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幸福の科学の、高知の信者による共同ブログです。
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大国土佐復活の政治選択と『新しき繁栄の時代へ』。

2020-01-23 00:36:27 | 野中兼山待望論

「手結港」の画像検索結果

世界初の外洋港 手結(てい)港 高知県香南市

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高知は長らく、県民所得で下位に甘んじております。

しかし歴史上、ずっと貧乏な地域であったわけではありません。

江戸時代には、全国随一の経済大国だったのですね。

今、多くの高知県民の心からは、この歴史的事実が忘れられていることを、私はとても残念に思います。

その歴史の名残は、今でも、高知の県民性に残っていると思います。

また私たち高知県民の心の奥には、「幕府(政府)なにするものぞ!」とか、「自由に生きていきたい」という願いはありませんか?

酒にまつわるエピソードも豊富だし、気前の良い県民性も、どこか「なんとかなるんじゃない(^^♪」という、楽観的な性格が多いのも、これらは、貧乏な国の人たちではあり得ない性分なんですね。

そして土佐人は、本来、卑屈を嫌う誇り高き民なのです。

それは、多くの富が溢れ、その富や力を元に、自らが自由を総出してきた、長い歴史がそうさせるのです。

24万石と言われる江戸時代の土佐は、実質石高は50万石以上あったのです。

当然米は余りますから、それを人口の多い関西圏などに200年以上売り続けたので、超黒字体質であったので、土佐は日本随一のけい経済大国で、学問や武道などの習い事も盛んでした。

坂本龍馬先生は、江戸随一の道場の筆頭にまで行きましたが、当時土佐で一番は、日本で指折り数えるくらいの・・・、これ以上言うと、他県の方から怒られるので、このへんで。(苦笑)

土佐は50万石以上の石高と言いますが、元々そういう土地だったのではありません。太閤検地では、10万9千石とありますから、24万石というのは、当初は為政者が見栄を張っていたと思われます。

しかし江戸時代初期において、土佐人自らが、50万石以上と言われる豊かな国を創出したのです。

その中心になった人物が、土佐藩2代藩主の家老、野中兼山です。 

  

 野中兼山像(本山町) 

野中の施策は、高知の風土や地理的条件を調査した上で、適切な大規模インフラを構築したことです。

野中は今の兵庫県出身ですので、これだけ適切なインフラを構築するには、土佐中を練り歩いて実態調査したはずです。

そして野中の施策を手伝ったのは、山内家ではなく、その前の統治者、長宗我部家の家臣の人たちでした。つまり、当時の庶民だったのです。

そして野中らは、国防インフラ並の規模で生活インフラを造ることで、日本のトップの豊かな地域とするだけでなく、江戸幕府のお取りつぶし政策から土佐を守ったのです。

それが、「自由は土佐の山間より」という、自由の国土佐の歴史の要因です。

大事なことは、 「この豊の国を、私たち土佐人は、自分たちの手で創出した!」 という、誇るべき歴史的事実です。

江戸時代から続く高知市大手筋の日曜市

そして国防インフラとして造ったものを、平時においては民間が、交通インフラや生活・産業インフラとして使ってしまうという発想は、今後の日本の行く先に、とても参考になると思うのです。

一般的な生活インフラですと、どうしても初期投資が小さくなり、大規模なものは造りにくくなってしまいます。
産業インフラも、投資分の見返りから計算されたものが、価値の多くを占めますので、どうしても大事業にはなりません。

しかし国防インフラにとっては、国家が守れることこそ最大のリターンですから、国家が守れないような、陳腐な代物は造っても仕方がないので、初期投資は大きく、大規模事業化がしやすいのですね。

そしてその大規模インフラは、平時においては、もったいないので使ってしまえば、今度は生活・産業インフラとしては、とても大規模なものとなりますね。

生活・産業インフラとして造ったものは、規模が小さくなり勝ちですし、現状の高速道路のように、日常生活上の交通インフラオンリーの発想ですと、微妙に蛇行している構造となったりして、国防として使おうとしても、とても国防機能としては使えません。

よって、生活・産業インフラオンリーの発想だと、有事の際には、改めて国防インフラを構築しなければならなくなるので、二重の出費と時間が必要となるわけです。

野中が家老に赴任する前の土佐の国は、高知平野の地形的特徴から、米が多く採れませんでした。当時の米作は、自然の湿地帯でした耕作できず、坂の平野で水がはけ、大河ばかりで水利用できなかった高知平野は、広大な荒れ地だったのです。


