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全国城めぐり宣言 第31回 「山城国 将軍山城」資料編

2017年01月21日 18時39分12秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 将軍山城 とは

 将軍山城(しょうぐんやまじょう)は、山城国愛宕郡(現・京都市左京区北白川清沢口町)にある瓜生山(標高301メートル)に築かれた、戦国時代の日本の山城である。別名、北白川城(きたしらかわじょう)、瓜生山城(うりょうさんじょう)、勝軍地蔵山城(しょうぐんじぞうやまじょう)とも呼ばれている。
 将軍山城は、瓜生山の山頂を本丸とし、近江国より上洛する際の前線基地としての役割を担っていた。公家・鷲尾隆康の日記『二水記』の永正十七(1520)年五月三十日の条によると、室町幕府管領・細川高国が初めてこの城に陣を構え、その際に戦勝を祈念して将軍地蔵を勧請したのが城名の由来となった。その後、将軍地蔵は宝暦十二(1762)年に現在の日本バプテスト病院の西側(左京区北白川瓜生山町)に移転され、信仰の対象となっている。

 永正十六(1519)年十一月二十一日~翌永正十七(1520)年二月二日の第一次越水城合戦で三好之長に敗れた室町幕府管領・細川高国は、京を離れ近江国円城寺に亡命していたが、近江国守護・六角定頼、丹波国守護代・内藤貞正の援軍を得て、同年五月二日、初めて瓜生山山頂に陣を構えた。
 大永七(1527)年二月十二~十三日の桂川原合戦で細川澄元に敗れた管領・高国が再び近江国へ逃亡すると、高国の将軍山城は六角定頼の援助のもと家臣・内藤彦七が城主となっていたが、大物崩れにより享禄四(1531)年六月六日に高国が自害すると細川晴元軍に奪取された。

 天文十五(1546)年の冬になると、室町幕府第12代将軍・足利義晴と新管領・細川晴元が対立するようになり、将軍・義晴が自らこの城を大幅改修した。城に米や普請人夫を徴発したり、太さ五、六寸の竹の徴用を命じたことが様々な史料から確認でき、将軍山城はその修築の際に要した労働力や資材の調達を文献で裏づけることができる稀有な中世城郭である。室町幕府は将軍山城の修築のために洛中・洛外の寺社や権門を通じて京都近辺の人夫をほぼ総動員の形で徴発したものと思われる。
 こうして修築をした将軍山城であったが、翌天文十六(1547)年三月三十日に義晴は征夷大将軍位を息子・足利義輝に譲り自らは大御所となり、管領・晴元を討つべく洛中の細川氏綱・近衛稙家らと結んで父子共々ここに籠城したものの、晴元の重臣・三好長慶軍が同年七月十二日、相国寺に2万の軍勢で陣をはり周辺地域を焼き討ちした(舎利寺合戦)。同月十九日、義晴・義輝父子は将軍山城を自焼させ、近江国坂本へ亡命した。
 その後、室町幕府は拠点を中尾城(1549~50年)、霊山城(1552~53年)へ移したため、将軍山城は部分的にしか使用されなかった。

 永禄四(1561)年三月十八日、三男の孫八郎信輝に和泉国守護代・松浦家を継がせ、後見として和泉国岸和田城に入っていた、「鬼十河」と恐れられた猛将・十河一存(畿内大名・三好長慶の弟)が死去した。
 これに乗じて紀伊および河内国守護・畠山高政は挙兵して岸和田城を包囲し、これに呼応して近江国守護・六角義賢も家臣・永原重澄に命じ同年七月二十八日に将軍山城に派兵し、義賢自身も神楽岡付近に陣をはり上洛を伺った。この時、六角軍は総勢2万であった。
 これに対して三好長慶軍は、息子の摂津国芥川山城主・三好義興らと兵7千で梅津城・郡城へ、大和国信貴山城城主・松永久秀の兵7千を京・西院小泉城へ入城させ、勝軍山城と対した。
 同年七月から十月までは小規模な交戦であったが、十一月二十四日、三好軍は白川口に、松永軍は将軍山城にそれぞれ来襲し挟撃した。三好軍は白川口を突破し、畠山・六角軍に呼応して挙兵した管領・細川晴元軍が陣取っている馬淵に押し寄せての戦闘となった。この時、三好軍の武将・三郷修理亮が討ち取られたが細川軍の損害も大きく、薬師寺氏や柳本氏などが討死した。
 一方、松永軍は城を守る永原重澄を討ち取り将軍山城を陥落させ、いよいよ六角義賢が陣取る神楽岡へと兵1万をもって突撃した。六角軍は家臣・三雲三郎に命じて弓兵300をもって高所より一斉射撃を加え、松永軍は多数の死傷者を出し敗走した。義賢は直ちに追撃戦を展開しようとしたが、重臣・蒲生賢秀が大軍を持って追撃することの不可を説き、追撃戦を中止させた。

