三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

尾道の光芒

2014年01月21日 05時15分54秒 | Weblog


尾道という街は、最近、よく意識するようになった。
北海道にいて、こうした瀬戸内海世界の街には、縁がないけれど、
たまたま家系に縁があったことで、
訪れる機会に恵まれたのですね。
で、いろいろ探訪していると、日本の社会が変化してきた様子が見えてくる。
尾道という街は、江戸時代の末期には
広島県の県庁をここに置くかどうかと迷ったと言うほど
経済の中心都市であったそうです。
江戸期の活発な国内貿易のメイン通路として
経済の中心地、大阪への流通の要衝として
主要な地勢的な位置を占めていた。
江戸期は、一方で武士による支配が行われていたけれど、
かれらには、経済の運営思想がほとんどなく、
ひたすら農本主義にしがみついていただけで、
実質的な経済運営は、さまざまな階層の商人、農民によって
担われていた社会だった。
幕藩体制の幕府にしろ、各藩にしろ、いずれも経済的には破綻して
莫大な財政赤字を累積させていた。
江戸幕府に経済テクノラートが育たず、江戸末期には
非常に不平等な諸外国との貿易条件がまかり通っていて、
国富が毀損し、社会は超インフレに見舞われていた。
基本的に財政の破綻によって、政権は立ち行かなくなっていた。
「一揆」は多発していた。1866年の71件が年間発生の最大だというが、
今日の社会とは、考えられないほどの隔世ぶり。
現代の社会ではストライキすらほとんど耳にしなくなって久しい。
やはり、民主主義によって、日本は大きく進歩発展したのだ。

しかし、そういう時代でも
この尾道のように繁栄を謳歌した地域はあった。
街で、そういった商家の富裕ぶりを感じさせるのは
山側地域の旧別荘街の趣を見せている街並み。
寺の数も多いのは、それだけ「寄進」できる富裕層がいたということ。
そういった坂の街の旧市街は、
いま、崩壊寸前の邸宅が朽ちるがままに放置されている。
日本という国の経済の構造がまったく変わっていく中で、
そういった流れから無縁になっていって、
こういった光景が広がっていっているのですね。
もって瞑すべし、という実感が迫ってきます。
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明治政府・廃藩置県の経済学

2014年01月20日 06時33分03秒 | Weblog


きのうの続きであります。
明治新政府は、やはり「革命政権」であった、とされる意味が
この「廃藩置県」政策推進に大きくあらわれていると思います。
とくにその経済的な側面を見ていて、驚くのは
江戸から続いていた各藩の「借金」を一括棒引きにした荒っぽさ。
以下、Wikipediaからの抜粋。

旧藩債務の問題
新政府は旧藩の債務を3種類に分割した。
1 明治元年(1868年)以後の債務については、公債を交付し
その元金を3年間据え置いた上で年4%の利息で25年賦にて
新政府が責任をもって返済する。
2 弘化年間(1844年~1847年)以後の債務は、
無利息公債を交付して50年賦で返済する。
3 そして天保年間(1830年~1843年)以前の債務については、
江戸幕府が天保14年(1843年)に棄捐令を発令したことを理由に、
一切これを継承せずに無効とする(事実上の徳政令)というものであった。
(なお新政府は朝敵・江戸幕府による債務は発生時期を問わず一切の債務引受を拒絶。別枠処理された外国債分を除いて全て無効とされた)

という革命政権としての、恐ろしく圧倒的な恣意性を発揮して、
前政権からの経済問題を「解決」した、ということです。
これでは、それまで社会を支えてきた経済運営主体にとっては
たまらない事態であるには間違いはない。
そういうことから、以下のような状況が引き起こされた。(引用続く)

