三木奎吾の住宅探訪記 2nd

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。
(旧タイトル:性能とデザイン いい家大研究)

旧青山家漁家

2007年07月15日 07時44分32秒 | Weblog


北海道開拓の村でもひときわ大型の建物。
看板には、「・・・住宅」と記載されていますし、
確かに建物の右手側は、当主である青山家の私的生活領域ではありますが、
全体としては、生産手段と一体となった兼用住宅。
というよりも、むしろ、ニシン網元の工場といったほうがやはりふさわしい。
中央頂部には煙出しがありますが、そこからさかんに
大人数のための煮炊きの煙が上がっていただろうと想像できます。
労働力としての季節労働者~ヤン衆と呼ばれた~を集めるための
いわば労働条件の切り札として、
「コメは、ただでいくらでも腹一杯食べさせますよ」というキャッチだったそうです。
貧しい時代、農家の2男、3男といったひとたちにとって、
こういう条件と、現金収入の魅力はこたえられなかったでしょうね。
この条件を維持するために、青山さんは上川地方に
専用のコメ農場を持っていたと言うことです。

ニシン網元として、大成功を収めた当主の青山さんは、
山形県から、はじめは出稼ぎ人として当地に来て働き、
やがて財力を溜めて漁場を賃借りして、さらに富を貯え、
やがて漁場を入手して、さらに拡大していった、という漁業王。
かれが活躍した当時は、綿花生産のための畠の肥料として、
ニシンが大きな利益を生む産業だったのですね。
江戸や、上方地域のファッション文化が花開き、
そのための原材料として綿花生産が、農家の大きな副業収入源になり、
とくに上方地域で盛んになったと言うことです。
綿花生産のためには、大量の肥料が必要だったのですね。
そういう意味では、明治以降に工業地帯になった京浜・阪神地域の工場に、
石炭を供給していた北海道の役割の、先駆的な経済形態だったのかも知れません。
青山さんは、ニシンの大量捕獲漁で成功したと言われます。
ただ、このような乱獲の影響もあったのか、
その後、北海道のニシン漁は急速に廃れてしまいます。
急激な成功の代償も大きかったのかも知れません。
そして、このような乱獲型の産業というのは、
北海道の経済や産業にとって、どういう意味があったのかと考えてみると、
いささか、疑問を感じる部分もあります。
北海道でこのように成功し、資本形成したひとたちは大部分、
その後は、横浜などの貿易資本に衣替えするケースが多かったと聞いたことがあります。
けっして、北海道発展のための資本にはならなかったということ。

われわれに残されているのは、こうした遺構建築くらいでしょうか。
そう考えるとやや、もの悲しく感じられる部分もあります。
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