幸福の科学高知 なかまのぶろぐ

幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
日々の活動や、イベントのお知らせをいたします。

サバンナRX-7とポルシェ924と『釈迦の本心』

2018-02-28 22:22:20 | 自動車から見える日本と世界

マツダサバンナRX-7(初代)ニックネームは「プアマンズポルシェ」1978年発売開始

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本日は、高知の信者さんの仲間においても、賛否両論ある自動車関連記事です。

まっこと(土佐弁)、「宗教と何の関連があるのか?」と書いている私ですら時折思いますし(笑)、布教ブログ記事を書いているはずなのに、私が自動車の画像検索したり、動画検索しているので、家族から「遊んでるんじゃないの?」と思われているかもです。(爆笑)

しかし結構な御評判をいただいておりまして、それは恐らく、ここでは自動車雑誌等では書かれていないことが書かれていて、それがオリジナリティーになっているのではないかと、代表管理人である私は思っております。

なぜ自動車雑誌では書かれていないことかと申しますと、思考アプローチが通常と違うから。

仏教には、『正見(しょうけん)』という修行徳目がありまして、八正道(はっしょうどう)という心の反省の最初に出てくるのですが、要するに、「自分や世の中や、諸々の事柄を、正しく見ているか」また、「正しい見解をもっているか」ということです。

「正見」には、「主観」とか「思い込み」というものを排除しないといけません。

そのためには、「因果の理法」というのがありまして、要するに原因と結果の関連のことですが、この因果の理法とか正見というものに対して、「さあ、自動車なら、どういう見解になるのか」ということに挑戦してみたいと思っているのです。

自動車雑誌の記事などからですと、自動車評論家の方とか、その方面の記事を書くことの多い記者などの試乗記事が主ですが、それを読む私はいつも「?」なんですね。(笑)

自動車雑誌だと、まぁ概ねは、「価格の高い自動車とか、一流ブランドの商品とか、スタイルの良い自動車作品の評価は甘くなる」と思っていただいた方がよろしいかと思います。(大笑)

ある時なんぞは、「2000㏄4気筒ターボ対決」いう企画で、ドイツのベンツ、そしてスウェーデンのボルボと、日本からはスバルのインプレッサと日産のスカイラインの比較がありましたが、「ヨーロッパ勢のエンジンの回転は滑らかで力強い。日本のエンジンは、まだまだだ。」という結論でしたが、あちらは価格が7~800万円で、日本勢は350~500万円ですので、「価格が倍の商品を比べてどうするんじゃ!」と思いました。

価格が高いのなら、品質が良いのは当たり前ですので、そんなの、消費者にとっては何の意味もない企画なわけですね。

消費者は、古今東西老若男女、「良い商品が、いかに安く手に入るか」ということの情報を得たいわけですので。

同じネタでも、銀座の一流のお寿司屋さんと、回転ずしとでは、味が違って当たり前ですので、それならばネタは違っても、「同じ値段ならどうか?」ということに着目するべきですよね。

でもまぁ、高額商品やブランド商品をお買い求めになる方は、当然ながら高所得者が多いですので、雑誌広告料収入などの関連から、マスコミの一種である自動車雑誌には、「言いたくても言えない諸事情があるのではないかな?」と私は睨んでいます。

ですので、自動車について真実を知りたければ、「消費者の意見」とか、「その後のメーカー全般などに与えた影響」をくみ取っていくのが、最も因果の理法に則った、正しい見解(正見)なのではないかと思います。

ポルシェ924(ドイツ)1975年発売開始

ともあれ、今回着目するのは、スポーツカーの大御所、全世界に知らぬものなしのポルシェと、日本のマツダを比べてみようかなと思います。

ポルシェ924(以下924)の方がデビューが3年早くて、マツダサバンナRX-7(以下RX-7)が発売されました。

RX-7が924にとても似ていたので、「マツダがデザインをまねた」と言われましたが、開発当初のRX-7は、開発コンセプト的にも、また販売価格を抑えるために、特徴的なリトラクタブルライトではない一般的な丸型ライトだったことがわかっていますので、車両デザインに関しては、結果的に似てしまった可能性があります。

当初のRX-7は、どちらかというとロータスヨーロッパに近い雰囲気だったようで、「時速200㎞のためには、空気抵抗を減らせる格納ライトは必要だ。」「リトラクタブルライトなしで最高時速200km/hを実現するならば、もっと大型のロータリーエンジンが必要。」と、当時の開発陣が経営陣を説得したとのこと。

まぁ2代目のRX-7は、もっと924に似ているので、こちらは真似た可能性がありますが。(笑)

この両者、日本がスーパーカーブーム真っ盛りのころの商品で、私が自動車雑誌を読み始めた中学生ごろの作品でして、スタイルとか車体サイズが似ていたこともあり、自動車雑誌では、対決ものがよく企画されていましたが、子供心に、「どっちがどう良いのか、どうもよくわからない」という、煮え切らない結論が多かったのですね。

今思うと、「さすがポルシェ!」と記者が言えなかったんじゃぁないかと・・・。

今の私には、「RX-7の方が速かったんじゃぁないの?」と、また「ひょっとして、ぶっちぎりだったんじゃぁないの?」と思えるんですね。

RX-7デビューは、1970年代後半で、この頃から日本車が世界に与える影響が表に出てくるころです。

というのも、そのころ日本では、排気ガス規制へのめどが立ったのですが、欧米ではその方面での対応が遅れていたのです。

で、RX-7と924、この両者の「重量バランス」に着目してみたいと思います。

重量バランスは重要で、自動車作品の性格をほぼ決定してしまいまして、スタイルの似ている2者は、開発の思想は、まるで全てが逆であることがわかります。

マツダRX-7と言えば、エンジンは世界で唯一、マツダだけが市販できたロータリーエンジンで、ポルシェは一般的なレシプロエンジンです。

ロータリーエンジン

  レシプロエンジン

初代マツダRX-7透視図を見て注目すべきは、エンジンの位置。

エンジンは重いので、それがどこにどうあるかは、とても重要なので、RX-7は車体の前方、前輪のすぐ後ろの低い位置に、コンパクトなロータリーエンジンがあります。

完全なフロントミッドシップ構造であり、そして重要なのは、重心が低いこと。

RX-7は、世界の全ての市販車のなかでも、ベスト何位くらい行くのでないかと思える「低重心」です。

これはロータリーエンジン回転軸に秘密があります。

エンジンというのは、「エンジン回転軸を、車軸、つまり駆動輪の中心より下げられない」という宿命がありますが、ロータリーエンジンは、回転軸のまわりのローターだけというシンプルな構造ですので、エンジンが低く搭載でき、これはコーナーリングでとても有利に働きます。

 

一方ポルシェ924ですが、これは問題があると思います。

ポルシェ924も、RX-7ほどの完全なものではありませんが、現代的なフロントミッドエンジンで、ギアを後ろタイヤ側につけた、トランスアクスル方式で、「前後」の重量バランスは優れているのですが、問題はエンジンの高さ。

次の画像がポルシェ924のエンジンですが、エンジンのてっぺんが、大きく左に傾いています。

これは、できるだけ重心を下げたいときに使う、業界ではよくある方法ですが、問題はその「角度」です。通常ですと、傾けは数度程度で、ここまで傾けることはありません。

余り傾けると、左右のバランスが崩れますし、エンジンルームのスペースの関係上、吸気や排気を自由に設計できないからです。

このピストンのあるレシプロエンジンですから、エンジンのてっぺんの下方延長線上に、エンジンの回転軸がありますが、この角度ですと、そうとう高い位置に、回転軸があると思われます。

となると、一見かっこよい924は、おっそろしく重心が高いはずなのですね。

それを知らせたくないのか、ポルシェ924の、横方向からの透視図が、どうしても見つからないのです。

エンジンのパワーは924が本国使用が125馬力、日本仕様が100馬力ですので、RX-7の130馬力とどっこどっこいでしょう。

というのも、ドイツと日本では馬力測定方法が違っているので、当時は日本の測定方法の方が、2割ほど高く表示されるから。

しかし問題は、当時の燃料噴射装置はエンジン1台に付き1個なので、吸気干渉、つまり空気の取り合いが起こっていたはずで、最高出力はあっても、そこに至るまでには時間を要したはずですが、ロータリーエンジンには、吸気干渉も排気干渉もありませんので、一気に回転が上がるわけです。

これらの両者の条件を考えると、高速道路やゆったりとしたコーナーなら924が有利なところもあるかも知れませんが、通常の走り方ですと、RX-7がぶっちぎる場面が多かったのではないかと思うのですね。

ポルシェがRX-7に対してどのように感じていたかの史実はありませんが、RXー7登場以降、それまでおしゃれなスポーティーカーでしかなかった924が、急激にパワーアップを続け、その後大型エンジン搭載の944シリーズも加わることとなりますので、車両価格3分の1のRX-7は、十分に大御所ポルシェを脅かしたのではないかと思います。

ポルシェ924ターボ 1978年発売開始

とまぁ、「マツダのサバンナRX-7が、ポルシェのイノベーションを促した」ということとか、「RX-7がプアマンズポルシェなのではなくて、924が、リッチマンズマツダなんじゃないのか?」というお話でした。

ということで本日は、経典『釈迦の本心』(幸福の科学出版)より、八正道の正見について、大川隆法幸福の科学グループ総裁が語った部分の抜粋をご紹介いたします。

         (ばく)

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「心の指針」シリーズ2 ~仕事ができるようになりたいあなたへ~

MotorWeek | Retro Review: '83 944 Vs. RX-7

 http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=151

人間の悩みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。

欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。

 


したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。

 

そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく必要があります。そして、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。

 

この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。

 

ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。

 

その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。

 

しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。

 

ここが見方の分かれるところなのです。

 

この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。

 

そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。

 

その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。

 

そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。
『釈迦の本心』(幸福の科学出版)P66~69

日産スカイラインRSの燃料噴射革命と「未来産業のつくり方」

【珍説】ポルシェ924のモデルは三菱車にあり⁉


いまの日本人が、組織宗教を嫌う理由を考えて見た。

2018-02-25 23:45:02 | ばくちゃんの独り言

http://the-liberty.com/article.php?item_id=10358

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皆様のご愛顧を持ちまして、拙ブログ、4年目を迎えることができました。

皆さま、本当にありがとうございます。

今後とも、高知に暮らす幸福の科学の在家信者として、高知県人らしく言いたいことを言いつつ(笑)、この素晴らしい教えに、多くの方に触れあっていただける機会として、日々綴って参りたいと思います。