だが債務の大半、特に大名貸の大半は
天保以前からの債務が繰り延べられて来たものであり
貸し手の商人達から見れば大名貸は
一種の不良債権であり返って来る見込みは薄くても
名目上は資産として認められ、また社会的な地位ともなりえたが
この処分によってその全てが貸し倒れ状態になり
商人の中にはそのまま破産に追い込まれる者も続出した。
特にこうした商人が続出した大阪(大坂から改称)は
経済的に大打撃を受けて、日本経済の中心的地位から
転落する要因となったのである。
旧藩主やその家臣はこれらの債務に関してその全てを免責された上、
その中には直前に藩札を増刷して債務として届け出て
私腹を肥やした者もいたと言われている。(以上、引用終わり)

まぁ、すさまじい。
こういった社会状況下では、経済運営者側にはどんな事態も起こり得る。
社会騒乱は、こうして惹起して
わが家系が生きていた福山藩今津領では、
大規模な焼き討ち事件が起こってしまったということのようです。
どんな国でも、こういったことは起こり続けてきたのが
歴史の本当の姿なのだろうと思います。
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生きがたき不条理にいのちを繋ぐ

2014年01月19日 08時09分47秒 | Weblog


歴史が好きだったりすると
過去の社会についての想像力のよすがを求めて
現代社会をアナロジーすることになりますね。
こういうときに、いまのわれわれならこう考えるけれど、
昔の人は・・・っていうふうに。
しかし、現代という社会は、過去のどんな体制の社会とも大きな違いがある。
それは大衆化状況の進展とでもいえることでしょう。
で、実際に起こったことには、
ある種の制約がかかって、こういう風になったのだと理解出来るようになる。
そのうちの最大のものは、やはり社会構造が全然違うということ。
現代のように権力機構に「民主主義」原則が働き、
法律で意識も支配され、マスコミで「意見」も支配されているのとは、
大きく状況が違って、やはりナマの権力の存在感が大きい。
ひとが成功を収めたいと考えたら、
非合理な社会の中である、ということへの理解が必要なんですね。
キャップが閉じられていて
その枠内でしか、生きていくことができない社会。
そのなかで成功したいと考えれば、非合理性を受け入れるしかない。

わが家系は、明治4年に動乱の時代の中で
焼き討ち事件に遭遇しています。
そこから立ち直るのは大変だったようで、
結局、明治の末年に一家を挙げて
祖父は北海道への移住を決断している。
で、この明治4年の社会動乱というのは、廃藩置県に伴うもので、
武士階級が解体させられる危機感から、
当時の藩の武士たちによって教唆され、実行された動乱のようなのです。
大名たちは、東京に家屋敷を補償され、
華族としての待遇も補償されたので、
抱え続けた「家臣団」への給付義務から解放され
むしろこうした新政府の方針を歓迎したというのですが、
それ以下の武士たちは、廃藩置県によって多くは路頭に迷わざるを得ない。
やがて西南戦争に引き継がれる武士層の反乱の嚆矢だったといえるのです。
そういった環境の中で引き起こされた旧幕府体制のなかでの
経済権益層への集団的略奪のターゲットになったということ。
そのような、それまでの行政や裁判管轄も持った層による「乱」なので、
その被害を被る側は、たまったものではない。
泥棒と裁判官が一体のような状況の中では
被害申告先も見当がつかないだろうし、
当然のように証拠もないだろう。
また、それまで「お世話」になった階級からの背中からの襲撃なので
対処のしようも、考え付けなかっただろう。
江戸期の社会の中での成功を求めて
そのなかでの常識的な生き方を一生懸命に生きたのでしょうが
まことに不条理な困難を背負い込んでしまった。

歴史の中を生きてくると言うのは、
まことに過酷な条件の部分があると思わざるを得ませんね。
しかし、そのような状況を知ることが出来たのは、
顧みて、どう生きていくべきか、
深く考えるよすがにはなると思います。

