神戸の街を彩る異人館街ができたとき、
関西圏の日本人は、その見たこともない文明のかたち、
暮らし方のかたちを目の当たりにして、
激しく揺さぶられるように、文明受容を心に決めたのだろうと思います。
その「文明のかたち」には、いろいろなものがあっただろうけれど、
国策として、対ロシアの国防上も民族的な焦眉の課題であった
北海道開拓に対する強い、生活文化的枯渇感があったはずです。
それまでの日本民族文化、住宅文化では太刀打ちできない積雪寒冷条件の地域。
それが克服できなければ、ロシアによる植民地支配を受け入れざるを得ない、
という危機感が、この受容の基本的な動機になった。
そして、欧米人が建設した住宅を見て
「暖房装置」の堅牢さに圧倒されたに違いない。
エネルギーを消費して、人間の生存条件を拡大するという
新奇な思想のスケールの巨大さに驚愕したに違いない。
かれら異人たちは、そのように資源を獲得して
世界を制覇して、アジアに植民地を拡大してきたということに
畏れと、やがて羨望の念を強く持ったに違いがない。
肉食し、自然的な寒冷に対しても意志的な暖炉の燃焼で
いわば、自然環境を支配できると信じている姿に打ちのめされたに違いない。
それに対してアジアは、儒教的な停滞に終始し、
立ち向かう力を持っていなかった。
危機が日本人に火を点けるまでには、そうは時間がかからなかった。
アメリカの農務長官であったケプロンさんが
北海道開拓のグランドデザインを創案するにあたって訪日調査にあたったとき、
暖房装置としての「ストーブ」を横浜に持ち込んだそうですが、
数ヶ月東京で過ごした後、北海道に向かったときには
見よう見まねの「日本製」ストーブが出来ていたというのです。
まるで、種子島の鉄砲伝来と似たような光景が見られたのだと。
そういった歳月の積み重ねが
この神戸の異人館には記録保存されている。
わたしたちの現代が、直接に立ち向かってきた世界が
明瞭なかたちで、保存されている。