それを野中らは、大きな河川の上流に堰(せき)を造って、平野を丸ごと水田と化し、土佐を米所といたしました。

                                                           野中兼山作 山田堰跡

また、大量に採取できるようになった米を、大量に海上輸送する必要から、土佐湾沿岸に大規模港をいくつか造りました。これにより、ローコストで大漁の米を運送できるようになったのです。

その名目は、天候の厳しい土佐沖での航行を考え、藩船の避難先として造られたものです。

それにより土佐藩は、外様の小藩であるにもかかわらず繁栄し、幕末の雄藩のひとつとなりえました。
幕末の雄藩、薩摩・長州・土佐の三国の共通点は、共にとても豊かな藩財政をしていたことです。

これは野中兼山という、一人の傑出した政治家の造ったインフラによる、200年以上の富の蓄積があったからです。

しかし野中の造ったこれらの事業は、単純に藩経済活性化とだけ考えれば、驚異的な大事業でありました。
当時の技術的レベルや常識的規模から考えれば、堰や港の規模が大きすぎるのです。

堰からは用水路が平野中に張り巡らされるだけでなく、用水路としてはとても広く、しかも、水の流れがとても早くなるように造られています。

水田用の用水路ならば、無理に水を早く流す必要はありません。
むしろ、ゆっくり流す方が、使い勝手が良いのではないでしょうか?

また港も当時の船ならば、大船団を構える事ができるほどの大型の港でありました。

私はこれら、野中兼山の事業は明らかに、対江戸幕府を意識した、国防インフラの観点から造られている と私は考えています。

当時は、外様系大名の取り潰し政策が激しく、大きな藩から取り潰されていた時期だからです。
そして野中の造った土佐の国は、幕府軍の進入が絶対できない国となっているからです。

広大な平野に、縦横無尽に張り巡らされた用水路は、堀としての機能を持ちます。
また、平野中が水田ということは、平野中央にある高知城にいたるまで、広大なぬかるみということです。

鎧兜を身に着けた当時の侍たちは、水量豊富で流れの速い用水路=堀でおぼれ、火縄銃はただの筒と化します。
また延々と続くぬかるみだと、馬は無力ですし、疲弊した侵入者を葬ることなどたやすいことです。

野中兼山作 三又(みつまた)用水(香南市)

また大型港は、即軍港を意味し、大型の軍船を利用できます。
土佐藩を、海上から攻撃することは、当時の船では絶対に不可能です。

徳川幕府は、土佐藩を取り潰すことはできなくなりました。
土佐の国に攻め入れば、幕府軍は一網打尽となり、確実に負けるからです。

野中らの造った、一見すると生活・産業インフラに見える国防インフラによって、土佐の国は栄えるだけでなく、外様藩でありながら、幕府と事実上の対等関係であったと見ると、歴史の謎が解けるのです。

これが幕末に、土佐前藩主山内容堂(やまのうち ようどう)公による、大政奉還建白書提出によって、江戸時代が終わった経緯でもあるの思うのです。
つまり、当時の強く豊かな土佐藩が、倒幕の意思を表明したら、大幕府としては、打つ手がなくなったということです。

私は現代日本を、野中兼山の政治思想で守ることをお勧めいたします。
ともあれ国防を強めることが、国民負担増にならず、国家を繁栄させた実例は、日本の歴史に実際に存在するのです。

日本は未来の子孫のためにも、そして世界の平和のためにも、勇気を持って、国防からの繁栄の道に進むべきだと思います。

そのモデルは、土佐の歴史にあると思うし、そのモデルは、実際に国政に生かせるのです。

「野中兼山の再来」と呼ぶべき政治家が現れたとき、土佐の国のゴールデンエイジが始まるはずです。

今後の土佐は、「野中兼山の再来」を、政治選択するべきだと私は思います。

本日は経典『永遠の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)の一部抜粋をご紹介いたします。

                        (ばく)

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「新しき繁栄の時代へ」ー2019年「エル・カンターレ祭」ダイジェスト①ー 天使のモーニングコール 1477回 (2020/1/18・19)

永遠の法

人間には幸福を求める性質があると述べました。なぜ幸福を求める性質があるのかというと、これは仏が人間に与えた一つの慈悲だからです。

仏は人間が生きていくうえにおいて目的を与えました。その目的が人間を不幸にしていくものならば、世界は悲惨なものとなっていくでしょう。しかし、仏がそれぞれの人間の魂のなかに幸福を求める性質を埋め込んだがために、人間はできるだけ幸せになっていこうとするようになったのです。

