和朝廷)が、静かにじっくりと行うというような国家体制作りが卑弥呼の時代前後に、執り行われたのではないでしょうか?

つまり、卑弥呼外交は、ヤマトの東国への拠点移動を、国際的に見えなくする、政治外交パフォーマンスであり、それは同時に、ヤマトの国が新たに、近畿に拠点を移す、最後の仕上げであった と、私は考えているのです。

魏志倭人伝から、卑弥呼登場は、今から1800年ほど前になります。
神武東征が行われたのは、日本書紀や古事記等の歴史書で言えば、今から2500年ほど前になります。
時系列的にもおかしくはありません。



むしろ、通常の歴史で言われている、卑弥呼→神武東征→近畿の大和朝廷説の方が、時系列的には無理があります。
短時間で行われていますから、当然激しい戦闘が必要です。
そのような伝説は、日本のどこにも存在いたしません。

激しい戦いがあれば、必ず伝説は生まれ英雄が生まれるからです。
この幕末や倒幕後の戦いには、ドラマが付きまといます。
現在も、大河ドラマで放映されております。

しかしたくさんの英雄が輩出した幕末でも、鳥羽伏見の戦いから江戸無血開城までの限られた期間には、伝説も英雄伝も存在しませんよね。
なぜなら、戦いそのものがなかったからです。

弥生時代の、近畿での大和朝廷成立までの静かな歴史の秘密も、戦いそのものがなかったからというのが、最もつじつまの合う答えだと思います。
「東征」という名の「交渉」だったのだと思います。 

神武天皇の近畿入りの際の戦いは、最後の抵抗勢力との戦いと見て取れます。

また邪馬台国近畿説は、当時の武具の違いを説明できません。
この当時はまだ、当時の近代的武具を持っていたのは、九州地方だけだからです。
当時の日本では、九州だけが飛びぬけた、そして唯一の軍事大国なのですね。

その後の弥生的な文化の流れや、当時の武具の性能から、九州→近畿という流れがあったという方が自然です。
これだと、大和朝廷発足時に既にあった、朝廷の九州への影響力も、すんなり説明が付きます。

ともあれ東アジアでの、巨大国家の発生という歴史的脅威に対して、日本は上記の記事ような工夫で、この時期を乗り切った。
それが、日本の神話となり、これまでの日本の精神的支柱となった。

そのようなロマンを、私は古代日本に感じるのです。

本日は、2月17日(土)に行われる、山口龍彦高知厚生病院院長による健康セミナーのお知らせに続き、The Liberty Webの、建国記念日に向けた記事をご紹介いたします。

              (ばく)

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 エル・カンターレ祭大講演会「愛を広げる力」特集(前編) 天使のモーニングコール1373回 (2018.1.20,21)

山口龍彦高知厚生病院院長 天理万相談所病院で研修後、現高知大学医学部大学院を経て、愛宕病院、佐川町立高北病院、高知赤十字病院に勤務。1993年高知厚生病院に勤務後、1995年同病院内に全国初のホスピスを開設。

健康セミナー「ぴんぴんコロリを目指して。~がん、認知症の予防と治し方~」

講師 山口龍彦高知厚生病院院長

日時 2月17日(土)10時30分~12時

場所 田野町ふれあいセンター 〒781-6410  高知県安芸郡田野町1456-42 0887-38-2511

主催 幸福の科学高知支部 百歳まで生きる会 088-882-7775

 

【ニュース】安倍総理「ミサイル一発目は甘受しなければならない」【ザ・ファクトニュースセレクト2018.02.10】

 

まもなく「建国記念の日」 誇るべき「最古の国家」「神々の国」である日本

橿原神宮外拝殿(Wikipediaより)

 《本記事のポイント》

  • 日本は「世界最古の国家」であり、これは「世界史のなかの奇跡」ともいえる
  • 天皇は、神々の子孫であり、「神官の長」としての宗教家の役割がある
  • 国の発展には、「信仰心」と「愛国心」が必要だ

日本は2月11日、「建国記念の日」を迎える。この日は、紀元前660年に初代天皇である神武天皇が即位されたことを祝う日。この年を元年として数えると、今年で皇紀2678年になる。神武天皇を祀る奈良県の橿原神宮などでは、恒例の「紀元祭」が執り行われる。 

日本は現存する「世界最古の国家」

日本は現存する「世界最古の国家」であり、他の主要な国の建国からの年数を比べてみても、2600年以上という歴史の長さは群を抜いている。 

中国の建国は1949年10月1日なので、今年でやっと69歳。「中国4千年の歴史」という言葉が独り歩きしているが、中国はそもそも歴史が連綿と続いている国ではない。異民族が次々と入ってきては戦争し、国を占領してきているため、日本のような「1つの統一王朝」とは到底言えない。 