しかしこのブログ、読み返してみると、幸福の科学の布教ブログなのに、宗教に関する記事がほとんどありません。(爆笑)

お越しいただいた読者の皆皆様には、管理人が悟っていなくて、まことに申しわけない限りです。

実は代表管理人である私は、心の話とか苦手で、歴史とか、産業とか、宗教や政治の周辺事情ばかりに、興味のある人間なんです。(苦笑)

でも4年目に突入した今、頑張って宗教に関する記事にも、今後はチャレンジに挑戦してみたいと思います。 

 

さて、私は日本人は、決して信仰心の薄い国民ではないと、個人的には思っております。
なぜなら、お正月からクリスマスに至るまで、お祭りも多いし、結構宗教色の多いものは多いですし、また多岐に渡っておりますよね。

初詣=日本神道
七五三=日本神道
お彼岸(春秋)=仏教
お盆=仏教
クリスマス=キリスト教

最近ではハロウィンも、その輪に入りそうです。(笑)



お祭りと言えば、神仏なしのお祭りなんてあり得ませんから、表向きは無宗教を装いつつも、心の底辺では宗教的なことを理解をし、しかも宗派を問わず寛容な日本の国民は、世界でもあまり類を見ないものだと思います。

しかしこと、『組織宗教に属する』ということになると、日本人は頑なになることがあります。

これは歴史を調べてみると、戦争に負けたことによる民族トラウマだけではなくて、戦前からそういう風潮があるように、どうも見受けられます。

海外では、無神論=危険人物というレッテルを貼られることが多く、大抵の人は、どこかの宗教組織に属しているものです。

かつては、日本もそうだったんですね。
いつから変わったかというと、どうも分岐点は、江戸時代のようなんです。



江戸時代、三代将軍徳川家光の時代、1612年(慶長17年)に、江戸幕府はキリスト教禁止令を出しました。

その時、ほぼ同時代に、檀家氏子制度(だんかうじこせいど)が始まるんですね。
つまり、生まれた地域によって、その人の所属する宗教や宗派が決められてしまう、社会の仕組みができてしまったのですね。

これは幕府からすれば、既存の仏教・神道勢力を、江戸幕府自らが、既得権益として保護する姿勢を示した者と思われます。
そして当時の寺院や神社は、お布施が安定的に得られるのですから、きっと喜んだことだろうと思います。

しかしこれは、後の日本の宗教界に大きな影響をもたらしました。
それは、宗教勢力が伝道しなくてよくなったのです。
いやむしろ、伝道活動ができなくなったんですね。 

なぜならそれによって、日本人の心の奥底に、「伝道しない宗教こそが、伝統的で格式があって、ちゃんとした宗教なんだ。」という、勘違いな文化が生まれてしまって、長年を経てそれが今、文化として定着しているのです。

ですから、この日本では、その檀家・氏子制度以来、鎌倉仏教のような、後々まで巨大な影響力を持つような大宗教は生まれていません。

そして日本では見事に、 伝道する宗教=権威ある宗教ではない=カルト宗教 というレッテルが貼られる基盤ができていると思われるのですね。

さあ、これをいかに打破して行くか。

これはもう、ご自身の体験に、聞いていただくしかありません。

みなさんも無意識的に、このような日本の宗教文化で育ったわけですので、組織宗教に入会なさっている方には、入信時にはそれなりの心の葛藤があったはずです。

現にそれを乗り越えたからこそ、今のお立場があるんですね。

では、なぜその壁を乗り越えられたのでしょうか?

私の場合は、総裁である大川隆法幸福の科学グループ総裁を、仏陀であると信じたからです。
仏陀なら、弟子の一人に加えていただきたいと思いましたし、今まで無意識に思っていた上記の価値観を、拭い去っても惜しくはありませんでした。

この、不思議な歴史を背景にした、宗教文化を持つ日本においては、「自分自身がなぜ神を信じ、仏を信じているのか?」という、自らへの問いかけを日々行い、それによって自分自身を説得する以外の方法がありません。 

しかし結局のところ、この、自分自身を、神仏への信仰へと導く説得する行為こそ、精進だと思うのです。
 
つまり、自分自身の神性仏性を見つけ出し、拝みだし磨き続ける作業こそ、この自分自身への説得こそ、仏教の本質である精進だと私は思うのです。
 
 
となると、この世界的に見ると、ある意味で、とてもヘンテコリンな宗教環境である現代日本は、別の意味では、とても宗教修行に向いている社会なのかも知れませんね。(笑)
 
でもまぁ、このようなヘンテコリンな宗教文化である日本では、組織としてそのような、「なぜ、信仰が必要なのか。」という問いかけに真摯に取り組み、そして説得力を持っている組織の思想は、長期的視野に立てば、結局は未来の常識になっていくのかなぁと思っております。
 
なぜなら、人は常識に浸っていると、自得する必要はないので、信仰心があるのが当たり前の価値観である海外だと、「なぜ、信仰が必要なのか。」と考える必要がないからです。
 
本日は、経典『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。
 
            (ばく)
 
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「悟りの極致とは何か」抜粋 大川隆法総裁1989年第9回講演会  

信仰と共に歩む人生 天使のモーニングコール1367回 (2017.12.9,10)

  https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=188

何を信ずるか。言うまでもありません。いちばん簡単なことです。「この世を創られ、私たちを見守っておられる大宇宙の神がいらっしゃる」ということ、「私たち人間は、神が創られた子供である」ということ、この単純な事実から出発いたします。(中略)

しかし、考えてもみてください。

人間が偶然にできあがり、そして偶然にできあがるのみならず、ちょうどゼンマイ仕掛けの人形か何かのように、魂なく動いているだけの存在であるという考えを前提とするならば、そこに、どうして愛が生まれてくるでしょうか。(中略)

愛だけではありません。もっと素晴らしい、人間的な多くの高貴な感情は、すべて魂の属性なのです。

美しきを見て感動する心、誠実さを見てよろこぶ心、素直さを見て尊いと思う心、そして自らの命をも厭わずに、神のために生きてゆく人たちを見たときのその感動は、唯物的なものの見方からは決して出てこないのです。(中略)

そうして、神が宇宙を創られ、人間たちを創られて、今もなお見ておられると信ずることが、私たちの生き方をどれほどまでに素晴らしいものへと変えてゆくでしょうか。

その神の目があるからこそ、大いなるものが見つづけていると考えるからこそ、熱いまなざしを送りつづけているという確かな手応えがあるからこそ、私たちは日々自らを律し、素晴らしき人間となってゆくために、自己改革に励むのではないでしょうか。(中略)

この事実を受け入れたところで、何ひとつ私たちが困ることはないのです。

その事実を受け入れて困る人間は、生きている間に、さんざん自分のやりたい放題のことをし、他の人びとに迷惑をかけている人びとだけであるはずです。

彼らは恐れるに足るでしょう。

死んで何もかもなくなると思えばこそ、そのような生き方ができるのでしょう。もし、死んで後に生命があるとするならば、たいへんなことであります。(中略)

けれども、人間としての存在が是とされ、また他の人びとにも、「こういう人といっしょに生きていてよかった」と言われるような人であるならば、この「信仰」ということを当然のことと受けとめて、何ら恥じることはないはずです。そして、それは素晴らしいことです。

今、自分がどのような姿として現われていたとしても、「本来神の子として創られた存在であるならば、無限の可能性があるのだ」「まだまだ自分は磨いてゆけば光ってゆくのだ」と思えるからこそ、個人としても素晴らしくなり、社会としても素晴らしくなってゆくのです。

これは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門です。

神を信ずる者にとっては、すべては輝きに満ちて見えます。世界は宝の山に見えます。

しかし、神を信じない者にとっては、ああ、世界はどのように見えることでしょうか。

その、たったひとつの心境の違いだけで、見える世界までが違ってくるのです。

同じく数十年の人生を生きるのであるならば、損得で考えても、素晴らしい人生を生きるほうをとってゆくことが得であり、人間として当然の義務であると、私は思うのです。
『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)P77~82


マークⅡ3兄弟大ヒットの時代には、一体何があったのか⁉

2018-02-23 00:07:04 | 自動車から見える日本と世界

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時折ですが、ブログのアクセスがピンチになったら(笑)投降させていただいている自動車関連記事です。

宗教布教ブログにあるまじき企画ではあるのですが、これ、結構評判イイんですよ。

幸福の科学は幸福実現党支持ですので、「この自動車関連記事からも、幸福実現党の党としての性格が現わせているのでは?」と代表管理人の私は自負しちょります。

今日の演題は、通称、マークⅡ3兄弟と呼ばれた、トヨタの中型セダンのシリーズから。

私は、「自動車は、極めて社会性の強い商品だ。」と思っておりますが、私にそう印象付けたのは、このマークⅡ3兄弟なんですね。

まず、なぜマークⅡ3兄弟と呼ばれているかと申しますと、同じボディーで、デザインの小変更で、マークⅡ・チェイサー・クレスタという、キャラクターの違う3つの商品を作って売っていたからです。

こういうのを、兄弟車と言いますが、昔は結構ありました。

カローラとスプリンター(トヨタ)とか、カリーナとセリカ(トヨタ)とか、セドリックとグロリア(日産)、ギャランのΣ(シグマ)とΛ(ラムダ)(三菱)などで、同一車種ですので、製造数を増やせてコストダウンになります。

また自動車企業は、開発費が膨大なので、売れなければ最悪破産という、一種の博打的要素があるのですが、キャラクターが分散していれば、大失敗のリスク回避ができるわけですね。

自動車というのは、消費者の強い趣味性によって、販売数が読み切れないところがありますので、大量生産効果による製造コストダウンと、販売リスク回避が同時にできるというのは、とても大きな経営判断なのですね。

トヨタスプリンタートレノ(左)&カローラレビン(右)車両形式は同じくAE86

 トヨタのマークⅡ3兄弟が売れたのは、1985~1995年くらいの期間でしょうか?

