飛耳長目 「一灯照隅」「行雲流水」「万里一空」「雲外蒼天」

「一隅を照らすもので 私はありたい」
「雲が行くが如く、水が流れる如く」

福沢諭吉の言葉

2008年06月22日 10時23分31秒 | 教師論
福沢諭吉の言葉に次のようなことがある。

「道徳の教育は、耳より入らず、目より入るものなり」

今日は常に見られる存在である。
子どもたち、保護者、地域、マスコミ等、ありとあらゆる角度から見られている。
勤務校の過程数が400とすれば、こちらが知らなくても400人以上の方からみられていることになる。

教室での言動は大きな意味をもつ。
教師の立ち居振る舞いがそののまま影響を受けやすい子どもたちの非言語の指針となる。
服装、言葉遣い、机の上の整理整頓、身だしなみ、マナー、心遣いすべてそうである。

どんなに口先で、「教師は見てくれではない、情熱だ」と言っても子どもたちは認めてはくれない。

今一度、教師自身、そして、教師が作り出す環境を考え、真摯に受け止める必要がある。

saitani
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