歴史的な大国であるイギリスも、1066年にノルマン人がイングランドを征服して建国されたため、今年で952歳であり、日本の半分以下の歴史に過ぎない。また、世界最大の経済規模を持つアメリカは、1776年7月4日に独立宣言して建国されたため、今年で242歳になる若い国だ。 

日本が2600年以上も連綿と続いた国家であることは、まさに「世界史のなかの奇跡」であり、日本人はこの事実をもっと世界に誇れるはずだ。 

神々の子孫である天皇の使命

こうした日本の長い歴史の背景には、2千年以上、125代にわたって天皇家の血筋を絶やさぬよう、日本を護り、導いてきた神々の存在があったといえる。 

大川隆法・幸福の科学総裁は、天皇の存在の意味について、著書『保守の正義とは何か』で次のように述べている。 

「皇室は尊いものですが、実は、それが『神々の子孫である』ということを前提として日本の神話が成り立っています。つまり、天皇は、神々の子孫であり、日本神道系の総帥であり、『神主の総領』であるのです(中略)『天皇は、政治に関して、象徴的な活動には加わるけれども、本質的には、日本神道の神々をお祀りする「神官の長」である』という認識をしているのです」 

天皇は現在、「日本の国の象徴だ」と言われているが、実際には「神官の長」であるということだ。 

今上天皇は、2019年4月30日をもって天皇を退位する意志を固めている。大川総裁は、今上天皇の生前退位の問題についても、著書『繁栄への決断』で次のように述べ、懸念を表明している。 

「私としては、『これは、天皇陛下の「第二の人間宣言」に当たるのではないか』というのが率直な感想でした。やはり、天皇制とは、単なる組織や機関の一部として存在しているだけではなく、実は宗教的存在でもあります。それを、もしかしたら、皇室の方々も軽く見ておられるのではないかという気がするのです」 

「信仰心」と「愛国心」が国を発展させる

現在の日本の教育では、神話の時代については明確に教えられない。しかし、日本が今後、世界のリーダー国家として発展していくためには、国民が正しい信仰心と愛国心を持ち、国を発展させようと努力することが大切だ。 

愛国心はあっても神仏を信じていなければ、周辺諸国と領土問題で争ったり、他の国を侵略したりするなど、宗教的な善悪を無視した傍若無人な振る舞いをする国になる恐れもある。 

大川咲也加・幸福の科学副理事長は、著書『人を動かす誠の力』の中で、愛国心と信仰心の関係について、次のように述べている。 

「『愛国心』と『信仰心』は、よく似ているというか、純粋な信仰の下に、『国を救おう』とか、『正しいことを貫こう』と思ったときには、国は団結してきますし、人々の心に火が点ることになっていると思うのです」 

「建国記念の日」は、これまで日本を護り、発展を支えてきた神々への感謝と尊崇の念を深める日にしたい。

(小林真由美)

 

【関連書籍】

幸福の科学出版 『日本建国の原点』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=1490 

【関連記事】

2015年7月3日付本欄 初代・神武天皇から流れる神々の愛 今こそ建国の原点に立ち返るべき

https://the-liberty.com/article.php?item_id=9855 

2015年2月10日付本欄 神武天皇や建国の歴史を知らない人へ 「建国記念の日」に振り返る日本の歴史【3分で学ぶリバティ日本史】

https://the-liberty.com/article.php?item_id=9184 

2014年2月12日付本欄 建国記念日を取り戻せ 日本の存在自体が世界遺産

https://the-liberty.com/article.php?item_id=7360


日本神話を読み解く新たなキーワード『米と酒』

2018-01-27 00:27:54 | 古代文明

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私は歴史好きでして、特に好きな時代があるわけではありませんで、『歴史の謎』が大好きなんです。

『歴史』と言えば、今を生きる我々の日々の暮らしだって、数年後数十年後数百年後には歴史になっているわけで、歴史というのは決して、過去という異空間の出来事ではなくて、『過去の人々の日々の暮らし』なのです。

そういう、『過去の人々の日々の暮らし』という視点で、様々な歴史を読み返してみると、別の視点が見えてくるから歴史は面白い。

たとえば、縄文時代は、世界の5大文明に入れるべき文明だと思います。

古代日本に、建築物とか史実=文字が残っていないので、低く見られがちですが、建物は木造ならばまず残らないですし、また史実がなくても、それは古代日本に文字がなかったという証拠ではないのです。古代人が、石に刻んでいなかった可能性だってあるからです。

