今日本は、北朝鮮問題等で、苦境に喘いでいます。
日本人は、日本という母国に対して、自信を失ってはいないでしょうか?
私が思うに、日本人は母国に対して、評価が低すぎると思うのです。
日本の人々は、日本という国家が、世界の片隅で、ひっそりと生き続けてきたと思っているかも知れません。
しかし私は、違うと思います。
私がいつも思うのは、「真実が知りたい。」ということです。
主観や、風潮や、レッテルに左右されず、ただありのままに、真実を知りたいのです。
そうした「可能な限り、まっさらな眼」で日本を観たときに、「これはスゴイことなのでは?」と思う事実に、日本ほど溢れている国はないと思っています。
そして、単なる劣等感などではなく、真の意味において、生まれた国を愛し、生まれた国を誇り、この国に「後世に残すべき素晴らしさ」を発見したら、「もっと強くあらねばならない」と、私は強く思うのです。
ということで、古代日本、縄文時代の話をしてみたいと思います。
縄文時代の始まりは、よくわかっておりません。
少なくとも、1万年前には存在していたのは分かっております。
私はこの、日本の縄文時代というのは、世界の5大文明に入れるべきだと考えております。
それは、この時代のテクノロジーが只者ではないからです。
たとえば、有名な縄文土器と、後代の弥生式土器、どちらの性能が優れているかご存知でしょうか?
答えは、圧倒的に縄文式土器なのです。
実は、現代技術をもってしても、縄文土器は作ることができないのです。
その形はつくることはできても、その機能を再現できないのです。
皆さま、縄文人の主食を御存知でしょうか?
答えは『栗』です。
栗を粉にし、それでクッキーにして食していたことが分かっています。
驚くべきことにこの栗は、今の季節で行われているような、栗拾い的な自然採取されたものではなくて、人工的に栽培されていたのです。
縄文人たちは、集落の周囲を栗林で囲み、収穫し備蓄していたのです。
これだけでも凄いことでしょう?(笑)
そして栽培した栗を粉にして、クッキーを焼いて食べていたのですね。
クッキーにすると、保存ができるからです。
となると、つまり縄文土器は、土器のくせに、クッキーを焼く温度に耐える性能を、持っていたことになりますよね。
教科書らのイメージで言いますと、縄文土器は、なんだか古い時代の”ただの壷”のような印象で、紹介されていますが、ところがどっこい、その正体は、”万能調理器具”です。
煮るのはもちろん、焼く、揚げる、炒める、一台で何でもできる機能を持っております。
クッキーを焼く温度というのは、1000℃以上の高温です。
それくらいの高温に耐える性能を持った調理器具を、土から作る技術は、現代では存在いたしません。
全て、鉄製のはずです。
もちろん、縄文より新しいはずの弥生式土器は、煮る以外の調理方法はできません。
実は縄文土器のテクノロジーは、人類史から失われた技術なのですね。
縄文人=原始人のイメージしか、多くの日本人は有してはいませんが、狩猟はあくまでオカズです。
日本では鹿やイノシシなどは、どこにいても、そしていつでも狩ることができます。
また川や海からは、幾種類もの魚介類が年中取れ放題です。
また縄文の地層からは、ゴミが出土するのですが、その縄文地層のゴミは、2週間で成分が変わるのですね。
『2週間』というのは、何かと申しますと、『旬』 です。
2週間で生活ゴミが変わるということは、その時々の”旬の食べ物”のゴミに変わるのであり、縄文人が、その時期の旬の食べ物を食していたということがわかります。
その時々の旬の食べ物が、ある一定以上出土するのが、古代日本の集落遺跡の、大きな特徴です。
栗を主食に、野生動物や旬の山菜、豊富な魚介類などを、縄文土器で調理して食べていたのが縄文人です。
これらから推測すると、当時の世界で、最も食べ物の豊かな文明が、日本の縄文時代であった可能性が高いのですね。
しかし、『当時』と一概に、ひとくくりにできないところがあります。
なぜなら、縄文時代というのは、少なくとも1万年前から始まっております。
教科書的な歴史では、メソポタミア文明で7000年。
エジプトや、黄河、インダス文明あたりで5000年前くらいです。
そしてこれらの文明圏は、1つないし2つの川の流域のみの、”限局文明”です。
しかし、縄文文明の証拠である縄文土器は、北は南樺太・千島列島、南は沖縄本島、そして朝鮮半島の一部にまで、当たり前のように出土いたします。
そう、縄文土器が出土する縄文文化圏は、今の日本の国土より広いのです。
これはイデオロギーでもなんでもなく、現実に出土する遺跡を、何の既成概念なく見て考察すると、こういう結果になってしまうのです。
ということは、縄文文明は、文明圏としては世界最大です。
また、教科書的比較すれば、世界最古の文明に相当してしまいます。
