「イスラームの人権」 奥田 敦 2005年、慶應義塾大学出版会。
慶応大学教授のこの人は、完璧なイスラーム絶対主義者でした。
イスラームを 「伝えられるイスラーム」、「現実のイスラーム」、「教え
としてのイスラーム」 と3段階に区分し、伝えられるレベルでの危険な
宗教という偏見を排し、教えとしてのイスラームは先行するアブラハム
の一神教であるユダヤ教とキリスト教を発展的に総合した 「一神教の
最終形態」、いわば完成形だと位置づけます。
クルアーンの教えは完璧であり、唯一神は時間空間を超えたところに
存在し、全てを創造した。その神に仕えないで、自由や民主主義、資本
主義といった、神の被造物である人間や人間が考え出したものに仕える
のは間違いだ、と説きます。イスラームとクルアーンについて、髪の毛
一筋の疑問も感じていないようです。
そして法律については、全てのものを創造した唯一神こそが正しい
法律の源である、つまり神の言葉を一語一語記したクルアーンなどの
聖典こそが正当な法の源でなければならない、ということになります。
私には天地開闢以前から存在し、世界の終わりのあとでも存在して
いるという神がどうしても理解できないのです。その神によって世界
が創造され、数日後に地上における神の代理人として人類が泥から
(または精液から) 作られた、といわれます。泥から造るという安易さ
は措くとして、アッラーがムハンマドを通じて啓示したのはキリスト
紀元630年頃で、それ以前の人類にはきちんとした啓示がされていな
かった、ということになります。
(いちおうイエスにキリスト教的啓示が、紀元前13世紀頃にモーセに
ユダヤ教的啓示がなされていますが、イスラームではそれらは不完全
なものだったとしています。) では、それ以前の数万年間を生きて
きた人類に対して、あるいはアブラハムの子孫以外の人類に対して、
なぜ全知全能で万物の創造主である神は何の啓示も示さなかった
のか。なぜ多神教や他の諸宗教がそれらの人びとに信仰されるままに
しておいたのか。それらの人々は、イスラーム的には救済されるチャンス
さえなかったわけだし、今もありません。(教えが届いていない人たちは
地獄に落ちなくてもいいらしいですが、救われるのかどうか?)
全知全能なのになぜそんなに不公平で偏っているのでしょうか。ムハン
マド以後の人類だけはイスラームに巡り合えて幸運だ、というのでしょ
うか。
思うに、もっとも納得できる説明は、宗教もまた人類自身が考え出し
たものであり、歴史が進むにつれて変化してきたということです。
自然宗教が洗練され、超自然的・哲学的になってきたと思いますが、
それで真理に近づいたのかどうかというと、何ともわかりません。
むしろドグマチックになった面があるのではないでしょうか。
全能神の存在に対する、昔からある根本的疑問に、悪の存在や
天変地異などの不幸がありますが、それらはキリスト教では神の
試練です。イスラームでは人間の自由意思による行動や自然現象
とするのでしょうか。しかし、そのために命を落とした人にとって
はどうなのでしょうか。全能の神はそれをやむを得ないこととして
見過ごすのでしょうか。本人には何の罪咎もないのに。
敬虔で知られたヨブが神の理由のない試練に苦しんだという旧約
聖書ヨブ記では、ヨブは試練に死なず、神に挑戦し、そしてついに
神を受け入れました。しかしヨブが死んでしまっていたなら、改心
する暇もありません。
もし罪なき人々を死に追いやる戦争などの悪や巨大な天変地異を
神が関知しないというなら、あるいは試練だというなら、私は納得
できません。神の全知全能は何のためにあるのか。罪なき民衆を
救うことができないのなら、全知全能など何の役に立つのか。能力
がないなら仕方がありませんが、あるのに何もしない神こそは、巨悪
そのものではないのですか。
旧約聖書のアブラハムの神は理不尽で、アブラハムの信仰を試す
ため、息子イサクを生贄にささげるよう要求します。アブラハムは
息子を殺す寸前まで行き、神が彼の忠誠を認めてその儀式を中止
させます。幸いにイサクは死にませんでしたが、神は信仰を試す
ため我が子を生贄にささげることを要求するほど疑い深い、恐ろしい
神です。イスラームの神はその神と同一であると自ら啓示し、信者
に絶対服従を要求するのです。
私はアブラハムは間違っていると思います。息子イサクを生贄に
するくらいなら、自らの命をかけて神の許しを乞うべきではない
のですか? なぜ息子を生贄にして自分は神に信用されたいなど
と願うのですか? 当時は子だくさんで、子供は親の持ち物だ、と
いう時代感覚があるかもしれませんが、とても今日では通用しま
せん。アブラハムの行為は現代では鬼畜も同然、人という
べきです。
このような人物がイスラエルの民の、そしてイスラームの始祖
イシュマエルの父であり、信仰篤い預言者として尊崇されてきて
いるのです。それが昔物語なら仕方がありませんが、今日でも
聖典として重視されているというのですから、まったく Oh My God、
なんとも言いようがありません。
法律については、「制定法の虜 (ヨーロッパの法学者=rocky注) の
抱える最大の問題点は、立法者としての神に法体系からの退場を
命じている点である。」 (206p) というのですが、これはイス
ラームが最終形であるという奥田氏の思い込みが強いのでしょう。
ヨーロッパの法学はべつにイスラームの神に由来するものではなく、
ギリシァ・ローマからの伝統があるわけで、退場を命じたとすれば
キリスト教の神にでしょう。それはヨーロッパ近代史の帰結で、ある
意味で当然です。イスラーム絶対主義からすれば法律はすべてイス
ラーム経典に基づくべきであり、イスラームとキリスト教の神は同じ
だ、と奥田氏はいうのでしょうが、啓示の内容が違っています。
本当に同一神なのかどうかは、神のみぞ知る?!
また 「イスラームの教えによれば、人間はその信じる宗教の如何
や有無にかかわらず、本来的には、神の奴隷であり、代理人である
とされる。」 (206p) そうです。「神の奴隷」 とは 「自然の摂理
に支配され、やがては死を迎える運命にあると言い換えられる」 と
いうのですが、それだけならまさしくその通りです。
しかしイスラームの神は人間とは預言者を通じてしか話をしない
超越者であり、六信五行といわれるさまざまな戒律を信徒に課す
だけでなく、何よりも神に疑問を持つことすら厳禁し、「ただひた
すら自分だけを崇め奉る」 ことを要求します。これでは比喩など
ではなく、文字通りの 「奴隷」 ではないでしょうか。
これが一神教の最終形態ならば、人間に未来はないでしょう。
他者・異教徒も自らの神の奴隷だとは、イスラームはまったく広大
無辺ですね。しかし私はそういう神の奴隷になることはご遠慮したい
と思います。また、私たち日本人は人間が自然界を支配する 「神の
代理人」 だなどという考えは持っていないのです。それはアブラ
ハム的一神教の最大の問題点の一つと思われます。
私は自分で納得し自ら選び取るのでなければ、イスラームにせよ
他の宗教にせよ決して信仰しないことにしました。
(わが家で 2015年8月10日)