 永禄十二(1569)年一月六日、前将軍・足利義栄を擁していた三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・石成友通)らは、織田信長が擁する室町幕府第15代将軍・足利義昭を京・六条本圀寺に襲撃したが(本圀寺の変)、この2日前の同月四日に三好三人衆は東福寺近辺に陣を置くと、翌五日に洛東や洛中周辺諸所に放火して将軍・義昭の退路を断っていた。この際に将軍山城も放火されているため、この時に将軍山城は足利将軍家や織田家の非常時における詰めの城の役割を果たしていたと推測される。
 その後、元亀元(1570)年九~十二月の志賀の陣に際し、織田家重臣・明智光秀が将軍山城に入って数ヶ月間、比叡山延暦寺を牽制したが、織田信長の京支配が確立するとその軍事的意義を失い、廃城になったと見られている。


 将軍山城に関しては、西隣にある東山新城の城郭部分と将軍山城の城郭部分がそれぞれどの範囲なのかが議論になっている。また幾度も焼失と修築を繰り返しており、当初の東山新城の城郭部分が修築後には将軍山城に組み込まれ一体化したり、東山新城の曲輪の一部では修築の痕跡がなく放置されていることが問題を複雑にしている。『図説中世城郭事典』(1987年)の解説によると、瓜生山の山頂部分の曲輪群については、東側に長大な空堀が設けており、この空堀と主郭(本丸)との間には数段の削平地があるが、防御的色彩に欠けるため居住的な空間だったと考えられる。また主郭の南方尾根にも数段の削平地が認められるが、土塁も認められず、削平の配置にも規則性に欠け、切岸も甘い。これらのことから、この瓜生山山頂部は時代がやや古いものと考えられ、天文十五~六年の義晴・義輝父子の普請であると見られている。
 しかし、『図説近畿中世城郭事典』(2004年)によれば、山頂部分の曲輪群の遺構については東側に長大な箱状横堀・坪堀を設け、さらに2本の横堀・馬出機能を果たす小曲輪・土橋・2ヶ所の長枡形虎口と連携した複合防御パーツの配置が認められることから、むしろ強固な防御装置群を構築していると評価しており、結論として元亀元年の織豊系普請であるとし、山頂部の居住空間は義晴・義輝時代のままとしながらも、周辺の曲輪群については明智光秀城主の時期に修築された可能性を示唆している。

 また、瓜生山の南方600メートル、標高212メートルの地点を中心に曲輪が4つある。このうち3つの曲輪はまとめて「東山新城」と呼ばれ、若狭国守護・武田家が築いたとしているが、享禄四(1531)年以降の記録には表れてこない。この3つの曲輪に関して『図説中世城郭事典』は、将軍山城以前の城郭とは考えられず、現存遺構は享禄の東山新城をその後に大幅改修したものか、そもそも武田家の東山新城ではないとしている。実際に、この3つの曲輪の中にも土橋と大竪堀による複合パーツ、枡形パーツがあるとの分析から、織豊系普請の遺構が確認できるとし、東山新城と呼ばれているかなりの部分が明智光秀時代に改修されたものとしている。ただし部分的な曲輪には足利義輝、六角義賢の改修遺構も存在している。
 これらの現状から『図説中世城郭事典』は、現存遺構に時期差が認められるため、天文~元亀に登場する将軍山城は一定の場所を指す呼称ではなく、京・北郊の北白川山地に随時築かれた城郭をまとめて指す言葉だったのであろうと結論付けている。

城跡へのアクセス
 叡山電鉄一乗寺駅(京都市左京区一乗寺里ノ西町)から真言宗狸谷山不動院(京都市左京区一乗寺松原町)に向かい、徒歩15分で瓜生山山頂へ。
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