要するに、「人間が人間であるところのもの、すなわち、人間の本質である魂自体のなかに、幸福を追い求める性格が埋め込まれている」と考えるべきなのです。

なぜ人間はもともと幸福を求めるようにできているのかといえば、結局、人間は根本仏から分かれてきた「光の子」だからです。人間が光の子、仏の子である以上、人間のなかには仏と同じ性質があるのです。

仏の性質とは何でしょうか。

「仏は進歩と調和によって生み出される大きな幸福感をよしとしている」と言えます。
すなわち、「仏がこの大宇宙を統括し、支配し、貫いているエネルギーである理由は、そうした幸福のエネルギーを仏自体が内在しているからである」と考えていいのです。

したがって、仏が仏として存在している、その存在の目的自体が、幸福に立脚点を置いていると言えるのです。 では、仏の幸福とは何なのでしょうか。仏は何に対して幸福を感じているのでしょうか。生成、化育、発展、繁栄――すべてのものが大調和のなかに大いなる発展をし、繁栄する、その途中の経験のなかに、仏は喜びを感じているのです。

仏は仏として存在を停止しているときには、なんらの喜びもありません。しかし、仏が仏として活動し、その活動内容が、「すべてのものを調和させつつ、発展、繁栄させていく」という目的を体現していくことであるならば、その途中において、仏は大いなる経験、美しい経験、喜びを伴う経験を得るのです。

そうすることによって、仏自体もまた、いちだんと大いなる存在への転化、拡大、発展を得ているのです。
「人間は幸福を求める存在である」「人間は幸せに生きられるように創られた」ということ自体が、すなわち、仏の本性、仏の慈悲なのです。
『永遠の法』(大川隆法著 幸福の科学出版)P233~236

ダイハツキャストCM キャスト アクティバ「そびえ立つ道」篇 山﨑賢人


【野中兼山待望論】土佐の歴史ミステリーと未来展望。

2016-09-27 15:01:57 | 野中兼山待望論

 

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高知の私の暮らす地域では、二期作と呼ばれ、高知では年二回、米の栽培ができる地域があり、今年二度目のお米の刈り取りの準備が始まりました。

さて今日本では、田中角栄ブームが起きているようで、書店に行っても、故田中角栄企画の書物や雑誌が多く見られます。

それはそうでしょうねぇ。

やれ「アベノミクスだ。」やれ『金融緩和だ」と言っても、実質25年以上も不景気が続き、外交では、中国らにいいようにあしらわれ、何もかもが閉塞感がハンパないですし、日本の誇りが危ういです。

「何とかして欲しい」「現状を打開して欲しい」「優れたリーダーシップの政治家が出て欲しい」という日本国民の深層心理、田中角栄待望論の背景には、これが絶対にあると思います。

先の日曜日、25日夜9時から放送されていたNHKスペシャルでは、日本の人口減がテーマでした。

実は日本はこれまで、2度の人口停滞期を経験しているんですね。

一つは縄文時代、そしてもう一つは、江戸時代中期です。

高知市春野 あじさい街道

弥生時代に入り、日本は人口増に転じ、明治時代に入ってから、ここ最近まで、人口増だったんです。

そして今、また日本は人口減時代に入りました。

縄文から弥生への移行は、食文明の大きな転換でした。それまでの主食の栗から、米に変わったのが弥生時代です。

そしてその後日本は、米文明とも言える期間を長期間過ごしましたが、江戸時代中期に、米文明の限界を迎えたのだと思います。

そして明治に入り、富国強兵、そして戦後の経済復興があって、日本は人口増でしたので、結局大きな視野に立つと、文明力=人口という計算式が成り立つと思います。

つまり、いくら政治的に配慮しようが、より強い文明力を持たない限り、人口増には転じないという見通しが立つわけです。

つまり、現代日本が人口減に転じたのは、子供が増えればそれだけ貧乏になる文明だからです。

つまり、子供が増えても、十分に豊かに暮らしていける、より強力な文明力を持つことが出来れば、更なる人口増が期待できると、日本の歴史は示しているわけです。

 野中兼山像 本山町

このブログお決まりの、話がそれまくり現象ではありますが(笑)、日本全体の人口減問題に先駆けて、何でも1番が大好きな高知県では(爆笑)、もうずいぶんも前に、人口は自然減となっております。

つまり、「高知では、暮らしていけない」という現象は、もう随分昔から始まっていると。

高知は更なる文明力の獲得なしでは、もはや無人地域担ってしまうと。

それは高知では年一万人減時代となっている今、もう数十年後の未来予想なのです。

そこで今日本全体が、田中角栄待望論なわけですけれども、私は現代の高知において、野中兼山待望論を興していきたいと願っている一人です。

と申しますのも、今の高知は、県民所得全国最下位の常連ではありますけれども、昔っから、貧乏な地域であったかと言えば、「いんや、そうじゃぁないぜョ!」ということだからです。

