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さて、高知の料理の代名詞と言えばカツオ。
カツオの水揚げ量では、高知は日本一ではありませんが、旨さで言えば日本一、いや世界一ではないでしょうか。
なぜそんなに、土佐のカツオ料理は旨いのか?
それはやはり、昔から食べていたので、カツオの選別や、調理方法のノウハウの蓄積が違うのだろうと思います。
カツオのたたきが有名ですが、これはカツオに付いている寄生虫を心配した土佐藩が、領民にカツオの刺身を食べることを禁止したことから始まったとか。
つまり、「火で炙っているので、もはや刺身ではない。」ということで、ヒョウタンからコマ、これが旨かったということですね。
ということで、カツオのたたきは江戸時代の土佐が発祥ですが、カツオと言えば、黒潮に乗って回遊する外洋の魚であることは、もう皆さんご存知のことだろうと思います。
つまり江戸時代の土佐には、外洋に出られるくらいの航海技術が、一般的な漁師レベルで持っていたということになりますよね。
いくら日本一、黒潮に近い高知県だと言っても、黒潮の潮流に負けないで漁ができるには、それ相応の、大きな船は絶対に必要です。でなければ、外洋の波に耐えることはできないし、黒潮に流されてしまうからです。
ということは、江戸時代の土佐の国では、一般漁師が外洋漁ができる大きな船舶を持っていたということですし、大きな船を泊めておけるだけの、大きな港があったことを示しています。
ということは、江戸時代に土佐の国以外の地域でカツオ料理が発展しなかったのは、外洋漁ができるくらいの大きな船を泊めて置けるだけの、大きな港がなかったからとも言えるのですね。
そう、江戸時代の土佐の国には、カツオ漁ができるくらいの、大きな船を泊めておける港が、もうすでにあったんです。
それが、香南市の手結港(ていこう)や、室戸市の津呂港や室津港など、土佐藩初期の家老野中兼山が造った外洋港です。
以前の記事で、野中兼山の灌漑事業による、米の大量生産大量輸出による土佐の繁栄について述べましたが、いくら米を作っても、売れなければ儲けはないし、また運ぶのにコストがかかっては儲けがありませんので、大量消費地である、関西圏への米の運送は船を使いました。
ただ土佐湾は、ほぼ外洋とも言える荒波の海ですので、航海を安全に行うために、輸送船が寄港できるところが欲しかったのですが、そのために兼山は手結港や津呂港などを造ったのです。
当時の港は、河川などの河港(かわみなと)が主流でしたが、河港だと浅く、大きな船を泊めることができません。ですから野中は外洋港という、当時世界で誰も行っていない手法で、手結港などの当時としてはかなり規模の大きな港を、新たに造ったのです。
そしてそれは、地元漁師も使うことができた、つまり、手結港など規模の大きな港があったので、土佐のカツオ文化が花開いたわけですね。
世界初の外洋港手結港
さて私はこの手結港などの大型外洋港が、土佐人の気質である、自由を愛する精神を培ったと思っているんです。
なぜかというと、江戸時代における大きな港というのは、即海軍力を意味するからです。当時の軍船は砲弾などを積んでいるのではなく、多くの侍を乗せられる船が軍船だったからです。
つまり当時は、輸送船や漁船=軍船だったわけです。
つまり関西への土佐藩輸送船の寄航用の港ではあるのですが、大きな船が泊まれるわけで、そしてカツオ漁などができる大型船舶も常備しているわけですから、事実上土佐藩は、立派な軍港をいくつも保有していたことになります。
で、土佐藩はどこから護っていたかというと、江戸幕府です。当時の幕府は、外様大名お取り潰し政策真っ只中でしたから。
しかし、手結や室津港など、いくつも大型港があれば、幕府の軍船は入れないわけですね。つまり、海から土佐の国へ進攻は不可能なのです。
もし土佐藩お取り潰しのお沙汰が出て、土佐藩が「嫌じゃ!」と言えば、幕府は土佐征伐に来たいのですが、大きな港がいくつもある、つまり、いくつも大型軍船がある土佐を、攻めることが難しいのです。
野中兼山の造った用水路、通称三又(香南市)
で、陸路からの進軍はどうか。
幕府と言えば、大軍で攻められるのが優位な点ですが、土佐の山間の道は狭いので、大軍は易々と進軍できません。幕府軍が列を組んで進入するところを、鉄砲で粛々と撃てば良いわけです。幕府の大軍は、土佐の険しい山々が無力化します。
そしてやっとこさ山間を抜けると、土佐山田から高知城下までは、野中兼山が造った堰により新たに開発された水田が、高知城下まで延々と広がるわけです。
水田は、即ち湿地(ぬかるみ)ですので、馬も進めなければ、大軍の高速移動は不可能となります。
しかも、野中兼山の造った水路は、嘘みたいに水量が多く、また農業用水とは思えないくらい広く、また流れも速いですが、それが平野中に、縦横無尽に張り巡らされているわけですね。
つまり、堰(せき)と用水路は、軍用の堀でもあたっと思うのです。これで、甲冑で武装した兵士はもちろん、馬だって流されてしまいます。そして鉄砲は濡れ、ただの重い筒と化します。
またその灌漑事業を手伝ったのは、前任の長宗我部(ちょうそかべ)の家来の生き残った人たちですが、野中は事業を手伝った見返りに、新たな田畑を、長宗我部配下の方たちに与えます。この人たちは、帯刀を許された形で、土佐藩に下士として仕えることとなります。
土佐への侵入者から見たならば、土佐藩山内家と対峙するまえに、戦国時代四国最強と言われた人たち(長宗我部)と戦わなければならないわけです。
長宗我部元親公初陣像
野中の造った江戸時代の土佐は、超黒字体質だっただけでなく、対幕府において、完全な防衛体制を築いていたのですね。少なくとも江戸時代の土佐への侵攻は、進入者は全滅覚悟で来なければなりません。
幕府にとっての土佐藩は、どうしても戦いたくない相手だったと思うのです。だから、大政奉還の建白書一枚で、徳川幕府は政権の存続を諦めたとも言えると思うのですね。
これが、土佐の自由な気風を育てたのではないでしょうか?
なぜならば、絶対に幕府は、土佐に攻め入ることができないからです。
これら、誇るべき土佐の歴史から伺える真実は何かと申しますと、国防は国民の自由の担保だということです。
そして、国防を強化しても、経済が疲弊するとは限らないということです。
幸福実現党は、日本国民の自由を護ります。そして日本を、更に繁栄させる政策があります。
そして人口減から徳島と合区になった高知を、再び日本のトップランナーにする高い志があります。
議員の育休を議論しようとしたり、不倫なんかで議員辞職するなんざぁ、志が低すぎて話しにならないです。
もうそんな、でも・しか議員の時代は終わらせましょう!
この国に未来を。そして高知に、子々孫々神仏の繁栄を。
幸福の科学ならびに幸福実現党へのご支援を、よろしくお願いいたします。
高知県では、吾川郡佐川町で、町議として頑張る宮﨑知恵子への応援をよろしくお願いいたします。
と言うことで本日は、幸福実現党ホームページより、幸福実現党沖縄県本部が、沖縄県各自治体に対し、中国からの軍事的脅威に対し、台湾や沖縄県諸島防衛への陳述を行った報告記事をご紹介いたします。
それでは、またのお越しを。
(ばく)