これはまた後日記載しますが、むしろ、古代日本に文字があったとしたほうが、その後の漢字の導入などで、つじつまの合うことの方が多いのです。

少なくとも文字は、石に書かなければ、長期間の記録は絶対に残りません。これは現代でも同じです。

ですから皆様、大事な記録は、ぜひ石に刻んでください。

紙は100年で朽ち果てます。

フロッピーなんて、数年で記録の複製ができなくなりました。

レコード盤も、再生機がなくなれば、音を聞くことができなくなりました。

8mmカメラ然り、CD然り、MD然り、技術が進めば進むほど、新技術により、むしろ記録保存の期間は短くなり、過去の記録保存は難しくなるのです。

大事なことは、石に刻みましょう。「大宇宙に光あり 光は仏の命なり・・・」いつか、石に刻みましょう。

幸福の科学では、大きな施設への寄進者のお名前は、石版に刻みますが、これは、確実に、未来の歴史に残るからなのです。


弥生時代と呼ばれる期間に焦点を当てますが、実は私、この時代のことは、余り詳しくは存じません。(笑)

弥生時代って、あまり面白くないんですよね。
はっきり言って・・・・(^^;

弥生時代って縄文のように、他の地域と比べてどうかとか、ムーやアトランティスに繋がるような、ドギマギするような、ファンタスティックな彩りに欠ける時代なのですね。

弥生時代と言われますけど、東京の弥生町で縄文式土器とはタイプの違う土器が出たので、こういう名前が付けられていますが、弥生土器くらいの低い性能しか持っていない文明が、縄文時代のような、全国的な文明圏を持っていたとは思えませんし、土器の性能で言えば、縄文式の方が圧倒的に上なのですね。

弥生時代という名前は、時代の規模からすれば大きすぎて、ひょっとしたら・・・、東京弥生町限定の文明なのかも知れません。(爆笑)

縄文と弥生の違いで最大のものは、日本の弥生時代は、米作が始まった時代であるということですね。

縄文の謎解きのキーワードは【栗】でした。

栗文明であり、脅威の海洋文明であり、絶対的な平和な文明が、縄文文明です。【栗】と【海】と【平和】が縄文のキーワードだと言えます。

最近幸福の科学では、天照大神の系列の神様のお一人、オオヒルメノムチの霊言が収録され、古代文明としての日本の姿が明かされ、話題になっていますが、これなども今後どんどんと、考古学的観点から明らかにされていくと思います。

現代日本人に、その事実を受け入れるだけの器があるかは存じませんけど。

とまれ、一方、弥生時代の謎を解く鍵は、ズバリ【米】にあると私は思います。
弥生的な価値観は、人々が米作を受け入れ、全国に広がったことだと思います。

この【米】と、その【米をつくる技術】が、いかに日本に取り入れられ、そして、いかに全国に広まったかを検証することが、この時代の面白さなのかも知れませんね。

弥生時代は、約3000年前位から日本に現れます。
ばく説では、ムー文明の継承文明であった縄文時代は、文明の寿命と日本列島の寒冷化によって、とても静かな終の時を迎えたと思います。

つまり縄文文明は、文明自体が老衰化したということです。
元気いっぱいの文明が、新たな文明に以降したならば、新たな価値観とのぶつかりも当然激しくなりますよね。

それは必然的に戦いを呼ぶことになり、民族の記憶にかなり強烈に残って、それが神話となっているはずです。
どこの国の神話も、そのように読み取ると、全てつじつまが合います。

しかし、日本の神話には、縄文→弥生を表しているような、くっきりとした神話が存在いたしません。
古事記や、日本書紀にも、それを匂わせるような記実は・・・、う~ん、直接的には、どうも見当たりませんねぇ。

ということは恐らく、文明の限界を悟った縄文日本人は、弥生的価値観=米作を、割とすんなり、受け入れたのではないでしょうか?

縄文的な生活では、さすがに食べていけなくなり、新たなテクノロジーである、米作文化を受け入れることによって、その後の日本は、静かに形成されていったのだと推測されます。

そして、この米作の国内への広がりこそが、日本神道の日本国内への伝播力そして、影響力につながったのではないでしょうか?

