本日は、幸福の科学高知なかまのぶろぐにお越しくださり、本当にありがとうございます。
さて私、タレントの所ジョージさんが大好きでして、所さんがMCを勤める番組はほとんど見ています。
以前に、NHKの「所さん!大変ですよ」という番組を見ていたのですが、今世間では「ミジンコ」がブームなのだとか。
その背景には、「めだかブーム」というのがありまして、めだかの良質のエサとして、「ミジンコ」が売れまくっているらしいです。
番組では、最近瀬戸内海の水質改善進み、リンなどの栄養素が海中から減って、漁獲量が減っているとかの放送もあり、こういう生物の多様性を見ると、「進化論というのは、やはり怪しい」と思ってしまう代表管理人でございます。
と申しますのも・・・
おおっと、その前に。(笑)
進化論って、一応生物学という自然科学の分野なんでしょうけど、これにどっぷりつかると、神様を信じられなくなるところがありますよね。
私は幸福の科学の会員ですけど、これはどの宗教にとっても、困っていることなんじゃないかなぁと思っています。
現実、聖書圏においては、進化論は自然科学と認知されてはおりません。
大学とかの学説だけが一人歩きしていて、世界の日常の現場では、あまり相手にされておりません。
進化論は、隙だらけの学説だからです。
大学で生物を教える先生方が、何でそんな陳腐な学説を、信じることができるのか、私には理解できません。
学者さんは専門領域がありますので、視野が狭いのではないかと、最近は思っています。
要するに、現代の生物学は、仮説の上に仮説を積み上げているんですね。
ですから、どこかが崩れれば、一気に崩壊してしまうと思います。
今日は進化論のその隙の中で、最大級のモノをご紹介します。
よく生物は、「アメーバーのような単純な生物から、人間のような高度な生物に進化した」って言われますよね。
そして、「進化できなかったものは、環境に適応できず、また生存競争に敗れて自然淘汰される」とも言われます。
それが進化論的生物の歴史です。
ではぁ、素朴な疑問なんですがぁ、
じゃあ何故今だに、アメーバーは、存在してるんでしょうかぁ?
もしアメーバーのまま、数億年間存在し続けることができるのなら、初めっから進化なんか、しなきゃいいじゃないですかぁ。(笑)
意味ないじゃないですかぁ。
ねぇ、そう思いませんか?
意味のないことが、現実の自然の中で起きているのなら、そこには大自然の、大いなる意思を見出すべきだと私は思いますねぇ。
それを『創造主』とか『造物主』とか『神』と呼ぶんですよ。
とにかくも、進化できないものが、自然淘汰される運命にあるとすれば、最も原始的で、進化していないと言われる彼らは、とっくの昔に自然界から、いなくなっていないといけませんよね。
「いや~、彼らは彼らで進化してるんですよ~」なんて、もっともらしい、テキトーな説明を生物学者はなさるんでしょうが、そんな証拠はどこにもありません。
チャートなど、古代の微生物の堆積物が石化したものがありますが、微生物が進化している様子はなく、今とほとんど同じものが出てきます。
「アメーバーのような単純な生物から、人間のような高度な生物に進化した」という論説は、考古学的にも、はなっから仮説でしかないのです。
約5億年前のカンブリア紀には、現在存在する脊椎動物以外がすべて出そろい、それ以降、ほとんど姿を変えておりません。
生物の歴史は、常に、一気に完成形が現れるのみで、この現象を「進化論」では説明できないのです。
真理ならば、全てを説明できなければなりません。
真理は、いつ見ても、どこから見ても、誰が見ても正しいですから。
仮説から始まった論説は、経過説明も仮説、結論は全て推測でしかありません。
私から見て、「進化論」の説明は整合性が全く現ありません。
ここのブログ記事の方が、ずっと整合性があります。(笑)
実際に、アメーバーは現存しますから。
はい、そこらじゅうに、ウジャウジャいますから。(爆笑)
この『神の大いなる意思』を探り、『神が創り賜うた法則』を解き明かすことこそ、科学の真なる使命なんじゃないかと私は思います。
それはアプローチが違うだけで、宗教と変わりはないのではとも。
ニュートンやアインシュタイン、湯川博士のような超一流の科学者たちは、皆熱心な信仰者でしたけれど、科学界の巨人たちは、そういう視点で、生命や世界や宇宙を見ていたと思うのです。
本日は経典『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)の一部抜粋をお届けいたします。
では、「人間神の子」の思想が、あまねく世界に届きますように。
(ばく)
太陽の法・天地創造。
何を信ずるか。言うまでもありません。いちばん簡単なことです。
「この世を創られ、私たちを見守っておられる大宇宙の神がいらっしゃる」ということ、「私たち人間は、神が創られた子供である」ということ、この単純な事実から出発いたします。(中略)
しかし、考えてもみてください。
人間が偶然にできあがり、そして偶然にできあがるのみならず、ちょうどゼンマイ仕掛けの人形か何かのように、魂なく動いているだけの存在であるという考えを前提とするならば、そこに、どうして愛が生まれてくるでしょうか。(中略)
愛だけではありません。もっと素晴らしい、人間的な多くの高貴な感情は、すべて魂の属性なのです。
美しきを見て感動する心、誠実さを見てよろこぶ心、素直さを見て尊いと思う心、そして自らの命をも厭わずに、神のために生きてゆく人たちを見たときのその感動は、唯物的なものの見方からは決して出てこないのです。(中略)
そうして、神が宇宙を創られ、人間たちを創られて、今もなお見ておられると信ずることが、私たちの生き方をどれほどまでに素晴らしいものへと変えてゆくでしょうか。
その神の目があるからこそ、大いなるものが見つづけていると考えるからこそ、熱いまなざしを送りつづけているという確かな手応えがあるからこそ、私たちは日々自らを律し、素晴らしき人間となってゆくために、自己改革に励むのではないでしょうか。(中略)
この事実を受け入れたところで、何ひとつ私たちが困ることはないのです。
その事実を受け入れて困る人間は、生きている間に、さんざん自分のやりたい放題のことをし、他の人びとに迷惑をかけている人びとだけであるはずです。
彼らは恐れるに足るでしょう。
死んで何もかもなくなると思えばこそ、そのような生き方ができるのでしょう。もし、死んで後に生命があるとするならば、たいへんなことであります。(中略)
けれども、人間としての存在が是とされ、また他の人びとにも、「こういう人といっしょに生きていてよかった」と言われるような人であるならば、この「信仰」ということを当然のことと受けとめて、何ら恥じることはないはずです。そして、それは素晴らしいことです。
今、自分がどのような姿として現われていたとしても、「本来神の子として創られた存在であるならば、無限の可能性があるのだ」「まだまだ自分は磨いてゆけば光ってゆくのだ」と思えるからこそ、個人としても素晴らしくなり、社会としても素晴らしくなってゆくのです。
これは、どうしても飛び越えねばならない最初の関門です。
神を信ずる者にとっては、すべては輝きに満ちて見えます。世界は宝の山に見えます。
しかし、神を信じない者にとっては、ああ、世界はどのように見えることでしょうか。
その、たったひとつの心境の違いだけで、見える世界までが違ってくるのです。
同じく数十年の人生を生きるのであるならば、損得で考えても、素晴らしい人生を生きるほうをとってゆくことが得であり、人間として当然の義務であると、私は思うのです。
『悟りの極致とは何か』(幸福の科学出版)P77~82
映画『美しき誘惑ー現代の画皮ー』公式サイト https://utsukushiki-yuwaku.jp/