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オンデマンドプリンターを導入

2014年01月18日 04時49分59秒 | Weblog


この度、わたしどもの会社では
ゼロックス社製・最新鋭のオンデマンドプリンターを導入することに致しました。
ってなに??  というみなさんのためにご説明すると
簡単に言えば、小部数の印刷物については、
出版社自社で全工程を賄ってしまえる機械設備をしたということです。
これまでは印刷工程はついては、すべて外注だったのですが、
これからは、その分安価でご提供できる可能性が広がったのです。

当社では、ご存知のように住宅雑誌を作っていて
当然のようにDTPでデータを制作しております。
制作に当たっては、中小零細出版のメリットを活かして、
小回りの利くプロセスで、取引先のオリジナル表現が生み出されてくる次第。
住宅雑誌を飾る紙面原稿、さらに各種のWEB用データなど。
そのプロセスでたくさんの写真データ、
DTPデータの蓄積が発生してきます。
そういったデータ資産をもっと活用していただきやすくすることが
可能になったのです。
地方の出版元として、地域の建築の作り手の作品を
高品質な表現手法で残し続けていく必要性があります。
それは表現物として世の中に伝えると共に
同時に地域の製造業の証言者として、
貴重な作品データを残していくことにも繋がります。
住宅建築が、地域の大切な「生活文化」の主要部分を構成するということに
わたしたちは、気付いています。

最近は、現代の住宅についての
その「流れ」のデータの必要性が高まっています。
地域で活躍したビルダーや、建築家の住宅における事跡について
わたしどものメディアで発表されたものは数多く、
そういったデータについて、
リクエストされるケースが増えてきています。
さらに現代の北海道での高性能な住宅について発展の流れが
その各個の住宅についての資産データも、
わたしどもは大量に時系列的に保存保管しています。
当社が保存している住宅データは、年間の取材数が200から300近くに及び、
それが26年間継続してきているので、
少なめに見積もっても5,000から、実際は10,000軒に近い
これらの貴重な資産を、有用で低廉な費用で
活用していただける、生産体制が整ったワケです。
興味を持っていただけたみなさんは、ぜひご一報ください。
札促社札幌本社 電話 011-641-7855までお気軽に。

ということで、本日はプレスリリース的な発表でした(笑)。
明日から、また本来路線でのブログを書きますので、よろしく。

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外光をデザインする

2014年01月17日 05時53分52秒 | Weblog


ガラスの発明進化は、人類が経験した空間による精神変化の中でも
相当に高いインパクトだったに違いないと思っています。
そしていま、20世紀から21世紀にかけた局面では
大型ビルなど、建材として
いわば透明な壁として壁面を構成する部材の位置まで占めるに至っている。
ガラスが進化したことのプロセスはそのまま
現代文明が作り出した人類環境変化を表しているといえる。
わたしたちは、たとえば100年前の王侯貴族もけっして夢見れなかった
自由で伸びやかな「視線環境」を生活の中で得てしまっている。

一部の王侯貴族だけが文化を享受するよりも
もっと多くの大衆が集団的に享受するほうが進化のスピードも速くなる。
民衆化、というか、民主主義が進展し、市民という自立した個人の
衆議による政治社会環境が徐々に実現していったけれど、
逆の見方をすれば、産業革命は大きな「市場」を生み出すために
こうした社会変化をもたらした、ともいえる。
日本の現実で言えば、江戸期までの住宅への考え方の進化とは
比べものにならない速度で、環境変化が進んでいる。
そうしてガラスによる窓、
という今日あたりまえの空間性が現代住宅で実現している。
こういうふうになってみると、
それをどのようにコントロールしたらいいのか、とか、
生活の中で、窓辺を楽しむというような文化はむしろ出てこなくなるのか。
どうもそんな気分がしています。
写真は明治初年の異人館の窓辺。
窓のかたちも装飾も、実に丹念に考えられている様子が伝わってくる。
たぶん、日本の住宅とは「壁厚」に大きな考え方の違いがあり
重厚な壁がもたらす「出窓」的な空間が装飾性を生み出すのだと思います。
それに対して日本はやはり薄い壁の感覚が強い。
しかも、どうも最近の住宅の状況からすると
北海道では外界の景観を取り込むという自然志向が強いけれど、
本州以南地域では、やはり外光取り込み主体なのだと感じます。
この辺でも、北海道、寒冷地の住宅と温暖日本の住宅デザインは
枝分かれしていく運命であるのかも知れない。
また、最近の北海道の住宅ではより重厚な壁厚を目指している部分もあって、
さらに欧米的窓辺の価値観に近づくのかも知れません。
いろいろな興味を持って、生活文化の推移を見ています。

