写真は、北海道開拓の村、旧松橋家住宅のもの。
今回見学に行って、一番感じたのが、
「札幌軟石」のさまざまな利用のされ方だったのですが、
この家では、立派な玄関先(右写真)に敷き込まれて使われていました。
で、左側は「勝手口」側なんですが、
こちらは、どうも基礎工事などでこの地盤面を掘り返したときに
出てきたゴロタ石を取っておいて使った、という感じ。
こういう明確な素材の分け方って、
物事への判断基準が明確に峻別されていることを表していて、
一種、生きる上での哲学の明確さを伝えてくれます。
この敷石で言えば、正面玄関を通って入ってくる
「ハレ」の存在への畏敬の表現というものと、
日常使いのものへの質素の強調、とでも言えるでしょう。
こう見てくると、現代の住宅建築で、
こういう社会規範要素が設計上の与条件になる、ということは少ない。
ちょっと、飛躍してしまうかも知れないけれど、
床の間とかは、「家の格式」とか、生きていく規範を
住み暮らすものの意識に植え込んでいく装置ともいえたもの。
いまや、そういう存在に建築的敬意を払う、という習慣はほぼなくなった。
北海道では、和室自体、予算的に無駄、と計画されない家が多い。
歴史的に言えば、封建的な価値観の廃棄とでもいえるのでしょうか?
ただし、このような「しきたり」に属するようなものは
どんな年代の古民家にも共通するものであって、
狭い意味での「封建」というような価値観ではくくられないと思う。
家、とか家族、の基本的な存続に関わるような規範性でもあったと思う。
そういう考え方から、このようなハレと、日常の
「秩序感覚」もおのずと育まれてきたものなのだと言えます。
そして、その考え方には、かなり合理性もあったのだと思えます。
勝手口、というようなハレと日常の隔て装置はいま、ほとんど意識されない。
敷石の果てまで、そのような秩序感覚が貫徹しているのと
秩序感覚がほぼ消滅したような社会。
どちらのほうが、「文化的」といえる社会なのか、
ちょっと、考えなければいけないポイントなのかも知れませんね。
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