写真は先日訪れた「いわき」市での古民家の様子。
日本では通風を旨とする家づくりが行われてきて、
そうすると基本的には柱と梁と屋根の概念だけがあって、
「壁」というような概念があいまいだったのではないかと思います。
壁を造作するというのは、たぶんいちばん手間とお金がかかった。
なので、重たい板戸で寒い時期は閉めきるというふうにやり過ごし、
基本的にはこの写真のように紙の建具で採光から
一定の閉鎖性まで演出してきた。
こういう住宅では、確かに「プライバシー」という観念は育ちにくい。
室内での音の問題などはまったく考慮されていませんね。
紙の建具だけで仕切っていくのでは、外部に対しても内部に対しても
プライバシーを保持するのは不可能に近い。
こういう環境でDNA的に過ごしてきた日本人が、
戦後数十年の中で、マンションというような空間に住み始めて、
音の問題に対して、「常識を持て」と突然言われても
すぐに対応できるかどうかは、やはりわかりません。
京都の町家などでは隣家と壁を共有して家が建っているわけで、
そういう壁では竹で下地を作って土を何層も塗り固めるような重
厚な壁を作ったわけですが、
そうとはいっても、壁1枚で仕切られているだけ。
視覚的な境界感覚は、非常に微妙な部分まで感受性が育ったけれど、
こと、音の問題で考えると、
むしろ、気配とかに対しての敏感な感受性を発達させて
「他者への思いやりと配慮」のような精神性を育みはしたけれど、
音的に遮断する、他者との関係性を切る、という方向には行かなかったのではないか。
そんな思いが強くしてきています。
マンションの騒音問題などを考え合わせるとき、
こういう部分からの日本人の精神分析的アプローチも必要なのではないでしょうか?