アイヌ文化研究、いろいろな側面から見えてきます。
やっぱり現物がきちんと保存されているのは貴重だと思います。
生活ぶりから、様々な情報が得られる。
写真は水車小屋の様子です。
水車というのは穀類やコメ類というような
「脱穀」しなければならない食品のために考えられるもの。
アイヌ資料館などでは、大きな臼と杵が特徴的に展示されていますが、
ということは、そのような脱穀する食品を常食していたことを表す。
それがもっと進めば、このような水車小屋もあって自然。
残されているこの水車小屋の内部の臼の中には
ヒエが入れられていました。
ヒエは粒がコメなどと比較すればずっと小粒ですが、
寒冷な気候条件でも生育可能な炭水化物取得源。
こうした水車を利用して脱穀して、
粥などのかたちで食用に供していたのだと思われます。
チセの周囲には畑が営まれているので、
こうした食品が栽培されてきたのでしょう。
日本北方地域、北海道や北東北、
宮城平野より北の地域では、ヤマト政権の特徴といえる
コメ生産勧奨による集落形成、管理収奪という「権力」は
存立基盤を持ってはいなかったけれど、
食文化の面でいえば、十分に人間生活を維持させる文化性を持っていたと思う。
ヒエやアワはたしかに脱穀に労力は必要だったとはいえ、
そうした食品の存在の結果、たいへんバランスの取れた食文化だといえると思うのです。
夏からはマスが河川を遡上し、
秋になれば、どの河川をも大量のサケが遡上する。
森からはドングリなどの木の実が大量に採取され、食用の野草・山菜も多い。
越冬食料の知恵も生活文化の中に息づいている。
江戸期に、当時の世界軍事最強国家ロシアによる侵略占領への脅威から
本州以南地域から派遣された武士たちが
一戦も交えずにただただ、食料のバランスが悪く栄養失調で大量死したのですが、
そういう知恵を現地のアイヌのひとから聞き取りもしなかったからなのですね。
アイヌの暮らしを見てきて、
実に豊かな生活文化が見えてきます。
本州以南地域とそう大きな本質的違いがあるとは思われない。
そのうえ、経済基盤的には北方地域の産物によって
ヤマト側と交易体制が成立していたわけで、
富の集積というのも見られたのだと思います。
高地性環濠集落という防御性の高い遺構も見られるわけですが、
そうしたものも、弥生から続くヤマト社会の戦争の始まりの原初的な姿に似た共通性を見せてくれる。
本当に興味深いなぁと、思ってきております。
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