いくら私が、土佐随一のへそ曲がり(爆笑)だからと言っても、高知がかつて一度も、豊かであったことのない地域であるならば、「まぁ地域性から言っても、貧乏なのは仕方ないかのぅ。」と諦めます。

しかししかし、事実はそうではないんです。

かつて江戸時代の土佐は、全国随一の豊かな藩だったのです。  

 手結港(ていこう)

 http://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=3985

幕末の雄藩と言えば、薩長土肥です。

薩摩(鹿児島県)長州(山口県)土佐(高知県)肥前(佐賀県)です。

これら雄藩の共通点は何か。それは、財政が豊かな藩だった・・・ということです。

豊かな藩だからこそ、倒幕革命ができたのです。実に簡単な真理です。

そして土佐に至っては、時の藩主の父、山内容堂公が幕府に出した、大政奉還の建白書一枚で、時の将軍は、政権を朝廷に返しています。

これは、歴史のミステリーです。

今で言うならば、高知県知事が、内閣総理大臣に、「解散しなさいよ。」と言って、「はい、わかりました。」となったみたいなことです。

あり得ないです。しかし日本の歴史では、そのあり得ないことが起こっているんです。

どうしてでしょうか?

その、あり得ない歴史のキーマンになるのは、もちろん大革命家、坂本龍馬先生ですが、その水源に当たるのは、野中兼山だと思うのですね。

野中兼山の創った土佐の力を、坂本龍馬先生は、十分に知っていたからこそ、土佐山内家を、倒幕の最後の切り札にするべく、船中八策などの仕掛けをなさったのだと思うのです。

香南市三又水道

 土佐は偉人輩出県で、坂本龍馬先生をはじめ、自由民権運動の板垣退助、三菱創始者岩崎弥太郎など、数えだしたらきりがありません。

その中で野中兼山は、全国的には無名ですけれども、こと高知県内においては、抜群の知名度を誇ります。なぜならば、義務教育で習うからです。

その中では、「山田堰を造った」とか「手結港を造った」くらいにしか習わず、今一つその実績がわかりません。その効果が教えられてはいないからです。

元来土佐の藩主山内家は、今の静岡県の掛川に本拠を構えていた5万石の小大名でした。

それが関ケ原の合戦によって、20余万石と言われた土佐の国主となりました。

20余万石と言っても、つい直前に行われた太閤検地では、10万9千石とありますから、江戸初期の土佐の実質取れ高は、せいぜい11万石といったところでしょうか。

しかし、野中兼山が土佐藩家老に就任して後、実質取れ高50万石以上の地域に変貌しております。

しかも幕末の幕府への対応などを見る限り、実質的に「連立与党かもしくは、対等同盟関係にあったのでは?」と思えるくらいの位置関係にあります。

田舎の小藩から、江戸時代の強藩への変貌の元には、私は野中兼山がいると見て取れます。 

でなければ、歴史の謎が解けないのです。

大月町柏島漁港

長年県民所得で最下位争いが常連化し、日本で最速の人口自然減の地域となって久しい高知県。

今こそ、江戸時代初期の土佐藩家老であり、稀代の天才政治家野中兼山の偉業を見直し、「今、野中兼山が生まれていれば、高知に何をするか」を考える時が来ているのではないでしょうか?

小国ながら、徳川幕府に対等に渡り合えた土佐の国人、その秘密を解き明かすとき、世界の中で混迷する現代日本においても、必ずや目指すべき指針が見いだせると私は思うのです。

未来の高知と日本の繁栄のために、今後少しづつではありますが、記事投稿の合間に、「野中兼山待望論」を書き綴ってみたいと考えております。

本日は、Wikipediaにあった、野中兼山についての記述をご紹介いたします。

                  (ばく)

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野中兼山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 

野中 兼山(のなか けんざん、元和元年(1615年) - 寛文3年12月20日1664年1月18日))は、江戸時代初期の土佐藩家老。多くの改革で藩を助けたが、過酷な労働を強いたことから領民の不興を買い失脚、一族が絶えるまで家族全員幽閉された。

は良継(よしつぐ)、一名は止、尚字を良継とする史料もある。通称は初め伝右衛門、主計、伯耆と改め、最後に伝右衛門に復した。幼名は左八郎、兼山は号で、後に高山と改め、致仕して明夷軒と号した。

南学儒者でもあり、灌漑、築港、社会・風教改革、各種産業の奨励など活動は多岐にわたる。

来歴[編集]