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異人館と暖房装置

2014年01月16日 05時43分54秒 | Weblog

神戸の街を彩る異人館街ができたとき、
関西圏の日本人は、その見たこともない文明のかたち、
暮らし方のかたちを目の当たりにして、
激しく揺さぶられるように、文明受容を心に決めたのだろうと思います。
その「文明のかたち」には、いろいろなものがあっただろうけれど、
国策として、対ロシアの国防上も民族的な焦眉の課題であった
北海道開拓に対する強い、生活文化的枯渇感があったはずです。
それまでの日本民族文化、住宅文化では太刀打ちできない積雪寒冷条件の地域。
それが克服できなければ、ロシアによる植民地支配を受け入れざるを得ない、
という危機感が、この受容の基本的な動機になった。
そして、欧米人が建設した住宅を見て
「暖房装置」の堅牢さに圧倒されたに違いない。



エネルギーを消費して、人間の生存条件を拡大するという
新奇な思想のスケールの巨大さに驚愕したに違いない。
かれら異人たちは、そのように資源を獲得して
世界を制覇して、アジアに植民地を拡大してきたということに
畏れと、やがて羨望の念を強く持ったに違いがない。
肉食し、自然的な寒冷に対しても意志的な暖炉の燃焼で
いわば、自然環境を支配できると信じている姿に打ちのめされたに違いない。
それに対してアジアは、儒教的な停滞に終始し、
立ち向かう力を持っていなかった。
危機が日本人に火を点けるまでには、そうは時間がかからなかった。
アメリカの農務長官であったケプロンさんが
北海道開拓のグランドデザインを創案するにあたって訪日調査にあたったとき、
暖房装置としての「ストーブ」を横浜に持ち込んだそうですが、
数ヶ月東京で過ごした後、北海道に向かったときには
見よう見まねの「日本製」ストーブが出来ていたというのです。
まるで、種子島の鉄砲伝来と似たような光景が見られたのだと。

そういった歳月の積み重ねが
この神戸の異人館には記録保存されている。
わたしたちの現代が、直接に立ち向かってきた世界が
明瞭なかたちで、保存されている。

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オモシロ屋根の茶亭

2014年01月15日 05時26分21秒 | Weblog


どうも広島市内の「縮景園」って、
写真を見返してみると、デザイン感覚が現代的で、オモシロい。
利休さんの茶室なんかも、その独特な色使いなど、
斬新なデザイン感覚があって、
国宝の俵屋宗達「風神雷神図」のようなキッチュさを生み出した
日本人の精神性が強く感じられて楽しい。
日本の建築でも、出雲大社の昔から
権力的で威圧的というようなものって愛されず、
どっちかというと、無頼的な、戦後闇市的な路線の方が親しまれる。
風神雷神なんて、画題自体がおかしい。
どうしてあんな画題をえらんだのか、
そういった着眼力、構想力のほうに激しく惹かれるのが日本人なのか。
狩野永徳の「獅子図」などは、堂々としたところなど、
やや権威的とも取られるけれど、
獅子の表情など、やっぱりおかしみもそこはかとなく感じられる。