トヨタの大ベストセラーカローラをしのぎ、年間販売台数1位の常連となり、結構高額車でしたが、バブルがはじけても尚、ベストセラーカーであり続けましたので、私は「世の中、ホンマに不景気なんかいな?」と思ったことでした。

後で学んだことによると、バブル景気はときの政治とマスメディアによる、人為的バブル潰しと言えて、製造業を中心に、日本経済は健全な部分が多かったようです。

つまりバブル景気が幻想だったのではなく、「バブル潰しが幻想」であったということですね。

私は日本の自動車の歴史において、「マークⅡ3兄弟勃興によって、カローラの衰退がはじまった。」と言えると思うのですね。

と申しますのも、商品カテゴリーで言えば、カローラもマークⅡも、「小さな高級車」もしくは「お買い得な高級車」に分類できる、同じ分野の商品だと思うからで、国民所得の向上に伴い、カローラが持っていた顧客が、マークⅡに流れたのではないかと、私は思うのですが。

単なる、バブル景気の申し子的なヒットなら、10年以上に渡り、ベストセラーであり続けるのは不可能ではないかと思うのです。

つまり、バブル景気前後に、「小さな高級車」というカテゴリーの移譲が、カローラからマークⅡの間でなされていたことで、トヨタの屋台骨を支え続けたマークⅡ3兄弟の長期大ヒットがあったということです。

そして、今マークⅡという商品はなくなっていて、マークXという商品になっていますが、それほど影響力を持ってはいませんが、それはこの「小さな高級車(お買い得高級車)」というカテゴリーが、トヨタの別の車種である、プリウスやアルファードや、海外ではカムリに移譲されているのではないかと思うのです。

またそこからは、選択における、ひとつの法則があると思うのですが、残念ながら、記事を書く時間がなくなりましたので、本日はここまでとさせていただきます。

オッと、大事な布教をせねば。(笑)

本日は、ノーベル賞受賞経済学者、ハイエクの霊言『未来創造の経済学』(幸福の科学出版)より、計画経済と言われ、福祉を重視するカール・マルクスの提唱した共産主義経済と、「金の亡者」と呼ばれがちな自由主義経済との違いが、とても良くわかる部分のおすそ分けでございます。

           (ばく)

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可能性無限大!“考える力”の高め方 天使のモーニングコール1325回 (2017.2.18,19)

モーターランド2: A31 日産セフィーロ vs X80 トヨタ・マークII

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=81

原点は「自己弁護」だと思うんですよ。自分が貧しくて事業に成功しなかったことなどを、全部、基本的には、外部に責任を押しつける考え方を持っていると思うんですね。

それは、あなたがたの宗教でも教えている「自己責任」ではなくて、他の責任にする生き方ですよね。

そういう自己弁護のためだけに、あの膨大な経済哲学をつくり上げた人だと思う。

「自分が貧しいのは、なぜか。それは大資本家が悪いからだ」ということを理論化したわけですね。

経済というものは、まあ、あなたがたも食べるでしょうが、一つのピザパイのようなものです。

これに刻みを入れ、六等分や八等分にしてあると、「人が何人いたら一人に何切れ当たるか」ということが分かります。(中略)

そして、マルクスの考え方は、

「大資本家が、そのパイの大部分を取っている。例えば、八等分できるパイがあっても、大資本家が、八切れのうちの七切れを取って、労働者には一切れしかくれない。これは、けしからん。これが、労働者が貧しい理由である。大資本家から残りのパイを取り戻せ。一切れしかもらっていない労働者たちが集まって、労働組合による政治を行い、全員で、きちんと正しく配分しようじゃないか。大資本家には、八分の一以上は与)えないようにしようじゃないか」

というものです。

基本的には、そういう考えなんです。

だから、マルクス主義には高度な累進課税があります。

土地とか工場とか、こういう大きな生産手段が富の格差を生むからです。(中略)

それから、マルクス主義では、相続をさせないようにするため、生産手段を国有化して個人には渡さないようにし、「国家が国民を公平に処遇する」という美名の下に政治体制が出来上がっています。

「プロレタリアート独裁というかたちで、労働者が独裁する国家が生む平等な社会によって、最終ユートピアが出来上がる」と、まあ、こう考えるわけですね。

ただ、「プロレタリアート独裁」という言葉はきれいだけれども、実際には、労働者は世界中にいるわけです。

世界に何十億人もいる労働者たちに、どうやって独裁ができるんでしょうか。できるわけがありません。

あるとしたら、そういう人たちが、不平不満を持っている相手をつるし上げるかたちでの独裁しかありえないですよね。

「こいつが悪いことをした」と犯人を決めつけて、その人をギロチンにかける。絞首台に乗せる。電気椅子に座らせる。(中略)

結局、共産党員という名のエリートが出てきて、それが支配する。

中国に十三億人の国民がいたって、結局、七千万人ぐらいの共産党員が中国を支配している。

しかも、七千万人もの人がいても、そのほとんどは下部の者であり、上位層にいるのは、ごく一部にすぎず、その一部の人たちが支配する。

そこにあるのは、言論の統制、信教の自由の統制、思想・良心の自由の統制です。

そして、反政府的な言論には、全部、統制をかけていきます。

そのように、実際には、マルクスが考えていたことと、ちょっと違うようになってきたのです。

ただ、彼の思想自体には、要するに、「自分よりも成功した人は、みな悪人だ」と見る考えがあると思うんですね。(中略)

真理の面において、やはり、間違っているところがあったと思うんです。
『未来創造の経済学』(幸福の科学出版)P42~47


「拍手(かしわで)は、古代日本の合言葉?」と、人との距離の取り方。

2018-02-21 23:31:32 | 古代文明

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韓国平昌で行われている冬季オリンピックでは、日本人選手が大活躍です。

日本のメダル獲得が歴代最高だそうで、とてもすべてをご紹介しきれないと、大変申し訳なく思っております。

500mスピードスケート女子では、小平奈央選手がオリンピックレコードで金メダル獲得で、オリンピック3連覇を狙う、韓国の李相花(イ サンファ)選手を破りました。

小平奈央選手、本当におめでとうございます!

また試合終了後小平選手は、李相花選手の検討と努力を称えるがごとく抱き合い、共に会場を回りましたが、そのことが韓国民にも感動を与えたことが、ブログ『理想国家日本の条件』にも投稿されていました。金メダル・小平奈緒は、涙するライバル李相花を抱きしめた。韓国でも感動の嵐 「これが真のオリンピック精神」

 小平選手も李相花選手も、とてもすがすがしい表情をしていて、「これぞオリンピック精神!」と、北朝鮮のミサイル騒動や、何やら美女軍団やら、韓国大超量の北朝鮮訪問がどうのこうのとか、とかく腹黒い駆け引きばかりが着目されたオリンピックに、爽やかな光と風が吹いた如くですよね。

 

とかく韓国とは関係がぎくしゃくしがちですけれども、これには一定の法則があって、「日本から仕掛けることはない関係」であるということ。

日韓関係の歴史を見ても、いつも日本は、鷹揚としていると言えば聞こえはいいが、ボーっとしているところがあって、対応が遅いところがある。

それは古事記や日本書紀でも書かれているから、昔から日本人は、あまり変わっていないのでしょうね。

そんなのんびり日本ですが、その国家の成り立ちが、対朝鮮半島関係にあるとしたら、今の日本人は、少しは外交であるとか、国益であるとか、国家とは何かとか、そういうことを考えるのではないでしょうか?

それがこの小さな布教ブログが、「古代文明」というカテゴリーを設けているわけなんですね。

さて過去の記事で、私は奈良盆地の地形的条件から、「神武東征の目的は、朝鮮半島からの防御にある」ということを述べました。
要するに大和朝廷は、奈良盆地という、朝鮮半島からの攻撃を想定した上での、鉄壁の要塞のような場所に造られたということです。

奈良要塞都市説と言っても良いですね。

今日は、神武東征伝説と、日本神道の宗教儀式の関連に迫ってみたいと考えております。

私はこの神武東征の期間における、「九州ヤマト国と、他の国々との関わりが、その後の日本神道の儀式や文化に、相当の影響を与えているのではないか?」 と、考えています。

今回の記事の内容は、右翼系の方や、国粋主義的思想をお持ちの方から見れば、「不敬罪だ!!」と、非難されるものかも知れませんし、「卑しくも、拍手というものは、場の穢れを祓い云々也。」と、お怒りになるやも知れません。

しかし、宗教というのは、それが拡がる過程における、さまざまな事柄が、行事や宗教アイテムに、取り入れられているものなのですね。

たとえば、キリスト教におけるクリスマスツリーは、その代表的な例です。


イエス様が人生をお過ごしになったユダヤの地には、モミの木なんかありません。
ユダヤは砂漠地方ですから、モミの木のような針葉樹はありませんし、当然雪もかぶっておりません。

これはドイツの、”冬至の祭り”の風習を、キリスト教が取り入れたのです。

イエス様の誕生日が、12月25日というのも、か・・・な・・・り・・・怪しいです。(笑)
恐らく、「冬至=イエス様ご生誕日」と、キリスト教伝道者が、勝手に決めちゃったんじゃないでしょうかね。

仏教でも、旅の行者が持つ、ジャラジャラと音の出る”杖”が、宗教アイテムです。

これなどは、古代インドでの、”蛇除け・猛獣除け”ですね。
お釈迦様も、インド中を行脚なさっていますので、移動に関する道具がジャラジャラ杖なのです。

お線香なども虫除けでしょうし、精舎でたくさんの人が、一堂に集まるとさすがに臭いです。(笑)

それで香を焚く工夫が、お釈迦様当時からなされていたはずで、それが線香の成り立ちでもあります。



ですから、日本神道も同様に、儀式や儀礼建築物などは、教えの内容やそれが持つ芸術性だけでなく、その伝道や、普及過程での背景などにも、かなり影響されているはずなのです。

さて、日本神道と言えば、宗教建築物は神社です。
神社は大抵、森の中にありますね。
いわゆる、”鎮守の森”ですね。

森の中に宗教施設を作るのは、世界では日本の神社だけなのではないでしょうか?

普通ですと、もっと人が集まりやすい場所に作るはずです。



縄文時代の集落は、主食である ”栗” の林に囲まれていましたので、神社が木々の蔽い茂る中に作られたのは、こういった歴史的背景があるのではないでしょうか?

また、ヤマトの国の使者と、縄文系代表とが、秘密の交渉をするには、木々の蔽い茂る森林は、もってこいの条件だからです。

そして祠(ほこら)があって、大きな鈴を鳴らして、拍手(かしわで)を打ちますね。
一般的な神社では、柏手は2回で、出雲大社だけは拍手4回です。

この一連の、神道の儀式、建築文化は、神武東征という名の、ヤマト国の使者と他の国々の代表者との、”極秘の打ち合わせや交渉で使われた儀式”なのではないでしょうか?