しかも、驚くべきことは、その失われた技術、脅威のテクノロジーでできた縄文土器は、ごく極限られた所から出土するのではなくて、全日本列島の一家に一台が当たり前のように出てくるのですね。
当時の王侯貴族的な、限られた富裕層だけが使用していたのではなく、全国各地の一般庶民が、ごく当たり前に使っていたのが縄文土器なのです。
現代技術をもってしても作ることができない、この超テクノロジーの土器が、現代のアルミ鍋やフライパンのように、全国どこでも、まったく考古学的に珍しくもなく出土してくるのが、日本の縄文時代なのです。
この事実から推測できることは、古代日本の縄文時代というのは、現代文明でも作れない高度なテクノロジー作品である縄文土器を、誰もが同じように作れる文明であったか、もしくは、とある場所で大量生産し、全国に流通させるシステムがあったとしか、説明できない文明なのですね。
ねえ、日本って凄いでしょう?(笑)
ということで、つぶさに事実だけを読み取って行くとき、単純な時系列で見た歴史観、つまり、「過去は今より劣っている」という、言わば、進化論的歴史観は間違っていると私は思うのです。
あらら、気が付けば、もう文字数制限が近いです。(笑)
いつかまた、縄文の「驚くべき流通」に関して、発表させていただければと思います。
ということで本日は、経典『黄金の法』(幸福の科学出版)より、天上界にある過去から未来を見通せる『アカシックレコード』について記された部分をご紹介いたします。
(ばく)
黄金の法「天台智顗」、一念三千。
https://www.irhpress.co.jp/upload/save_image/02021754_510cd43e059ab.jpg
あなたがたが実在界に還れば、そこには、「アーカーシャーの記録」(アカシック・レコード)というものがあります。
そして、それを読み取る力のある人が見れば、人類の歴史は、まるで手に取るがごとく分かるのであり、また、ほとんどの人は、人類の秘史におどろかされるはずです。
このアーカーシャーの記録は、如来界以上の人でないと、読めないことになっています。
つまり、八次元、あるいは、九次元の住人でないと、この記録を閲覧できないのです。
なぜならば、人類の歴史を知るということは、仏の計画を知るということであり、人類の未来社会の見取図まで分かってしまうため、世人のだれもが見るというわけにはいかないからです。
近代で、生きながらにして、このアーカーシャーの記録を実在界で見て来た人としては、十八世紀の北欧の神秘家・スウェーデンボルグがおります。
近年では、人智学のルドルフ・シュタイナー。両者とも、八次元如来界の人です。
古くは、イエス・キリストの時代に、「黙示録」のヨハネが、光子体離脱をして、つまり、生きながらにして魂が肉体を抜け出して、アーカーシャーの記録を見て来て、それについての報告をしております。ヨハネもまた、八次元如来界の人です。
ただ、このアーカーシャーの記録は、文字に書かれた一冊の書物ではないため、だれもが同じ理解をしているというわけではありません。
許可を受けると、その記録が、立体映画のように眼前に展開されるのですが、見る人の悟りの段階に応じて、理解できるようになっています。
たいていは、象徴的なピクチャーを見せられて、そこから、各自が感じ取るわけです。
「黙示録」のヨハネが見て来たという、新約聖書にある人類の未来図も、ひとつの象徴であって、完全なヴィジョンではなかったと言えます。
ただ、彼が見て来た人類の終末的様相は、この二十世紀末から、二十一世紀初めに人類を襲うことになっている危機的状況のヴィジョンであったことは真実です。
現在、八次元では、エリヤ、「黙示録」のヨハネ、ノストラダムスなどが、アーカーシャーの記録を管理するという仕事をしております。
そして、九次元宇宙界で、この記録の鍵を持っているのが、ゴータマ・シッダールタ(釈尊)やイエス・キリストです。
このように、時間というものは、単に三次元の時計によって計られるものではありません。
時間とは、実在界のアカシック・レコードが回されるときに奏でられる音楽のようなものなのです。(中略)
人類的な時間の秘密、歴史も、ここに理解の鍵があると言えます。
つまり、過去の歴史とは、すでに回転を終えたレコード盤の何枚かなのです。
未来の歴史とは、まだ回転させないでいるレコード盤なのです。
通常人であれば、これが曲として演奏されなくては、どんなものかが分かりません。
しかし、盤面を見ただけで、一瞬にして、曲全体を読み取る能力者にとっては、人類の未来がかなり明確に分かってしまうということなのです。
『黄金の法』(幸福の科学出版)P19~23
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