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魔人の鉞

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イスラーム には救済思想がない

2015-08-15 16:41:47 | 宗教

イスラーム関係の本はこれで最後かと思う1冊。「聖書とコーラン」 J.グニルカ著、 矢内義顕訳、2012年 教文館。

著者はミュンヘン大学教授を退官した聖書分析学の大家だそうで、たいへん詳細なキリスト教聖書とクルアーンの比較研究書です。とても専門的で私には難解でしたが、両宗教の共通点は旧約聖書を踏まえた啓示宗教で一神教であること、天地創造の神であること、旧約のアブラハムがたいへん重要なキーであること、終末思想であること、などだそうです。アブラハムはとんでもない人だと先日論じましたが、そんな人を崇めることでは同じだということです。

キリスト教とイスラームの違いは、イエスを救い主と見るかどうか、が決定的な違い。また、救済の考え方が違うそうです。イスラームで救われるとは終末の日に天の楽園によみがえることで、現世での救いはありません。
楽園のすばらしさはクルアーンで何度も詳しく語られるそうで、ユダヤ・キリスト教的ではなく、仏教でいう美食と宝石にあふれた 「極楽」 の感じがします。しかし美女が報償として登場するところがイスラームの特色でしょう。天国では彼らは

「(神の) 側近に侍り、果実は望むがまま、種々の鳥の肉は好みのまま。そこには目の大きな伴侶たち (フーリー) がおり、さながら秘蔵の真珠のよう。彼女たちは彼らの (地上における) 行いの報償である。(中略) われら (=神) は彼女たちを特別に造り、彼女たちを処女にした。愛らしく、年の頃も同じ者で、右側の者たち (=楽園に入った者たち) のための伴侶である。」 (174-175p)

というのです。ムハンマドが若くて美しい女性が好みなのはかまいませんが、女性が報償として与えられるとは驚きです。本人? の意思はどうなっているのでしょう。しかも天国では現世とは別の、若くてかわいい女性 (フーリー) を伴侶にするというのであれば、地上における彼らの妻は天国でフーリーと鉢合わせして何といえばいいのかしらん。イスラームでは男性は自由に離婚することが許されているそうですから、天国の男性は勝手に離婚するか、あるいはフーリーを2人目か3人目か4人目の妻にすればいいのでしょうか。その場合妻の同意は必要ないのでしょうか? 
そんな組み合わせが何億、何十億もできるのですから、日本人としては天国のあちこちで修羅場が演じられないか気がかりです。やはりクルアーンは古い部族社会の因習に染まっていて、女性差別意識が根深いと言わなければなりません。

イスラームの救済は神の定め (律法) に従うことで天国に入れるというなら、著者によれば 「律法宗教」 ですが、しかし絶対神はそんなに甘くありません。天国に入れるかどうかは、どれだけ善行を積んだかではなく、あくまでも一方的な 「神の恩寵」 なのだそうです。
救うか救わないかは神の胸三寸。しかも神の目から漏れた 「遺棄された者」 は悪魔が邪魔するので、決して救われることはありません。(160p)
これは人間すべての救済をめざすキリスト教や仏教と、全く違うところです。そして善行を積んだ者を地獄に落とすかというと、神は慈愛あふれるお方なので、そんなひどいことは多分なされないでしょう、と・・・

これではどこかの悪代官を思い出します。神は絶対の超越者で人間はその奴隷、奴隷を救うかどうかは神の御心次第だが、掟を守り善行を積めばそう悪いようにはしませんよ、とささやくのです。神が絶対者で超越していればいるほど、その預言者にとって都合がいいのです。

どんな宗教もある程度支配者の秩序維持のツールとして広がる面があるわけですが、イスラームは最初期の短期間を除いてずっとそういう立場で発展してきました。ムハンマドは 「キリスト教の救済思想にまったく理解を示さない」 (209p) そうです。このことでイスラームの性格がよく理解できます。
ムハンマドはいきなり神の啓示を受けたので、人間の現世の苦しみを救済するという意図は持っていなかったように思われます。イスラームは何よりも 「ムハンマドの支配する社会」 を作り上げるツールだったのです。そう考えれば、イエスが600年も前に人間は戒律のために生きるのではないと教えたにも関わらず、ムハンマドはユダヤ教に先祖返りして人間生活の隅々まで支配し規制する 「戒律」 を厳しくし、神への絶対服従、奴隷的服従を要求したことが理解できます。イスラームが広がったのは武力による征服または支配者層の改宗からで、庶民が神の奴隷なら支配者にはたいへん好都合です。

イスラームは信仰と社会が一体だとは、実際は社会が個人より優先することを意味しています。いったんムスリムとなったら、もう抜けることはできません。棄教は死罪にも当たる重罪とされていますが、それは個人の信仰心はどうあれ、何よりも大切な信徒共同体を破壊する行為だからです。そんな戒律を実際に定めている宗教はまことに希で、いわばヤクザ社会以上なのです。
だからイスラームが自らの社会を改革するのはたいへん困難だと思います。IS イスラム国などは、原典に忠実なればこそ 「神の奴隷」 に理性が欠如することを表していると思います。「あれはイスラムではない」 のではなく、紛れもなく 「あれもイスラム」 なのです。イスラームの負の側面を直視しなければなりません。

こんな読み方はイスラームを理解しようとする著者の本意とは違うかもしれませんが、ムスリムはある意味で哀れな奴隷です。多神教よりもはるかに迷信的な、全知全能のくせにとんでもなく嫉妬深い唯一神の奴隷なのです。現代になっても人類の5人に1人がそういう状態とは、なんと哀しいことではありませんか。
     (わが家で  2015年8月15日)

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