つまり、ヤマト国の使者は、朝鮮半島諸国に動きを知られては困るので、他の縄文系諸国に、かくまわれていたはずなのです。

奈良盆地という、難攻不落の要塞地形であれば、ヤマトの国の軍隊は、奈良盆地に攻め入ることは不可能です。
私ならリスクの高すぎる盆地は、軍事的侵攻をさっさと諦めます。(笑)

盆地は、地元での何らかのお膳立てがなければ、征服どころか無事に進入することすらできません。
つまり、九州から奈良盆地への神武東征は、軍事侵攻ではなかったと考えられ、あったとしても、ごく小規模のものだったはずです。

なぜならば、盆地には、大軍は入れませんから。つまり、「東征」という軍事行動ではなく、大部分は「交渉」だったはずなのですね。

そして、交渉の場所や打ち合わせ方法、交渉成立の後の打ち上げの宴が、日本神道における宗教儀式に繋がったのではないでしょうか?

その様子は、このようなものではなかったでしょうか?



ヤマトの国の使者(もしくは天皇)は、まず”森”の中に祠(ほこら)を建てます。
そこが打ち合わせの場所となります。これが神社の原型ではないでしょうか?
それが、『日本神道における最高の司祭としての天皇』という位置付けの原型につながると思います。

そしてそこに、縄文系の代表者が、ヤマト国の使者に会いに来た時の”合言葉”的なものが、まず鈴を鳴らし、拍手2回(出雲国の使者には4回)だったのではないでしょうか?

交渉内容は、ヤマト国への協力依頼と、米の生産技術に関するものが多かったはずです。

今でも、天皇陛下は年中行事として、多くの農業、特に米に関する行事を行っていらっしゃいます。

4月上旬に種籾(たねもみ)を蒔く『お手まき』、5月下旬に『お田植え』、そして、10月上旬に『お稲刈り』をしています。
またその秋収穫された米は、11月23日の『新嘗祭』という、収穫を感謝する祭儀で使われます。



また今でも、お祝い事の際には、赤飯(せきはん)が炊く習慣がありますよね。
めでたいから赤い色を着けるのかと、僕も最近まで思っていましが、しかしどうやら、日本の古代のお米は、赤かったらしいのです。

その後の品種改良で、お米の色は白くなりましたが、赤飯は古代、この時代の祭りなどの際に使われた、”赤いお米”にまつわるものかも知れません。

そして交渉成立が成れば、酒と米とでお祭りが始まる・・・と。

だから日本人は、お祭り好きなのかもです。(笑)

また、今でも神社での行事では、体を洗い、清潔にし、口を水ですすぐなど、「身を清める」ということを重視します。

これらは、日本人の清潔好きから来たとも言えますが、ひょっとしたら、縄文系の代表が、ヤマトの使者との会見の時に、体を拭かされたのではないでしょうか?

なぜならば、体を拭くには、衣服を脱がなければなりませんので、当然、武具を身に着けているわけにはいきませんからね。

ということで、神代の時代=弥生時代が、いつの間にか、米作が広がり、いつの間にか、都が奈良になり、いつの間にか、日本神道が普及しているのは、それらを、九州ヤマトの国、今の天皇一族に関係する人たちが、平和的交渉を機軸にして、日本の東方に押し広げたからではないでしょうか?

こう見ることで、解ける謎があります。

出雲の大国主命(オオクニヌシノミコト)の、有名な国譲り伝説と、日本古代最大のミステりーと言われる、卑弥呼の邪馬台国です。

それはまた、後日改めて。

本日は、経典『人を愛し人を生かし人を許せ』(幸福の科学出版)より、人間関係における距離の取り方の重要性について、大川隆法幸福の科学グループ総裁が語った一節をご紹介いたします。

           (ばく)

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福を育てる考え方 天使のモーニングコール1377回(2018.2.17.18)

【NHK】小平奈緒 強敵下して金! スピードスケート女子500m<ピョンチャン>

 

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=156

人との付き合い方で、もう一つ難しいのは、相手の侵入をどこまで許すかということです。

心の扉を開くと入ってくる。こちらが一歩さがると、もう一歩入ってくる。さらに一歩さがると、また一歩入ってくる。このように、どんどん入り込んでくる人がいるのです。このタイプの友達に困っている人はかなり多いと思います。

これは、友達付き合いを始めたが最後、家のなかに上がり、お米の数まで数えてしまいそうなタイプです。

一言でいうと厚かましいわけですが、こうしたタイプであるため、他の人から疎(うと)まれる人もいるのです。

したがって、オール・オア・ナッシング、つまり、友人なら全部受け入れ、友人でなければまったく受け入れないという考え方をとるのではなく、距離のとり方を常に考えておく必要があります。

「親しくとも、ここまで」という距離のとり方があるのです。

一定の距離をとっておくと、長く付き合えるのですが、その距離が短すぎると、お互いに干渉し合って、長く付き合えなくなることがあるので、距離のとり方を大事にすることです。

この辺を間違えると、相手にどんどん入ってこられて、いやになり、パシッと切ってしまうことになります。そうすると、相手は 「あれほど自分に好意的だったのに、てのひらを返すような反応をされた。納得がいかない」と考えます。

こうしたタイプの人は、「自分が入りすぎた」ということがなかなか分からないので、最初から少し距離をとっておいてあげることです。(中略)

相手によっては、空間的な距離だけではなく、心理的な距離をとることが必要なのです。心の部分においても、少し距離をとったほうがよいのです。

また、ある程度、魂の修行を深めている人の場合は、そうでない人とは少し距離のあるほうがよいのです。

心の修行を深めている人の場合、他の人と意見がピタッと一致することは少ないものなのです。

魂修行の段階に差があると、意見がなかなか一致しないのですが、そうしたものだと思って、心の部分では少し距離をとっておくことです。それが多くの人と長く付き合っていく秘訣です。(中略)

心理的な距離のとり方が上手だと、いろいろな人と付き合えるようになります。

ところが、たいていの場合は、深く付き合いすぎるか、まったく付き合わないかのどちらかになって、相手から学ぶものが少なくなっているのです。
『人を愛し人を生かし人を許せ』(幸福の科学出版)P131~134


「骨は折れて治って初めて完成する」心も同じだと思います。

2018-02-21 00:45:05 | 命の不思議

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私は男性ですけれども、看護師を職業としています。

人呼んで、「白衣のペ天使」です。(爆笑)
それも手術部という、血なまぐさい世界で生きております。

「人の生き血に手を染めて、やばい薬を動かして、命のやり取りの日々」でございます。(笑)

そんな日々の中で、人さまの体を、内側から毎日毎日見ておるのです。
きも~って思わないでくださいね。(笑)

私たちは、同業者以外の方のことを、「堅気(カタギ)の人」と呼びます。(笑)
ちなみに、私の妻は堅気の人です。(笑)
私の妹は10年ほど前に、足を洗いました。(爆笑)

私たちの身の回りには、刃物が沢山あります。
私たちは、刃物の取り扱いに長けています。
そしてこの業界に長くいると、血を見ると落ち着くようになります。(笑)

私たちは、赤い回転灯とサイレンのついた車に乗った人たちと、とてもご縁の深いお仕事です。(笑)
私たちは、あのサイレンの音が近づくとドキドキします。
もうホント、怖くて怖くて仕方ないです。(笑)

だってその後には、密室での取り調べで、ねほりはほり色々聞かれますし、体中あちこち調べられます。
その取調べは、嘘は通用しなくて、決して、ごまかしは効かないんです。(笑)

ちなみに、私たちの業界の禁句は、「いらっしゃいませ~。」と、「またどうぞ!!」と、「まいどありぃ~。」です。(爆笑)

以前同僚と飲みに行った際、そこのお店のママさんに、「お兄さん方、とても機嫌の良い人たちだけれども、何のお仕事なさっているの?」と質問されて、

「いやぁ、人の生き血に手を染めて、やばい薬を動かして、命のやり取りの日々ですわぁ。あーははははは。」とお答えしたところ、周りのお客さんがみ~んな帰っちゃって、ママさんを不機嫌にしちゃったことがあります。(爆笑)

こんな人間が、世間では医療者をしておりますので、皆さんご自分の健康は、ご自身で管理なさってくださいね。(爆笑)

さて、人の体は真に不思議で、神様がお創りになったとしか思えない、数々の不思議な事柄に満ちております。

たとえば、折れた骨が治ったところ、「骨折線」と言いますけれども、その骨折線は、もう二度と折れないんですね。

すごく硬い骨に変化するんです。
ある意味これは、「骨は折れて、治って、初めて完成する。」とも言えるんですね。



私は、「心」も同じだと思うんですよ。

辛く悲しく苦しいできごとがあると、心は痛み傷つきますが、努力して乗り越えて、経験と知恵を得ることで、それを乗り越え、しかも二度とその苦しみを味わうことがなくなる訳です。

結局これが、悟りの意味だと思うんですね。

その時に大事なことは 『正しく治す』ことです。
骨も必ずひっつきます。

必ずひっつくんですが、変な形にひっつきますと、後で痛んだり、グラグラしたりしますね。

心も同じです。

正しく治さないと、変なカルマ(業=心の傾向性)になったり、トラウマになったりします。

さて、医学には、基本的な3つの学問があります。


1.解剖学 = 身体の正しい仕組み
2.生理学 = 身体の正しい働き
3.病理学 = 病の状態と、その仕組み  です。

お医者様は、これで人を診、治療している訳です。

また、心も同じです。

 https://happy-science.jp/info/2017/26991/

「心も、折れて治って完成する。」そして、心を治すには、正しく治す必要があると思うのです。
そして「心を正しく治すには、正しい心の 解剖学・生理学・病理学を持つ宗教が必要だ。」ということも重要なことです。

幸福の科学は、心の解剖学・生理学・病理学 が完全に揃い、しかも日々の心の健康生活まで踏み込んだ、世界で唯一の宗教だと思うのです。

他にも良い教えはたくさんありますけれども、この3つが現代的な形で揃っているは、幸福の科学だけだと思うのですね。

偉大な信仰との出会いに、心より感謝申しあげます。

本日は、幸福の科学大川隆法総裁経典『釈迦の本心』(幸福の科学出版)より、心の調律に重要な、「視覚情報の処理」について語られた一節です。

これは伝統仏教的に言うならば、八正道の「正見」の現代的な説明と言えると私は考えます。

         (ばく)

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太陽の昇る国、日本 天使のモーニングコール1376回 (2018.2.10,11)

 