大名庭園という
確立された芸術ジャンルで、
各建築家というか、作庭家というか、
それぞれが個性表現をいろいろに行っているさまがオモシロい。
この茶亭など、茅葺き屋根で2段の屋根という
実用性と言うよりも、表現といえるデザイン。
また、2段の屋根角度も違っていて
その「逓減率」にも、奥行きがありそう。
屋根と建物本体では、屋根の方が大きさが大きく、
やや頭でっかちな印象。
そういったおもしろさは当然狙っていたのでしょうね。
まぁ、大名庭園って、これでもかというくらい、
石の種類もハンパなく大量に使っていたり、
その造形にしても趣向を凝らしていた。
なかには、からくり仕掛けになっている自動で回転する腰掛け椅子もあって、
まぁ、大名周辺のひとびとにとって
江戸時代のミニテーマパークの趣であります。
こんなことをやっていたから、平和だったとも言えるし、
明治になって突然狂ったように「富国強兵」に走らなければならなかった、
とも言える気がしますが・・・。
ある時代の日本人が経験してきた歴史的遺産であることは間違いはない。

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明治開国の残照

2014年01月14日 06時43分38秒 | Weblog



写真は神戸異人館のなかのワンカット。
装飾性、という言葉がこだましてくるような空間美。
明治の開国以来、横浜や神戸、函館といった開港地域が
海外からの文化受容の中心地になったことの残滓が、
これらの地域の文化資産になっている。
たくさんのヨーロッパ文化的な建築が建てられた。
写真の家もドイツ人建築家が設計して、地元の宮大工が施工した。
そういった時代から百年以上の月日が経過しているけれど
阪神大震災での被害から、修復を経て輝きを増しているようだ。
明治の開国の時、
異人さんたちが住宅を建てる時になって、
みんな高台の敷地を希望したことに、当時の日本人は奇異の念を抱いたそうです。
それまでの日本人には低地の利便性のいい土地が至上で
もっといえば、「◎◎谷」という地名の土地が
伝統的日本人感覚ではいいとされていたと言われる。
それは農業土木がわずかな努力で豊かな水田になる土地、
という先験的な感覚があって、よもや高台という
水利の不便な場所に、という思いが強かったのだという。
しかし文明開化と共に、かれら異人さんたちの生活文化様式を知り、
その奥行きと文明の圧倒的先進性に圧倒され、
日本人として何度目かの「積極的受容」に向かっていった。
「国家」を受け入れ、支配のための思想としての「仏教」を受け入れ、
「律令」を受け入れ、支配のためのツールとしての「漢字」を受け入れてきた
極東のアジア人独特の民族的習性が発揮された。
受け入れるとなると、日本人は徹底できる。
この点が、儒教に縛られている中国や朝鮮とは違う。
やがて、日本人は感性レベルに置いても、
「◎◎が丘」の地名の方にブランド感を感じるように自己変革を遂げていく。

それにしても、
こういう空間美を理解して、
その美の実現に丹念に取り組んだであろう、
職人としての大工棟梁たちの手業の巧みさを思わずにいられません。


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江戸のモダンデザイン

2014年01月13日 09時32分30秒 | Weblog


写真は、きのうも紹介した広島市内の「縮景園」。
江戸時代の大名庭園です。
こういった大名庭園って、現代まで金沢の兼六園や、岡山の後楽園、
東京の浜離宮、水戸の偕楽園などたくさん残っていて
都市景観のなかで貴重な位置を占めていると思います。
江戸時代が始まったときに、京都の重厚な都市景観遺産に対して
江戸はまったく素寒貧な状況で、
それをどうすべきか、それも諸大名に財政負担させながら
万が一の武力を削ぐためにも、大きな公共工事をさせることで
軍事から平和産業に転移させる意味合いがあったとは思うのですが、
それにしても、規模が壮大で、
いまに至るも、大きな都市景観の重要要素になっていることを思えば
先人の知恵の深さに圧倒される気がします。



