5月15日より全国上映予定映画「心霊喫茶『エクストラ』の秘密ーThe Real Exorcist-主役 千眼美子
本日も、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しいただき、本当にありがとうございます。
今回は、以前私が徳島県の聖地四国正心館で、公案研修を受けてきたときの話をさせていただきたく存じます。
その際に、初めて精舎研修をお受けになる方と、一緒に行ったんですね。
その方は、80代の男性で、ピアノの調律のお仕事を現役でなさっている、Yさんという方です。
この方の幸福の科学への入信のきっかけに、私は大変感動いたしました。
Yさんは常々、「人間はなぜ感動するんだろう。」ということを、お若い頃から考えていらっしゃったそうです。
そして30年ほど前に、ピカソ霊示集をお読みになり、この経典から溢れるバイブレーションに、心が共鳴したことを、はっきりと自覚なさったそうです。
そしてYさん曰く、
「感動とは、自らの心が持つバイブレーションと、受けるバイブレーションが共鳴し、増幅されることで起こっている。」
「人は神の子だから、本来の神、親なる神のバイブレーションに、心が共鳴するようにできている。」
「これが、感動なんだ。」
と、教えてくださいました。
Yさんの人生を賭けた、貴重な学びを賜り、私は感動いたしました。
聖地四国正心館礼拝堂 徳島県鳴門市
そして、あることに気付きました。それは、「もし人間が、進化論者の言うが如き、勝手に出来上がったものだとすれば、人が感動するということを、説明できない。」ということです。
脳科学者は言うでしょう。
「感動している時に、人の脳のこの部分が活性化し、ドーパミンが出ることによって感動するのだ。」と。
ああ、そうでしょうとも。(笑)
CTとか、そういう計測機械を使えば、血流とかがわかりますし、脳波形でも、そういう活性化の有無はわかるでしょう。
それは身体的には、そういう現象が起こっているでしょう。
しかしこれは、そういう問題ではないんですね。
そうなんです、”意味”の問題なんですね。
「なぜ人は、感動するのか?」という問いは、即ち、「なぜ、感動する必要があるのか?」という問いかけでもあるのです。
この問いかけに、生物学者も、脳科学者も、誰も答えることができないのです。
全ての生物が、アメーバーから生まれ、生き残るためだけが目的であるならば、なぜ人は、「感動する」という心の作用を得るに至ったのか。
なぜ感動できる生物である人間が、万物の霊長として、生物界に君臨できるまでになったのか。
「この説明が、唯物論科学でできるのか?」です。
むしろ、生き残るためであったなら、感動しない方が生き易いはずです。
大自然の掟は弱肉強食、つまり、生き残りとは無慈悲なものだからです。
しかし、「美」というものは、人は教わらずとも知っているように思います。
「理想」というものも、人は教わらずとも理解できるように思います。
「美しさ」とか、「理想」というものを、人が本質的に知っていることは、これは進化論的生物観では、説明できないのです。
脳科学者はそれでも、「脳のこの部分が活性化され云々・・・。」と答えるでしょうが(笑)、それは彼らが、問題の本質を理解できない脳構造であるからだと、私は思いますね。(爆笑)
人はなぜ感動するのか?
これは、人間がダーウィンが言うが如き、勝手に出来上がった存在ではないという明らかな証拠であり、神の子人間、つまり、「人は神が創り賜うた、尊き創造物」ということの、本質を突いた問いかけだと、私は考えるのです。
そう、人間は、神様が創ったものです。
なぜならば、「感動する心があるから」です。
これが、真理です。
Yさんの御精進に、心より感動いたしました。
同行させていただき、本当に喜びでいっぱいです。
主なる神、エル・カンターレのお計らいに、心より感謝いたします。
これからも、長生きしていただいて、末永くお導きいただけたらと存じます。
本日は経典『無限の愛とは何か』(大川龍豪著 幸福の科学出版)より、一部抜粋をお届けいたします。
私はこの経典から、「根源的な信仰とは、こういうことを言うのではないか?」と思い、とても感動した言葉でもあります。
(ばく)
大川咲也加「The Real Exorcist」(English ver.) MV Short ver.|映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密-The Real Exorcist-』主題歌
ナイジェリア最大のエコ国際映画祭にて最高賞を含む2冠達成!映画『心霊喫茶「エクストラ」の秘密-The Real Exorcist-』
神という存在への思いなくして生きているということは、子供たちが、自らの親が誰であるかということを考えることなく、人生を過ごしてゆくことと同じなのです。
子供は、生まれ落ちるとすぐに、自分の母親が誰なのか、父親が誰なのか知ろうとするでしょう。
それだけではなく、知ってさらに、求めようとするでしょう。
抱きしめてほしいと願うでしょう。
一歩でも二歩でも、親に向かって進んでくるでしょう。
それがほんとうの姿なのです。
それなのに、親子の関係で言えば子にあたる人間が、親なる神を見向きもせず、求めもせず、己れひとりでこの世に生まれてきたかのごとく振る舞っている現在の姿は、まことに恥ずべき状態であると言わざるを得ません。(中略)
信仰と言われているものを一言でわかりやすく言い換えるとするならば、この「神を愛する」ということに尽きるのです。
神を愛するがゆえに、親なる神の持っておられるすばらしい思いを、性格を、性質を、受け継ごうとするわけです。
それは単なる惑わかしや思い込みといったようなものではありません。
厳然たる事実のもとに、行なわれて当然のことを行なうという、ごくごく合理的と言ってもよい考え方のもとにある行為が、この信仰なのです。
この世界の成り立ち、人間の生命の成り立ち、こうしたことを知ろうとし、知ったうえで、その本来の成り立ちに基づいた生き方をしようとすること。
これはまことに筋の通った生き方なのです。
これは、このうえなく合理的な生き方でもあるのです。
『無限の愛とは何か』(大川隆法著 幸福の科学出版)P160~164
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