 

 http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=151

 人間の悩みは、結局、「見る」という行為を中心にして起きているように思います。もし目が見えなければ、罪を犯す機会がそれだけ少ないとも言えましょう。

欲望というものは、たいていは目によって生じます。異性など他人の姿を見たり、金銀財宝や豪華な食事を見たりすることによって、しだいに欲望がつのってくるのです。

したがって、大切なのは、目を通じて入ってくる情報を、いかにさばいていくか、ふるい分けしていくかということです。人間の感情が波立つ原因の多くは、目を通して得られる情報にあるのです。

そこで、一日が終わるときには、呼吸を整え、心を調律し、みずからの内に深く深く入っていく必要があります。

そして、「みずからが仏と一体になった」「大いなる光のパイプからエネルギーが流れ込んでくる」と感じられるようになった段階で、その日一日を生きてきた自分をまったくの他人だと考え、その他人が見てきたことを、第三者の眼で批判的に検討してみるのです。

この「見る」ということは、結局、「見たことをどう認識するか」ということにかかわってきます。ある人がある行為をしたとき、それに対する見方は人それぞれです。

たとえば、会社のなかで、若手の社員が「こういう方針でやっていきませんか」と新しい提案をしたとします。しかし、この行為に対する認識は、人によって分かれることになります。

その人の上司が、その提案を肯定的にとらえようとすれば、「彼はたいへんやる気があり、進取の気性に富んでいる。非常に将来性がある」と見ることもできるでしょう。

しかし、否定的に見れば、「彼はまだ入社してまもないのに、大言壮語し、自分の分を知らずにいる。日々の事務仕事がきちんとできてこその、大きなプランであり、理想である。彼はまだまだ謙虚にならねばならん。うぬぼれがすぎる。彼にもっと自覚を促す必要がある」と感じる人もいるでしょう。

ここが見方の分かれるところなのです。

この二つの見方のうち、どちらがより真実に近い見方なのかを考えてみる必要があります。そして、前者の見方が正しいならば、自分はなぜ後者の見方をしたのか、この若手社員に対してなぜ不愉快な見方をしたのか、その根本原因をたぐっていく必要があるのです。

その結果、自分が若手社員のとき、いろいろな人に批判された反動だったり、自分自身は積極的な提言ができないタイプであることへの自己嫌悪だったりすることに気づくことがあります。

そうした原因を見いだしたならば、それを取り除いていく必要があるのです。
『釈迦の本心』(幸福の科学出版)P66~69


「子どもはピーマンを、無理して食べなくても良い。」という話と「スランプ脱出法」

2018-02-20 00:18:29 | 健康・美容

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私は看護師ですので、ときおり健康ネタもやります。(笑)

今日は食べ物の話ですけれども、人にはそれぞれ、好き嫌いというものがありまして、よく健康に良いとされているのが「酢」なんですけれども、「私はお酢が嫌い」という方、結構いますね。

実は酢がお嫌いならば、無理に飲まなくても良いです。

実は酢は、健康に絶対な成分ではなくて、酢はむしろ、不要な成分とも言えるんですね。

「お酢」には、ダイエット効果も期待できるのですが、今日着目してみたいのは、「大人の味覚」というもの。

多くの生き物の中で、酸っぱいものとか苦いものを食べるのは、どうやら人間だけらしいのですね。
 

他の生き物たちは、苦い食べ物や酸っぱい食べ物は、敬遠するらしいのです。

通常の生物は、酸っぱいものを、「腐ったもの。」と認識します。
そして苦いものは、「毒」と認識するんですね。

酢には殺菌作用があるので、実際にはお腹をこわすわけではありません。
 

実際に、握り寿司などは、江戸時代の屋台から始まった歴史がありますが、魚との組合わせでの、殺菌作用も兼ねていたと思いますね。

 

 

寿司での食中毒は、あまり聞いたことがないので、酢の殺菌作用は、相当なものであると思います。

実は人間も子供のうちは、酸っぱいものや苦いものが苦手です。

そして、ある一定の年齢になって以降、ある日突然食べられるようになるんですね。

実はこれ、体が毒抜きを欲しているからなんです。

酸っぱいものを食べると体は反射的に、「腐ったものを食べた。」と認識します。
苦いものを食べても、体は「毒を食べた。」と認識します。 

実際は、消毒効果のある酢なんですけれども、人間の生体反応は、ちょっと原始的にできてるんですね。(笑)

すると体内では、どういう生体反応が起きるかと言うと、排泄機能が高まるんです。

つまり、「うわぁ、毒が入って来よったぁ。」「ぎょえぇ!こいつ腐ったもの食いよったぁ。」「出せぇ!すぐに排泄せよー!」苦いものや酸っぱいものを食べると、体には、こういうスイッチが入っちゃうんです。(爆笑)

これをうまく使って、人間はデトックス(毒抜き)をしているわけですね。

つまり人は、排泄機能が落ちると、酸っぱいものや苦い食べ物を、おいしく感じるようになるんです。

人間はある時を境に、年齢とともに基礎代謝も落ちますし、同様に、排泄機能も激減し始めるんですね。
 

すると体内には、代謝などでできた毒素が、どうしても溜まりやすくなるんです。

ですから、大人になると、子供の時には食べられなかった、苦い食べ物や酸っぱい食べ物が、あるときから、急に美味しく感じ始めるんですね。

ですから、「私は、酢が嫌い。」という方は、毒抜きの必要ないお体をなさっている可能性があるんですね。「苦いコーヒーなんて、とても飲めない。」という方も同様です。

そういう方は、決して味覚が幼いのではなくて、現時点でのお体が、デトックス(毒抜き)を欲していない可能性があるんです。

つまり、「体がお若い。」ということですね。(笑)
ですからそういう方は、どうか無理に試そうとはなさらないでください。

で・・・、子供は、得てしてピーマンが嫌いじゃないですか。酢ものも嫌いですよね。

あれは、この生体メカニズムから来ているものなのですね。

ピーマンって、苦いですよね。酢ものも酸っぱいです。

子どもは、排泄機能が優れているので、デトックスの必要性がないわけです。

ですから、わざわざ腐ったものや毒と思われるものを、危険を冒してまで、体内に入れる必要性がないわけです。

「うちの子は、好き嫌いが激しくて、ピーマンを食べない。」と仰るお母さま方、どうかご心配なく。それで良いからです。

いつか食べられるようになりますから。その子の体が、毒抜きを必要とするときになったら。(笑)

それまでは、甘いパプリカでも食べていただいててください。
 

今日は、「万物の霊長人間様だけが、大人の味覚を持っている。」という、ちょっと不思議なお話でした。

そして忘れちゃならねぇ、布教もせねば。(爆笑)

身体が敢えて毒抜きのために、苦い食べ物や酸っぱい食べ物を摂取しようとするように、人生には苦難も困難もスランプもあります。

それは魂修行で、天上界では体験できないことを経験中ですので、ある程度は仕方ないのですけれども、今日は経典『幸福の道標』より、とっておきのスランプ脱出法をご紹介いたします。

               (ばく)

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癒しの音楽で、心にあたたかな光を 天使のモーニングコール1316回(2016年12月17日)

みんなちがうやくめ【ぼよ~ん!ぼよん!Vol.2】

 http://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=200

私が、まず第一にみなさんに考えてほしいことは、自己の内部には無限のエネルギーが埋蔵されているということを忘れてはならないということなのです。(中略)

私たちの魂の構造というものは、タマネギ状になっており、そしてそのタマネギ型の構造の中心部分には、大宇宙の神へと通じていく部分があるのです。

それゆえに、この大宇宙の神に通じていく中心部分は、無限の光をみなさんにもたらすものなのです。(中略)

この無限の光は、じつは神と同じ力であるわけですから、神と同じ属性をもっていると言ってもよいでしょう。(中略)

それはひじょうに知恵に満ちたものであり、また正義に満ちたものであり、勇気に満ちたものであり、慈悲に満ちたもの、愛に満ちたものであり、調和に満ちたものであり、限りなく繁栄していくものであるはずなのです。

それゆえに、苦境に陥ったときには、まず自己の本来の存在とはいったい何であるかを知る必要があります。

自己の本来の存在は、そうした無限者なのだ、無限力をもっている者だと気づくことです。そして、この気づきが、無限の力を引き出すための原動力となってゆくのです。(中略)

そして、第二に考えてほしいこと、それはまず蓄積という姿勢をつくるということです。

スランプの時期は、結局エネルギーを放出しすぎて、そして内部にエネルギーがたまっていないということを意味するわけですから、この時期に大いに蓄積に励むという努力をすることです。(中略)

長い人生のなか、悩みなき人はいないのです。

ですから、スランプの時期には自己の充電に努めるのが、いちばん賢明な方法と言えるのです。この時期にできるだけの蓄えをすることです。

スランプはやがて去ってゆくものですから、去ってゆく前にできるだけの蓄えをしよう、と努力することがだいじだと思います。

第三番目には、このときにゆっくりと他の人びとの幸福のことを考えてみましょう。

スランプの時期は自分のことを考えすぎているのです。そして他の人のことを忘れていることが多いのです。

努力して、自分の意識を転換し、そして他の人びとのことを考えてみましょう。他の人びとがどうすれば喜ぶか、ということを考えてみましょう。

スランプ克服の一番の方法は、他の多くの人びとを喜ばすなかにある、と言っても過言ではありません。(中略)

自分が苦しいからこそ、他の人びとを喜ばすような生き方をしてみようではないですか。

自分の心の内が苦渋に満ちているからこそ、他の人びとに笑顔を与えようではありませんか。

少なくとも他の人びとを幸福にするような生き方はできるはずです。

自分は現在の環境がそれほどうれしくないとしても、他の人びともまた幸福になりたいと願っているのですから、この時期にこそ、幸福への技法というものを発見して、他の人びとを喜ばせようではありませんか。

他の人びとを喜ばせて歩くなかに、かならずスランプは克服されるものなのです。
『幸福の道標』(幸福の科学出版)P167~171


平昌にたなびく『日の丸』を見て思うこと。

2018-02-18 23:54:29 | TV番組・芸能・スポーツ

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韓国で行われている平昌(ピョンチャン)オリンピックフィギュアスケート男子で、17日に羽生結弦選手(23)が金メダルを獲得しました。

羽生選手はシーズン直前に足のケガというアクシデントを乗り越えての2連覇ですし、銀メダルも日本の宇野昌磨選手と、1・2フィニッシュで、表彰台には2つの日の丸が掲げられました。