日本神道の神事で重要なアイテムは、【米と酒】ですよね。
お正月にはオトソ、結婚式には三三九度と、神事に酒が出てくる日本神道は、とてもとても不思議な宗教です。

ということは、日本神道は、縄文時代発祥の宗教ではないということですね。

縄文起源の宗教ならば、栗とか、黒曜石などが、宗教アイテムになっているのではないでしょうかね。(笑)

実は、この【米と酒】による、新たな日本の国創り期間こそ、弥生時代なのではないかと、私は考えております。

その、米と酒による国創りの中に、古代日本士最大の謎 【邪馬台国の秘密】を、解く鍵もあると思います。



ああ、そういう風に考えれば、結構面白い時代ですね。(笑)
弥生日本は、ミステリーの宝庫です。(爆笑)

私この時代、好きになるかも。(^^)

私は、謎を解くのが大好きですから。(笑)

この小さなブログから、日本の神話が塗り替えられる・・・かも知れません。(笑)

その新たな神話が、日本という国が古来より、平和と繁栄を愛していた国であることの証明となり、日本人の真髄とは何かを、発信する機会となりますことを、心より祈念いたします。

本日は、2月3日(土)開催される大川隆法幸福の科学グループ総裁の宮崎講演会のお知らせに続き、経『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)の一節をご紹介いたします。

目からうろこの、「真説・日本人の宗教観」です。

        (ばく)

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大川隆法講演会サイト(https://ryuho-okawa.org/sp/mission/lecture/20180203 

☆大川隆法総裁先生 第1回講演会☆  

「情熱の高め方」 

日時:2月3日(土)13時~ 

会場:宮崎県都城市総合文化ホール(本会場)および、全国支部・精舎にて衛星中継  

高知支部精舎〒781-8105 高知県高知市高須東町2-11   

TEL:088-882-7775 

高知西部支部精舎〒781-1202 高知県高岡郡越知町2519-7   

TEL:0889-26-1077 

高知朝倉支部〒780-8062  高知県高知市朝倉乙988-11   

TEL:088-850-7774 

高知四万十支部〒787-0012  高知県四万十市右山五月町2-22 

TEL: 0880-34-7737

「オオヒルメノムチの霊言」―天照大神のルーツとその教え―【CM動画】

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=118

日本神道では、昔から神と富とがかなり融合しています。「御利益がなければ神ではない。祈願をすれば、商売は繁盛し、健康で、家族が仲良くできて、とても幸福になる。これでこそ神である」と考えます。

この思想が日本に深く根を下ろしているために、戦国時代以降、キリスト教が日本に入ってきても、なかなか広がりません。イエスについて、「その“西洋の神様”は、捕まって十字架にかかり、殺されたというのか。それでは、御利益がない。神なら戦で勝たなくてはいけない」と考えます。(中略)

キリスト教には、ある種の悲劇性のようなものが流れていることは事実です。どちらかというと、「人間は、もともと罪人なのだから、罪を贖うためだと思って、病気や試練に耐えよ」というような教えのほうが多く、そのような考え方で、わりと落ち着くのです。(中略)

日本の神はというと、やはり、「もっと“ハッピー”でなくてはいけない」と考えます。江戸時代の後半以降に起きてきた宗教を見ると、天理教や黒住教などにしても、「陽気に明るく生きていこう」という、「陽気ぐらし」系の思想が強いのです。(中略)

日本神道の中心指導霊は、こういう考えに近いのです。

これは日本の“古代の思想”なのですが、意外にも、現代のアメリカは、これと同じような一種の光明思想を持っていて、「発展することは、よいことだ」という考えを、ここ百年以上、持ち続けているように思います。

日本の宗教はレベルが低いかと思いきや、案外そうでもないのです。

「日本神道は“中身”がない」という説もあるのですが、前述したように、日本人には、イエスの受難物語を聞いて、「これを神とするには足りない」と判断するような宗教的知性があることはあります。「自分も救えない人が、どうして人を救えるのだ」と考えるような智慧があるのです。

その意味では、なかなか隅に置けません。中身がないように見えて、意外に中身があります。日本神道は、宗教として二千年以上の歴史を持っているだけのことはあって、したたかなのです。(中略)

日本人は数多くの宗教を経験してきました。いろいろな宗派が並び立ち、長い間、宗教同士が競争してきました。

日本人は、旧い宗教をたくさん見てきたため、とても目が肥えていて、新しい宗教が出てきても、そう簡単には信じません。「騙されないぞ」と思い、すぐには信じないで、じっと見ています。

「無神論です」「無宗教です」などと言っていても、ある意味では、宗教に関して、“玄人(くろうと)好みの趣味”を持っているので、そう簡単には乗ってきません。「偽物には食いつかないぞ」と考えるだけの伝統があるのです。(中略)

日本は、外国の宗教にとって、伝道がとても難しい国なので、「日本人は信仰心のない国民だ」と言われたりするのですが、実は、宗教が多すぎ、目が肥えすぎているため、そう簡単には信じられないのです。

それが真相です。(中略)

日本人は、宗教に関して、「料理の味にうるさい人たち」のようなところがあると思うのです。
『日本の繁栄は、絶対に揺るがない』(幸福の科学出版)P142~149


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