元和元年(1615年)、播州姫路に生まれる。

祖父・野中良平の妻は山内一豊の妹合(ごう)で、父・良明は5000石を領していた。藩主・一豊は、良明に対して幡多郡中村2万9千石を与えると約束していたが、一豊の死後に反故にされたために浪人となっていた。兼山の母は大阪の商家の娘で、父の死後、兼山は母とともに土佐に帰った。

13歳のとき、土佐藩の小倉少介に見込まれて、父の従兄弟で奉行職の野中直継の娘・市の入婿となった。15歳で元服し、良継と名乗った。

寛永13年(1636年)、養父の直継が病死すると野中家を継いで奉行になった。藩主・忠義は、兼山に藩政改革を命じることになる。まず兼山は、堤防の建設、平野部の開拓で米の増産を進め、森林資源の有効活用を行い藩の財源に充てる。また、乱伐を避けるために輪伐制なども導入していた。築港も推し進め、藩内製品の諸国での販売を広める。また、身分にとらわれず郷士などを藩政改革にあてた。藩外からも植物、魚類などを輸入し藩内での育成につとめるなどした。また、捕鯨陶器養蜂などの技術者の移入も進め殖産興業を進め専売制の強化なども行った。これらの結果、藩財政は好転を進めていくことになる。

一方で過酷な年貢の取り立てや華美贅沢の禁止などで領民に不満は溜り、逃亡する領民も出てきた。また、郷士の役職への取り立てなどは上士の反発を買い対立を深めていった。

明暦2年(1656年)、藩主忠義が隠居し、3代藩主に忠豊が付く。寛文3年(1663年)、兼山の施政に不満を持つ孕石元政生駒木工などが家老深尾出羽を通じて忠豊に弾劾状を提出。兼山は失脚し、宿毛に幽閉され、その年に死去した。なお、報復は過酷で男系が絶えるまで一族の幽閉は続き、解かれたのは兼山死去の40年後であった。

エピソード[編集]

  • 垂加神道山崎闇斎の先輩であり、放逐された闇斎を保護した。
  • 母の死に際し、儒葬(儒教による葬儀)を行って切支丹の嫌疑を受けた。
  • 兼山の死後、民衆は密かに小祠を建てて神と崇めた。後に江戸幕府の許可を得て「春野明神」と公称し、明治初年の神仏分離によって「春野神社」となった。
  • 念仏講」という組織を作り、積立金による丁重な葬儀を行わせた。四国は中世からハンセン氏病患者などの巡礼地であり、それらの遺体は粗略に扱われていたが、兼山はこれをも厚く葬らせた。天然痘患者の置棄(おきす)ても禁じ、儒教の精神により火葬を廃し、「棺郭の制」を定めて「厚板契締(あついたちぎりじめ)」の丁寧な棺箱に納めて土葬にさせた。
  • 「春兎通ったあとが百貫目」とは、ある人夫が仕事場を兎が一匹走り抜けたが仲間には黙っていて、休み時間にその話をしたところ仲間は仕事をやめて捕まえたのにと残念がった。その話を聞いた兼山がそのことを仲間にいえば大騒ぎになり仕事も遅れたことだろうと感心をし、その人夫に褒美として山石百貫目の使役料を与えたことによるものである。

土木事業[編集]

 
手結港(内港)
 
高知県香南市夜須町手結
  • 兼山の功績は土木事業に多く、特に山田堰、柏島港、手結港等の優れた技術は高く評価されている。
    • 手結港は、日本最初の掘込み港湾として慶安3年(1650年)に着手し明暦元年(1655年)完工している。漂砂による港湾埋設を防ぐため内港まで細長い航路で結び、南側に長い突堤を設けた。当時の規模は、南北60間、東西27間、干潮時一丈。
    • 山田堰は、湾曲斜め堰として有名であったが昭和48年(1973年)に上流に新たな堰ができ用済みとなり昭和57年(1982年)に一部を除き撤去された。工事は寛永16年(1639年)に着手し25年後の寛文4年(1664年)に完成している。堰は、全長180間(324m)、幅6間(10.6m)、高さ5尺(1.5m)とあり築造には松材42800本、大石1100坪を用いたと言われている。
    • 津呂港は、岩礁の中の僅かな窪地を掘り上げる難工事の末に築いた避難港で、航海の難所である室戸岬を航行する船の海難を防ぎ、多くの人命を救ったとされる。
  • 土木事業の功績を伝えるため、手結内港に平成9年6月地元有志により兼山の頌徳碑が建てられている。

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