羽生、宇野両選手、本当に良くやってくださいました。

ただ今回のオリンピックでは、報道マスメディアに巣くう闇の部分も露呈し始めているようで、ブログ『理想国家日本の条件』には、韓国戦を逆転で制したカーリング女子日本代表の中継で、NHKがあからさまな韓国びいきの様子だったらしく、それが揶揄されていました。「NHKお通夜」「どこの国の放送?」カーリング女子、韓国戦勝利もNHKに「悔しそう」「暗すぎ」の声殺到

記事のコメントには、「巨人が負けると期限が悪くなる上司がいそうな感じ」という、意味深なコメントもありまして、どうやらマスコミには在日韓国系の方も多いとも聞いたこともあり、その気持ち、理解しないわけではないのですが、もしそうだとしても、もっと健全なナショナリズムの発露であって欲しいものです。

私には、そういう偏狭なナショナリズムは理解できないんですよ。

なぜならば、八紘一宇(はっこういちう)の国、日本の国民なものですから。

八紘一宇とは、初代神武天皇即位の折りのお言葉で、要するに日の本(太陽の照らす地=世界)の八紘(八つの民=すべての民族)は一宇(一つ屋根の下)ですから、つまり、「全世界の人々とは仲良く暮らして行こう」ということ。

この八紘一宇は世界史初の、「人種差別撤廃宣言」なのです。

ちなみに、近代最初の人種差別撤廃宣言も、1919年のパリ講和会議において、日本によってなされていて、この点において、日本は一本筋が通っています。

 
日の丸と言えば、世界には日本の国旗日の丸に似た、中央に円のデザインの国がいくつかあります。

有名なのは、パラオ共和国とバングラディッシュ人民共和国でしょうか。

なぜこの国々が、日の丸に似たデザインの国旗になのか興味が出て来て、少し調べてみると、そこには興味深いドラマがありました。

まずはパラオから。

パラオは、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国で、16世紀ごろからスペイン・ポルトガル・イギリスからの入植者が始まり、1885年にスペイン領になり、1899年には、そのスペインから、ドイツ・スペイン条約によって、グアムを除くスペイン領東インドは、450万ドルでドイツ帝国に売却されます。

そして第1次世界大戦でドイツが敗北すると、1919年のパリ講和会議によって、ドイツの支配から脱し、日本の委任統治領になりました。

大東亜戦争(太平洋戦争)で日本は、太平洋の島々で戦っていますが、これは国際機関(国際連盟)のもと、日本に旧ドイツ植民地が託されたからなのです。

さてパラオは、スペイン~ドイツの支配で困窮しましたが、日本の委任統治時代に、それまで進んでいなかった学校や病院、道路など各種インフラストラクチャーの整備、そして貨幣経済の移管が重点的に行われ、これにより1920年代になると、首都コロールは近代的な都市になりました。

日米戦争では、ペリリュー島では日本軍は壊滅し、米軍も多大な死傷者を出しましたが、一般のペリリュー島民は全員疎開され、死者は一人も出ませんでした。

 

戦争終結後、次は国際連合の委託を受けたアメリカ合衆国が、パラオを信託統治します。 

アメリカ統治のパラオでは、反日本統治時代の教育が行われ、神社なども破壊されるなど、戦前日本の文化は、眼に見える形では払拭されていきました。

その後パラオは1994年独立し、そしてそのときに選択した国旗が、青地に黄色の円の国旗だったわけです。

黄金色の円は満月明るい青はパラオがある広大な太平洋だそうで、デザインは、1979年に国旗を決めるコンテストで優勝したジョン・ブラウ・スキーボング氏の作品で、20作品ほどの候補の中から選ばれました。

パラオの国旗が日本の日の丸に似ていること、またパラオがとても人日的な国家であることから、「パラオ国旗が日本の国旗に由来する」「月は日章旗の太陽と対をなし友好を示すものであり、月が中心より若干左に寄っているのは、はためく時に中心に見えるように、併せて日本に対する畏敬の念の表れである」としいう説があります。

しかしこれは、パラオ政府は公式見解ではありません。

また、デザインしたスキーボング氏は、2010年10月に元埼玉県立大学吹浦忠正教授の質問に対し、「全部違う。私はもちろん日の丸を知っているが、特別にそれを意識してデザインしたわけではない。日本は日本、パラオはパラオだ。」と言い、更に「パラオの美しい月を表現したもの」とコメントもしています。

しかし通常なら、独立国の国旗というのは、元の宗主国の影響下にあって、アメリカ統治からの独立であれば、星のマークや横長の赤のストライプなどが使われそうなものですよね。

それを敢えて、その前の国のデザインに、極めて近いものとしていることや、今でもセカンドネームに、日本人の苗字を持つ人が一定以上いる(苗字やミドルネームを入れると、8割を超えるという説もある)など、パラオの人々が日本に抱く感情は、「言わずもがな」なのではないでしょうか?

一方バングラディッシュの国旗の方が、いわれがはっきりしています。

バングラディッシュは1947年イギリスからのインド独立の後、宗教上の理由から、すぐさまインド(ヒンドゥー教国)と東西パキスタン(イスラム教国)に分離し、バングラディシュは東パキスタンと名乗ります。

しかしさすがに東西パキスタンには、文化や距離の問題があり、結局東西パキスタンは対立することに。

その結果独立戦争を経て、1971年に東西パキスタンから独立し、「べンガル人の国」という意味の、バングラディッシュとして独立します。

バングラディッシュの国旗のデザインは、緑の地に、中央からやや旗竿寄りに赤い円が描かれていて、赤い円は昇りゆく太陽を表し、地の緑色は豊かな大地を表すそうです。

日本の「日の丸」とのデザインの類似性は、初代大統領シェイク・ムジブル・ラフマンが国旗を決める際に、当時バングラディッシュ赤十字に滞在していた吹浦忠正(聖心女子大学講師、ユーラシア21研究所理事長、初代バングラデシュ日本人会会長)は意見を求められています。

ですから、バングラディッシュの国旗のモデルは、日本の日の丸だと言えますね。

問題は、件のバングラディッシュは、パキスタンと同じ、イスラム教国だということです。

イスラム教は日本にはなじみが薄いですが、簡単に言うと、約3000年前にモーセが今のエジプトのシナイ半島発祥で、モーセが受けた神の啓示や、その後の預言者の言葉をまとめたのが旧約聖書。この旧約聖書を奉じ、旧約聖書の神を信じるのがユダヤ教です。

そして2000年前に、今のイスラエルで、イエスの言行録をまとめたのが新約聖書で、旧約と新約聖書を合わせて聖書と呼びますし、この両経典を信じるのが、キリスト教徒です。

そして約1500年前に、今のサウジアラビアでマホメット(ムハンマド)に臨んだ、アッラーや大天使ガブリエルからの霊言をまとめたコーランに、新旧聖書を加えたものを奉じているのがイスラム教です。

イスラム教は、元来、ユダヤ教やキリスト教を尊敬しています。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の三教に共通するのは何かというと、「一神教」です。

つまり、元来、宗教的ドグマによれば、イスラム教は一神教には寛容なんですが、一方では、宗教的には多神教には非寛容なところがあって、インドではイスラム教によって、仏教が滅んでいます。

日本は、まぁ大東亜戦争によって、イギリス軍を蹴散らしましたので、それがインド独立の大きなきっかけになったこと、またバングラディッシュの国家承認も早い段階であったということを踏まえても、日本的伝統宗教観は、日本神道、仏教、どちらも多神教で、日本は多神教国です。

何が言いたいかと申しますと、「日本の日の丸には、宗教的ドグマすら超えるだけの、可能性があるのではないか?」ということです。

日本の国旗に対して、何か国粋的なものを感じる方もいらっしゃるかも知れませんが、そうではなくて、むしろ、今世界が困ってい、宗教紛争や、様々な諸問題などの解決を図る上で、重要な可能性を秘めた象徴と成りえるのではないでしょうか?

なにせ日本は、2500年前神武天皇即位のときより、八紘一宇を国是としてきたのですから。

                             (ばく) 

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「知られざる激戦地ペリリュー島」~天皇陛下のパラオ慰霊に寄せて

2017年、沖縄から始まるアジアの大激変【THE FACTセミナー】  


『愛とは何か』 『愛と忍耐』 『許し合うことを学ぼう』

2018-02-16 23:24:26 | オープニングメッセージ

 

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 幸福の科学月刊誌オープニングメッセージ「心の指針」より

『愛とは何か』

人を愛するということは、
相手の中に仏性を見出すことである。

ところが不思議なもので、
こちらの心のあり方しだいで、
相手は、悪魔にも、
菩薩にも見えるのである。

「お母さんなんて大嫌いだ。」といわれれば、
わが子も小悪魔に見え、
「お母さん、いつもありがとう。」といわれると、
わが子が小さな菩薩に見えるだろう。

夫婦も同じだ。
相手が
悪魔に見える時も、菩薩に見える時もあるだろう。

原因はどちらにもあるだろう。

ただ、気がついた者の方から、
まず自分を変えることだ。

愛を出し惜しみするな。

自分の中の仏性を発見することが、
「悟り」であるなら、

相手の中の仏性を拝み出すことが、
「愛」なのである。

 『愛と忍耐』

あなたがたは、
互いに愛しあいなさい。

幸福になりたいのなら、
愛しあうことを学びなさい。

他の人の悪口が出るのは、
あなたが、かしこく、
相手より優れた点があるからだろう。

優れたあなたであるなら、
劣った人をなぐさめたり、
ほめたりすることは簡単なはずだ。

もし、そうでないなら、
本当は、
相手に劣等感や憎悪を感じているのだ。

素直な心で、反省しよう。
相手の美点を認めよう。

人を愛し続けるためには、
忍耐も必要だ。

耐え忍ぶ心がなければ、
長く良好な人間関係は結べない。

愛とは忍耐であり、相手に、相手自身のことを好きになってもらうこと。

この真理を学んでほしいのだ。

『許し合うことを学ぼう』

人を憎むことは簡単だ。
しかし、人を許すことは難しい。

人間は、自分の不幸を自分のせいにしたくはない。

傷ついた心を、自分自身の愚かさに帰するのは苦しい。

必ず、誰かのせいにしたい。

会社のせいや、
国のせいや、
時代のせいにしたがるものだ。

たしかに、他の人も、
あなた同様、愚かな人々かもしれない。

受け入れることができない悪人もいよう。
性格の合わない人もいるだろう。

私自身も、
無神論者や唯物論者の群れの中で、
ささやかな闘いに、傷ついたり、苦しんだりもする。

ただ、私は、
自分の愛の量の少なさに苦しむ。

自分の不寛容を恥じる。
自分の千慧の足りなさに涙する。
衆生病むがゆえに我病む、という気持ちを持っている。

すべての人は、死の下に平等だ。

最後の日のことを思って、
許し合うことを学ぼう。

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大川隆法 御説法『愛と人間』

 