戦国時代というのは、戦争のために飛躍的に土木技術が発展した。
結局戦国の覇者になった秀吉は
その出世戦の当初から土木技術集団との結びつきが顕著で
そういった連中の技術を軍事転用することに
天才的な才能を発揮したと思われます。
織田軍団というのは、そういった新しい軍事戦術の採用に
当主自身が強烈な意志を持っていたのは明らか。
槍の長さを長尺にしたなどの逸話が残されていますが、
そういったことは氷山の一角であって、
あらゆる戦争分野で技術革新にきわめて熱意を持っていた。
人材の登用などもふくめて魅力的な戦争技術を持っていたのでしょう。
たとえていえば、いまの時代のトヨタ方式を戦争にも採用していた。
そういった技術の中でも、築城技術というのは基本であって
その後の、中国地方侵略を進めた秀吉は
ポイントになる攻防戦で、土木技術をフル活用している。
かれにとっての戦争とは、土木工事だったのかも知れない。
個人の軍事技術や、集団的な攻撃力強化といった
いわば戦争の常識での戦いではなく、
むしろ、負ける側も笑ってしまうような、土木地形による戦略的勝利を
めざして勝ち続けてきていた。
そういった戦国争奪戦の結果、各大名たちは
大量の土木技術集団を傘下に収めていたに相違なく
そしてかれらの「働き口」がなくなってしまっていた。
そこで平和時代の象徴的な事業として経済発展策も兼ねて
江戸の都市建設が土木工事の大発生として行われていった。
その一環として、こういった緑地環境整備も行われたのだろう。
われわれはそういった歴史的経緯を経た遺産をいま、持っているワケだ。

こういった三角の屋根と丸い橋のコントラストなど、
むしろ西欧的な庭園建築の考え方に近いような
おもしろい試みも行われていたのですね。
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軒の出

2014年01月12日 06時44分02秒 | Weblog


北海道の住宅と本州地域の住宅でいちばんの違いは軒の出。
日本建築はずっと日射遮蔽をいちばん大きな建築性能要素と考えて
日射遮蔽を優先したデザインをしてきた歴史があると思いますが
そういった建築は、北海道の積雪条件の地域では
まっさきに軒が雪の重みでへし折れてしまった。
写真は広島市内の大名庭園「縮景園」の庭園建築ですが、
驚くほど軒の出が張っていて、
屋根の三角がものすごく強調されたデザインになっていました。
たぶんこういうデザイン感覚が日本人には刷り込まれてきた。
北方圏デザインの意識を持つ人間以外は
ほぼ無批判的に受け入れていきたい「日本的」デザイン感覚なのだと思います。
こうした深い軒の出は
美しさを持っていると同時に、強い太陽日射を遮り
室内には一回地面にバウンドした光が反射光として取り入れられる。
こういった日射に対する感覚が日本人にどんな精神性をもたらせたのかは
自分たち自身のこととして、興味がありますね。
しかし北海道では、東北までは無理矢理に受容させた日本建築文化が
まったく無力に通用しなかった。
いくら名前のある建築家であろうと、気候条件に無知なものは無知だったのだ。
建てられた日本的な軒の出の建物は
ことごとく失敗して、そのまま作り手は帰っていった。
それでもここで生きていくことを選択した北海道人たちは、
この軒の出を放棄せざるを得なかった。
無落雪屋根という雨や、雪への対策という止むにやまれぬ動機からの選択をした。
太陽日射は、かぎりなくたくさん取り入れたいけど、
しかしそのために冷気が室内に入ってくることは絶対に許容できない。
採光はしたいけれど、熱損失はしたくない、というのが
北国人としての自明の結論になった。
そもそも、「日射遮蔽」という概念自体がほとんど北海道では死滅した。
お陽さんの光が熱くて困る、という体感は、
それを希求することはあっても、ありえない感覚として寒冷地の常識が育っていった。

今日、ふたたび「日射遮蔽」ということが、
住宅性能の必須要件として基準に盛り込まれることになって来た。
さて、北海道の住宅はそういうことを受容するのかどうか、
興味を持ってみつめています。




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