 

山口龍彦(やまぐち たつひこ)高知厚生病院院長 

天理万相談所病院で研修後、現高知大学医学部大学院を経て、愛宕病院、佐川町立高北病院、高知赤十字病院に勤務。1993年高知厚生病院に勤務後、1995年同病院内に全国初のホスピスを開設。  

健康セミナー「ぴんぴんコロリを目指して。~がん、認知症の予防と治し方~」

講師 山口龍彦高知厚生病院院長

日時 2月17日(土)10時30分~12時

場所 田野町ふれあいセンター 〒781-6410  高知県安芸郡田野町1456-42 0887-38-2511

主催 幸福の科学高知支部 百歳まで生きる会 088-882-7775  

2016幸福実現党TVCM(全26種)

 


2/17(土)日本のホスピス先駆者、山口龍彦医師による「がん、認知症の予防と治し方」セミナー(再掲)

2018-02-15 23:23:28 | 支部イベント

山口龍彦高知厚生病院院長(左)https://the-liberty.com/article.php?item_id=4618

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高知には、全国に誇るべき医療施設があります。

そのひとつが、高知市高須にある高知厚生病院。

かれこれ23年前に、山口龍彦高知厚生病院院長は、高知厚生病院内に全国初のホスピス病棟(緩和ケア病棟)を構えました。

ホスピス病棟とは、疼痛の緩和以外の積極的な治療はせず、ターミナルケア(終末期ケア)を行う施設のことです。

今ではがん治療の手術法の進歩もあり、がん告知などは普通に行われていますが、山口医師がホスピス病棟を構えた頃は、たとえ初期のがんであっても、他の病名を患者さんに伝えるのが通例でした。

がん=不治の病というイメージが定着していたからです。

また世界のキリスト教圏では、普通に存在するホスピス病棟も、まだ日本にはありませんでした。

ホスピスは、安らかな死を迎える援助をする病棟ですけれども、ホスピスは、しっかりとした宗教的信条、そして確固たる死生観、人生観が、絶対に必要不可欠だからです。

無神論・唯物論医学では、絶対にホスピスはできないのです。

山口医師は、日本発緩和ケア病棟の宗教的バックボーンを、当時新々宗教だった幸福の科学の宗教思想に定めました。

幸福の科学では、発足当初から、「人間とは何か」「人生の目的と使命は何か」「死後はどのような世界に赴くのか」などなど、人生の重大なテーマが、体系化された形で説かれていたからです。

高知厚生病院緩和ケア病棟HP  http://www.kochi-koseihp.jp/wdoc/?q=grp030

「人間は神仏の子であり、人生は本来の住処である霊界ではできない魂修行で、同時に修行の場である地上を、理想郷ユートピアへと変えていく使命があって、人間はあの世とこの世を転生輪廻している存在である。」

私ですら、すらすらと書ける程度に、幸福の科学の教えは体系化されているのです。

さて20数年来、高知市内のホスピス病棟で、数多くの方々に寄り添い続けた山口院長が、健康セミナーを開催します。

日時は2月17日(土)10時30分~12時までで、場所は田野町ふれあいセンター。

演題は「ぴんぴんコロリを目指して~がん、認知症の予防と治し方~」です。

高知厚生病院ホスピス病棟に来られる方は、人生の最後をここで過ごす方や、ここで在宅ケアを学んで行かれる方が多いです。

私の姑もお世話になりましたが、とても良くしていただいたし、いい意味で、病院らしくない病棟なんですね。

山口医師も、仲よくさせていただいていますが、イケメンでいつも朗らかで面白い方。

「努力する愛の人」なんだけど、とても気さくなんですね。

がんや認知症でお悩みの方、がんや認知症が心配な方、この方の話を知ると知らぬでは大違いです。

山口医師は元来整形外科のドクターだし、腰痛とか膝痛とか、そういった通常の健康相談なども、気さくに答えて下さる御仁ですので、入場無料ですし、気軽に出向いて見られたらいかがでしょうか。

本日は、Libertywebより、イタリアでの尊厳死法制定に関する記事をご紹介いたします。

           (ばく)

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山口龍彦(やまぐち たつひこ)高知厚生病院院長 

天理万相談所病院で研修後、現高知大学医学部大学院を経て、愛宕病院、佐川町立高北病院、高知赤十字病院に勤務。1993年高知厚生病院に勤務後、1995年同病院内に全国初のホスピスを開設。

心の指針「ストレス・マネジメント」幸福の科学大川隆法総裁御法話抜粋

病気は治る ―大川隆法総裁 心の指針120―

健康セミナー「ぴんぴんコロリを目指して。~がん、認知症の予防と治し方~」

講師 山口龍彦高知厚生病院院長

日時 2月17日(土)10時30分~12時

場所 田野町ふれあいセンター 〒781-6410  高知県安芸郡田野町1456-42 0887-38-2511

主催 幸福の科学高知支部 百歳まで生きる会 088-882-7775

伊が「尊厳死法」を施行 死を「自己決定」した“後”に来るものとは

https://the-liberty.com/article.php?item_id=14092

《本記事のポイント》

  • 男性の安楽死をきっかけに、イタリアで尊厳死法が施行
  • 日本でも尊厳死をめぐる議論が盛んになっている
  • 死後も苦しまないためには、霊的人生観が必要 

延命治療を望まない「尊厳死」を認める法律が1月31日、イタリアで施行された。海外メディアや読売新聞が報じた。 

法律は、「医師は延命治療を望まない患者の意思を尊重しなければならず、その際殺人罪などに問われない」というもの。尊厳死を認める法案については以前から議論されていたが、国民の7割以上がカトリックを信仰しているイタリアでは、人間が死の時期に関与することに否定的な人が多く、法制化が進まなかった。 

しかし、ある男性の安楽死をきっかけに法制化が進んだという。 

イタリアでDJとして活躍していたファビアーノ・アントニアーニ氏は2014年6月、交通事故で失明と四肢のまひ、絶え間ない全身の激痛という後遺症を負った。リハビリや治療に励んだが、改善が見られず、生きていくことに苦痛を覚え17年2月、投薬による安楽死が認められているスイスで安楽死を遂げた。 

アントニアーニ氏は生前、尊厳死や安楽死の容認を求める動画をインターネットに投稿しており、これにより、イタリアで尊厳死や安楽死を容認する声が増えたという。ただ、このたび施行されたのは、寿命に従って平穏に亡くなる「尊厳死」を認めるものであり、投薬による「安楽死」を認めるスイスとは異なる。 

日本でも「安楽死で死にたい」

日本でも昨年8月、脚本家の橋田壽賀子氏が『安楽死で死なせて下さい』を発刊し、投薬を伴う安楽死の是非について議論が沸き起こった。認知症になって周りの人に迷惑をかけるくらいなら、安楽死で死にたいというのが、橋田氏の考えだ。 

これに対して、日本在宅ホスピス協会会長の小笠原文雄氏や日本尊厳死協会副理事長の長尾和宏氏は、「安楽死と『安楽な死』は違う」とし、寿命に従って平穏に亡くなる尊厳死を勧めている。 

このように、尊厳死と安楽死では意味合いが大きく異なるが、いずれにせよ、「どのように死ぬか」が大きなテーマであることは間違いない。 

死後苦しまないために

ここで考えるべきは、「あの世への旅立ち」という観点だ。大川隆法・幸福の科学総裁はこのように述べている。 

私は、自殺そのものには反対ですが、ある意味で、安楽死や、延命治療を打ち切ること、あまり長く苦しまないで亡くなること自体は、よいことだと思うんですね。末期の苦しみがあまり長いと、死んだあとにも苦しみを持ち越して、その状態が続くことがわりに多いので、その辺の見切りは大事だと思います。病気になって、あまり苦しくて悲惨な状態を長く続けるのはよくないのです。『もう回復不能』と判断したら、そこで見切るのも愛かなと思います。この世の人にとってもそうですし、本人自身の魂も、『もう、あの世に還りたい』と願っている状態であれば、あまり無理をして延命を続けないほうがよいと思います。唯物論的な医学では、『延命させることが愛だ』と思ってやっていますが、必ずしもそうではない面があるかもしれません」(幸福の科学出版『勇気ある人となれ』大川隆法著)

 

「いまのところ、人間の権利として認められていないかもしれませんが、人間には、『安らかに、あの世に旅立つ権利』というものがあるのです」 (幸福の科学出版『霊界散歩』大川隆法著) 

 https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=133

人間の本質は魂であり、新たな経験を積むために、一人ひとり「人生計画」をたてて地上に生まれてきている。したがって、死ねば何もなくなると考え、「苦しみ」から逃れたいという一心で死期を早めるべきではない。しかし、唯物的に肉体の生存のみに執着することも、安らかな死を阻害してしまう。 

尊厳死や安楽死を考えるにあたっては、「転生輪廻」や「魂の安らかな旅立ち」という観点が不可欠だ。

(片岡眞有子)

 

【関連書籍】

幸福の科学出版 『霊界散歩』 大川隆法著

https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=133

幸福の科学出版 『勇気ある人となれ』 大川隆法著

※書店では取り扱っておりません。最寄りの幸福の科学の精舎・支部・拠点までお問い合わせください 

【関連記事】

2016年10月号 障害者の生きる意味 - 相模原・障害者施設殺傷事件

https://the-liberty.com/article.php?item_id=11832 

2016年10月号 釈量子の志士奮迅 [特別編] - 緊急対談「相模原事件を考える」 「障害があっても魂は健全」を常識に

https://the-liberty.com/article.php?item_id=11813 

2014年11月4日付本欄 死をコントロールすることは是か非か アメリカの女性が尊厳死を実行

https://the-liberty.com/article.php?item_id=8682


バレンタインと税金とゴディバ夫人の物語。(追記・再掲)

2018-02-14 14:48:52 | 減税
 
2016年2月14日投稿記事の再掲です。
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この間お正月だったと思っていましたが、あらら、もう節分も終わり、バレンタインデーですね。
 
1月は行く、2月は逃げる、3月は去ると申しますが、あっという間にときは過ぎて行きます。
まさに諸行無常でございますね。
 
さてバレンタインデーと言えば、チョコレートでございますが、女子に大人気の、「ゴディバ」というチョコレートのブランドがあります。
このゴディバというブランド名は、実在のゴディバ夫人に由来するそうです。
 
時は11世紀、イングランド(イギリス)でのお話です。
 
ゴディバ夫人は、領主である夫の領民への重税を戒めたところ、「裸で馬に乗り、城下を駆け回ったらやめてやる」と言われ、本当にそれをやったと言われています。
 
上、記事冒頭の画像が、その逸話が由来となった絵画です。 
 
 
税金に関しては、洋の東西を問わず、また今も昔も、変わりなくなんですね。
 
税金というのは、「革命の卵」のような性質があると思います。
フランス革命も、結局原因は税金ですし、アメリカ独立戦争も、お茶への税金が発端でした。
 
日本でも、源平合戦では、源頼朝の挙兵時のスローガンは、打倒平家ではありませんでした。
なぜならば、頼朝の御家人は、平家一門だったからです。(笑)
 
鎌倉の源頼朝が掲げたのは、「年貢を京の都に収めるのは大変だから、関東は独立しよう!」がスローガンでした。
 
 

 釈量子 幸福実現党党首      源頼朝 

また、鉄の結束を誇った北条執権鎌倉幕府が、御家人の支持を失ったのも、実は税金が絡んでいます。
 
当時の武士に対しての法律、”御成敗式目”では、完全な子孫への均等相続が命じられていたんですね。
鎌倉時代当時、子供には均等な相続制度があり、なんと、女性にも相続権があったんです。
鎌倉幕府って、進歩的というか、近代的と言えなくもありません。
 
一見するととても近代的で、民主的、理想主義的ににも思えるんですが、実際にやってみると、大変なことが起こったんです。
それは、代を追うごとに、武士たちの領地が減っていったんですね。
 
武士たちは、何らかの恩賞がないと、とても食べていけない状況下に陥ってしまって、その上、大陸から元寇襲来が来ました。
元寇との戦いは、完全な防衛戦ですから、手柄を立てても新たな領地はないわけです。
 
そこで困窮した武士は、”御成敗式目”からの脱却の必要があって、鎌倉幕府を倒したわけですね。
 
それで、一子相続の室町幕府ができて、”タワケモノ”という言葉も生まれました。
田を分けること、つまり完全分配相続は、やってはいけないおろかな行為ということですね。
 
こういう歴史を知ると、現代日本の均等相続や相続税は問題ありだと思いますね。
 
 
後の室町幕府の末期は、戦国時代に突入しますが、その発端となったのは、小田原北条家でしょう。
その北条家の初代当主は、北条早雲ですが、北条早雲の戦いは、減税のための戦いだったんです。
 
当時の小田原地域の年貢の比率、領主6で農家4だった税の比率を、領主4、農家6に、早雲は変えたんですね。
 
この、”最初の戦国大名北条家”は、その後豊臣秀吉に滅ぼされるまで、”最後の戦国大名”として存続しました。
 
つまりこれは、領民が北条家を欲していて、北条家を守ったということです。
だから、年貢の高い他戦国大名家が滅んでも、小田原北条家は最後まで残ったのだと思うのです。
 
 
 
政府は今、「貯蓄税」とか「死亡消費税」を検討しているのだとか。
言語道断ですね。
 
安倍総理は、国民の私有財産保有を、お認めにならないのでしょうか?
それともひょっとすると、日本国憲法に、私有財産保持を認める記述があるのをご存じないのではないでしょうか?
私は後者だと思いますね。
 
安倍政権は、幸福の科学大学を不認可にしました。(その後私塾、ハッピーサインエンスユニバーシティーとして開学)
この不認可は、信教の自由、学問の自由、私有財産の自由に対する、憲法違反です。
ですから安倍総理は、日本国憲法の内容を知らないのだと思います。
 
知らないから、「総理、貯蓄にまわっているお金を国民に使わせて、景気を良くするいい手がありますぜョ。」と経済官僚に言われて、「おお、それは名案じゃ!」と食いついているのではないでしょうか?
もう、そうとしか思えないんですよね。
 
 
 
今の日本の消費税は8%ですけど、ヨーロッパなどの20~25%などと比べると、一見すると低税率のように思えます。
しかしあちらは、生活必需品とかは無税だったりして、消費税は事実上の贅沢税です。
 
また日本のガソリンように、揮発油税などの間接税に加えて、消費税が乗っかっていたりはしないんですよ。
ガソリンやお酒などは、商品価格の上に物品税がかかり、その上に消費税がかかっています。
 
無茶苦茶です。
日本以外の国では、消費税か間接税のどちらかなんです。
 
日本はその他、間接税が無限にありますし、何もかもに課税されますので、日本の5%消費税は、ヨーロッパの25%に相当するんですね。
 
ですから、消費税8%は取り過ぎなんです。
日本では、5%が限界なんです。
 
 間接税にしても、自動車税などは世界一の高額ですので、高い税の上に、更に消費税をかけているのが日本なんです。
こういう高税国家を、子孫に残したくはありません!
 
そもそも、安倍政権だけでなく、与党も野党も、肝心な所がわかっていないんですよ。
それは、”豊かな国民が暮らす国が、豊かな国なんだ”ということですよ。
 
これが、まったくわかっていないんですよ。
「どうしてわからないんだろう?」と思いますけど、わからないんですよ。
 
貧乏な国民が暮らす国は、貧乏な国ですよ。
あったりまえの話ですよ。
国民を貧乏にしておいて、どうやって豊かな国ができるのか、こちらが教えていただきたいですよ。
 
ギリシャ、イタリア、スペインなど、経済がダメで、国家存亡の危機にある国に共通するのは、税金が高すぎたり、税金の聴収が厳しすぎることですよ。 
 
 
 
日本国民の皆様、もう税金から見た日本は、狂っていますよ。
もう”減税革命”が必要ですよ。
こんな税金に対する見解の国家、申し訳なくて、子孫に引き継げないですよ。
 
どだい、貯蓄税とか死亡消費税とか創れば、銀行に関係ないタンス貯金が増えるだけだって、なぜわからないんでしょうね。
 
お金、使うはずないじゃないですかぁ。
日本人っていうのは、子孫に迷惑をかけたくない国民性です。
死亡消費税分を、見えない形で、置いておくようになるに決まっています。
 
 
 
もう幸福実現党が、政治の中枢で、その優れた見解で、日本を良き方向に引っ張っていくしかないと思います。
でないと日本は、もう危険すぎる段階にまで来ていると思います。 

本日は2月15日(土)に迫った、日本ホスピスの第一人者山口龍彦高知厚生病院長の健康セミナーのお知らせに続き、週刊ポスト記事をご紹介いたします。

            (ばく)             

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山口龍彦(やまぐち たつひこ)高知厚生病院院長 

天理万相談所病院で研修後、現高知大学医学部大学院を経て、愛宕病院、佐川町立高北病院、高知赤十字病院に勤務。1993年高知厚生病院に勤務後、1995年同病院内に全国初のホスピスを開設。  

健康セミナー「ぴんぴんコロリを目指して。~がん、認知症の予防と治し方~」

講師 山口龍彦高知厚生病院院長

日時 2月17日(土)10時30分~12時

場所 田野町ふれあいセンター 〒781-6410  高知県安芸郡田野町1456-42 0887-38-2511

主催 幸福の科学高知支部 百歳まで生きる会 088-882-7775 

【経済編】大川隆法総裁の提言 ―未来を拓く言葉―

【消費税増税編】大川隆法総裁の提言 ―未来を拓く言葉―

☆政府内で「貯蓄税」と「死亡消費税」を検討 すでに布石も☆ 



http://www.news-postseven.com/archives/20160202_381723.html?PAGE=2

日本経済の足踏み状態に業を煮やした安倍政権は、個人や企業が貯め込んでいる資産を吐き出させようとなりふり構わぬ“北風政策”を打ち出し始めている。要は“太陽政策”とは異なり、辛い目に遭わせることで、カネを出させようという作戦なのである。政府内で検討されているのが「貯蓄税」と「死亡消費税」だ。

 貯蓄税は、今年から運用開始されたマイナンバー制度の導入により、国民の貯金額の把握が容易になったことで現実味が増しつつある。文字通り、貯蓄に対する税で、“貯める者にペナルティ”を与えることで、強制的に口座からカネを掻き出す乱暴な政策だ。

 死亡消費税は3年前、首相官邸で開かれた「社会保障制度改革国民会議」で飛び出した。死亡時に残った遺産に一定税率をかけて徴収しようというもので、控除額が設けられている相続税と異なり、すべての国民が課税対象になる。

 新税に対する布石はすでに着々と打たれている。昨年1月から相続税が増税され、最高税率が55%に引き上げられた。これに伴い、生前贈与(子供や孫へ住宅購入資金や教育資金を非課税で贈与する仕組み)の件数が急増し、潤沢な資産を持つ高齢者から現役世代へ資金の大移動が起こったのだ。

 昨年8月からは介護保険制度が改正され、特別養護老人ホームなどの介護保険施設を利用した際、これまで「所得」を基準に適用されていた低所得者向けの負担軽減制度に資産基準が新たに設けられた。

 単身で1000万円、夫婦で2000万円以上の資産を持つ高齢者は、負担軽減制度が受けられなくなったのだ。

「夫の死後、自分の年金収入だけで暮らしていましたが月7万円にも届かない。夫が生前に中古で買った一軒家に暮らしていたのですが、その資産価値が1000万円を超えるということで、ホームの利用料が軽減されなくなりました。

 これまで食費と居住費を合わせて月6万3000円だったのが、昨年夏以降、月額10万5000円にまで跳ね上がり、年金収入では払えなくなった。仕方なく家を売って施設利用料を捻出しました」(関西地方在住・70代女性)


税制が専門の立正大学教授・浦野広明氏の指摘だ。

「消費増税や資産への課税強化などは“取れるだけ取る、持っている者から取る方法を編み出す”というものばかりです。それが見え透いているからこそ、貯金族はさらに資産防衛に走る。北風政策の典型的な失敗パターンです」

 しかし、一連の「税制改悪」を支持する層もいる。60代以上に対して、50代以下は実質賃金は下がり続け、貯蓄に回すおカネがそもそもない。その分、投資には積極的だ。

「メディアが年金制度の世代間格差など、現役世代の不満を煽る報道に熱心なため、彼らからの妬みは肌で感じる。この空気にはウンザリだよ。誰もが散財していたように思われてるバブル時代にも俺たちの世代は貯金していた。カネが貯まらないのは俺たちのせいじゃない!」(都内在住・70代男性)

※週刊ポスト2016年2月12日号



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